五月の月間目標(と、タスク管理のやりかたまとめ)

マインドマップで五月のタスクを整理していたところ画面に収まらない広さになり縮小したら読めないサイズになってしまってバチギレしているようすです。

ともあれマインドマップ式整理は便利でどうにかいま即座にすべきことが整理できてよかった、地味に三時間くらいかかったけど……。さいきん何回かGTDのやりかたを指導していたんですが、まあわたし相当簡略化してるのでもうあんまりGTDじゃないのでは? という気もするんですが、GTDの実践の一番最初にタスクを全部書き出すんだけどそれをやるのにマインドマップは便利だということがわかったけど三時間くらいはまあかかるな……。

 

五月の目標は

魚の国を完結させる

物語以前を完成させる

今夜裏庭で会いましょうを完結させる

・おそ松さん関係の雑誌目録を作る

・こまめにプールに行く

・ファミレスに行かない

ファミレスに行かないというのはどういうことかというと、仕事と私生活が混然一体となってグチャグチャになり、グチャグチャになると飯が作れなくなり、タスク管理もできなくなり、部屋の狭さも気になりはじめて閉所恐怖を発症すると逃れるように大きな窓と大きな机と食料を求めてファミレスに行くので、冬からこっち行きすぎだったのでこのへんでそもそも生活がグチャグチャになるのを止めようという考えです。ファミレスに行くと金がずるずるなくなっていく

というわけでファミレスに行かないためにどうしたらいいのかというと、

・仕事をしすぎない

仕事をしすぎることによって無理が生じて無理が積み重なった結果グチャグチャになるのでタスク管理をしっかりやってコントロールする。

・自炊ほか家事の実行

食べるものがなくならない状況を作りグチャグチャになりにくくする。

・タスクを定期的に見直す

立てた予定に無理があるのではないかという確認をこまめに行う。月曜あたりに見返す習慣をつけましょう。

 

 

ということで頑張ってほしいと思います(わたしが)。

 

最近ゼミ(今週1000円です、気軽に遊びに来てね)でタスク管理の話をすることが多くて、わたしがやってるのは適当に簡略化したGTDとポモドーロなんですけど、要点としては

1、時間の管理

(1)仕事や学業の時間を引いた(睡眠時間等はここでは引かない)自分の自由時間を把握する

(2)睡眠時間、食事の時間といった、絶対に必要だし削ろうと思ってもどうせ削れない時間をゆとりをもって計上する、ここにはTwitterを眺めるとかpixivを眺めるとかなにもしてないけどなんかボーッとしてるとか寝ると思って布団に入ったけど眠れない時間とか、「よくわからないけど一日のなかでそういえば無自覚的に使っている時間」も含む(絶対にそれはやるし、それを含まないで予定を立てても絶対に破綻するので)

(3)残りの時間を把握して、タスクを割り振る(タスクに関しては次を参照)、タスクが割り振り切れない場合、タスクの量を減らすか、(2)を調整できないか検討する

2、タスクの管理

(1)やらないといけないこと、やりたいこと、できればやりたいこと、いつかやりたいことなど、とにかく全部書き出す(使っていて楽しい文具を使う、気軽に捨てられる紙に殴り書きをする、大きな紙に適当にどんどん書き込んでみるなど、あらゆることを気軽に書ける状況をそれぞれ考えて用意するとよい)

(2)書き出したタスクを「今月やること」「今月はやらないこと」「いつでもいいから余裕があったらやりたいこと」に分ける(抜き書きする、蛍光ペンなどでマークするなど)

(3)「今月やること」のタスクの必要な時間をそれぞれ考える

(4)「今月やること」のなかで長い時間を要するタスクを取り出して、「今日の」あるいは「今週の」メインタスクとして扱い、メインタスクが複数ある場合は適宜要する時間に合わせて振り分ける

(5)残りの小さなタスクを、「今週中にやること」「今日やること」「このあとすぐやること」などに整理し、メインタスク分を抜いた残りの時間にあわせてスケジュールにはめこんでいく

(6)「いつでもいいから余裕があったらやりたいこと」はタスクが思ったより早く片付いたときのおたのしみ

(7)「今月はやらないこと」は来月になったら見返して「今月やること」を掘り返し「やらなくてよくなったこと」を消し、また残りは「今月はやらないこと」として残す、この場合新しくタスクがある場合は書いて同様に処理する

(8)できれば一週間に一日~数時間程度「タスクを割り振っていない時間」を余らせておいたほうがよい

☆ポイント

・メインタスクとなる大きなタスクはできるだけ小さなタスクにさらに分割し、「これとこれとこれは終わった」という状況を作ることで、少しずつ進んでいるという実感が持てる、分割できない作業の場合は「一時間×何回」で把握する。45分作業+15分休憩×何回、別に40分+20分でもいいんだけど、というやり方だと作業効率が上がる……人もいる(ワンセットの時間は適宜自分に合った長さで)。

・ひとつのタスクに取り組んでいる間はほかのタスクのことは考えない(忘れるために書きだしたので)。

・一週間ごとくらいの頻度で、「このスケジュールで遅れてないか」を確認し、遅れている場合はタスクの量を減らすか減らせない場合は間に合わせる手段を講じる

・スケジュールに余裕がある場合は前倒しで作業を進めても良いが無理はしないこと、どちらかというと余暇として扱ったほうがいいかも

・タスクに「タスクのための時間を作る」を入れるのを忘れないこと!!!!

 

まあ理想ですよね。実際はタスクをぎちぎちに詰めすぎて爆死したり、ビビッてガンガン前倒ししちゃって爆死したりしてるからグチャグチャになってるんですけど、今月は気をつけてしっかりタスク管理しようと思いまーす……。

それはそうかもしれない、でも幸せになろう

いろんな人から人生相談が来るんですよ。

 

わたしのような肩書のない人間になんでこんなに人生相談が来るのかよくわからないんですが、来ることは事実です。いい加減肩書がないのもどうかと思うので夏コミが終わったらカウンセラーの資格取ろうと思っている……夏コミが終わったらなのは印刷費を捻出するために綱渡りの生活をしていて金がないからですが……印刷費が返ってきたらいいかげんカウンセラーの資格を取ろうと思う、それはともかく人生相談がたくさん来ます。いろんな人から来ます。病院に行ってる人も、行ったほうがいいのかわからない人も、行くほどじゃないのはわかってるけど誰かに聞いてほしかった人もいます。

 

メンタルの具合が悪い人というのは自己肯定度の低い人なんですよね、おおむね、多分。

で、なんで自己肯定度が低いのかというと、「否定されたから」というのはまあ多分多いと思う。

その否定されたタイミングが、「親から」だったり、「学校で」だったり、「職場で」だったり、まあ色々です、「趣味の場所で」の場合もある、何の話かというと、「家庭環境が精神疾患を作るわけでは必ずしもないでしょう」という話です。人生にはいろいろなタイミングで自分以外全員敵みたいな状況が生まれる可能性があって、それがたまたま人生の早い段階かもしれないし、遅い段階かもしれない。

そして否定されやすい(否定されたと感じやすい)性格なのかもしれないし、現代社会において否定されやすい要件が多いのかもしれない。疲れやすくて仕事がたくさんできないとか、太りやすいとか、逆におっぱいが大きくてその話ばっかりされるとか、お人よしすぎて騙されて周りの人が信じられなくなったとかもある。

そして「自分の身に起こったことは、つらいことだったんだ」と認識できるようになるのは、自己肯定度の低いグチャグチャの世界から抜け出す第一歩です。

だからそこで「わたしの人生はグチャグチャだった、なんでわたしだけがこんなひどい目に」という気持ちになるのは、それはまあ仕方ないと思う。

 

「わたしの人生はグチャグチャだった! おまえの人生もグチャグチャになればいいのに!」とか、「グチャグチャじゃない人生を歩んだ人がねたましい!」とか、思うのはまあ仕方ないです。思うのは仕方ない。そこで自分の感情を抑圧するのは良くない。でもそれを「伝える相手」は選ばないといけない。なぜなら「わたしの人生はグチャグチャだったんです!」と伝えることで成功経験を積んで自己肯定度を上げてしまうと、話を聞いてもらえなくなった時にまた自己肯定度が下がるだけだからです。

別の方法で、もっとゆっくり確実な方法で、自分の人生はどこから積み上げていけるのか、見つけないと、もっとグチャグチャになるだけなんですよ。

 

「失敗すると叱られるから」以外にも、「生まれつき神経質で、失敗するのが嫌」「完璧なもの以外作りたくない」という人はたとえばいて、でも「失敗したくない」人が必ずしも駄目な人かというと、「ミスが許されない仕事」においてはその人は「素晴らしい仕事をする人」です。そういう仕事に就くことは必ずしも可能ではないかもしれないけど、人生には仕事以外の側面もあって、ノーミスで幸せになれるたとえばゲームとか、自分の性格に適した余暇を持つことで幸せになれる可能性は高い。そういうかたちで積み上げた成功経験はなくなりません。それをやっている間満ち足りて幸せだったという事実は残るからです。

「失敗が怖い」は「仕事が正確」、「醜いと感じるものが多い」は「美意識が高い」、「疲れやすい」は「無理しない、させない」、「神経質」は「よく気がつく」、ストレス耐性が低い原因になっている要素が実はこれから先の人生よいほうに転じる何かかもしれない。

 

人生のどこかの時点で何かが起こって、つらいことばっかりの時期になる、まわりに敵しかいなくなる、そういうことは時々あります。もちろん許しがたいことはたくさんあるでしょう。戦って殴り合いになって苦しむばかりかもしれないです。親のほうも親をやるのに向いていなくて親をやっている間敵だらけでつらかったのかもしれない。単に親子の性格の相性が悪かったのかもしれない。上司部下でもそう、学校もそう、人生の一時期「いなくてはならなかった場所」が、相性が悪かっただけかもしれない。もちろん相性の問題では片付かないレベルで劣悪だったということもありますが。

人生における運が悪かった。それはまあそうだね、というしかないことはたくさんある。つらかった、療養して少しましになった。憎しみが湧いてくるようになった。体力が出てきた証拠です。いいことです。

そしたらどうしたらいいのか?

自分の人生を自分の手の中に取り戻す方法を探すしかない。

少し元気になって、「わたしが悪かったわけじゃない」に気づいたあとにできることは、「わたしにとってすばらしい人生はどうやったら見つかるのか」を考えるしかない。たぶんそれはめちゃくちゃ大変なことなんだけど、つらかったらもちろん誰かに八つ当たりするしかないときはあると思うけど、こっそり隠れて八つ当たりして、八つ当たりを成功経験に数えないように気を付けて、あとはなんとかして、幸福な成功経験を積む方法を探すしかないんですよ。たぶんそれはめちゃくちゃ大変なことなんだけど、幸福になる方法は、幸福になろうとすることによってしか始められないんです。

 

ところでこういう話を延々としていると本当にわたしは何なんだ? と思うよね。市井の市民です……。世界人類が皆幸せになることが非常に望ましいと願っているだけの……。市井の市民、単なる無職だったところじゃあ有料でいいから相談に乗ってくれやにはいはいと受けていたら気が付いたら人生相談で飯を食っていて全く意味が分からないんだけど、気軽に相談に来てね! メールでもSkypeでもいいよ!

オカルトとでも言わなきゃやってらんねえよ

~これまでのあらすじ~

小説を新人賞に応募しようと思った。

 

オカルトの問題ではない、すべてわたしが悪いといえばそうなんですよ。

公募の締切は3/31でした。改稿は30日の朝に終わり、30日は死んで過ごしました。このときバックアップをきちんと取らなかったのが第一のミステイクです。そうだね。

31日の朝に晴れ晴れと起きたわたしは、冷凍庫からキャベツの煮物を取り出し、チンして、

 

なぜかパソコンのキーボードにぶちまけました。

 

当然ながらそんなことをしたことはありません(してたらもっと早く壊してます)。なんでそんなことになったのか全くわかりません。拭いてとりあえずしばらくひっくり返して置いておいたのですが、それはともかく締切は今日です。パソコンをつけました。つきました。とにかくバックアップを取ってPDFデータを作ってしまえばどうにかなると思

落ちました。

バックアップは取れていません。

おりしも広島は強風注意報が、出てたと思う、たぶん、前日に予想されているというニュースは聞いたしたしかにすごい風だった。わたしはノートパソコンを掴んでふきすさぶ風の中エディオンに駆け込み、「これは専門の業者さんじゃないとデータ取れないですね」と言われました。専門の業者のところに行こうと思って電車を間違えました。まあ焦ってたんだと思う。思うんですが、業者の住所に何もなかったときはこう、いや、冷静さを欠いていたのはわかっている。電話をかけるべきだったんだよね。実店舗がないタイプの業者だったのだということはそのときもわかりました。でもそこを選んで電車を乗り直してまで出かけて行った自分ですよ、問題は。

 

「ここまでして出すべき原稿なのか? そこまで、それほどに、良く書けた原稿なのか?」

駆けずり回るわたくしの脳裏をがんがん鳴り続ける怒声に対してこう答えるほかなかった。

「軽い気持ちだったよ!!!!!!!!!!!!!!!!! わかったよ!!!!!!!!!!!!! 納得がいくまで書き直します!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

そしてとぼとぼと家に帰ってパソコンをいじくりまわし、当日消印が不可能な時刻になって、唐突にパソコンは息を吹き返して、わたしにバックアップをお与え賜うた。

あんなに「いま抱えているパソコンに入っている小説はこことこことこことこことこことここを直さなくてはならない」とあたまがギュルンギュルン回転したことはなかったですね!! 直します! 直しますとも!

「これは出すべきではないからパソコンがここで死ぬべき」と判断したのはわたしの無意識領域とDynaBookちゃん本人(本体)のどっちだったのだろう。バックアップは無事に手元にあります。改稿作業中です。次の締切は6月です。頑張ります……。

 

 

今回これ以外にもいろいろなオカルトっぽいことがちょこちょこあってこわかったというか「風は吹いている!!!」って感じで、もうオカルトでいいよこんなの!!! と思ったのですが、オカルトという意味でいちばんオカルトを感じたのは、改稿を終えた3/30にぶっ倒れながら「ラジオでも聞くか……」と思って、はじめて、はじめてですよそんなアイフォンアプリでとくに目的もなくラジオつけたの! ボケーっと聞いてたらえのきどいちろう(好き)が井上陽水(大好き)について語り始めて、かけた曲が「あなたを理解」だったことです。泣きながら正座して聴いちゃったよ。

きっとどこかへ行こうな……。

 

今回投稿用に書いた小説と同時進行で気晴らしに書いてた小説をどこかに送ろうかと思っていたのにそれも今回のどさくさで送りそびれたのでnoteに置いています。よろしくね。小学五年生の女の子が星雲になる恋愛小説です。

知覚と相談と人生とわたし

noteに去年の夏に投げた文章をスクラップしています(noteのほうのは消えています)。


わたしは、ある日唐突に自我が芽生えた状態で中庭に放り出されたように幼年期を始めました。

「誰もなにも教えてくれなかった」と言えばうそになりますが、「みんながあたりまえのように知っていることを、わたしは知らない」が、あたりまえの状態からスタートしました。

というわけで、わたしは彼らの「あたりまえのこと」をなにも知りませんでした。それを知らない理由も説明できませんし、それは何なのか説明してくれと求めることもできませんでした。なぜならそれを当たり前に知っている子供たちは、「それがあたりまえである」という以上の認識をできないからです。

そしてわたしがどうしたかというと、彼らの話をひたすら聞いて、それは「何」であるのか、自分で考えて理解して自分のものにしようとする、わからなかったらわかるまで考えるか、サブテキストになりそうなものを探す、ということをやっていました。

「打ち明け話」をされるようになったのはたぶん高校生くらいの頃からで、加速度的にされるようになったのが大学に入ってからでした。人生のこと、家族の問題、将来設計について、「聞いてほしい」と言われること、あるいは、遊んでいる途中でなんとなく始まること、泊まっていてなんとなく始まること、かかってくる電話、そういう日々を延々と経て、インターネットでQ&Aのサービスで遊び始めました。

めちゃくちゃたくさん質問が来た。

で、回答側としてもハマったし、こういうことをやるべきだった、とか、こういうことができたんだ、とか、いろいろ思うところがあったんですが、まあask.fmというサービスは匿名で質問ができるので、最終的に端的に悪意が寄せられる量が許容範囲を超えてしまい、なかったこととなりました。いまも質問は送れますが全然見てないので回答はしません。

で、代わりに萩の原というウェブショップを始めました。

唐突に発生した何も知らない子供から、知っていたはずのことが分からなくなった人や、知らないということそれ自体にはじめて直面して、出口がわからなくなった人へ。


こないだ斜視の話をしてわりと友人知人にウケたんですよね。「おまえは絶対目が悪いと思っていた、目が悪い人間の挙動だった」って言われてめちゃくちゃ面白かった。たしかにその指摘はずいぶん前から受けていました。でもわたし0.9と0.5のあわせて1.5とかなので(だったと思う)視力的には別にそこまで悪くないんだなということでみんなが訝しんでいたところが解決したわけです。みんないいやつだな。ありがとう。

で、面白いんで色々人に聞いてもらったり考えたりしてたんですが、そういや耳もあまりよくないというか、たぶんこっちはちょっと聞こえすぎというか聞くべき領域を選別するのが苦手なんじゃないかと思うんですが聴覚過敏で頭痛くなりやすくて、基本的に音がでかい場所があまり得意ではない。最近ある程度克服できないかなと思ってカラオケちょくちょく行くようにしているんですが、自分で歌ってない時はちょっとしんどい。

鼻はめちゃくちゃ悪い。それは知ってた。全く分からないわけではないけど微妙な匂いは何もわからない。

 

どうやって生きているんだ……?

大抵のものを触るか舐めてみる理由がわかりました。

それしか十分な機能がないからです。

 

で、冒頭の文章に戻りますが、つまり何もわからない何も知らない状態だったのは、そう、そういう、そういうことです。そもそも生育環境が他の子供と違う上に、そもそも他の子供と知覚できる情報の量が段違いに違ったということになる。

そして冒頭の文章に挙げたように、わたしは他の子供より注意深くなることで問題をクリアしようとしました。気配とか、速さとか、声のトーンとか、そういうものを重視してコミュニケーションを取ってきたし、それはうまくいくこともあればうまくいかないこともありました。というか基本的にはうまくいかないながらもそれでも生き延びてきたわけです。あと勘は鋭いほうだと思う。ぎりぎりのところで危険を察知したことはあるし、「なんとなくいやだから行かない」も多いし、よく知らない人の情報を「たぶんこうこうこうですよね」と当てることも一応できる(絶対にあたるわけではないにしろ)。

できないことが多いから勘が発達した、ということでしかないように思える。

そして、だからこそわたしの勘をみんな頼ってくるわけだ。古代人みたいだな。いや前から思ってたけど勘が鋭いから価値を見出されて頼られて生き延びることを許されているのマジ古代人みたいだよな……。

人生……。

 

ところでとにかく目が疲れやすいということを自覚したので日中サングラスをかけています。つまり視覚情報を意図的に減らしています。

よりいっそう勘と触覚で生きています。

部屋と疲れ目と人生とわたし

わたしの実家がナントカみたいな話はブログの過去ログあさっていただければいいと思うんですがそれにしたってストレス性のアレみたいなのが多くねーかとは思っていて、ストレス性のアレというのは子供のころから原因不明の腹痛、原因不明の嘔吐、強迫観念からくる失禁、みたいな症状があってまあそういう人間なんだなと自分では思っていたしたぶんそういう人間なんだなで済ませてる人多いと思います。でもこう、多くない? 子供のころからだから社会生活を経ての鬱とかでもないしなにゆえのなに? とは思っていた。

あと忘れ物が子供の頃からめちゃくちゃ多くて注意力散漫で鳴らしてきました。忘れ物も多いし、こう、「そこに置いてある」ものが「見えない」。あと窓が汚れてるとかが「わからない」。ものによくぶつかる。なぜそんなにぼんやりしているのかとずっと言われてきたんだけどでも別にボケーッと生きてるわけではないというか細かいことをめちゃくちゃ気にする方だしアニメとかだとむしろ細かいところをめちゃくちゃよく観ていると言われるほうなんだけど何なんだ? と思っておりました。

 

眼鏡のフレームが歪んじゃったんですよ。

視力1.5くらいなのでべつに眼鏡なくても全く支障ないんですけど、上記のような不備というか視覚上の困難が多いのはおまえそれは目が悪いからじゃないのか、悪くなってるんじゃないのかという説があり、でも眼鏡かけると頭痛くなるから眼鏡かけたくなくて抵抗していたんですが、まあどうせ眼鏡は要るので(1.5でも映画の字幕とかはちょっと困るので)そろそろ作るかーと思ってふらっと眼鏡屋に、本当にふらっと何も考えずに行きました。

いろいろ検査をしたあとで、「右目と左目の焦点が合ってないです」と言われました。

それは……

斜視というやつではないのかな……? ……というのがインターネットの有志のご意見です。実際そういう診断になるのかどうかは眼科行って確認します。眼科は眼鏡受け取ってから具合を見て適宜行きます。眼鏡は明日できます。プリズムレンズ入れてもらいました(斜視の補助をするレンズ)。

 

エッ世の中の目に異常のない人間は何かを見ようと思うときにぐっと目の周りの筋肉に力を……入れない! 手もとを見ていると疲れるので遠くを眺めていて不注意を叱られたりしない! 動いているものの動きが把握しきれないのでそのあとどこに動くか考えてから動いていない! 飛んでくるボールの軌道が見えている! 視界が二重にブレない! まじで。

わたし目の焦点を合わせていないと人相が悪くなるので人前に出るとき目にいつも力を入れて生活してて、子供のころから、家帰ってくると一時間でも二時間でも平気でボーッとしてるというか何もできないって感じだったんですけど、それを、みんなは、していない!

まじで!?

 

それはあれじゃないですか。わたしが子供の頃から団体生活をしていると唐突に具合が悪くなってたのも人混みが苦手なのも情報量が多い映像を見ると具合が悪くなるのも忘れ物が多かったのも目が乾燥するとめまいで倒れてたのも花の名前は覚えられても種類は覚えられないのも学校から帰るとボケーと壁を眺めているうちに一日が終わって宿題ができないで泣いていたのも

疲れ目のせい……ということになります。

疲れ目ー!!

そして意識して生活してみるとたしかに痛いのは目だ。頭痛がするんじゃなくて目が痛いんだし吐き気がするのも目が痛いんだし肩に力が入っているのは目に力を入れているからだしサングラスかけると楽になるのは人相が悪くなるのを気にしないで済むからだ。というか閉所恐怖=窓がない建造物に対する恐怖は「近くに焦点を合わせると疲れるから焦点を合わせずに『遠く』を眺められないとだんだん具合が悪くなる」というすごく具体的な疲れ目の問題だったということではないかという疑惑も浮上します。もしかして精神疾患ではないのでは!? いや、躁鬱傾向にあることは事実ですが、躁病というのは要するに「目に力を入れている」状態を常態としようとした努力の結果なのではないか。最適化する人体! というか目の焦点を合わせるために背負っている疲れをどうにかするためにカフェインと糖分をどばどば摂っていたのではという疑惑も生じる。

まあ実際どうなのかわからないので眼科行こうかとは思うんですがとりあえず自分が「人相が悪いコンプレックス」を、意外とめちゃくちゃ持っていたことに気づきました、知らなかった、身体上のコンプレックスはそれなりにあるつもりではあったけど一番気にしていたのは「目」だったということを知らなかった。目をパッチリ開けろ(シャキッとせえ的な意味で)とそういえば子供のころからよく言われていたしたしかに目をパッチリ開けるとすごく人相がよくなるんですよね。疲れるとすぐ人相が悪くなるんですけど。

とりあえずサングラスをかけて生活していますが、サングラスをかけると楽になるメカニズムがそんなところにあったとは知らなかったよ……。サングラスをかけていると目をパッチリ開けなくていい(開けていてもどうせわからない)。まあものの色がわからないので写真撮りに行くときと作品製作をやっているときはサングラスかけられないんですけど。まあでも眼鏡かけてるとある程度ごまかせるよね。新しい眼鏡に期待。ていうか「眼鏡をかけると頭痛くなる」ってつまり「よく見えるので、よく見ようとがんばってしまう」ってことだと思う、多分……。というところが新しい眼鏡で多少改善されるといいなと思います。まあしくみがわかったら気をつけて生活できるしな。

 

しかし人生が、というか人間性が、もっと言うと人生観が、すごい勢いでひっくり返りましたよ。目の焦点を無理に合わせている! これこそが「生きているだけでえらい」というやつじゃないですか。

 

このエントリでは就活生のために人生の話をしようと思っていたのに枕だけで二千字も書いてしまった。

 

5歳 休日中出かけた諸々の話を幼稚園では黙っているように釘を刺される

6歳 忘れ物をしない日がない

8歳 疲れ目で倒れて運び込まれた保健室で『猫の事務所』を読み人生を知る

9歳 体重が増加し始める

10歳 小説を書き始める

11歳 父の死

12歳 中学校で喋らないことを決意

14歳 自分はおそらくろくな小説が書けないという天啓を得る

15歳 高校では喋ることを決意

15歳 交通事故の後遺症で倒れてる間にアニメにハマる

16歳 将来の進路を言語学者か民俗学者か図書館司書と定める

18歳 言語学を志すも、たぶん学者にはなれないっぽいことをなんとなく把握する

20歳 図書館司書のアルバイトを始める傍ら小説を書き始める

21歳 自動車免許の獲得に一年かかる傍ら小説を書いていた

22歳 就活をドロップアウトして小説を書いていた

23歳 書き上げた小説三作を仲良く全部燃やして工場労働者に

24歳 図書館司書非正規雇用の口にありつくも閉所恐怖のパニック障害の発作を起こして辞職

25歳 回転寿司屋で働きながら松尾芭蕉についての書籍を読みふける

26歳 BLエロ小説を書き始める

27歳 謎の社会福祉法人で謎の有償ボランティアを始める

30歳 同人誌を31種作る

30歳 自分の将来性についてもうちょっとまじめに考えたほうが良いのではないかと今更思い至り職業訓練校でofficeソフトの高度なとりあつかいを学んで事務員になりたいと思うも、教室が狭くて週5くらいで発作を起こし、人生が詰んでいることをしみじみとかみしめながらとりあえず就活条件を少しでも良くするために都会へ引っ越した矢先ブログがバズってよくわからないことになる

31歳 謎の稼業を始める

32歳 これまでの人生のうまくいかなかったことの大半が疲れ目によるものであるという疑惑が浮上←New!

 

なんでこんな赤裸々なことを書いたかと言うといろんな人生といろんな人生の破綻とそこからの再起があるというエピソードをみんな色々共有したらいいと思うんですよ。もちろん誰が正解とか誰のまねをしたらうまくいくとかいうことはないしできるもんならしてみろこっちは目をパッチリ開けながら生きてんやぞ! という感じだしいままともな企業みつけるのたいへんだと思うし(10年前だって十分たいへんでした)、モデルケースというわけじゃなくて、ただ、就職先が見つからないでべこべこにへこんでるとき「わたしの人生は22歳(±)で詰むのでは!?」という気持ちになる人けっこういるでしょう、不具合は山のようにあるけど意外とまだ詰んでないほうの人生をここに置いておきます。だから何ってわけじゃないんだけど。これ多分一個多めにミスったらドボンしてると思うし、実際人生の過程でドボンした人もいっぱい見たし。もちろん成功した人もほどほどになんとかクリアしてる人もいっぱい見たけど。

あと、わたしは「人生においてつらかったことがなかったら今の自分になっていないからつらいことがあってよかった」みたいなの大嫌いで、つらくないほうがよかったですよ!? つらいこと全然ないほうがよかった! と思うんですけど、目のことに関しては「指先の感覚や爪先の感覚ベースで生活する」能力を鍛えたのは目を補助しようという働きでしょう、と思うので、それに関してだけは「よいこと」の数に数えてもいい。だからって別に特にめちゃくちゃ役に立っているとかはないけど……。タイピングが早いとかくらいだと思うけど……(製作した作品が製作できない代わりに目を調整するよ! って言われても困らない程度の作品でしかないのが現状なので……)。

まあでももっと早いうちに、せめてはじめて眼鏡作った時に発覚してればちょっと楽だったかもしれないと思うとな。いやもちろん悔しいんですけど、それ以前に「わたしの30年がひっくり返る!」というアクロバティックな快楽のほうが勝ってます。過ぎたことをくよくよしてもしょうがないしな。自分の人生に伏線の回収によるどんでん返しが仕込まれていたなんて! 俺が、俺こそが信頼できない語り手だ!

 

新しい眼鏡たのしみです。

しかし人間はずいぶん視覚情報に頼って生きているんだな。そういや階段は段数を暗記して上り下りするので知らない階段苦手なんですよね。そいつもそれだよ。

オオソ~ジ2017spring

ものを捨てました。

 

わたしの部屋にはおそ松さん放送中のあらゆる雑誌があって、あと大量の日記帳と大量のネタ帳があります。ありました。これらを全部捨てました。

正確にはおそ松さん関係の記事はとりあえず切り取って残してある。整理がついたらもう半分くらいに減らせると思います(インタビューは残したいから)。

あと直近半年で買った服以外全部捨てて、かばんも捨てて、キャラグッズも捨てて、文房具も高額文具を残して捨てて、本棚の本を半分くらいこれは実家に送ったら読むかもしれないのでまとめて、そんなとこか。二十年持ってたものから去年買ったものまでとにかくひととおり捨てられる限り捨てました。なんだろうな。

ここんとこ「失踪したい」ってずっと言ってて、あらゆることがつらくなっていて、人間関係、仕事、物質、全部リセットしたいという感情が強くて、じゃあリセットできるところから、まあリセットはできないんだけど捨てられるものから捨ててみようと思ってまずSNSを整理して、それからとりあえず仕事を休んで、仕事を休んでなにしてたかって部屋掃除、とにかくひたすら「燃えるゴミ、燃えないゴミ、いるもの」って分けていく作業をやっていました。

 

小説を書き始めたのは小学校五年生の頃です。そのころの小説が取ってありました。

これを捨てたとたん堰を切ったようにほんとうに全部捨てた。次は在庫のパッケージをはがし終えたらエコサリオに送ろうと思ってて、さっき言った雑誌の整理を完遂させて、大型ごみがちょっとあるので出して、そしたら本当に仕事関係のもの(パソコン、編み物の道具とレシピ本、ビーズワークの材料と資料)と勉強の本(松尾芭蕉と赤塚不二夫と北欧神話と言語学と物語論)、あと少しの本と生活用品とトランペットと水着と万年筆が残ります。整理してもこれだけは残るわけだ。

 

 

別に断捨離を勧める記事ではありません。

ただなんか、これまでの人生が自分にしがみついていることにうんざりした、これまでの人生を、なかったことにできるとは思ってないしなかったことにしたいわけでもないと思うけど(たぶん)、せめて「思い出」にしたかった。物質として手元に置かないことでそれができるんじゃないかと思った。それでそうした。とりあえず部屋が広くなって、ああそうか、部屋が狭いのがいやだったんだなと思いました。面積の問題ではなくて。

人間が抱えられる荷物の量には限りがあって、でもその限界は人によって違う、というのが持論です。

わたしは閉所恐怖症なんですけど、閉所恐怖というのは「認識できる広さ」に対する恐怖症だと思う、少なくともわたしはそう、わたしは狭いところが怖いわけではなくて、その空間に入っている物量がこわい。なので、たくさんのものを持つのに向いていないのだと思う。だからわたしはコレクターではない。たくさんのものを持つのに向いている人もいて、コレクターの資質というのはそういう人に宿るのだと思う。

 

もうひとつ。

「ものを買う」ことが不得意で、それは「訓練をしていないから」、子供のころから大人になってもずーっとお金がなくて何かを買うということの練習ができなくて、だから買ったものを「捨てる」タイミングもよくわからなかったんだけど、「買わなかったら使えなかったもの」を「買って、使った」ら、それはもう「買った価値に対する行動はとった」んだなと最近思うようになった。

アニメキャラのグッズとか全く使わないわけなんですけどなんで買うのかというと「市場が動いている」ということを示したいから買うんですが、だから逆にいうとあれって「別にいつ捨ててもいいもの」なんだなというか、気が済むまで飾っておいて気が済んだら捨てる、でいいんだと思う。というわけで気が済んだ範疇から捨てました。

 

 

たぶん近々引っ越すので、引っ越すときにソファとソファテーブルと家電品は買い取りに出す予定で、書き物机は捨てていく。たぶん資材もそのとき半分くらい捨てるし、いまここにあるアニメキャラのグッズもそのとき捨てていくと思う。本も読み終わったら置いていく。断捨離を勧める記事ではないです。わたしの人生の尺に合ったものを持ち運ぶには「過去」は量が多すぎるという話です。

 

「生活の質を上げる」ということを最近考えるようにしている。生活の質を上げる、というか、生活のなかで死にたくならない、というか、そういうことについて。で、部屋を掃除すること(いらないものを捨てて掃除しやすくすること)、料理すること(料理のための買い物をすること)まで考えて、まあぼちぼち、といった感じです。ひとり暮らし一年半、ようやく「生活をする」ということができるようになってきたのかもしれないと思う。

思索のための手仕事、あるいは相談を受けるということについて

夏コミ申し込みました。で何冊出すんだっけみたいなことを考えたら四冊スタート本音としてはもうちょっと出したいみたいな状態になって、ウワッこれどこから手をつけたらいいんだって感じになり、結果として、考え事をしながらコイルを巻いていました。だいぶん上達をした……と思う……。

コイルを巻くとこういうものができる。これはモールス信号ネックレスです。モールス信号ネックレスの発展として短歌や俳句をモールス信号でネックレスにするというのも考えてるんですけどなにしろ長いのでデザインに難渋している。服飾デザインの勉強、全然関係ない世界すぎて知らないことばっかりで面白いし、模索しているうちに近代アメリカにするっと行きついてやっぱりなーと思った。わたしはデザイン関係はたいていアメリカに行きつく。

 

なんでアクセサリー作るようになったかという話はいろいろな理由があるんですが、なんでそれを続けているのかというと考え事をしているときにワイヤーをいじくりまわしているのが一番捗るというのがあり、次点ぼんやりしているときや目を通さないといけないけど特に何も考えないでいたいときは編物が捗ります。いえ、作るのが捗るのではなくて、思索が捗るのです。思えば子供のころからずっとそうだったような気がする。何かを考えるために歩き回り、泳ぎ、手仕事をし、料理をする。うっすらと考え続けるために。

 

人生相談を受け始めてから何年になるのかよくわからない。このよくわからないというのは数が数えられないという意味ではなくてどれが相談でどれがスタートだったのか切れ目がわからないという意味です。でも子供のころからなんとなく長話を聞かされることが多くて、なんとなく聞く側に回ることが多かった。という話は前にブログに書いたんだったか。わたしの家庭環境においては「わたしから語り始めることが可能なこと」は少なくて、だから黙って聞いていることのほうが多かった、そうするとほかの子はみんな自分の話をしたいので聞いてもらえる相手を見つける、わたしが見つかる、わたしが聞く。という順番だったんだろうと思う。

わたしにも話したいことがないわけではなくて、でもわたしの話したいことはうまく説明できなかったので、聞かせる相手はいなかった。だからわたしは自分と話し合うことにした。自分と話し合うというのが思索ということで、思索をうまく行うためにコイルを巻いたり編物をしたりしているわけです。散歩と水泳ももうちょっとやってほしいものだと思う。特に水泳はここのところ体調が悪かったのでまる一か月ほどさぼってしまっていて……。

思春期の頃はほどんど緘黙症だったこともありました。今でも疲れているとよくどもる。別にわたしは喋るのは得意ではない。

 

たぶん人より、ものを考えている時間が長いんですよね。黙っていることも苦にならない。人の話を聞くのは本当は別に得意ではないんだけど、なにしろ訓練する機会はたくさんあったので、「重要な情報」と「聞き流していい情報」を切り分けることができるようになった。喋るのはいまでも別に得意ではない。よく黙るし口ごもる。口ごもっている間は待っていてもらう。喋るのは得意ではないけど、口ごもったりどもったりするのを恥ずかしいとはあまり思わなくなった、しょうがないので。思わなくなるまでにはいろいろなできごとがあったのもたしかです。

 

まあそんなわけで「相談を受ける」ということに人より慣れていて、いまのところをそれを収入源にしていて、いや別に聞くのはいいんだけど喋るのはそんなに得意じゃないんだよなあ、こんなこといつまでも続くかどうかとは思うんだけど、まあ今のところやっていて、そもそもここ五年くらい相談を受ける頻度がめちゃくちゃあがっていたのもたしかでした。そりゃそうで、インターネットで匿名の人から質問を受けるプラットフォームが流行ったのがきっかけでインターネットの不特定多数から相談を受けるようになって、その結果爆発的に増えたという経緯なんですが。ask.fmというサービス、そういうかたちで相談に乗るのが上手い人がどんどん可視化されているところ、かなり高頻度で見かける感じがする。

 

相談を日常的に受けるようになってようやく相談を受けるときのこつみたいなものが最近つかめてきました。最近かよって感じですけども。まあ長い間人の相談に乗ってきたとはいえこんな量の相談をさばくこともなかったから……。

・依存関係に陥らないこと

・相手は自分の話がしたいのであって「わたし」はできる限り「あなた」を理解することに注力する必要があること

・必要な助言は大抵パターンが決まっていること

悩みを打ち明けられて一番徒労に終わりやすいのが親身になって一生懸命最適解の助言を出そうとすることで、これは大抵の場合必要がない。それはもちろん「殴られたんだけど警察と病院どっちでしょうか」「おそらく警察です」みたいな、いや状況によると思いますがこれは喩えですが、具体的な助言が具体的に役立つシーンというのはあるんだけど、はっきりと割り切れない問題はめちゃくちゃ多くて、それに対して「こうでこうが正解だよ、これをやれば解決するよ」は、親身になっているのは確かなんだけどお互い別に何の役にも立たない、徒労、ということがけっこうある。ので、たとえば接客業とか、あとわたしのような相談に乗り慣れている人間とかの、「パターン化された回答」のほうが役立つというシーンのほうが、個別にいちいちちゃんと考えて対応するより相手にとっては受け止めて処理しやすい、みたいなことはわりとあるっぽいなと思う。

必要なのは「これが正解」じゃなくて「何が『あなた』にとって正解なのか」を理解すること、わからないなら「あなたはどう思う?」と問いかけることなんだろうな、必要なのはある程度マイルドに映る鏡であって他人じゃないんだろうなと思う。

「こんなことずっとやってられるのか?」と思うのはその点で、「相談を受けているとき、わたしはそこにはいない」をあんまりやっちゃうと「わたしとはだれか?」がきわめて曖昧になってしまうのでは? なりかけているのでは? ということで、たぶんバランスを取るためにコイル巻いてる(あるいは糸をいじってる)部分はあると思う。

 

ところで相談に乗るとわりと高頻度で「何か恩返しをしなくては」と言われることがあって、一方的に与えられて終わるということを受け入れるのは体力の要ることで、要ることだということはわかるけど頼ってしまったのは事実なので一方的に与えられて終わるしかないということをある程度は受け入れて欲しいと思う。「親身にしてもらったから恩返しをしないといけない」という感情自体はべつに否定しないけど、「自分も親身になる」以外ないし、申し訳ないけど普段親身になり慣れてない人が親身にしてもらったからといって自然に親身になれるかというとなれない人がほとんどだし、別に普通に感謝するだけでいい。感謝というか、わたしが親身になったという事実、そしてそこで親身になってもらったことで扱われた自分自身に対して、敬意を払ってほしい。

相談を受けて一番徒労感を感じるのが、「自分に向き合う」以外ないですよとお伝えしたのに「自分に向き合っていない」人を見るときで、依存というのは結局そういうことだと思っている。わたしが敬意を払ったあなたに対してあなた自身も敬意を払ってくれ。徒労に終わらせないでくれ。

 

それで結局わたしは夏コミで何冊出すんだろう……。

2017年の抱負

1、大都会に引っ越す

2、積んである資料を引っ越すまでにひっしこいて読む

3、断捨離(ダイエットを含む)

 

あとは喋る仕事と書く仕事と作る仕事のバランスを取って息をするようにするするやっているうちに一年が過ぎるんじゃないのかなと。

昨年中に始めた新しいこと(あるいは微妙にやったことはあったけどちゃんとやりはじめたこと)はオミセヤサンをすることと人前に出て講義をすることとジョギングとアクセサリー製作、再開したことはスイミングと編物。継続しているのはまるっきりノンフィクションの文章を書くことと短歌、あまりできなかったのは小説を書くこと、例年よりできたのは架空の男の演技。やめたのはask.fmとTwitter、はじめたのはnote。

こんなもんかしらね。去年は万年筆は頂いたものも含めて6本でした。

専門店での買い物についての簡単なメモ

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カメラ買いました(これは一枚目に試しに撮ったうちのミニバラ)。OLYMPUS XZ-10。バーゲンになっていて、そろそろカメラを買わないと諸々不便だなと思っていたので。うちのiPhoneはどうもカメラの調子がおかしかった。

まださほどいじってないのでカメラの話はまた今度。

 

久しぶりに専門店で大きめの買い物をしたので、スムーズな買い物についてのメモです。

  1. 事前に何が欲しいのか何がしたいのかのイメージをはっきりさせておく
  2. 店に入ったらひととおり売り場を眺めて自分をその空間になじませはっきりものが言えるように気持ちを整理しつつどんなものが売られているのかなんとなく把握する
  3. 「こういう条件(の中でできれば安いもの)」とはっきり伝える、もしくは「どれがいいのかわからないので教えてください、こういう条件下で使います」と伝える
  4. 高価格帯の商品にも手を出したい気持ちがある場合、そのむねをはっきり伝える(低価格帯の中でも機能の良いものを勧めてもらいやすい)
  5. 判断がつかなかったら、「少し考えてみます、ありがとうございました」と言えば大抵それ以上押してこない

最近覚えたんですが、「これいいですね、買えないけど……」と予算外の商品について言及すると、店員さんの勧め方がかなり変わってくるというか、高額商品が売れるかも? みたいな意味ではなくて「そういうのがお好きならこれがおすすめです」って感じで低価格帯のなかでもイメージに沿ったものを勧めてもらいやすいように思います。高額の商品はやはりお金をかけて開発しているので細かいところに手がかかっており、その「細かいところ」の、いわばジェネリック的なぎりぎり予算内の商品を店員さんも考えやすいということではないかと思います。

なおXZ-10はざーっと眺めて予算内の商品でデザインのよいものに目星をつけたあとで、店員さんに「仕事で使う、印刷に耐えるレベルのものが撮れればなんでもいい」「カメラを買うのははじめてでよくわからない」と言って予算を伝えた上で、「いかにも家電っぽいてかてかしたデザインのものはちょっと、できればカメラっぽい黒い感じのか、マットな仕上げのものがいい」と「今見ていて、一眼も楽しそうだなと思ったんだけども、さすがに今は手が出ない」を伝えた上で第一希望だったこのカメラについて聞いて、「展示品なので傷がありますが」「あ、それは別に全然」でお買い上げでした。

あとで気が付いたんだけど、「仕事で興味を持ったけれども、カメラ自体にも実は興味があるが、初心者なのでさほど背伸びはできない」に対して「それなりに高機能だけど予算内に収まる商品」のセールスポイントをさくさく聞いてはいはいじゃあ買いますねとさっさと買えたという流れになっており、なんていうかコンパクトにうまくまとめて伝えられたなと……。引っ越しで家電を散々買って家電量販店でのやりとりに慣れたからかもしれませんが。あと今回に限っては相互に条件が合いすぎて「呼ばれた」感じがする。

 

あと、郊外はその限りではないけれど、少なくとも都市部や繁華街のなかにある家電量販店の店員さんは結構オタク率が高い気がするというか、業務を超えたレベルで商品に対する把握力が高い印象がある。やっぱそういう意味で優秀な店員さんが配置されてるのかなあという気がする。郊外の家電量販店は商品知識より接客それ自体に相当注力してる印象で、まあそりゃ電化製品触り慣れてない層にリーチするのが目的だからな……。というわけで買い物には地域性も関係あるっぽいなーと思いました。「安くてできれば機能が充実しているもの」をピッと買うには都市部の家電量販店でピッと買った方がいいんだなーと。わたしいつも買い物を都市部で済ませてしまうので、そういえば徒歩十分のところにある家電量販店に行ったことがない、今度行ってみよう……。

「今は買えない」をはっきり伝えたうえで、おすすめをごり押しせず、それでも機能について聞いたらきっちり答えてくれる専門店の店員さんはいいもんだなーと思いました。

いい買い物をした。

生理用ナプキンにまつわるあれこれ

そろそろ話題も一段落したかなと思うので生理用ナプキンの話をします。しんみりしたエントリを流した後に唐突に生臭いけどずっと書きかけにしてあったんだ。

 

生理用ナプキンをここ数か月買っていません。

どうしているかというとフツーのタオルをパンツの間に挟んでいます。衛生上問題があるのかどうかまではよく知らないんですが、というか(小鳥の鳴き声)的な(小鳥の鳴き声)が多くて調べる気になれないんですが、

  • 別にどうせ自分の体液
  • パンツについたときだって洗って使うんだから問題ないはず
  • フツーのタオルと布ナプキンの間にどれほどの違いがあるのか

という理屈です。

 

わたしは驚異的に生理(このあいだ男性はそもそも生理という言葉をよく知らないという話も聞いたので付記すると生理というのは月経のことです)が短く、1日か2日くらいで終わります。痛みはあるときとないときがありますが、日常的な不調と比べると生理中のほうがむしろ不定愁訴は少ないです(鈍感になっていてわからないのかもしれない)。短くて軽いかわりにおそろしいほどの量出ます。

何が起こるかと言うと九割九分の確率で漏れます。この量の経血に世の中のナプキンは対応していません。

わたしはタンポンを入れると気分が悪くなるたちです。

どうしていたかというと、尿漏れパッドを使っていました。当然生理中はおしりのラインが分かる服は着られません。

 

フェイスタオルでもかわらんやんけ。

 

もちろん洗わないといけないのでかわらんやんけって問題ではないし、布ナプキンでもかわらんやんけという話がしたいわけではありません。非常時はもちろん使い捨てナプキンが衛生的だし、ていうか勤め人の方は当然薄手のナプキン使うのがベターなのはもちろんです。単に

  • 在宅労働者だしそもそも尿漏れパッド時代からぴちっとしたズボンとか履いてないし
  • 量がめちゃくちゃ多いのでどうせパンツも洗ってたし
  • じゃあろくに役に立たないものに金を払う意義がない

という理由で最近ずっとタオルで済ませているという話です。

 

布ナプキン礼賛みたいな誤読を受けそうなエピソードなのになんでこんな話をしたかというと、生理というのは日常でありハレでもケガレでもない、という話がしたかったからです。

経血のついたタオルをざっと水で流して洗剤を少し溶いた水を張った洗面器に突っ込んでしばらく放っておいてざっと洗って洗濯機に突っ込んで回して、そしてそのタオルを別に普通に顔を拭くのに使う、ということを、しかしみんなできるかといわれたらできないのが現実であって、わたしも一人暮らしじゃなかったらこれ洗濯機に回さないしそれ専用のタオルを用意すると思うし客には出さないと思います。ケガレの感覚があるんだよねそこはやっぱり。まあ、「パンツで顔拭くか?」って言われたら拭かないわけなんだけど、でもパンツ、もっとも不衛生であってはならない場所を覆ってるんだから、清潔なはずだと思うんですけど……。

でも感覚としてできない。できない限り緊急時いちいち分けて洗ってられるわけないじゃないですか。っていう話がしたかった。なおわたしのふとんは経血が染みているので誰にも貸せません。固定です。そんなに不潔なのかと言われたらそんなわけないんだけどさああ。わたしは本当にすぐ漏らすので不潔であってたまるかと思うんですがそれでなくともボーッとしてるか腹痛いかなのに経血漏れを延々と気にしないといけない生活まじめんどいので生理のとき家から出たくない。家に血痕がついても最悪別に……わたしの家なんだから宿命だよ……。