あらゆるわたしの可能性の世界――こうの史代『この世界の片隅に』

※映画は観ていません。

というのは、わたしは閉所恐怖症を患ってそろそろ十年近いんですが、その結果として映画館は閉所で窓がないので基本的に行けません。時々行くけど体調は悪くなる。そして去年は閉所恐怖症の具合が極端に悪かったので全く映画を観ていません。という理由で観ていないのであって、なにか含むところがあるわけでは全くなく、逆に観といた方がブログ書くのもまあいろいろとアレだろうなとは思うんですが、逆に観ていないほうが書けるものもあるだろうと思って、迷ったんですが書いとくことにしました。

書こうかなーと思ったのは、映画観れないからという理由でこうの史代作品をしばらく封印していたのをそろそろいいかと思って解いたからです。なんで封印していたかというと「そこは原作ではこうで」とか言うめんどくさいオタクになりたくなかったからです! 映画観れないし!

やっぱり滅茶苦茶面白いし、あとわたしは(こうの先生が舞台にする広島は海寄りなので若干違うんですが)広島弁方言圏なのでまず音読ができてしまうしキャラクターの細かいメンタリティもすごくああ~という気持ちになるのでたぶん思い入れ方がちょっと違うだろうなと思う。ここで描かれる「戦争」とはいったい何であったのかを知っている、というより、「ここで描かれる戦争というものとおそらくあまり差分のない戦争教育を受けている」環境を知っている。広島の戦争教育はかなり特殊なものであり、かつ、ある程度抑圧的に「平和賛美的」なものです。それを踏まえて『夕凪の街桜の国』が生まれ『この世界の片隅に』が生まれたというのはこうの先生のある種の純粋な無垢さの表れだと思う。純粋な無垢さという言い方は妙にきれいであれですが、今年カープ優勝から連勝に至った際の広島県民の「純粋な無垢さによって永遠に興奮している」あれ、あれが広島の「平和教育的な側面を除いた」本来の県民性だと思います、多分。こうの史代という人物は極めて「広島っぽい」、そして、「ヒロシマ」、いわゆる戦争の跡地として平和の聖地として語られる方の当地のことです、「ヒロシマっぽくない」。

そういう人が稀有な才能を発揮して暴力もあれば幸福もあった、「不幸な」ヒロシマではなく「不幸にならされた」広島を描いた、「日常四コマ」の漫画家が描いた、というのは『夕凪』の頃大学生だったわたしやわたしの友人の間ではかなり話題になって熱心に読みふけっていたのを覚えています。こうの史代というのはわたしにとってそういう作家です。

 

※ネタバレがあります。

すずさんの「右手」の話をします。

『この世界』という漫画は「実際に起こったこと」と「すずさんの絵のなかで本当のこと」が繰り返し描かれる漫画です。その境界は、たとえば『長い道』で明確に扱われたペンタッチの違いで分けられているとはいえ、時として曖昧で現実をたやすく浸食します。人さらいは本当にあんな形をしていたのか。座敷童は本当に存在したのか。わたしたちはそれを見分けることができない。なぜならそれは「すずさんの世界において」本当のことだからです。

そういう意味で『この世界』はメタフィクションです。あれは『すずさんの見た世界」をそのまま映し出す「すずさんの右手」が描いた世界です。漫画の中で前置きなく何度も「たぶんこれはすずさんが描いた絵なんだろう」とわたしたちが認識できる、ペンタッチの違う絵は、しかしすずさんが「本当に」「帳面に描いた」絵なのかどうか、わたしたちは確認ができません。わたしたちはその瞬間、すずさんの絵(のようなもの)を通じてしか世界を認識できない。つまりそれはここで描かれる「この世界」とは「すずさんの右手が作っていた世界」だということを示します。

 

それが奪われるということは、すずさんが飲み込んで咀嚼し「描いた」「この世界」に、今度は「戦争」が侵食し、破壊したということです。

「世界の終わり」です。

 

すずさんの右手が奪われたことをすずさんが「知った」とき、すずさんが描いていた「世界」は「この世界」から切り離され「クローバー畑」という「架空」に行ってしまう。それはもう描かれることがない世界です。そしてすずさんに残されたのは「歪んでいる」「左手で描いた世界」。漫画の背景は実際に震える線で描かれ始める。

 

すずさんから切り離されたすずさんの右手、つまり「すずさんの世界」は、最初、晴美さんを象徴するものになります。つまり、「もう失われたもの」それは双葉館の死んだ娼婦に接続し、次いで右手が現れるのは「売られた子供」そして「座敷童」さらに「リンさん」を「右手が描いているという架空」。「思い出」「失われたもの」。そしてコマの隅に小さく描かれる楠木公に至り、「もう今は描くことができないけれど、かつて描くことができたもの」を取り戻します。架空の水原哲さんと軍艦を経て、そして、おそらくこれはかつて描かれたものではなく、しかし「すずさんの中ではいまでもありありと描くことができる」『鬼イチャン冒険記』はすずさんにとってはこれもまた「本当にあったこと」「起こるべきだったこと」です。

 

「貴方などこの世界のほんの切れつ端にすぎないのだから」

「しかもその貴方すら 懐かしい切れ/〵の誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから」

そう語られる最終章はほとんどが「誰かによって描かれた」ものです。それを描いたのが「誰」であるのかはわかりません。

「いま其れも貴方の一部になる」

すずさんの人生にはいくつかの分岐点があります。「さらわれた子になる人生」と「ならなかった本当の人生」。さらわれたすずさんはもしかしたら浮浪児になっていたかもしれないし、娼婦になっていたかもしれません。「死んだ人生」と「死ななかった人生」。死んだのは晴美さんではなくすずさんだったかもしれません。「原爆にあった人生」と「あわなかった人生」。北條家に嫁いだのはすずさんでしたが、妹のすみちゃんである可能性だって十分あり得ました。そして嫁がなかったらすずさんは広島にいたのです。

すずさんの人生を通り過ぎていくあらゆる可能性。すずさんが描く「この世界」は「現実」を超えて「可能性」に接続し、「起こるはずだったこと」は「現実」の一部分に静かに収束していきます。その結実として最終章があり、鬼イちゃんの幸福な人生があり、そうしてここにいる「すずさんの可能性、すずさんの可能性たちの可能性」としての孤児が、すずさんと接続します。

「すずさんの可能性たちの可能性」たる孤児の目にうつるすずさんと周作さん、そしてベンチも電車も呉も、「右手で描いたような」線で丁寧に描かれています。すずさんとすずさんの可能性が静かにたどり着くその場所がまさしく「この世界」であり、それは「起こりえなかったこと」も含めて彼らの「現実」です。

「世界は回復した」のではなく、「終わらなかった」のです。

 

そしてその「現実」から書かれた「あとがき」に「のうのうと利き手で漫画を描ける平和」と書くこうの史代という作家は本当に胆力のある作家である。「世界は終わってなどいない、一度も終わってはいない」は『夕凪』でも強烈に打ち出されていたテーマでした。それはそもそも日常を描くことを主軸として漫画を発表してきた作家にしかできなかったことだと思う。

というわけで、漫画に絞ったレビューということでかなり今更なものでしたが、おつきあいいただきありがとうございました。

読書記録

前回が前すぎて最近もクソもないですけど曖昧に読み終わった本と読みかけの本がそのあたりに散らかり続けているので備忘録をつけておきます。再読も含まれる。

内田百閒『阿呆列車』1~3『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』

片岡義男『万年筆インク紙』

石井好子『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』

川上弘美『真鶴』

村上春樹『遠い太鼓』『やがて悲しき外国語』『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』

施川ユウキ『鬱ごはん』※久しぶりに読んだらなんかハマりすぎてSkypeで何回も音読して聞かせてしまった

小林銅蟲『めしにしましょう』

清家雪子『月に吠えらんねえ』

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』※そういえばkindleでクリスティー半額フェアやってたのにうっかりしてて何も買わなかったのが惜しまれる、これはそれとは関係なく持ってたものです

東條チカ『幼女戦記』

スケラッコ『盆の国』

樫木祐人『ハクメイとミコチ』

こうの史代『長い道』『この世界の片隅に』※今年病状が悪くて映画館に行けなかったのですが映画化とてもおめでとうございます、書店でCMを観て「うおお、動いてる」みたいなリアクションをしてしまった

伊藤理佐『おいピータン!』※実家に全巻あるんですがkindleで買い直し中

柘植文『野田ともうします』

『野田ともうします』すごくよくて、百合漫画というわけではないんですけどたぶん百合の人も好きだと思うので読んで欲しい。地味かつ奇妙な野田という18歳の女の子が人間関係を構築したりいろいろなことにチャレンジしようと立ち向かうギャグマンガなんですけど、ほとんど喋らない重松さんという友達の女の子がいて、めちゃくちゃ野田にあこがれているんだけどそのあこがれているとあきれているのさじ加減のバランスのとり方がめちゃくちゃいい。ハードボイルド。「絶対に喋らない」というある意味病的な重松さんに対する友人や先輩の視線もフラットでよい。重松さんはめちゃくちゃいいんだけどほかのキャラクターもひとりひとり丁寧に描かれていてすごくいいです。ドラマ化したらしいけどどんな感じだったんだろう。群像ギャグマンガはいいものだ。

 

またSoftbankに丸め込まれてタブレット買ったんでkindleで本大量に買ってるんですけど、読み終わったものが意外と少ない。

あとタブレット買ったんで青空文庫も結構読んだんだけど青空文庫は冊子ごとになってないから何を読んだんだか全然思い出せない……。最近読んでるのは幸田露伴です。

資料とか勉強の本を全然読み終わってなくて読みさしているまんまなことに気がついて「これだから読書記録くらいたまにはつけないといけないんだよ!」と思いました。いま積んであったアニメ誌ひっくり返してるところだから埋もれてるだけかもしれないけど。あとは手芸のレシピ本を大量に買ってるんだけどこれ記録要るかな……とりあえず今回はいいかな……。

赤塚王国フラグメンツ(5.5)松野カラ松とチビ太の「終わらない昭和」

このブログを読んでる人は大抵経緯を知ってると思うし知らない人は過去ログ読んだらリアルタイムで色々あった様子がご高覧頂けるんですけど、とにかくギャグアニメの感想を書いたらブログが炎上した(事実をまとめただけで事実がアニメよりギャグになりかねないこの……)のでわたしは課金制に引っ込んでnoteはじめたんですが、金取るからにはどうせならこれまで手を抜いてたところをちゃんと書こうと思って積んでる資料(赤塚の他作品とか、過去に出た赤塚関連ムックとか、怒涛のように出たおそ松さんインタビューの雑誌とか)を崩しているうちに半年更新が止まっていました。本当にごめん。

というコンテンツがようやく軌道に乗ってきたのでお試し無料分をここに置いておきます。チビ太とカラ松の話です。マガジン買うかどうかの判断材料にしてください。なんで800円なんだっけって思い返したら「たぶんA5で作ったら100ページ超えるからまあ800円くらいで頒布でいいか」という理由だったことを思い出しました。購入された方はPDFデータをDLできるようにしようかと思います。物理冊子版は印刷費回収させてください。

 

いいかげんしつこいと思うけど再度断っておきたいんですけどいいですか。

・論述文というのは仮説があって検証があって結論がある文章のことをいうし、いま書いてここに置いていくのがそれ

・わたしがここでおそ松さんについてのたくりまわしていたのは感想っていうかもっと正確に言うと仮説に対する発想の飛躍と論理の省略を含むある種のエンタメであって論述文ではないし「考察」ではないので論拠が浅いと言われてもそういう文章ですとしか言いようがないし論述文を書いたつもりはない

・仮説を立てて立てっぱなしで論証しないものを主とした論拠の浅い文章を考察と呼ぶ言い方がこの件を通じてまじめちゃくちゃ嫌いになったと言ってもさすがにわたしは悪くないと思う

わたしがなんで「父さんな、腐女子やめてアニメ評論にまじめにとりくもうと思うんだ」してしまったかというと「論拠が浅いのでもっと努力しろ」と「どうせ腐女子は何を言わせても論拠が浅い」を同時に言われた上に「わたし自身論拠は浅いと知っている情報をロンダリングする人」までいたからだよ! 冷静になってくれよ! アニメ見た翌日か下手したら当日に書いた文章がちゃんと仮説を検証し切れてるわけないだろ! 自分の首の上に載せてるやつの使用方法を考えながら生きて!

父さんな、腐女子やめてアニメ評論やろうと思うんだ。でも正直不&毛って気持ちのほうが強いので料金前払いでもらったぶんを書き終わったらアニオタ自体から足を洗おうかなとは思わないでもない。料金前払いでもらってなかったら逃げてた可能性わりと高いなってくらいおもに去年の10月頃(あまりに進まない進捗に)追い込まれて死んでいたのでオッ読んだろと思ってくださった、そしていまだに時々新規で読みに来てくださるみなさんありがとうございます……。


月刊PASH!2016年3月号藤田監督&松原脚本インタビューにおいて、最初にキャラクターが固まったのが六つ子の象徴としてのおそ松、そしてそれに対するツッコミ役としてのチョロ松、との言及ののち、「役割のあと、最初にキャラが見えたのはカラ松です」との言及がある。「非赤塚的なキャラクターとしてテンポを変える要請」と語られる一松、「末っ子という立ち位置からスタートした」と語られるトド松、「最後まで決まらなかった、違うタイプのボケを用意するという点でキャラクターデザイン浅野原案によって広がった」と語られる十四松の、ある種のキャラクターとしての明瞭さに比べ、カラ松というキャラクターが「なぜ」あの形に決まったのか、しかも最初に決まったのかという点に関する言及は少ない。しかしこのインタビューにおいて特筆すべきは、カラ松のキャラクターは「立ち位置」でも「物語上の要請」でもない部分において成り立ったという点であり、逆説的にそれは「カラ松は『六つ子』という組織において『代替不可能な立ち位置』を持たない」、そしてそれがゆえに「カラ松は存在を疎外され、追い詰められてゆく」という物語構造と密接に絡み合っている。

カラ松というキャラクターがどのように作られたのかを確定することはできないが、その要素をひとつひとつ考えていくことは可能である。その一考察として、「昭和90年」を意識したとの言及(spoon.2Di 10号 美術監督田村せいきインタビュー)前回の『おそ松くん』アニメ化である88年という年の「続き」を生きていると想定されるカラ松の好み(2話でカラ松の妄想のなかに登場する尾崎豊の活動期間は 1983年~1992年、妄想の対象となっている女性二人組の仮名アイダとサチコの元ネタと考えられるWinkの活動期間は 1988年~1996年)の関連性を踏まえると、「終わらない昭和」を最も先鋭的に生きているキャラクターとしてのカラ松が浮き彫りとなる。そしてその「昭和」は華やかで輝かしいものでありそしてスターたちの時代であり、古びて懐かしいものではなく、そのうえでカラ松はそのスターたちの時代としての昭和の申し子としての自分を生き続けることに何の疑問も抱いておらず、自分自身に対する確信が揺らぐことはあっても彼の中の「輝かしい昭和」としての「パーフェクトファッション」は最終回に至るまで終わらない。

「六つ子が平穏に生きていられた世界の終わり」が六つ子ひとりひとりに訪れていくという点に関しては『赤塚王国フラグメンツ』本論において述べた。それはいわば「現在が昭和90年ではなく平成27年であることを自覚する」作業であり、そのなかでおそ松は小規模な昭和を自分たちのなかで維持することを、チョロ松はおそ松に従うために平成を諦めることを、トド松は平成に順応するために六つ子から一度距離を置くことを選ぶ。一松と十四松はそれぞれ別のかたちで「現在」と「自我」からある意味で逃避する。トド松を除く五人の行動は「いまが昭和90年ではないことはわかっていても、なお昭和90年を維持しようとする」方向に向かいあるいは疎外せず、トド松は明確に組織としての六つ子の理念たる昭和90年を裏切ったが、それは明確な裏切りであったがゆえに対処は明確だった。

対してカラ松が「処罰」もされなければ「厚遇」されることもなく、ゆっくりと六つ子のなかで「いないもの」となっていった理由は、ここまで述べた論に準ずるなら明確である。彼は「昭和」を疑わなかったがゆえに、「今はもう昭和ではない」ことから目をそらす必要がなかった。それゆえに彼は四人が問題視しているのは何なのかもトド松が何から逃れようとしているのかもついに理解することはなかった。それは同時に「家族であること」「六つ子であること」が前提的に絶対的な事実であって離れたり別れたりすることはあり得ない、がゆえに救済は必ず来ると信じた、「カラ松事変」における彼の盲信ともつながる。彼は自己を、現在を、家族を、疑わなかった。それを怠慢と呼ぶことも信頼と呼ぶことも可能だが、いずれにせよカラ松は5話以降「自分の居場所」を模索した結果として、15話で結婚、24話ではチビ太の家に居候という、二回にわたる「別の家族を選択する」という結論に至っている。

「すでに昭和は終わっている」はすなわち、「すでに『おそ松くん』も『六人でひとつ』も終わっている」、ひいては「もう赤塚不二夫は死んだ」という事実を示し、カラ松を除く六つ子はそれぞれそれを突きつけられてゆく。そしてこの物語のなかで、既に「昭和が終わった世界」に順応しているのがイヤミをはじめとするサブキャラクターたちであり、ブラック工場やレンタル彼女をはじめとした現代的な手法での一獲千金を狙うイヤミ、近未来的な研究所を持つデカパン、アイドルを目指すトト子、高層ビルに君臨するハタ坊といったキャラクターは皆既に「平成的」なアイコンをそれぞれ手に入れている(ダヨーンは今作ではモブキャラクター的な存在であるため触れない)。そのなか、チビ太が流行らないおでん屋を続けていることと、トト子のライブへの招待およびレンタル彼女回を除き基本的にほかのキャラクターから「おでん屋の大将」以上のものとして顧みられることがないという点は、先に述べた「昭和を疑わないもの」は「取り残されて、忘れられていく」というカラ松の物語と密接に絡み合っている。「カラ松事変」は、昭和に取り残されたふたりが昭和に取り残されたと気づかぬまま彼らが顧みられないことを突きつけられるエピソードだった。

5話以降カラ松とチビ太は関連を持って描かれることが多くなり、24話では同居に至る。「終わらない昭和」を生き続けることによって物語から「浮いている」ことそれ自体を役割とされた彼らが「浮き続けること」を選んだひとつの結論、「終わらない昭和の続き」が、24話における彼らの選択であり、それはおそ松さんという「昭和の続き」を描いた物語のひとつの屋台骨だった。

小林大吾さんのこと、あるいは憂鬱な時に読むべき文章のこと

既知の人もしくは友人のように呼んでいますが単なるファンです。

小林大吾「小数点花手鑑

※アフィリエイター(年間二万くらいとはいえまあいちおう)のはしくれとして一応Amazonを貼りますが公式ホームページで買うとおまけがついてきます。なおAmazonのアフィリエイトプログラムは貼ったリンクから入ってほかのものを買ってもわたしの懐にシュッされますので良い意味でも悪い意味でもその旨ご了承ください。

※アフィリエイター、わたしがそこそこまじめにやると月間五千くらいで、真剣にやっている人の言によれは食えるくらいにはなるらしいですけど、わりとキツそうだし儲けようと思ったら反社会的な行動に結びつきやすいみたいだし業務上必要な反社会的な行動をとるとき(※取るべきではない)はせめて組織に所属していないとレッドカード即死なので、目指さないほうがよい職業のそれなりに上のほうには入ると思うと一応書いておきます

※わたしがまじめにやってないのは書影すら貼らないあたりから見てのとおりです

※収入源は指導とアクセサリーとライティング関係とそれ以外が4:3:2:1ってところで、2017年はせめて3:3:2:1:1になるのが夢です

※しょっぱい話は以上です、話が長くなったのでフリーランスで生活するとは何かというエントリを別で立てよう

 

一人暮らしをはじめてよかったことのひとつに、読みたい場所に本を積んでおけるというのがあります。今のところトイレには積んでいませんが、というのはうちはトイレのスイッチが変な場所についていてしょっちゅう消し忘れるので近頃トイレの電気をつけずに用を足しているので読むとすれば懐中電灯代わりに持ち込んだスマートフォンの画面で、SNSの類を眺めることがあるとすればこの時間で、つまりバックライトのついていないものは読まないということになります。

トイレ以外の場所にはひととおり積んでいて、といってもうちは狭いのでさほど積む場所はありません。玄関から入って、玄関にはゴミの日を待っているゴミと靴と傘と気に入って持って帰ってしまった電子レンジ(動かない、台としてはそれなりに有用だけど棚としては正直不便だけど気に入っているので一応しばらくそこにいる予定)があり、ここで寛ぐことはまあありません。ゴミを背にして椅子がひとつ置いてあってここは朝食を食べたり気分転換に座ったりするはずなんですが今去年出しそびれた資源ゴミが占拠しているのでいまのところここにも本は積んでありません。トイレには積んでないのは前述のとおりです。

さてここまできてどこに本を積んでいるのかというと風呂とキッチンとベッドと作業机です。もちろん本棚と本棚以外のところにも積んであるんですがそれは単に積んであるのであって、単に積んであるというのは現在進行形で読むつもりで積んでいるのではなく読む予定はなく徒に積んでいるのであって、今回の件とはあまり関係ありません。当ブログ用語でいうところの「情報共有制限」に類する本と雑誌がびっしりあって、あとは松尾芭蕉を中心とした日本史書がびっしりあって、あとは、えーと、おおむね読んだ本です。たぶん。買ったけど読んでない本がまだ実家にあると思うのでこんど拾ってきます……。

さて、風呂に本を積むと怒る人がいるのは知っているのですがそれは本に対する感性の違いの問題ですのでこの項目は飛ばすことをお勧めします。風呂に積んであるのが『銃・病原菌・鉄』と『泥棒日記』(再読)、わたしは風呂にいるとき一番コンディションがいいのである程度ややこしい本が読めます。ある程度ややこしいけど、でも風呂に入っているからメモが取れないので、メモを取らなくてもある程度書いてあることがわかる本がいい。風呂でぼけーとしているときにじゃあまあ読むかと手に取りやすい本がいい。あと文庫本なのでまあ濡れても大惨事にはならない。湿ってたわみますが。『銃』が終わったら積んでいる日本史料に戻る予定です。

風呂の話はこれで終わり。次はキッチンテーブルで、ここにはずっと伊藤比呂美と菊池成孔が置いてあります。ここに大野晋先生(日本語学を大学でちょっとやっていたころよく話題が出たのでわたしには大野晋先生はいつも大野晋先生です)が混ざっていることもあり、これはなんとなく「たましいのふるさと」というか、「実家」というか、そういうセレクトで置いてあって何回読んだかよくわかりません。伊藤比呂美で一番読むのは共著ですが『なにたべた?』、菊池成孔は『スペインの宇宙食』です。

キッチンテーブルの向こうに作業スペースがあって、まあ本は散らかってるんですが、読みかけだから積んである本は『物語論』『魔法昔話の研究』『はじめて考えるときのように』、あと情報共有制限、これは仕事の合間に疲れたときに読んでいるのと、仕事の一環で読んでいるのがごっちゃになっています。

ベッドサイドには『夜の果てへの旅』がずっと置いてあって、これは読んだんだか読んでないんだか正直よくわかりません。寝る前に本なんか読んでも内容は全然覚えていないのでただ美しい文章が美しいなあ~と思っているだけです。読み終わったらもうちょっとまともな状況で読みたいと思います。正直フランス人が書いた文章(の翻訳)を読むとほっとするので内容はなんでもいいんじゃないかという気はするんですが、そういう扱いをするべき本ではないことは重々わかっています。すいません。

家の中ではこんなところで、家の外ではkindleでアガサ・クリスティーを読んだり青空文庫をあさったりしています。

 

CDの感想を書くんじゃないかという話なんですけど、何の話をしているかというと「これだけ並列で読んでいて、ゴハンを食べるとき読む本の持ち合わせがない」ということです。ゴハンを食べているときはややこしい本は読みたくありません。文章の美しさでゴリゴリ来るものも正直食欲が失せる。食欲をかきたてるような文章もそれはそれで実際ゴハンを食べながら読むと気分が悪くなる時がある。

ゴハンを食べるという作業、そう、作業ですが、作業があんまり好きじゃないんだろうなと思うんですよね。だからゴハンを食べながら文章を読みたい。できるだけ罪のない、風のような文章を。

ということでそのような本の持ち合わせがない時、そう、今まさにそうですけど、ムール貝博士言行録を読んでいます。2013年の夏からみたいだからもう3年半くらい読んでいることになり、最新のエントリから読み始めて初投稿まで読むということをたぶん五回はやっています。という経緯でわたしはおもしろいブログないですかと聞かれたらこちらをずっと勧めてきたんですが実をいうとCDを持っていませんでした。

という話をしたら友達が誕生日にくれました。

 

小林大吾さんがCDというメディアを使ってどういうことをしてらっしゃるのかは正直説明がむずかしいのでブログをごらんになってくださいというかんじなんですけどもブログをごらんになってもわからないかもしれませんが、なにをやっているのかわからないという意味ではわたしも人のことはまったく言えないのでなんとなく全体的に把握してくれとしか言いようがないし全体的に把握するのが一番正しいのではないかと思います。ので説明はしないんですけど、CDとてもよくて、誕生日(11月)からこっち毎日聞いていて、気が付いたらほかの3枚のCDもどうにかして手に入れており、毎日聞いていて、ほんとうにいいんですがなにがいいかというとやっぱり「罪がない」だと思う。わたしの普段読む文章の中でこれだけ罪のない文章をこれだけの量書いている人はいまのところほかにふたりしか知りません。武田百合子と内田百閒です。

わたしが普段読んでる本、あるよね。罪が。

 

YouTubeで聞ける範囲だと「コード四〇四」を聞いたときはなぜか涙ぐんでしまってたいへんでした。

松野兄弟万年筆奇譚第二回 ミラーボールと登山のあいだ

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万年筆オタクによる独断と偏見の松野兄弟万年筆&インクセレクト、第二回はトッティこと松野トド松くんです。

写真の画像はパーカーアーバン。クールマジェンダ超いい色なんだよね……。アーバンのえっちなシルエットに対して赤やピンクを持ってくるとセクシーになりすぎそうなところを、このクールな光沢感がスッと引いた視座を作っていて、アーバンの中で一番格好良いと思うというか、アーバンって形が独特すぎてわりとダサくなりがちで、パキッと仕上げたほうが絶対かっこいいと思うんだけどね。クールマジェンダが一番良いと思います。

アーバン、きゅっとくびれたシルエットが最高にセクシーな一本で、スタバァは(たぶん)アメリカ資本だしアメリカ万年筆からということで……「なんだかちょっと気になるけど、明るくてやさしそうなのにクールでミステリアス」というイメージ。これくびれた胴軸を握ると持ちやすいというプロダクトデザインなんですが、胴軸を握らない人にとっては全然それ持ちやすくないんですよ! 全然万人向けではない! 「こっちは寄せてるよ、君はそれにちゃんと乗っかれるかな」って試してくるペン……。挑発的……。

 

ていうのが多分トッティの「こうでありたい自分」じゃないかなって思いました。

 

それにエルバンのカーマインを合わせています。

リンク先だとよくわかんないですがこのインク、金色の偏光があり、ぎらぎら光ります。トド松のミラーボール状の自意識をイメージして入れました。

クールマジェンダもカーマインも分類としては赤なんですが、万年筆インクのぱっと明るい赤のセクシーな感じはトド松によく似合うと思います。持ってないけど色彩雫の紅葉も似合いそう。神戸インク物語なら元町ルージュ。国内のインクのピンクは「愛らしい」に傾きがちなので、トド松は明るいセクシーさを含みながらぱっきりと素直な赤が似合うと思います。そのうちネチネチ書きますが対照的におそ松兄さんはどこかに昏さを隠し持ちながらも甘い赤ってイメージ。

 

続いてもう一本。クリア―キャンディメタリックピンクに色彩雫の山栗

クリア―キャンディは廃番になってしまいましたねえ……。ネットではすっかり見かけなくなりましたが、文具店にはまだ結構あるのでみかけたら一本どうぞ、セーラーの1000円万年筆です。とびきりキュートでポップで、そして昭和の匂いがして、意外とごつい復刻商品。

廉価帯でねじキャップ(廉価帯万年筆は気軽に使いたいし、高額帯帯の万年筆がねじキャップなのは家でゆっくり使うからいいけど、そうするとクリア―キャンディの立ち位置が……)というどう扱ったらいいのかわからない立ち位置と軸の微妙な太さが災いした印象で、さらに1000円帯のライバル・カクノのバカ売れに完全に食われ、同じセーラーでもハイエースネオのほうが取り回しも利くし……ていうかハイエースネオが一松くんでカクノがおそ松兄さんのイメージなんですが要するにそういうところも含めて……あの……って気持ちもあります。トッティは要らない子なんかじゃないよ!

逆に言うとクリア―キャンディもアーバンと同じく、「僕の都合のほうに、みんなが合わせてよ、僕はちゃんとみんなの都合を考えて合わせてるんだから」ってペンで、はっきりとした「意思」のあるペン、だと思います。自立心が旺盛なあまり存在することからログアウトしてしまったクリア―キャンディちゃん、手に入るうちにお求めください……。

わたし結局クリア―キャンディ四本も買ったんだな使わないのに……もう二本くらい欲しいんだよな……どうしようかな……。

メタリックピンクはクリップや天冠が青くて、自意識を見る限り結構カラ松くんのことをなんだかんだで慕ってるっぽいトド松にこれを持ってくるのはわりとせつないなって思いながら眺めています。別にトッティのために買ってきたわけじゃなくて、うちに、あったのです……。そしてクリア―キャンディのなかではメタリックピンクがいちばんトッティに似てるよ……。

色彩雫の山栗はトド松の本当は地味な趣味が好きで堅実志向という側面のことを考えながら選びました。本当にうっすら赤みがかっていて静かな秋のさみしい切なさが混ざった、さらりとしたセピアで、いい色です。

 

プラチナ 富士五湖シリーズ 西

これをトッティに持って行かないわけに行くまい! わたし富士五湖精進しか持ってなくてそれはカラ松兄さんに割り当てられてるけどね(精進は青みがかってるからトド松には割り当てられない)。西欲しい……超欲しいと言いながら発売からずっとウダウダしてるんだけど買うならそろそろ買わないといいかげん買えなくなる……。近所の本屋に売ってるけど……。本栖は絶対手に入らないと思うけど山中はしょうじき十四松だと思うし河口に何がくるかこわくてたまらない……。

トッティはほんとプラチナだと思うんですよ。全体的に決して悪くないしそつもないしきれいにまとまっているのにどこか何かが足りないんだけど、堅実なんだからそれでいいんだよ、って思うけど、堅実に堅実に頑張りすぎてちょっと暴走もしちゃう……。まじめで責任感も強いのに、どっか抜けてて、ええかっこしいで、そしてすごく優秀な男の子であるところのトド松にはあっけらかんとした澄み切った富士五湖の軸と堅実さ堅牢さを絵に描いたような3776のニブはほんとうに似合う。

インクはダイアミンのホープピンクっきゃない(持ってないけど)。希望の星! トッティ!

 

というわけで第二回でした。あと四人だよ! 楽しい以外の感想がない!

松野兄弟万年筆奇譚第一回 紫色でしかありえない君

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万年筆オタクはたくさん万年筆と万年筆インクを持っています。

さて、おそ松さんというアニメには六つ子が出てきて、それぞれテーマカラーが決まっています。アイドルグループあるいは戦隊ヒーローみたいですね。

怒涛のようにアニメを観終わって、アニメ見てる最中万年筆どころではなかった(興奮して振り回してぶつけてニブ曲げそうだった)(実際やったことある)のでしみじみと久々に大量洗浄していて、ふと気づくと

「おそ松……カラ松……カラ松……カラ松……十四松……チョロ松……待ってあと二人もいるはず」

 

そう。

手持ちの万年筆とインクを六つ子に仕分けてしまったのだ!!!!!!

 

オタク趣味とオタク趣味のコンボが決まってとてもつらい顔をしています。哉村哉子です。せっかく仕分けたので手持ち万年筆とインクを誰に振ったかという話をしようと思います。

第一回は一松くんです。

なぜ第一回が一松くんかというと、中途半端な色のインクが超似合うからです。むしろ中途半端な色が似合う子は六つ子のなかに一松くんくらいしかいないと言ってもよい。そして一松くんに似合う色をほかの子に持って行ってもなんとなくしっくりこない。ムーンシャドウはもちろん一松くん、ラマンももちろん一松くん、紫式部もやはり一松くんということにせざるを得ない。そう、他の六つ子は紫が似合わないのです! びっくりするほど! いや、服で似合うかどうかとかじゃなくて!

一松くんの魂は紫色をしており、一松くん以外の五人の魂は紫色をしていない!

 

エルバン ムーンシャドウ

ほんともうこれ一松くんですよね。むしろこのインクの名前が松野一松でいいよね。「月の塵」を「ムーンシャドウ」と訳すセンスからしてもう照れ屋の一松くんっぽいし、その上で「月の塵」彼持ってそうじゃないですか、子供の頃に行った夜店とか、古道具屋の片隅に転がってたとか、なんかそういう理由で「月の塵」という名前の石かなにかを持っている一松くん、めちゃくちゃありそう。

ざらっとした質感のある紫で、派手さも暗さも感じさせない、寄り添う影のようなインクです。フローが渋いのも無口な感じで一松くんっぽい。一松くんのロマンティックさとペシミスティックなところとペーソスと甘えを全部くるんで静かに兄弟の一番後ろで微笑ませたらこういう色っていう色です。松野一松~! 一松くんの香水ムーンシャドウみたいな匂いなんでしょ!? 嗅いだことないけど知ってる~!

色彩雫 紫式部

外面はきれいで品がいいけど一筋縄ではいかないところのある女性、というのが紫式部(本人)のイメージなんですが、それにもうすこしパイロット的なぱあっとした明るさを加えた上で、パイロットインクなので水であり、青寄りの紫であるところも含めて本心では結構カラ松にあこがれているし脳内はやかましいし、そして脳内がやかましいわりにうじうじはしていてもゲスいところはないこどもじみた潔癖さと潔癖さに見合うこともできない自分に対するジレンマみたいなところを含めてダッバア……って流れ出るインク……って感じです。紫式部(インク)みたいになれたら友達だってできてるのにねー!

ブングボックスオリジナルインク L’Amant

ラマン、愛人、という名前のインクで、一松くんこの言葉ちょうーーーーーーーにあうよねえーーーーーーー……ラマンていうとわたしはマルグリット・デュラスでデュラス超好きなんですけど一松くんのそれはデュラスのそれみたいな奔放な愛じゃなくてもうちょっと日本っぽい湿り気のある愛で、いやセックスの話じゃなくて(セックスの話でもいいけど)、家族に寄せる、じめっとした、しかし束縛的ではないある種のピーカンの突き抜けたあかるさすら含む、雨に濡れた苔がつやつやしているような愛……。一松くんの愛……。暗幕の底から光が湧き上がってくるようなふしぎな輝きのあるインクです。次いつ買えるだろうね……。

 

紫以外だと、

渚ミュージアムグレー

まず名前がひどいんだけど、そして渚ミュージアムという言葉に関係がありそうなのは次男なんですけど、でもこれ次男の色じゃないよね……。どこかに緑色の気配のある、暗めのグレーで、グレーには空のグレーと土のグレーと湿気のグレーがあると思うんだけどこれは確実に湿気の色、夜霧のなか何かを見つめようとする色。一松くんが芸術に行きたいという設定はぼかされたままでしたけどなんとなくちらほらあったと思ったんですが、兄弟とか好きなものとかを見ている一松くんの世界ってこんな感じかなーと思いました。

一松くんの魂の色は紫なんだけど、一松くんの視界の色は緑(松色)がかったグレーなんじゃないかな……。

 

きりがないやめよう。

万年筆は、紫軸は持ってないので、コンセプト重視で選びました。

パイロット コクーン

つるんと丸まったかたちが一松くんぽい。つるん、ころん、としていてかわいいし、意外と重いところもそれっぽい。するする書きやすい優等生でわたしこのニブが世界一いいニブじゃないかとすら思います不良個体がないという意味で。一松くんってそういう、優等生の鏡みたいなところあるよね……そして優等生の鑑なのにこれじゃっかんダサいし価格設定も微妙でそんなみんな買わないんだよね……。でもコクーンという名前がまずすごくいいと思うんですよ……超一松くん……。

というかこれ一松くんにあげたい。名入れもしてあげるね。

ラミー cp1

一松くんってわたしのなかでやっぱりこういう、優等生的で、さっぱりしていて、無駄な機能がなくて、そして万年筆っぽくない、っていうイメージで、余計なところにはみ出さないけどああ万年筆だねという評価もされないっていうか、そういう位置づけの万年筆です。派手な万年筆って派手だからってだけの理由で買うじゃん、ダサい万年筆は同時に安い万年筆だからみんなに使ってもらえるじゃん、一松くんは一見とっつきにくそうに見えてじつは単なる優等生だし、照れ屋だから俺万年筆ですよって言えないし、目立たない方がいいと思ってるし、でも可能な限り自分のできる範囲でかっこよくありたいみたいなそういう……。

一松くん……。

ラミーなんだよね……ラミーなんだよ……ラミーのゴツくないほうのプロダクトだし2000もたぶん超絶一松くんっぽい子なんだろうなと思います。ほしいー。

 

きりがないなこの話。あとペンケースの一松くんのところにはハイエースネオも差してあります。言いたいことはもうわかるだろ!?

 

 

というわけであと五回やります! 六つ子への愛と万年筆とインクへの愛が惜しみなくかけ流し温泉!

 

松野カラ松くんのことを何か書こうと思ったんだけど何言ったらいいのかわかんないんだわ

ringo

 

わたしは偶然が好きなんですけど、赤塚先生が満州時代を生き延びて引き揚げを生き延びて、漫画家を志すまでは必然でも上京は偶然で、社会風刺を仕事の中核に据えることになったのも墨汁一滴もたぶん偶然でおそ松くんという漫画が六人兄弟の漫画になったことも彼らが主人公としては鳴かず飛ばずだったことも、そしてそれ以降の赤塚漫画のすべてと赤塚先生のすべてと、それを読んで育った藤田監督と、生誕80周年記念アニメにバカボンでもアッコちゃんでもなくおそ松くんをピックアップして彼らを大人にしたことのうちいくつかは必然でも、たぶん彼らがああいう性格のああいうキャラクターになったのはキャストやスタッフのいろいろの結果だろうし、わたしがブロガーとして唐突に名前が売れるきっかけになったカラ松くんの悲劇も多分あれ抜きで話を進める可能性だって大いにあったでしょう。

でも彼らはああなったし、わたしはいまここにいて、赤塚先生の自伝を読んでうめいているし、おそ松さんがなかったら、おそ松さん5話がなかったら、わたしいまの仕事してないんですよ、多分。

全部偶然なんだ。

でも、必死で走ったから行きつけた偶然なんだよ。

 

わたしは去年の今頃松野カラ松という存在は知っていても名前を思い出せませんでした。いまは彼が芸術家であることと愚直であることと不器用であることとあやしくもばかばかしい生きざまのすべてに、ありがとう、を言う以外、なにもできなくて、彼が六つ子の見分けのつかないひとりではなくて、彼は彼なのだということを、いまわたしは知っている。

その歴史が作られたのは偶然にすぎない。

すごいことだと思う。すごいことだ。ありがとう。誰になにを感謝しているのかわからないけど。

 

お誕生日おめでとう。「みんなに」じゃなくて「君に」言うんだけど、お誕生日おめでとう。毎日が誰かのバースデーに過ぎないとしても、君は偶然今日生まれて、生まれてきてくれて嬉しい。今日は君の好きなブランデーで(たぶん飲むわけじゃないんだろうけど)林檎を煮ました。

このおそ松さん公式がえぐい六つ子の誕生日直前スペシャル

一回書いた記事が飛びましたのでローテンションに行きます。わたしはいま絶好調に死にたいです。

 

まずこれを見てほしいんだ。

【グッズ-ストラップ】トイズワークスコレクション にいてんごむっ! おそ松さん そのに | アニメイトオンラインショップ

二次創作見ない方は「あたらしいグッズ出るんだね」とお思いでしょう。

これはpixivで「宗教松」というタグで投稿されている二次創作設定のパラレルのモチーフの公式採用です。

 

三行でまとめますが、

  • 原作準拠とパラレルのごった煮のパラレル設定があって人気がある
  • その設定準拠の公式グッズが出る
  • ネタの料理が二次創作よりよほどうまい

 

元気がないって言ったろさくさくいくぞ。

宗教松というタグは

  • 女神チョロ松―2話準拠、デリバリーコント本当は怖いイソップ童話における「泉の女神」のコスプレ
  • 悪魔おそ松―12話準拠、トト子ちゃんとふたりで悪だくみをしているいわば「イメージ映像」

以上二点を起点としておそらく今年の1月ごろ発生し(記憶で喋っています、pixivのアーカイブは初投稿の人消えてるかもしれないしさらしあげみたいになるのもなんだし)

  • ゾンビトド松―ゾンビ以外のこともあるんですが公式採用がこれなので。なお公式採用の聖歌隊トド松はモチーフがゾンビトド松と被っているので要するにクリスマスキャロルの聖歌隊でありゾントドを限りなくマイルドにしたものと思われます。これは11話準拠。なおゾンビ化は全員してるんですトド松だけ絶大な人気があります。体が半分にちぎれててかわいいからじゃないですかね(雑な見解)。

原作準拠はここまで

  • 神父カラ松―二次創作設定。5話がキリストの受難を連想させる説が一定量の層を持っていたのが発祥かと思ってましたが2話3話からカラ松まじ聖母勢が一定量いるので5話より古いのではないかという指摘を頂きましてまあそんな感じです。
  • 十四松マジ天使―十四松の人外性をポジティブに捉えたインターネットミームです。

一応根拠があると言えなくもないというかまあ言いたいことはわかる二次創作設定がここまで

という設定が各クラスタにばらばらばらっとあってそれぞれ楽しんでいたところ、デビめが(カップリング名称)を起点としてすごい勢いで習合し、ひとつの共通世界観ということになって「宗教松」というタグが付きました。そのタグでいいのかよという話(ゾンビ……)(天使を宗教と呼ぶとそれはちょっと意味が変わってこないか……)(悪魔と女神はどちらもある種の土着信仰では……)(唐突にいるキリスト教徒……)はまあいいです。わたしは趣味が二次創作のテクスト形成を追うことで、おもしろいことやってるなーと思いながら眺めてたんですが、ポイントは人間がカラ松しかいないことじゃないかと。カラ松って16話からフツーにしゃべるようになるまでおもしろポエム吐きクリーチャーみたいな雰囲気で処理されることが多かったと思うんですが(幼女か聖母かおもしろクリーチャーって感じ)、この設定は逆にカラ松だけが人間で、つまり「カラ松から見たおそ松さん」みたいになっているなあと思いながら楽しく拝見しておりました。「宗教とは……」とは言ってたけど。

 

お気づきでしょうか。

一松くんがいません。

一松くんは宗教松において固定の役が振られておらず(猫又か童貞ゴッドじゃだめなのかよって思うんですけども)、書き手の解釈によって変化します。シスターイッチはたしかに人気がありますが別にそれ固定ではありません。

 

公式の採用が来た……。

シスターイッチ、なんの脈絡もないのに……。

シスターの格好させたいのはすげえわかるけど、脈絡がないという意味では本当に脈絡がないのに……。

 

まあこれ、「これが以降公式設定」ってガチガチになる必要ないと思うんですけど(二次創作見てる人にしか通じない話だけどそもそも保険医は聴診器使わないし)、要するに海賊版グッズ対策のハイスペック釘刺しっていうか、普通公式というものは海賊版対策に「作るなよ、怒るよ」って言うわけですが、おそ松さん公式は「うちはもっといいのを出しますからうちから買いなよ」をブッこんできているのではないかと思います。つ、つよーい! まねできない~!

あとまあ二次創作設定を公式が、言ってみりゃアイデアの剽窃じゃねという側面も、今回は誰が言い出しっぺとも言いづらい、自然形成されたみたいな話なので、どうとも言いづらくて、う、うまい……。

 

で、その上で、「宗教 is 何」みたいなところの処理がめちゃくちゃきちんとしています。そもそもが寄せ集めの宗教松をこんな辻褄のあった話にできたのかよ! って感じです。

 

  • まず「神父」「シスター」「聖歌隊員」の後ろにあるステンドグラスが「松」なので、このグッズで「人間」の役が振られている彼らが信仰しているのは「松」
  • その上でチョロ松が「梨」と「林檎」を手にしており、梨は5話準拠で家族愛の象徴(文脈的に家庭の安寧を選んでノイズを切った話で出てきたモチーフで、梨の花言葉は愛情)、林檎はおそ松(参考1公式Twitter、参考2藤田監督Twitter)。そして彼女(彼女です)は泉の女神なので、「梨も林檎も選ばないのが正解」。
  • おそ松は「振り返っている」。
  • 十四松は大天使ミカエル(たぶん)(ちがったらごめん)、松という宗教に属していない。

チョロ松にとっておそ松がどういう存在かはいちいち言うと長くなるので割愛しますが、13話で喧嘩中にもかかわらずおそ松をセンターに据えている点だけ挙げても十分ではないかと思います。「おそ松さん」というアニメの「主人公」であり、「林檎を取る」は「おそ松の弟であること、ギャグアニメのキャラクターであることを取る」も「松野家の一員であることを取る」もしなかった、つまりこのチョロ松は24話「手紙」における自立。

それに対応して、「振り返るおそ松」は24話手紙ラストのおそ松、「弟たちと向き合うきっかけを得て振り返った」おそ松。

「シスター」一松は首を垂れてひれ伏し(まあいわば)頭上に松を戴き、「おそ松の神格を担保するための女神」であったチョロ松(参考:この世界では女は女神の姿をしている)の位置を担う形でおそ松に寄り添い、おそ松の口癖であった赤塚史上最も有名な台詞「これでいいのだ」を言って去っていった24話の一松の静かで無力な献身と対応しています。

対して神父カラ松は松を背に立ち、鏡のなかの自分を見つめています。鏡および彼の顔プリントグッズは彼のほぼ唯一にして絶対の武装であり、その上で彼が見ているのは「何か」ではなく明確に「鏡の中の自分」であり、松を戴く神はおそ松ではなく自分でありカラ松は自分自身のための宗教のなかにいるとしていると取れる。カラ松はおそ松の支配を必要とせず気を使わず、必要とあれば仲裁として武力行使に出た24話と対応しています。

トド松も立っていますが見上げて歌っているのでおそ松を見ているのかもしれません。が、彼はおそらくゾンビ、死体です。「もうここに生きて存在してはいないが、歌うことだけはできる」死体です。外の世界に実質的に出て行っているが、兄弟の未来を思って涙ながらに歌っている22話「希望の星トド松」と対応しています。

そして十四松はひとりだけこの「松」という宗教とは全く関係なく武器のようなものと玉のようなものを手にしています。大天使ミカエルだとしたらその名の意味は「神に似たるものは何か」。「十四松が誰にもわからない」「おそ松爆発のトリガーを引いたのは十四松」

 

つまりこれは24話-25話における、おそ松が松の名のもとに赤塚先生の赤を戴く神の子であることから失脚し「悪魔」となり、チョロ松が全てを捨てて自立した24話の宗教画である。

ようやるわ!

 

で、「悪魔」が「神父」を支配しようとし、それを背後に座って見ているだけの「女神」、そして「シスター」を背に載せ「聖歌隊員」をさらってどこかへ行こうとしている「大天使」。

ボックス購入特典(各店舗別)はオープニング由来の「極寒の地から火(=文明)を得た人類」、これは直球で原作準拠の神話。

ここんとこずっとおそ松さん二期やってんだよ! って喚いてるんですが、つまりそういう話なんじゃないの、次は……おそ松さん二期やってんじゃないのみたいな話をするマガジンをnoteで売ってるから気が向いたら買ってね(有料にしてるのは信者乙って言われるの飽きたからです)。

 

 

おそ松さんすげえなあ……。

なにがすげえなあって、このグッズ作るのにどれくらいの人員と企画会議が割かれたのかなあ……。

すげえなあ……。

以上です。消えたエントリを取り戻す作業はとてもつらい。ご清聴ありがとうございました。

ウィリアム・シットウェル『食の歴史 100のレシピを巡る人々の物語』

 

ウィリアム・シットウェル『食の歴史 100のレシピを巡る人々の物語

TLおすすめでうちのカオスなAmazonの欲リスに入れていたらフォロワーさんが送ってくださった本というインターネット力が高い経緯で届いた本です。ていうか今見たらさほどカオスじゃないしこんなことではAmazon欲リスラーとしてのクオリティが下がってしまう。もっと頑張らなければ。わたしはAmazonが好きです……本屋でなんでも買えるという概念が好きです。しかしAmazonで何でも買えるせいでリアル書店が困るという話も聞くのでそうだよな……とは思う。一刻を争うわけではない本はできるだけリアル書店で買うようにしています。本末転倒である。

 

本題の本の感想ですが、「食とレシピを巡る世界の歴史」なんですが、本当にありとあらゆることが(欧州中心だけど)書いてあって面白かった、Amazonに何でもあって他の店が困る問題みたいな話もあって(スーパーマーケットが食文化を破壊する)そういう本をAmazonで買ったのかよ……フフッ……ってとこある……。面白かったので二周目読んでいて、情報量が濃すぎてなにがなんだか細かいところを覚えていないので読み返して気になったところはこのエントリに加筆しようと思います。

イギリスで出た本なんですが、やはり内容としてはイギリス寄りというか、あまりにも「いかにイギリス人が食文化を見失い、そこから立ち直ろうとあがいてきたか」という話が面白すぎてもしかしてと確認したらイギリスの著者でしたという、しかし本当にイギリスの食文化が戦争と配給によってどのように破壊されそこから立ち直るのにどう努力しているかということを痛切に描いてあってとてもよかった。

もちろんイタリアとフランスとアメリカという巨大な食文化の国にもたくさん割かれているしそれ以外の国もたくさん出てくるのですが、しかしこの本主役はイギリスだなあ。面白かったです。

 

あと、料理専門学校の話や有名人シェフの話もたびたび出てくるんだけど、「おいしいものを作ったり教えたりしたかっただけのはずだった」が神格化に結び付いて神となってしまった当人が追い詰められていくの、どこの世界も同じだよな……って……。

読書記録

読んだの何か月前だみたいなのも混ざってるけど読んでよかったやつを。

 

バーナード・ショー『ピグマリオン

kindleで安くなってた時に買ってあったのでいい加減読もうと思って……。言語学者が花売り娘を教育して上流階級の人間らしい喋り方とそれに釣りあう教養を身につけさせ社交界デビューさせた結果の功罪の話、つまり人間を「こうなれば幸福だろう」というかたちに外部から撓めることの罪深さについての話。ひとりの人間を人間として扱わず中身のない人形のように着せ替えて情報をインストールした結果、以前感じたことのなかった不幸を実感してしまう、教養があるがゆえに働くことももうろくにできなくなってしまう、という、極めて現代的なテーマを扱っていて古典はすごいな(頭の悪い感想)というかこういうの全然時間が経っても変わってないな……と思った。

ラブロマンスじゃない! ラブロマンスではないです!! って作者が延々と喚いているの面白かった。しかしこれを原作とした『マイ・フェア・レディ』のほうはシンデレラストーリーの代表作みたいに言われていてもはやラブロマンスの古典なわけで、この世は地獄ですね。このラブロマンスではない、憎悪ぎりぎりのところにある友情という男女の関係も現代的だと思う。ヒロインが言語学者になって師匠の言語学者を追い詰めて殴り殺す現代版ピグマリオンが読みたい(しかし現代で翻案しても結局ラブロマンスにされそう)。

 

 

とびとびにところどころ読んでいた女の友情と筋肉を全部通して読んだ。

「マッチョだけど女の子らしい」が全く出落ちではなく「スーパーヒーローの等身大の苦悩」として処理されていて、差別的でも類型的でもなく「強くてかっこよくて可愛くて恋人もいて仕事もできて」というヒロイックな主人公たちが、「強いことも、かっこいいことも、可愛いことも、ときには足枷になる」し、「嫉妬もすれば自分の無力さに打ちのめされることもある」し、「仕事ができるってどういうことか見失うこともある」し、「恋人がいたらそれでハッピーエンドなんかじゃない」もあって、バランス感覚がとてもきちんとした話だと思った。

彼女たちは強いので飛べる(強いので飛べるのです)のですが、雪の日に電車が遅延していて「でもあいつは飛べるんだから来るだろう」って言われてるところに電話をかけて「今日有給使います」と言って同棲している恋人と過ごしているくだりとか、「彼女がヒーローだからということに甘えさせない」という姿勢がとてもきちんとしていて、とてもよかった。

この雪の日のエピソードのカップルであるイオリは地方出身で、病的というか呼吸をするように浮気をする恋人のユウヤをしばきまわしたりしばかなかったり諦めていたり心離れしかけたりするバランスが非常に絶妙で、「地方出身っぽい……」って感じで、過去回で「流されがちで強気に出られなかった」という過去が出たりして「ぽい……」という、すごいこう、細かいところが類型的ではなく描きこまれていて、あとユウヤのクズ感と憎めないしなんならちょっと頼ってしまうけどクズであるという事実は依然としてクズなんだけどしかしいいやつだなユウヤみたいになってしまうバランスがすごい。その上で今ユウヤ雑な人間関係のしっぺ返しをちゃんと受けてるし……。

あとユイに片思いしている主任がドMのストーカーという「変態」として描かれているんだけれど「ユイにかかわりのある人間は全て愛する」という広すぎる愛情(だからユイの彼氏のことも好き)と、「寿退社が逃げることのように思えるなら心配はいりません! あんな会社やめてよかったと思ってください!」とか言いながらすごい勢いで全裸で駆けだして逮捕される(変態がいる会社ですからね辞めて正解! という意味)くだり、「愛の境地……」って感じで、とてもよかった。ユイも面会に行くし……。

ユウヤの後輩のワタナベがド田舎出身でわりと常識人枠っぽいのに、家が超おしゃれなんだけどソファに座るの禁止だったり友達いないのかとか言われてたり、ユウヤの妹に対する距離感が若干おかしいのに本人は気づいてないっぽいあたりもいい。「おしゃれな家に憧れてたんだな……」「上京してくる子に親切なのは自分を投影してるんだな……」みたいな、こう……明言されてるわけじゃないけど、そういうことなんだろうな、というところ……。

 

サン=テグジュベリ『人間の大地

星の王子さまのサン=テグジュベリのパイロットとしての実体験の随筆。たしか去年くらいに夜間飛行を読んで超感動して読もう読もうと思っていた。おそ松さんが「花との恋」「目に見えないおでん」をやったしね……。航空会社の黎明期、まだパイロットという職業が確立し切っていなかった頃に危険を侵しながら人間のちっぽけさや飛び続ける職業的執念や自然の絶望的な拒絶感と向き合って対話して、実際死にかけながらその中から美しいものや真実と思えるものを切実な清潔さで描いていて、さびしいことはマイナスでもプラスでもなくただ事実なのだという感じがした。

パイロットとしての職業についてのくだりもとてもいいんだけど、砂漠の奴隷のエピソードがとくに好きというか胸が詰まった。

砂漠の奴隷たちは唐突に拉致されて過去と名前を奪われて賞味期限が切れるまで飼われていらなくなったら全裸で捨てられて三日後には死ぬ存在で、もう彼らは全て忘れてしまってその人生があたりまえだと思って甘受して奴隷として生きて死ぬのだけれど、ひとり過去と名前を決して捨てなかった奴隷がいて、筆者は彼を買い上げて家族が住むはずの生まれた国に帰してやり、他のパイロット仲間が彼に足しにするようにと金をやって、彼は無事国に帰ることができる。なんだけども、国についた彼は、自分が自由である、そして人間の尊厳を取り戻したということが理解できない。そこに子供が、撫でてやると喜んだので、彼は子供をたくさん呼び寄せて、子供たちに金の上靴を買ってやった。

 ぼくは、この場合、バーク(※全ての奴隷に与えられる共通の名前)のしたことは、ありあまってあふれるよろこびを分かち与えたのとは違うように思う。

(中略)

彼は自由だった、だがあまりにも無制限に自由なので、自分の重量を地上にまるで感じないものだった。彼には、気ままな歩行を妨げる人間相互関係の制圧が欠けていた。彼には、人が、何にもあれある行動をしようとすると、必ずそれに付随しておこる、あの涙が、別れの悲しさが、譴責が、よろこびが欠けていた。彼にはつまり、彼を他の人間たちに結びつけ、彼を重厚にするあの無数の関連が欠けていた。

(中略)

早くもいま、彼は、自分の真の重量を大地にどっかり置いていた。地上の生活を送るには、あまりにも身軽すぎる天使が、ごまかしにベルトに鉛を縫いこみでもしたかのように、バークは、金の上靴をあれほど欲しがった大勢の子供たちの力で大地につながれながら、重い足取りを運ぶのだった。

人間の尊厳は金で買える。そして人間の尊厳は責任によって担保される。

 

あとは『食の歴史』をごはん食べながらちんたら読んでいます。分厚いから感動したところメモしておかないと忘れるな……すでに大分思い出せないな……でも歴史の本読むよりよっぽど世界史感覚がつかめる気がする、歴史って事実関係を覚えることはできても歴史感覚を掴むのが難しいよねというところの雰囲気が掴めていい本です。高い本だしな……(頂き物です、ありがとうございます)。あとお風呂で大野晋『日本語について』を読んでいます(再読、大学生の時に先生にもらいました)。あと赤塚関係と雑誌を崩すのが遅々として進まない。その前は村上春樹『遠い太鼓』を読んでいた(再読)。あとカラマーゾフの兄弟を読み進めなくてはならないんだけどまとまった時間を見つけてとか言っているうちに読みさしてあるな……。

あ、あと、おそ松さんの連載のためにYOUを買ってるんですが、買ったら自動的についてきたあいざわ遥『お砂糖缶づめ』が結構面白い。YOU本体はまだ目が通せてません(どうせ買ったんだから読もうと思うんだけど)。じつは女性向け漫画誌を買うのは生まれてはじめてです。

そんなかんじです。今期はアニメチェックができてないなー。観れてないんですがとんかつDJアゲ太郎をよろしくお願いします。