おそ松とチビ太の半世紀ディスコミュニケーション

今日の要点

  • 「おそ松の憂鬱」がつらい
  • メタフィクションを生きることの不自由さという観点からのつらさ
  • メタフィクション的な意味でおそ松とチビ太が結局分かり合えなかったというつらさ
  • 他人の人生は他人の人生であって人間は分かり合えない

 

今週の土曜におそ松さん2話の話をする有料Skypeを主催するので(お気軽にご予約ください!)おそ松さん2話をとっくりと見返してたんですが、2話Bパート「おそ松の憂鬱」はほんとうにつらい話だなとしみじみ思っていました。わたしはつらい話という意味では9話「恋する十四松」がいちばんつらくていまだにつらいんですけど、「おそ松の憂鬱」はわりと匹敵するくらいつらいと思う。なお当ブログがめちゃくちゃバズった(=つらいと思う人が多く、拠り所を必要とした)のは5話と13話(実松さん)なんですが、わたしは5話と13話に関してはつらいという感情はとくになく、「人間のある種のカテゴリを上から笑うというスタンスで話をつくる以上外してはならないパーツを埋めたという意味で誠実な回」という認識をしています。

2話、おそ松が「拠り所としての家庭」における「自分らしさ」を喪失する話、という側面でつらいのはまあそこは前提としてそうで、まずそれがつらい。

そもそも「長男であることを求められる」ことのつらさ、というのは2話を受けてけっこうたくさんの人が言及していて、なぜかわたしのところにもそういうメール(2話がつらかった)がけっこうな数来ました……。わたしにメールしたからどうなんだという気がするんだけどまあ気が済むなら別にいいです……。まあそれはともかく、家庭環境に悩んでいる人は2話と7話(スタバァ回)が刺さって死んだ人が多かったように思う。前者は「そのように生まれた」という理由で重圧があるということそれ自体、後者はいわゆる毒親案件に悩んでいる人って感じだったと思う。

長男であることを強いられるのはつらい、それはそう。それが長男長女のみなさんに刺さったのはわかる。2話でチビ太に怒鳴り散らすシーンはとても良いシーンでした。ああいうことを自分はずっと言いたかったんだという思いを抱いている人はほんとに多かったと思う。あとそれはそれとしてきちんと「それはそれとしてクズではある」という描写が成り立っているのですごい。甘えがない。まあそれはともかく。

 

まあそれはともかく、おそ松さんにおける「長男」ってなんのことなんだ? というのは、実は曖昧模糊としている。

というのは親は別に彼らを序列で呼ばないからです。

ていうか、親はそもそも彼らの見分けをしていないからです。これは原作からそうで、話によってばらつきはあるんだけど六つ子のどれがだれなのかというのは基本的に誰にとってもどうでもよくて、おそ松が六つ子のなかでは比較的目立つ行動をとりがち、というだけのことにすぎず、過去作品において彼らは兄でも弟でもない。そもそも赤塚不二夫が彼らをキャラクターとして設定した段階で彼らは「主人公が六人いる」という並列の存在であるという点に新奇性を担保させていたのであって、それは区別がつかないことが前提だったわけです。六つ子は六つ子という群体であって、あるいはおそ松プラス五人という二項だった。

彼らに序列が発生したのはおそ松さんという作品の固有のもので、それがなんでああいう設定になったのかという話の推論もおおむねこうじゃねえかなは思ってるんですけどその話はたぶん有料の方に詰めます。

で、じゃあおそ松は「特別」じゃないのか、六つ子のひとりにすぎないのか、と問われたらそれは明確に「特別」で、おそ松は長男とは呼ばれていなかったにせよ、明確に「ボス」で「リーダー」ではある。六つ子が活躍するのは彼らのキャラクター史において原作初期とそれに対応するアニメだけなんですけど、そのなかで「六つ子のなかで特に目立った活躍をする存在」が「おそ松」である、という描写があって、それに対してチョロ松がちょっかいをかけたり結局和解したりやっぱりちょっかいをかけたりというエピソードがいくつかある。

だからおそ松が「リーダー」であるのは確実で、おそ松さんにおいてはそれが「長男」と呼びかえられている、という認識が妥当ではないかと思うんですけど、「どっちにしたっておそ松は六つ子を引っ張っていかないといけないわけじゃないですか」ということになる。それはどっちにしろそうで、結局それはおそ松が「タイトル」である、という時点で、キャラクターとして発生した瞬間から、「物語から逃れることができない」という運命を背負っている、ということを示しているんだと思う。

おそ松さんにしろおそ松くんにしろ、メタフィクションの話で、おそ松は自分が「おそ松くんという永遠に続く芝居に縛られている」ことを知っている。タイトルを背負っている。おそ松がぜんぜん出てこない、あるいはほとんど本筋とは関係ない話(大量にある)であっても、それはおそ松が名前を背負っている作品である。「おそ松が長男である」あるいは原作で言うなら「おそ松がボスである」という言及があるのは結局そういう話で、誰がそれを決めたかといえば赤塚先生で、だからおそ松は「なにをしても、なにをしなくても」物語から逃れられない。

はずだったんですよ。

「そういうわけではない」をやってしまったのが、「ニューおそ松兄さん」です。

 

おそ松はF6のこともそうだし(という話を先週しました)、いつも漫画を読んでいるのは「ギャグマンガのキャラクター」である以上あれ「勉強」では、と思うし、赤塚先生に対する言及をするのも基本的におそ松だけなわけで、自分がメタフィクションのキャラクターであるということに対してめちゃくちゃまじめに向き合ってると思うんですが、アニメに対する自己言及も行うし。それがなぜなのかというと、ここまでの推論に基づくなら「自分がタイトルの作品だから」ですよね。で、そうやってギャグアニメたらんとして自分がいま出演しているアニメに向き合った結果ああいうキャラクターを「作って」いるんじゃないかという認識をわたしはしていて、「ギャグアニメをまじめにきちんとやろうとした」結果、「なにもしない」を内面化していくという経緯を辿ったと思う。

バカボンのパパは「無職」(≒バガボンド)でなくてはならなくて、おそ松さんの世界にはバカボンのパパ本人は出てこないにせよ赤塚先生とほとんど同一化している(赤塚先生の遺影はバカボンのパパのコスプレをしているし、「これでいいのだ」はバカボンのパパの決め台詞だし)ので、おそ松はバカボンのパパを目指さないわけにはいかない。何故ならもう「赤塚不二夫がギャグマンガの主人公になにを求めるのか」を本人から聞き出すことはできないから、「最も成功した赤塚主人公」を模倣するしかないからです。おそ松はその意味で本来赤塚先生から与えられた人格を「捨てて」あれをやっている。「長男だから」という言及も外部からより自己言及のほうがずっと多い。「主人公だから」「長男だから」をなぜやらなくてはならなかったか。

というのは、「おそ松というタイトル」は「任意の存在に代入可能」だと言われてしまったからですよね。

たしかにこの作品が「おそ松さん」である以上、「おそ松と呼ばれているキャラクター」は絶対に必要不可欠なんだけど、それは別にこの世界の任意のnたる聖澤庄之助でいい、という話をチョロ松が(あれ仕掛け人はチョロ松だと思うんですけどという話はここでやっています)ぶち込んだので、おそ松は「自分がいなくても作品は成り立つ」と気づいてしまった。そしておそ松は「自分がいなくても成り立つ作品」を受け入れることはできなかった。ならどうするか。長男は誰か、ボスは誰かということを自己言及し続けるしかない。

 

「作品を背負うことによってしかアイデンティティを保てない」のがおそ松なら、「背負わされた作品が自分を守ることも救うこともない」のがチビ太で、わたしにとって2話がつらいのはそういう点です。

おそ松に準じてメタ的にキャラクター史を紐解くなら、たとえばイヤミは鳴り物入りできっちり作りこまれたギャグを携えて登場したおそ松くんの立役者であって、だからおそ松さんにおいても「自分はヒーローである」という自己言及を続ける。それはおそ松が「自分が主人公で、長男で、ボスだ」と自己言及を重ねるのと、あるいはトト子ちゃんが「自分がどれほど可愛いか」に自己言及を重ねてヒロインたる自己を拡大していくのと同じ文脈にあります。実際イヤミとトト子ちゃんはイベントやインタビューでも六つ子に並ぶ準主人公くらいの扱いをうけている。円盤のジャケットにもなっているし。おそ松やイヤミやトト子ちゃんにとっては(六つ子のあとの五人に関してはとりあえず置いておいて)、おそ松くん、そしておそ松さんという作品は、れっきとした居場所であり、自分の、自分たちの作品であるという確信がある。

でもチビ太は違います。チビ太はおそ松さんにおいて「脇役」です。チビ太は原作でも主役級の話が多いし、88年版のアニメではイヤミと並んでほとんど主役扱いされているのに、おそ松さんにおいてチビ太は「脇役」で、その上で、「家族がいてうらやましい」「長男なんだから兄弟を大事にしろ」と言及する。そして15話では明確に「孤独であることがつらい」という話をする。

チビ太の話をすると長くなるんですけど、ここまでですでにこのエントリ長いのでどうしようかなって感じなんですけど、まあ書きますけど、チビ太って結局「孤独という概念」、六つ子が「群体」であるのに対してチビ太は「ひとり」という概念である。66年版の、OPテーマ曲が、「六人揃えばなんでもやるぜ」と「ひとりだけでもなんでもやるぜ」で対応していて、チビ太は「ひとりである」ということが前提のキャラクターで、イヤミとコンビを組むことはあっても、イヤミとニコイチの存在では別にない。イヤミは「キャラクターとして作りこまれて鳴り物入りで登場した」けれど、チビ太は特に名前もなくなんとなく原作に描かれていたモブキャラのひとりがだんだん人格を持つようになった存在であって、最初からずっと六つ子なりイヤミなりを引き立てるための脇役で(主役回はあるけれども)、おそ松さんにおいてもそうで、しかもそれは「そのエピソードが終わったあと、自分が帰る場所というようなものはどこにもない」寄る辺というものが全くない存在であるからこそどこにでも行けて何にでもなれる「何者でもない」チビ太だったわけで……。

 

べつにそういうことを考えながら観る必要はないんだけれども、おそ松が「タイトルを背負わなくてはならない」ことと、チビ太が「背負えるものがほしくておでん屋をやっているけれど誰にもそれを顧みられない(おでん屋に立ち寄るのは金を払わない幼馴染ばかりだし金を払わないしオフでは会わない)」ことがぶつかった瞬間が「おそ松の憂鬱」のあの瞬間で、

その上、あそこで決定的に衝突したおそ松とチビ太の間にあのあと何かがあったかというと、そんなことは特になかったかのようにカラ松の誘拐、レンタル彼女、クリスマスの軽口、イヤミカート、センバツと、「何事もなく」特別親しいわけでも友達なわけでもない単なる幼馴染を「続ける」だけ、2話がおそ松とチビ太のキャラクターとしての歴史のなかで最も近づいた瞬間で、それは二人が「求められている立ち位置」がどれだけかけ離れているかを確認する作業だった、というのが、

「他人であることを確認した」「分かり合うことはない」おわり、っていうのが……。

しみじみとつらいな……と思いました。チビ太はその後六つ子の中のはぐれ個体であるところのカラ松と友情を築くわけですけど、おそ松がカラ松になれない(六つ子からはぐれることができない、つまり作品をぶん投げることができない)ことと、カラ松がおそ松になれない(ニューカラ松すら必要とはされていない)ことはどっちにしろしんどいんですけど、まあなんか、それが人生というものである(C’est la vie)という話ではありますが、「人間の人生は誰にも肩代わりできない」「自分がそのような人生を背負っていることから逃れることはできない」って感じだなと思います。「人生は歩き回る影法師」(マクベス)という感もある。

 

 

なんかひさしぶりに長いエントリを書いたな。というわけで土曜はそういう感じの話をします。遊びに来てね~。