おそ松さん最終回ありがとうございました!

松感想のエントリはもう二度と上げないと言ったが最終回があまりにも面白かったので、ギャグの解説という超野暮なことをやります。

うちのエントリで基本的にあのアニメのギャグについて触れなかったのはギャグの解説は野暮だと思っていたから(大阪吉本の追っかけをやっていた頃鍛え上げられた品格です)なんですが、あまりにも面白かったのでギャグの解説をやります。いい茶番だった!

 

兄だという理由でしか尊敬してもらえないしモテたいし俺が主人公なんですけどという絶望、石臼までぶつけられたし話全然聞いてもらえないのになんで兄弟のために黙って灯油入れてやんなきゃいけないんだろうもうヤダという絶望、せっかく恋愛して結婚までこぎつけたとしても相手に養われるだけの自分が無価値すぎるし推してたアイドルも引退したという絶望、2話から一貫して生きる気力のない燃えないゴミのままなんとなくやりすごして生きてきた絶望、いうほどの絶望というほどのことはないがいつも通り暴れてたらアッ僕でもキレられることもあるんすねすいません……、そして「兄さんたちに任せてちゃだめだ、みんな一緒に勝ち組になるために、とにかく合コン成功させなきゃ」というわりと的外れな救世主志向にめたくそに追い詰められた六つ子たちが選んだ選択、それはばらばらになって人生を見つめ直し、独り立ちしようと努力することだった――

そして奇跡の瞬間。

ひとり松野家に残ったおそ松が赤塚先生の遺影を見つめていたその時、

五人の弟たちは全員同時にオナニーをしていたのだった!

 

という理由でセンバツされたものと思われます。多胎児の共感覚ですね。

そして、六つ子という人数の多さと関係性、13話で示された彼らの大家族のくせに意外と潔癖な「オナニー見られたくないしオナネタばれるのもちょっと」という姿勢、あと別に広くもない住環境から、彼らが同時多発的にオナニーをしていることはおそらくこれまでなかったのではないかと思われます。

つまり別居しないとこれは成立しなかったのです。

超くだらない。最高。24話もかけて抑圧的な青春の逍遥を描いた壮大なオチがこれ。あとチョロ松は職場でオナニーなんかしてたら辞めなくてもクビになるのは時間の問題だよ! むしろ松蔵の体面は保たれたよ!

 

ラストで流れる第四銀河大付属高校校歌が、あからさまに「エロへのあまりにも純朴な憧れ」を歌い上げている通り、おそらくセンバツの理由は「魂のレベルで童貞であること」ではないかと推察できます。でも22話でおそ松が流れるような見事な手腕で女(※トド松)を押し倒して脱がせにかかった手管から見てあいつが童貞であってたまるか。譲って素人童貞ではあるかもしれないけど。というわけでこのアニメにおいて既に「童貞」という言葉は「セックスをしたことがない」という意味ではおそらくありません。

多分「少年であること」みたいな意味だと思います。

青春を生きること、未知への恐れと憧れを抱きながらそれゆえに怯えそれゆえに戦いあるいは全力で逃げること、それがここで言われるニートであり(ていうかあいつらはちょくちょくバイトしてるので厳密に言うと大分前からニートですらありません、だから定義が違うんだ)、童貞であり、純粋無垢であるということであり、つまり「大人になっても、やっぱりバカ」ということです。細かい話は長くなるので省きますが彼らは24話かけてあまりにも子供じみた純粋さで必死になっていたがゆえにお互いお互いの首を絞めあって出口のない迷宮に迷い込んでいたのであり、そしてそこからどうにか脱出できたからこそ帰ってこられた。バカとして。

本物のバカとして!

 

そしてずっと謎だった十四松の野球キャラの意味が解き明かされます。

選抜高校野球は青春のイコン。

野球は青春のメタファ。

 

そして最後の最後に明かされるさらに突っ込んだ野球の意味。

 

男根のメタファ

 

(※みんな大好きフロイト先生の、みんな大好きすぎて手垢にまみれ切ったミームです。分からない人は適当に調べてください)

ここまで精緻にメタファにメタファを重ねて自我の崩壊をテキストレベルで描いたり自意識の具現化をやったりしてきたアニメのオチが男根のメタファ!

超くだらない。最高。23話で口唇期から肛門期までやったのでこれでついに男根期まで到達できたのではないか! うるせーよ!

 

話としては、「兄弟仲が別にさほど良くないし支え合う気とか実は全然ないことも受け入れた。身内や好きな女子に頭を下げて頼って仲間になってもらった。やりたいことは暴力で解決した。憧れのあの子と一発やりたい、見るだけでもいい。そして暴力と暴力がぶつかり合って普通に負けた。青春は美しい!」って話なんだけれどもこれべつに勝っても負けても童貞なんですよね(四銀の校歌完全にそういう内容だもの……)。そして「トト子ちゃんとセックス」というのは「いわゆる性行為」を指しているわけではなくて、じゃあ何なんだって言われたらあれですけど、幼馴染の憧れの女の子の肉体の神秘に触れるとか、なんていうか普通の意味での肉体交渉じゃないのはわかりきってるだろ! なんか……向こう側に行けるんだよ! それが成熟ということかどうかはともかくとして! そしてそれは永遠に完遂されない夢であったほうが絶対にいいんだ! そして成熟であるかどうかはともかく彼らは確実に成長をしたんだよ! 成長譚なんだ! 王道アッパレ!

 

いい話だった。

 

観おわったあとぽろっと「これでいいんだ」と言っていて、言ったあとで爆笑しました。これでいいんですね、赤塚先生、藤田監督。人生なんて酒飲んで笑ってムカついたら喧嘩してエロいこと考えて欲しいものがあるなら全力出して勝っても負けても死ぬまで生きるだけ!

 

25話最高だったし、おそ松さんは最高だったし、全部最高で、めちゃくちゃいいアニメだったんだけど、ひとつだけ挙げるなら、アイダとサチコが延々と準レギュラーみたいな顔してしれっと出続けてくれて結局最後は野球やって宇宙まで付き合ってくれたことが本当にうれしかったです。

アイダとサチコはカラ松が井の頭公園で逆ナン待ちしてチラ見して「キモッ」って言ってた女子で、ていうかアイダとサチコという名前自体カラ松が勝手につけた名前で多分本名じゃないんですが、彼女たちがあの話の中でアイダとサチコとして定義されている(18話でメタ的に呼ばれていた)以上、彼女たちは(本人は一切知らぬまま)カラ松ガールであり、しかし本人たちの六つ子との関係性としてはトド松の元同僚で多分友達なんでしょう。別に六つ子に性的な関心は持ってなさそうだけど、トド松に合コンに呼ばれたら結局来てくれるし、面白い連中だとは思ってるんじゃないのかな、宇宙まで一緒に来てくれるくらいだし、そもそも主人公争奪レースに参加するくらいだし、彼女たちもそこそこ「バカ」なんでしょう。天上人、リア充、勝ち組と呼ばれ恐れ憧れられていた彼女たちだって、実は全然フツーの、バカやって笑いたい現代の青年に過ぎないんだよ。

2016年です。ろくな仕事はないし仕事についてもブラック企業ばっかり、メンタルを病んでもたいした保障もない、親の老後をどうにかする金だってない、働きたくないし一生遊んで暮らしたいし誰かに養われてぬくぬく楽しいことだけやりたい、というか、必死に生きるか何もしないかの二択しかないみたいな時代だ。外の世界がこわくてしかたないのはみんな一緒、金持ってる連中は金持つために必死で働いてるだけ。でも「外の世界」なんてどこにあるんだ? みんな怖くて卓返しがしたいだけだよ、きゃんきゃん喚くのも怖いだけ、宇宙レベルで言ったらささいなこと。

バカでいいよと言ってくれたおそ松さんは現代の処方箋のように誠実なアニメでした。バカの人生は割りを食うかもしれないけど、でも、楽しきゃそれでいいじゃないか。逃げても逃げなくてもいいよ、でも、逃げなかったらもしかしたら、すごくいいものが転がってくるかもしれないよ。

少なくともおそ松さんを作った人たちはたくさんお金が儲かって、我々は24話楽しく観たご褒美に、最高の最終回がもらえたわけです。

 

本当に楽しかった。ありがとうございました!

 

なお作品分析の突っ込んだやつはうまく書けそうならnoteあたりに有料で投げる予定です。有料で投げるのはたかがアニメの感想ごときでサイコパスとか言われるのうんざりだからだよ! せめて金払ってから言え! その時はよろしくお願いします。あまりにも情報量が多いアニメでどこから手をつけたらいいかさっぱりわからない! たぶん十万字くらい書いてしまうと思う! こわい!

 

あ、あと両親が「こんなんもうどうでもいいや、家帰ってセックスしようぜ」つって子離れしたのもすごくよかった。最高。松代と松蔵だって四十そこそこでしょ、人生これからだよ!

そして、誰が松野カラ松を殺したか

昨日昼に配信を観てからずっと泣いているので文章が多少ウェットになることをお許しください。

松野カラ松さん、ご結婚おめでとうございます。おそらく長くはない結婚生活であろうとは察せられますが、ご多幸をお祈りいたします。

 

15話Cパート「チビ太の花の命」はいわゆる「隣の爺型民話」です。瘤取り翁や花咲爺といった有名な作品形態に見られるように、「善人の主人公が善意からの行いから幸福を授かり、それを見ていた隣の爺が真似をした結果、破滅する」という形態を取っています。

しかしこの物語は、というか、ここで「隣の爺」として登場するカラ松はこれまで、「なぜ、純粋な善意と愛の世界に生きられなかったのか」というところを突っ込んで描いている、というか、描いてしまいました。

 

おでんを自分の人生の全てとして情熱を注ぎ、そしておでんの製作に煮詰まったチビ太はふと道端に咲く枯れかけた花に目を止め、「なんでこんなところに咲いちまったんだ」「でもおいらもおんなじ、ずーっとひとりぼっちさ」と言いながら花に水をやります。

翌日チビ太のもとに美しい少女が現れ、「自分は花の精だ」と名乗り、チビ太をデートに誘います。彼らは幸福な時間を過ごし、そして彼女は消えてゆきます。

消える間際チビ太は「おまえがいればおでんなんかもういいんだ」と言い、そうして彼女は「やった、おでんに勝った、でもチビ太さんは銀河一のおでんを作るんだから」と言って消えました。チビ太が走って見に行くと、花はもう枯れていました。

そしてチビ太のおでんは「少ししょっぱくなった」。

 

一方、チビ太の迷走に共感を抱きそのことをおそらくチビ太に伝えようと兄弟を離れてひとりでチビ太を追ったカラ松はチビ太の「ずっとひとりぼっち」という述懐を聞いてしまい、そしてそのあともチビ太の様子をうかがっていた結果、チビ太が「花に親切にしたら、愛された」ということを知ってしまいます。

それにかつてないほどのショックを受けた(おそらくそこには嫉妬と憎悪が含まれているというふうに読み取れます)カラ松は、自分も枯れかけた花を見つけ、それに酒を注ぎました。

その結果、カラ松は「ずっとそばにいてくれないと死ぬと喚く醜い女」を手に入れ、彼女との関係に完全に充足し、結婚に至ります。

兄弟たちは動揺し、一応それを止めようとします(ものすごく珍しくカラ松に話しかけました)が、カラ松が「寂しがり屋だから守ってやらないと」と言って彼女のために奔走する姿を見て、それ以上関わることをやめ、結婚式には列席していません。

そしてカラ松の選んだ花はおぞましいモンスターとして咲き誇り、近隣住民に被害を与えました。

 

かつて「女」は「客体」でした。しかしこの物語において、「女」はもはや「鏡」です。それは当然で、ここにいる彼女たちは「彼らに吹き込まれた命」を生きているのであり、花の精たちは、彼らの自覚すらしていないレベルでの「求めていること」です。

チビ太が欲しかったのは本当は完璧なおでんではありません。彼が完璧なおでんに見出していたのは「子供の頃彼を救ってくれたのはおでんだったから」であり、彼が欲しかったのは友達であり恋人であり家族であり共に過ごしてくれる仲間でありおでんで救うことができるはずのかつての自分であり、彼の孤独を癒してくれる誰かです。だからチビ太の花の精は「チビ太が言うことができないチビ太のための言葉」を紡いでくれる。そうしてチビ太は言ってしまった。あれほど縋ってそれ以外なかったはずのおでんを、「おまえがいればおでんなんかなくてもいい」と言ってしまった。

結局作り物の命は作り物の命でしかなく、消えていくのに。

孤独であることにもう耐えられないということに今更気づいたって、どうしようもないのに。

そうしてチビ太のおでんはもう「完璧」を目指すことはなくなり、「腕落ちたな」「そうかもな」。チビ太はおでんへの情熱を失いました。本当に欲しいものに気づいてしまったから。

 

そして花の精が男の願望を吹き込まれた鏡の向こうの彼である以上、寂しい、死ぬ、もっと愛してと喚く、カラ松の花の精ももちろん、そのままカラ松の欲望そのものです。

そしてそのことはもうずっと、示唆されていました。

15話は、ずっと兄弟をそしてそれ以外の全ての人間、かつて泣きわめくところを見せざるを得なかったチビ太以外の全ての人間を相手取ってカッコイイ演技を続けていて愚痴ひとつ言わず涙をこぼさずなにを欲求することもなかったカラ松が、ついに舞台から降りてひとりの青年として兄弟に向き合った話です。

かつて五話で顧みられることがなかったカラ松は、それまで無根拠に信じていた「なにをしても愛されるはずだという確信」を捨て、「適切な振舞い」を模索しました。そしてそれでもだめだとわかったとき、10話でカラ松はおそ松に「どこを直したらいいのか言ってくれ」と頼み、また13話でも「不満があったら言ってくれ」と言った。そしておそ松は「別に変わらなくていい」と言い、兄弟は彼に不満を伝えることはありませんでした。14話では「欲しいものがあるなら用意する」と言い、その返事もなく、「怪我をした」「ちょっと前には実はもっとひどい怪我もした」とアピールしてもスルーされ、勇気を出して「兄弟ランキングの順位を教えてくれ」と言って「一位だよ」というあからさまな口先だけの答えを貰ったのが、彼のこのアニメで最も顧みられた瞬間です。

「一緒にいてくれないと死ぬ」「俺がそばにいてやらないと、寂しがり屋なんだ」「絶対に別れない」

「最後まで実家から離れないぜ」

カラ松のファッションセンスは多少微妙であるとしてもそれはそれでひとつの世界観として完結していました。10話で彼が着ていた彼の顔のついたタンクトップは違います。あれは完全な逸脱であり狂気でした。その完全な逸脱のなかにある「俺を見てくれ」という絶叫は誰にも聞こえない。もう誰も彼の言葉を聞いてなどいないからです。

「俺を見てくれ」「俺の態度が悪かったのなら改める」「もっと面白いことを言うから」「悪いところがあるなら直すから言ってくれ」「欲しいものはないか」「怪我をしたんだ」あらゆる彼の声はもう誰にも聞こえないか、聞こえていても罵倒されて否定されるだけです。たしかにトド松は彼に向き合っている。一松だってずいぶん寄り添った。でもカラ松には彼らが何を言っているか理解できない。「わかるように言ってくれないから、ひどいことを言われているようにしか聞こえないから、愛されていると思えないから」。

カラ松は14話で、風と空と日光を賛美しそれを愛することができる自分を肯定し、音楽を作ろうとしました。

カラ松は「世界の全ては全て存在しているだけで美しい」という場所に、14話で至っていた。クズの兄弟を絶対に否定することがなく愛し続けた彼が至る境地としては極めて自然です。そして彼はそれから音楽を感じ取ることができる「芸術家」になりました。

だからもちろん、兄弟たちには見るもおぞましい存在として映るカラ松の花の精は、カラ松にとってなにひとつ醜い部分のない、完璧に美しい理想の女だったのです。

 

追い詰められたチビ太は兄弟たちに空の皿をわたし、言いました。

「最高のおでんはみんなの心の中にあります」

そしてカラ松はただひとりそれに「なるほど」と答えた。

 

花との恋、心の中にあるおでん、ここから『星の王子さま』を引くのは自然な流れと言ってもよいのではないか。本当に大切なものは、目には見えないのです。カラ松の愛が外側から見てどれだけ歪んで醜く間違っているとしても、そもそもカラ松の言葉を聞くことができずカラ松から目を逸らし続けてきた兄弟たちに、彼女が「見える」わけがない。

本当に醜いものはいったい何だったのか。

少なくともカラ松が必要だと声高に言い続ける花の精と、カラ松を無視し続けてきた兄弟の、どちらが醜いのか、少なくともカラ松にとって、どちらが本当の愛だったのか。

 

そして同時に、カラ松のなかで吐き出されることなく閉じ込められてきた出口のない愛と承認欲求が、醜い形で噴き出したとしてもそれは当然のことです。抑圧されて傷ついたままずっと聖人のように振る舞ってきたカラ松が、ようやく、兄弟に反論をした。いつも兄弟に流されるままで、ファッションくらいしか押し通さずに来たカラ松が、ようやく兄弟と、ごくふつうに、演技をせずにあたりまえの青年のように会話をした。

「そばにいてやらないと。さびしがり屋なんだ」

あの子には俺が必要なんだよ。おまえたちには全然必要ない俺が。

 

枯れるしかなかったチビ太の花の精の本体はチビ太が孤独を受け入れて愛を諦め続けてきた結果注げなかった愛の量であり、そしておぞましいモンスターのかたちに成長したカラ松の花の精の本体はカラ松の暴走する愛の全てです。カラ松の中に出口なく蓄積された膨大なカラ松の愛を花の精は全て吸い上げ、結婚式場でカラ松は白目をむいて我を失っています。カラ松の中には愛しかなかった。そしてそれは全部花にやった。なにもなくなった。これをもって松野カラ松を終演いたします。見てくれ、これが俺の愛だ、とても醜くて、手に負えないだろう?

おまえたちが受け取ってくれなかったからだよ。

 

そして、チビ太の花の精の振舞いから察するに、「水」しか摂取できないらしい花の精に対して、「酒」と「一時間ごとに与えるバーゲンダッツ」という「過度の栄養」を与えているカラ松は、おそらく近い将来、根腐れを起こして花を枯らせるでしょう。

カラ松の愛はもうじき枯れます。からっぽのカラ松だけが残りました。もうカラ松は家族に愛されない自分を、自分が本当は何を求めているかを、知っています。舞台は終わりました。劇場に誰もいなかったことを、カラ松はいったいいつから知っていたんだろう。

 

さようなら、わたしたちの舞台俳優、顧みられないヒーロー、松野カラ松。おまえは自分に対する無根拠な過度の評価と現実のずれにも、愛とは前提的に与えられるものではないという現実にも、自分の中にある愛されたいという醜い欲望にも、暴走する愛にも、ちゃんと向き合った上で世界を肯定したまま彼岸に嫁いだ。もう松野家の人間じゃない、彼岸の眷属だ。おまえは世界がこれ以上醜くなる前に自分で自分の愛に向き直ってその醜さも含めて抱きしめて、誰にも「おまえが憎い、おまえのせいだ」なんて言わずに、ひとりで自分を抱えて、俳優としての自分を殺した。おまえはちゃんとスーパースターだったよ。

これは自殺です。彼は彼の愛と心中しました。誰もいない教会で。

 

 

というわけで、来週から、愛なき松野カラ松を期待しているのですが、6話という前例があるので、ここまで来ても来週しれっと元通り愛してるぜブラザー☆って言ってたらそれはそれで地獄だなって……。

わたしはいいかげんカラ松の復讐が見たい。5話からずっと見たい。8話で見せた血も涙もないマジレスで兄弟を殺していくところを見たい。

一抜けおめでとう、トッティ!

14話最高でした。トド松一抜けおめでとうー!!!

ちょっと何から喋ったらいいのかよくわからなくなっているのですが、14話において、これまで兄に抑圧されることから逃れられなかったトド松が、明確に兄から「自立」し、「あんたたちと僕は関係ない」を突きつけた、という話だったと思っています。すごい。花とか送りたい。今日エントリ長くてごめん。

 

(あとどうでもいいんですが、これまで原作準拠で六つ子の一人称をひらがなで書いていたんですが、インタビューとか読んでいると漢字になっていることが多くて、six same faceの歌詞カード見るとそれなりに使い分けられてるっぽいんですが全員分はないし、とりあえず今回のエントリから漢字表記に統一します)

 

9話のあとに、六つ子の勢力図について書きましたが、13話から14話にかけて、これが急速に書き換えられつつあります。

9話の時点まで、六つ子の中で最強のポジションにいるのは実は一松であり、兄弟を掌握し支配下に置き、全員が一緒にいられるようにコントロールしていたのは一松であり、それは「兄弟がいるから友達は要らない」彼の生きるための戦略でした。そして兄弟の指針を示すのがチョロ松、決定権を持つリーダーはおそ松。十四松はムードメーカーとして重用され、そして特出した行動を取るトド松はどんなに媚を売っても定期的なリンチの対象、空気を乱し時に落ちこぼれるカラ松は無視されるみそっかすでした。

9話を経て、まず十四松が「あの日走っていってから」あるいは「あの日豹変してから」実は心理的には全く帰ってきていないのではないか、もう十四松は「六つ子というひとつのものの一部分」であるつもりはないのではないか、という気が、14話のあまりの超越っぷりを見ていてしてきたのですが、この話はまた改めて。

 

まず13話から。

13話Cパートは、2話で「ニューおそ松兄さん」という形で、「おまえなんか要らない、別にリーダーやってくれるなら他人でも誰でもいい」ということを突きつけられたおそ松の、「長男の立場の奪還」でした。

 

13話でおそ松は「おまえら全員俺のエロ本で抜いてるよね」という一言で兄弟全員を綺麗に封殺し、マウントを取ることに成功しますが、彼はこれまでこのカードを出してきたことはなかった(ものすごい強力なカードなのに)。「本当はおまえらは俺に逆らえない」というカードを、おそ松は三か月温存していたのか、それとも。いろんな解釈ができると思いますが、わたしはこれは「あの日兄弟からの孤立を感じたおそ松がこつこつ兄弟について観察し、情報を集めて」「好きそうなエロ本を買ってきて、兄弟を釣った」のではないか、と想定しています。

おそ松は2話で兄弟に何ひとつアピールできなかった。それからおそ松はことあるごとに「俺が長男」とアピールし、一松や十四松に「兄の顔」で微笑みかけ後押しをしてやり、そしてずっと、あの日チビ太に打ち明けた本音、「長男だからって何、同い年だよ」「俺だって一人っ子がよかった」を打ち明けることも、「お兄ちゃん寂しい、かまってほしい」と兄弟に正面切って言うこともできなくなりました。

そして(わたしの推測によると)おそ松は兄弟を適切な方法で釣り、「おまえらの性欲がどういう形をしているか知っているし、それを俺に握られていると知りながらおまえらは俺の選んだものに抗えない。皆お兄ちゃんのことが大好きだよね。いいんだよ別にそれで。俺に素直に従ってればいいんだ」と言った。そして「素直に従わないチョロ松は生意気で可愛くない」と、あの日、2話でおそ松に対して「今日からおまえは赤の他人だ」と言い、ニューおそ松兄さん事件のおそらく主犯であろうと思われるチョロ松に対して、完璧な仕返しを行いました。

 

おそ松がけらけらとチョロ松をおちょくって遊んでいた(これは対等な喧嘩ではなく、おそ松は「決定的な地雷を踏まないように細心の注意を払いながら」チョロ松を弄んでいただけだと思います)煽りを食らって唐突に八つ当たりをされたのがトド松。

「おそ松とチョロ松が喧嘩を始めるとトド松が修復に当たろうとする」これは結構びっくりした新発見だったんですが、とにかくトド松は関係修復をしようと口を挟み、その結果チョロ松の逆鱗に触れました。チョロ松はもともとトド松に当たりがきついですが、ここで漏らされた、おそらくチョロ松の「本音」はすごい。

「トド松おまえ本当はいらない存在なのに、なに調子に乗ってんの」「偶数はおさまりが悪い、奇数ならセンターが作れるし、しっくりくる、末っ子のおまえが生まれてこなければよかったのに」

そしてトド松はむくれて「僕いないとこまるくせに」と主張を始めるのですが、このチョロ松の理屈で一番ぎくっとしたのは一松ではないか。この兄弟の中で「どうせ俺は生きる価値なんかない」「愛される価値のない燃えないゴミ」だと思っているのは一松であり一松ただひとりです。

かくして一松は(まあ、普段通りの行動ではあるのですが)、兄弟を代表して「僕いらないと困るくせに」と主張するトド松に対して「別に困らない、おまえあざといだけだし、そのキャラすぐ飽きる」と言い返しました。

いつもならトド松の独断専行は兄弟全員でリンチされてしかるべき行為でした。しかし今チョロ松はそれどころではありませんし、おそ松は別にトド松のことは今はどうでもいい。そしてカラ松と十四松は別にいつもなんとなくノリで合わせているだけで自発的にトド松をリンチしたことはありません。つまり、兄弟を代表して、そして自分自身のためにトド松の攻撃を始めた一松を、援護してくれる兄弟は誰もいませんでした。

そしておそらくトド松はそれら全てを理解したうえで、一松に対する最も強力なカードを持ち出しました。

 

「一松兄さんこそそのキャラやめたら? 本当はごく普通の人間だってエスパーニャンコのとき証明されましたよねー! 『俺も、ごめん』超フツー! ノーマル四男!」(原文ママ)

 

てめえそれ7話分の間みんな黙ってやってたのにいつカード切るかもしかしてずっと狙ってたのかよ!!!!!!

 

一松はこれに全く言い返せず、風呂場でトド松の服を持ってとんずら、その後トド松のエロ本を掘り出してみせ、14話に入ってトド松のくしゃみに難癖をつけるという形で報復をしようとしていますが、かつて7話で、そして(トド松相手ではないですが)10話で一松が見せたような狂気はそこには一切なく、嫌がらせの方法も絡み方もいいとこ中学生レベルです。当然トド松はちょっと腹を立てはするけどその程度に収まっており、7話で見せざるを得なかった完全な屈服は一切見せていません。14話Aパートのくしゃみに関する難癖に至っては完全にスルーしていました(さらに言えば一松はチョロ松に「何言ってんのめんどくさいからそういうのやめて」とまで言われてしまった)。

かつて7話で一松は、トド松に対してなりふり構わないリンチを行うことによって、「本当はごく普通の人間」という看板を叩きつけて「俺をこれまで通り犯罪者予備軍と呼び続けろ」と恫喝したはずでした。それは7話においては機能していました。しかし13話に至って、あの日一松の立場を補強する手段として使われたトド松は、「僕もあんたを殺すカードを持っている」ということを公言しました。

 

14話は細かなところが色々と凄いのですが、挙げていくときりがないので端的に言うと、

「あざといだけ、すぐ飽きる」と言われたトド松は、「あざといキャラ」をあっさり捨てて、「あざとくない僕がどれだけ怖いか見せてあげよう」と行動に出て、

「ノーマル四男」と言われた一松は、「犯罪者予備軍キャラ」をついに捨て、「兄弟が好き」「常識人」「ノリがいい」「空気も読める」「気が利く」を明確に打ち出して来ました。

 

つまり完全にポジション交換です。

もともとトド松は兄弟に対する愛などなくただ処世術と恐怖から兄弟に媚びへつらって、切り捨てて底辺を脱出するチャンスを伺いながら上手に口を合わせていたのであり、「あざとさ」は彼の戦術に過ぎませんでした。彼の「素」はおそらくカラ松とふたりきりのときに見せる、なんでもずけずけとものを言い、めんどくさいと愚痴りながらもそれなりに空気読んで頑張っていこうと考えているほうであり、あるいはトト子ちゃんの部屋で素振りをしながら泣きスタバァのバックヤードで泣いた方、ドライでシニカルでクールで、前向きで努力家で素直、上昇志向があり、そして口が悪い方の彼が「素のトド松」です。そのコミュニケーションスキルの高さを含むスペックの高さを含め、兄弟を震撼させ完膚なきまでに攻撃する力を持っているのは本来トド松の方でした。

対して一松は友達が作れず兄弟に依存し、そして兄弟しか自分にはいないという追い込まれた環境において、兄弟を観察し、そこで何が行われるべきで何が言われるべきではないか、ずっと冷静にコントロールして、「ここを失うくらいならプライドなんか要らない、守るべきもののためなら何でもやる」という勢いで暴力行為や犯罪未遂を行ってききただけで、5話以降完全に露呈していますが、素はゆるくておとなしくて気が弱くて空気が読めて気が利く、ごく普通の常識的な青年です。彼は「守るべきものがある」から攻撃態勢に出ているのであって、しかしその「守るべきもの」は「自分自身」ではありません。逆説的に、彼は自分自身を守るためには戦うことができません。あざとく振る舞って兄弟に守ってもらわなくてはならないのは一松の方。

かくしてトド松は「兄弟だからって仲良くする理由ないし、ていうかちょっと気持ち悪い、なんでなにもかも全部言わなきゃいけないわけ? ていうか、全部言ったら、みんな傷つくんだよ? 言おうか?」という攻撃性を遺憾なく発揮して「もういい、何も打ち明けなくていいから」とチョロ松に言わせるまでに至りました。

そして一松は兄弟の看病から(やり方こそめっちゃおもしろかったですが一松要するに「ちゃんと俺のいうことを聞いて大人しくして早く風邪を治せ」と言っている)、お菓子の最後をさらって片づけるまで、チョロ松のネタ振りに対するノリノリの演技からおそ松の論旨の空気を読んで補強するまで、銭湯の閉まる時間を気にし、六人そろってないことを指摘し、おまえ本当に出来た子だな!? もう完全に「ハイスペック」の域だぞ!? あとカラ松としれっと普通に会話して、猫を使ったカラ松いじめも完全に惰性と化している(というか意図的にやったかどうかも不明だ)しもう別に黙れとも言わない。正直こうなった一松がカラ松に絡むモチベーションは別に特にありません(カラ松の方も変化したことも関係してると思いますが、これもまたいずれ)。いま敵はトド松です。

 

ふたりとも「素の自分」を出して、収まるべきところに収まったかに見えます。

 

トド松はこれでいい。正解。最適解です。よくそこに行きついたと思う。これまで抑圧されていたことがおかしかったのであり、別にトド松はこの兄弟に拘る必要はなにもないし外の世界で存分に可愛がられていくべきなのです。スタバァでの経歴詐称で見事にスッ転んだトド松は、おそらく、「自分の本当の売り」を冷静に分析しました。彼は別に素のキャラで経歴詐称をせずに振る舞ってもモテなくはないでしょう。しかし彼が絶大な人気を誇りアイドルとなることができる場所はもっと他にあります。

囲碁クラブ。

完璧だ!

わたしは中高と部活動は囲碁部だったのですが正直そのことをこんなに喜んだことはない。囲碁の話ならできるよトッティ!

まず中高年主体の空間で、若い人は若いというだけで喜ばれ可愛がられます。あと素人に教えるのがみんなめちゃくちゃ好き、「何も知らないんですが」から行ってもみんなめちゃくちゃ親身に教えてくれます。基本ルールが単純なので即日ゲームを始められますし、そのうえで覚えておくと楽しく打てる定石がいっぱいあって、覚えて打つとまた褒めてもらえる。そもそもがやる気のある人間はめちゃくちゃ褒めてもらえます。陣取りゲームで心理戦なのでトド松は適性があると思う。えげつない打ち方をして勝利をかっさらっても強いねすごいねと褒められるだけ。

そして囲碁は一対一の世界です。トド松がこれまで得られなかった、個人が個人として単純に認められる世界です。そしてトド松は上の人間を立てるときの仕草はめちゃくちゃ良く知っている。トド松は礼儀正しく品よく振舞い、よろしくお願いしますありがとうございました勉強させていただきましたと言い、持ち前の記憶力と頭の回転の速さで几帳面な講評をやって若い人はよく覚えてるねと褒められ、どんな相手と打つ時でも常に相手に敬意を払って気持ちよく打たせてくれることでしょう。完璧だ! ここが君のパラダイスだ! よく気づいたな!

そしてトド松は「頼りになる兄」や「父や母」、もともと持っていない「姉」すら、もしかしたら「弟妹」すら、囲碁クラブで見つけることができるかもしれません。別に全部、外の世界で手に入ります。皆頭が良くてマナーの良い人たちで(少なくとも彼の兄弟よりは)、ドライなのは勝負の世界だから当たり前、むしろそこがいいと言ってもらえる。

その上囲碁クラブは中高年主体の空間なので、友情の結果就職に結びつく可能性も十分ある。

 

トド松はおそらくかつて富士山に登った時も囲碁クラブに行きはじめた時も、「兄弟にバレたら嫌なことが起こるに決まっているから」わざと黙っていたのだろうと思います。登山も囲碁もマナーがものをいう世界、彼の突拍子もない兄弟がそこでTPOに合った振舞いをするとトド松に思えないのはあたりまえです。これまでずっとそうだった。トド松が愛していて居場所を求める場所はマナーがものをいう世界であり、彼は自分がそこで正当に評価される人間であることと、そして兄弟がそうではないことを知っているからこそ、黙っていた。

14話でトド松はそれを隠すのをやめました。

兄弟のいる場所でジムに行く準備をしていたことから全て、わたしは、全部トド松の壮大な釣りではないかと考えています。ばれないように準備して出ていくのは簡単だった、これまでだってそれでいろんなことを隠してこれたんだから。おそ松が兄弟をエロ本で釣ったように、トド松はジムの準備で兄弟を釣った。そしておそ松は「兄弟に寄せる」ことでマウントを取りあぐらをかいたが、トド松は「兄弟を突き放す」ことでマウントを取り、「もう僕に構わないで、放っておいて」と突きつけることができた。

自立です! おめでとう!

かつて蔑称として奪われたトッティという愛称は、14話に至ってもはや完全に愛称として定着しました。トド松はトッティを奪還した。もうほぼ全員彼をトド松とは呼びません。キラキラネームなんか目じゃないほど恥ずかしいと思っていた「松」、脱出しちゃった!

 

トド松には喝采しか送れない。あと10話もあるのにまたひっくりかえされるんじゃないのか早すぎじゃねーかとは思うものの、今は素直に祝福したいです。おめでとう!

 

問題は一松。

トド松が媚を売っていたのは結局のところ「本当は誰も味方はいないことを知っているから」でした。トド松は裏切るタイミングを見計らってこつこつ準備をし、きっちり裏切った。トド松は一切兄弟に依存していません。

しかし一松はズブズブに兄弟に依存しています。外の世界に出ようなんて考えられない、怖い、と彼はかつて言った。一松が媚を売っておそ松やチョロ松に可愛がられれば可愛がられるだけ、その依存度は上がっていきます。そして彼は努力家です。可愛がられるためにできることは全部やろうとするでしょう。

しかしいくら媚を売っても、おそ松とチョロ松が誰を守る気もないのはトド松の経緯を見ていれば自明です。

つまりどんなに媚を売ってもいつか絶対梯子を外される。

気づいてんのかなあいつ。

 

 

トド松は一抜け。カラ松は自分の人生の不憫さを開き直って愛と芸術に生き始め自己アピールを続け、好きだと言ってもらえるチャンスがあれば逃さず駆け寄って「言って!」と頼み込めるまでに。十四松はどうも既に完全に超越した場所にいて、実は投資家だったということが明かされる。

兄弟の上にあぐらをかく以外やりたいことは特になく、誰を守る気も何を守る気もなく、トド松という強力なヨイショを失ってしまったことに気づかず、チョロ松との本格的な対立は兄弟を運営していく上でまずいということに気づかず、一松を可愛がってもどうせ都合が悪くなったらあっさり捨てた結果たぶん一松に見限られるであろう自分自身にすら気づいていないおそ松。

「危機感」だけが常にあり、それ以上はなにもないまま、にゃーちゃんのファンという立場も、トト子ちゃんのマネージャーという立場もファンという立場も、そしておそ松の対等なパートナーとしての立場も、トド松を管理する恐怖政治の立役者という立場も、全て失いつつあるのになんの進歩も見られないチョロ松。

そしてついに犯罪者予備軍の仮面を完全に捨ててしまい、兄弟に依存している心優しく寂しがり屋の甘えん坊であることをキャラとして利用し始めた危うさに、いったい一松は気づいたうえでヤケクソなのか本当に気づいていないのか。

 

 

まず一松から破滅する。このカシオミニを賭けてもいい。

 

差別的思想を描くこととPC配慮について

 ときどき、香田が恋人とふたりでいるところを見かける。香田の恋人はとても美しい女で、ふたりは絵に書いたような幸福なカップルに見える。完全無欠を絵に書いたようなカップルに見える。音は彼らから目をそらす。

早久良音は香田春人を憎んでいる。

こちらはときどきどころの話ではなく、伊藤さらばと倉井さわこが腕を絡ませて歩いているところも見かける。過不足のない容姿のさらばと美少女という概念の擬人化じみて見えるさわこの組み合わせはこれまた完全無欠なカップルに見える。

早久良音は倉井さわこを憎んでいる。

早久良音はあらゆるものを簡単に憎む。その範囲がどんどん広がりつつあることを自覚していた。自覚しているから大丈夫だ、と音は思う。それがどこから生まれるどんな感情か、気づいているから大丈夫だ。大丈夫。

本当に

オリジナルBL企画「ラブディスコミュニケーション」から。この作品はキャラメイクからネタ出しまでが共同作業で、わたしは中澤ユーハイムという名義でプロット整理とノベライズを担当しています――ということでキャラクターを「どのように運用するか」に関してはわたしの裁量で行われます。

わたし今告知っぽいことに使える仕事がLDCしかないのですがまあ直近の大仕事がこれなので仕方がない……。LDCは厳密には「わたしの作品」ではないんですけど、少なくともキャラクターの物語上の運用に関してはわたしの裁量が大きいので、LDCの話をします。あとLDCはキャラメイクにわたしが噛んでいないこともあり、クリティカルに「魅力的だけどやばい」キャラが多いのです。わたし個人で行ったキャラメイクだとつい修正をしてしまいそうなくらいに。

 

先日に引き続き、PC配慮についての話をします。

引いた文章の視点キャラは早久良音くん、LDCの主人公です。彼は「群像ラブストーリーの主人公としてありがちな空虚さ」をテーマにキャラメイクされたので、当初キャラクターがぺらっぺらでした。ぺらっぺらであることを目的としてぺらっぺらなんだけどあまりにもキャラとしての魅力が薄いので、テコ入れとして投入されたのが「コンプレックス」。

音くんは「ぺらっぺらなのは外面だけ、心の中はあらゆるものへの憎悪で真っ黒」というキャラクターで、彼は「自分を選ばず再婚して幸福になった父親」「自分を捨ててどこか遠くへ逃げてしまった母親」に愛憎を寄せるあまり、「男」も「女」も「他人」も「自分」も全て憎んでいます。唯一の愛を寄せるのは「それらとは全く関係がないはずの」美しい幼馴染。そして幼馴染の売春という事実を突きつけられたとき音くんの世界に信じられるものは一度全て喪失します。

で、承前の文章は音くんの最初の述懐ですが、さほど詳細には書いてないのであれですが、ここだけの情報を切り取ってもう少し詳細に書き込み、彼の抱えるミソジニ―とミサンドリー、ホモフォビア(さらばとさわこはゲイカップルです)、そして「リア充への憎悪」、をきっちり描き込むのは(描き込んだらこの話それでなくても全体で十五万字近くあるのに膨大な量になるから描き込んでいませんが)不可能ではありません。そしてそれをきっちり描き込んだ結果「早久良音のような差別主義者の差別意識をキャラクターの魅力的な側面として描くのは差別を助長している」と非難される可能性は十分にあり得ます。

でも音くんが差別主義者になったのは経緯があり、そして音くんは差別主義者であるがゆえに孤独で不安な世界を生きており、最初から最後まで彼の孤独と不安は解消されることがないままでした。わたしはそのように彼の差別意識を描きました。

 

LDCは厳密にはわたしの作品ではないんですが、ともかく、わたしの作品には差別主義者が登場します。それは前提です。

何故なら、この世界の大多数は正しくも美しくもない弱くて不完全な存在だし、しばしば間違った行動を取るし、それがわたしの生きている現実で、そしてわたしは間違った行動を取る彼らをある意味で愛しているし、その上でとほうもなく憎んでいて、そうして「彼らを描かないではいられないから」です。わたしは彼らをモチーフに取り続けるし、わたしの物語のなかで彼らは差別的にたわめられた視座から人間を愛し憎み人生を生き延びあるいは死んでいくでしょう。

差別主義者には差別主義者の文脈があり、そこに至る背景、至らざるを得なかった社会や環境による抑圧もしくは教育があります。そして彼らは自分が間違っているかどうかを問うことすらないままに往々にして生きて死んでいきます。

わたしはそれを「恐怖」として描くし、「そのような救われなさと断絶」を描くことは、わたしにとって正しいことで、「この世界はどのように正しくあればいいのか」という視座、つまりポリティカリー・コレクトに対するわたしからのアンサーです。「間違った人間がいる世界は恐怖と孤独と不安に満ちている」。それがわたしがずっと描いてきたことであり、そして、どうしてもその先にブレイクスルーすることができなかった限界でした。

 

おそ松さんの話に戻ります。

おそ松さんに対してわたしは「あの作品をPC配慮が欠けていると指摘するのは文脈の理解があまりにも乏しいのではないか」と指摘をしているんですが、あの作品の「痴漢冤罪」あるいは「ニート」「ミソジニー」が「つらい」というリアクションがあるのは当然だと思う。つらい。ものすごくつらく描かれている。

ただ、わたしが言いたいのは「差別主義的な視座を持つ作品」は「PC配慮に欠ける」というわけではない、ということです。

先に述べたように、「音くんの差別意識」には、文脈と、そして差別意識を持って人間に接した結果得られなかったものと、不完全なまま放り出された彼の人生がある。それは彼が差別主義者であった、そして他者と向き合って他者の傷がどんなかたちをしているか見つめることができなかった報いです。そして実松さんは孤独で退屈な日常から救い出されることはないし、六つ子のもとにやってくる白馬に乗った女神様はいない(いても彼らが手を取ることはない)。それは彼らが自分の殻に閉じこもって他者を見ず、他人だけでなく自分が、そして自分の兄弟が何ゆえに傷つくのか無頓着に生きている報いです。

PC配慮とはシーンではなく文脈に宿るものではないかとわたしは考えますし、そうでないとしたら、「間違った人間が間違った人間として生きている」こと事態を描くことができなくなってしまう。差別主義者は「敵」ではなく「いまそこにいる誰か」であり、そして彼らが存在する世界がここにあるという絶望を描くことには正しさと意義があるとわたしは考えます。

 

そしてわたしの限界は「みんな死ね」という結論にあり、「祈りなき世界」というおそ松さん二次創作を先日書いたんですが、つまりそういうことでした。

 

でもおそ松さんという作品は「もういいみんな死ね」の先をきちんと描こうとしており、たとえばじょし松さんたちは六つ子や実松さんが陥った孤独な不幸を超越して「他者のいる幸福」を生きています。デカパンとダヨーンもそうです。六つ子がデカパンとダヨーンのハッピーなクリスマスを手に入れられないのは、じょし松さんたちの本音トークとそれを乗り越えたうえでの承認を手に入れられないのは、どうしてなのか、という疑問は既に投げられている。そうして六つ子は少しずつ変化をしています。「連続テレビドラマ 実松さん」は第三話にして「実松さんの狂気」に至りました。たぶん四話をわたしたちは観ることはないわけですが(あんなのは一回で十分ですが)、でも実松さんと薫子ちゃんの明日は三話とは違う形をしているでしょう。

新オープニングが示す通り彼らは「前進することができる」し、13話が示した通り「彼らが必死で自分の役割を守り通すことによってあるいは兄弟を弾圧して黙らせることによって得ていた平穏」は音を立てて崩れ去ろうとしています。カラ松は「台本通りではない台詞」を獲得し、トド松はかつてあれほどの恐怖に彼を叩き落した一松をだれひとり味方がいなくても正面切って虚仮にしました。

この物語は「その先」へ向かおうとしているし、それを、「絶望」も「孤独」も「出口のなさ」も描いた上で「その先の未来は必ずある」、「人生にたわめられて正しく生きることができなかった人間でも、生き延びるチャンスはいつでも残されている」ということを描こうとしているとわたしは、少なくともわたしは感じているし、それを持ってこの作品を「きわめて誠実で親切で、配慮の行き届いた作品である」と考えています。

 

ニートがニートだからという理由で笑われていいはずもないのです。そうしてそれは「脱ニートしたから今度はニートを笑う側に立っていい」という結論に至るべきでもないのです。走っていく彼らの選ぶ未来を楽しみにしています。「もういいからみんな死ね」ではない未来を。

 

 

ところでLDCの次回プロジェクトおよびネット販売物の整理は鋭意進行中です……よろしくね!

この世界では女は女神の形をしている

おそ松さんのポリティカリー・コレクト配慮に関して物議を醸している現場は見に行っていないんですが、どうもそのあたりの話が話題になっていると小耳に挟んだのでその辺の話から新春のブログ始めをしたいと思います。

前提として、わたしはおそ松さんというアニメをかなり初期から「PC配慮が非常に行き届いている」アニメとして評価していて、その前提は13話を観て以降も覆っていません、というスタンスから話をします。

 

おそ松さん13話ですが、「痴漢冤罪」と「女の敵は女」がキーワードとして大きくて、おそらく問題視されるとしたらここだろうと思う。

13話は3つのパートに別れており、

  • 全く絵柄も登場するキャラクターも違う「連続テレビドラマ 実松さん」
  • 六つ子の名前とキャラクターをもじった女キャラクターによる本音女子会「じょし松さん」
  • いつも通りの六つ子がいつも通り(というか)の日常を繰り広げる「事故?」

によって成り立っています。以下ネタバレだよ!(ネタバレはいつものことだけど今回どんでん返しがあるから)

「実松さん」は

  • 孤独で退屈で苦痛に満ちた生活を送る青年実松さんが、痴漢冤罪や周囲の心ない言葉に怯えながらも、幸福な生活を送っている
  • 彼には彼を待つ五人の兄弟がおり、彼らと過ごす時間が実松さんには至福の時間であり、そこで彼は受け入れられ、慕われている
  • 幸福な時間を過ごす実松さんのもとに買い物袋を片手に現れる職場の後輩、薫子ちゃん。しかし彼女がチャイムを鳴らしてもノックをしても、それは伝わることはない
  • 庭先に回って窓を覗いた薫子ちゃんは恐るべきものを目にし、悲鳴を上げる。そこにいたのは「兄弟との団欒」をたったひとりで楽しんで笑う実松さんの姿だった

という内容です。

痴漢冤罪のシーンは冒頭に置かれており、実松さんは「違う」と主張しますし、それ以降電車の中で手を上げている(冤罪を受けないために対処している)というシーンもあることから、これは実際「冤罪被害にあってつらい青年」のシーンと取ることもできる。

しかしあらすじからみてもわかるように、最後に「実松さんの世界の認知は歪んでいる」と明らかにされます。薫子ちゃんという第三者から見た実松さんの世界の実松さんの幸福は、驚愕し悲鳴を上げるに足る恐怖に満ちたものとして描かれる。

つまり、それ以前彼が「受けている」と感じていた非難の全てが、「彼が見たもの」「彼の耳に聞こえていたもの」でしかない可能性は高い。というか、「いつから実松さんが正しいと思っていた?」というどんでん返しを機能させるためのミスリードと取ったほうが自然な読みだと思います。この話を一度見て最初から観返すと、歯ブラシが六本茶碗が六個スーツが六着、きっちり用意されている彼の家の異常に気付く。そしてその前提で観ると、今度は「実松さんがかわいそう」だったはずの痴漢冤罪を主張するシーンはがらっと意味を変えます。「この男が主張する真実とはいったい何だ? 信じる理由がどこにある?」

そして彼は「幸福な生活」を送っているがゆえに、「なにも聞こえない」。彼に救済の手を差し伸べ、彼の人生を孤独ではないものにしようとした薫子ちゃんの言葉は彼には届きません。彼は自分ひとりで充足し、自分ひとりで自分を肯定することができる世界を完璧に作り出して、そこにずっといることが彼の幸福で、そこには誰も入り込むことができない。

さて、ここで重要なのは、薫子ちゃんの側に、きちんと、実松さんに手を差し伸べる動機が描かれているという点です。

おそらく先輩に当たるであろう同僚に「薫子ちゃん」とマスコットのように呼ばれ、馴れ馴れしく肩や背に触れられて、実松さんと対話をしたいという要求を阻害される薫子ちゃんは、これだけの描写で十分「セクハラ被害を受けている」と取れます。そう取れば彼女が実松さんをランチに誘ったことも、実松さんの自宅をわざわざ訪ね、意を決してコミュニケーションしようとしたことも、自然な流れとして置かれています。彼女は同じ会社で同じように言われなき攻撃を受けている「被害者」として、何かを分かち合おうとしていた。

しかしそれは成されなかった。彼女の声は実松さんには聞こえない。どんなに大きな悲鳴を上げても。

 

「実松さん」は作中でテロップが出る通り、文字通りの「これまでのあらすじ」です。六つ子たちはこれまで、イヤミのブラック工場へ招かれ、ハタ坊のところに就職し、チビ太に弟子入りを求められ、彼女と共に新幹線に飛び乗って旅立つことさえ、しようと思えばできた。でも彼らは結局いつでも「六人でひとつ」の世界に回帰していきます。そこにいるのが一番楽だから、そこにいれば少なくとも集団であるというだけでひとつの武力を持ち、たとえ愛されることはなくてもそこにいれば食べて寝て存在することは許される。そこには他者がいないからです。彼らはお互いを他者として認めていない。自分の一部分として扱うことがあたりまえだと思っているから、心ない言葉も平気でぶつけるし、平気でそれを受け流してしまう。彼らは対話をしない。他者ではないからです。

おそ松さんは時々ギャグアニメの体裁の根底から放り出した話をやってきていて、それが5話「エスパーニャンコ」(これは最後にオチがつきますが)、9話「恋する十四松」そして13話「実松さん」でした。これらは全て同じ構造によって成り立っています。つまり「善意の第三者」の介入による世界の崩壊の危機と、「崩壊することを選ばず五人ないし六人(=ひとり)で結束し幸福な世界を保つ」物語です。そして「エスパーニャンコはいい話じゃない、悪意だよね?」というのが12話副音声で齎されたキャストコメントでした。「エスパーニャンコ」「恋する十四松」まではそれでも「一見良い話に見える」体裁は保たれていた。「実松さん」はもうそこから放り投げています。「だれもいない世界で幻影を相手に幸福に過ごしている姿はおぞましい」「そこには他者がいない」。

そして、かたや、この世界では薫子ちゃんが、トト子ちゃんが、イヤミがチビ太がハタ坊が、にゃーちゃんや彼女が、みんなたったひとりで自分の持てる武器を必死に抱えて闘争を繰り返しあるいは挫折しており、そしてまたあらゆる場所でデカパンとダヨーンは幸福な「友情」を交わして「ひとり」と「ひとり」が「ふたり」であることを愉しんでいます。

そちら側を選ばないのは実松さんの、そして、六つ子の問題なのです。

 

おそ松さんのそのようなもうひとつの側面を描き出しているのが「じょし松さん」です。

この話で登場する女たちは皆六つ子に似た名前を持ち、六つ子をどこか想起させるようなキャラクターで登場しますが、しかしその実六つ子とは全く関係のない女性たちです。これは彼らのIFルートではあるかもしれませんが、単純な意味でのIFルートではありません。これは「彼らが女だったら」というIFではなく、「彼らが自分自身を肯定し、自立した人間として生きることを選択していたら、あるいはできたかもしれないこと」です。たとえばおそ松は兄弟の長所短所をそのまま素直に受け入れリーダーシップを取る能力を外の世界で発揮していれば、今頃会社で後輩に慕われて先輩に可愛がられてそれなりにうまくやっていたかもしれない。

それは「男だからできない」「女だからできる」という種類の話ではありません。男にもできる。業種によっては男のほうがうまくできるかもしれない。

何故「じょし松さん」たちはあんなに輝いて自己実現をし、自分の欲望に正直に振る舞い、お互いに本音をぶつけ合えるのか。なぜそれが「女子」でなくてはならなかったのか。

それはこのアニメに登場する「女」は、畢竟「六つ子の視界に映ることができる女」に過ぎないからです。

 

おそ松さんは「男のニート」が主人公のアニメであり、加えて「男のニートのホモソーシャル」が主人公のアニメです。

彼らが「ニートになるしかなかった」経緯は、「赤塚先生なき現代、いったい何がギャグで何が面白いのかわからないのに、アニメこの先どうしよう」というメタ発言によって1話で既に語られました。彼らには進むべき道がないからニートになるしかなかった。そして彼らには幸か不幸か、漫画連載開始からずっと支え合ってそれなりにつらいキャラクターとしての人生(おそ松くんたちはタイトルロールであるにもかかわらず、かつてイヤミとチビ太に主役の座を奪われ、背景と化しました)を耐えて生き延びてきた、五人の兄弟がいました。本心では嫌っていても嘲っていても見下していても、それでも彼らは毎日一緒に食事をし、毎晩おなじ布団で眠り、一緒に行動します。彼らは彼らであり続けている限り、幸福でいられる。それを彼らは選び続けている。

「男の結束」はもう十分足りています。だから彼らは外の世界に「女」を求める。そしてそこで求められる「女」は「会いに行けるアイドル」「顔採用とうわさされる路面店の店員」「AV女優」「レンタル彼女」つまり、「客体」です。彼らが求めているのは彼らをちやほやして良い気分にさせてくれる、あるいは美しさを振りまいて夢を見せてくれる、あるいは彼らを見て笑ってくれ、彼らを指さしてきゃあきゃあ言ってくれる女の子であり、そこには「対等な人間関係」はありません。

この世界で女は女神のかたちをしている。女神は彼らを評価して宝物を与えてくれる。女と金は同じかたちをしている。そうしてそれは人間のかたちをしてはいない。

この世界のどこかにいるかもしれない松野姉妹、出口のない生活を送る女のニート、あるいはそのような底辺を生き延びる女たちは、六つ子の視界に入ることができません。彼らは「ブス」を「相手にしない」立場にあると、かつて10話で言及しました。彼らの世界に存在するのは「女神」であって、彼らと同じ退屈で苦痛に満ちた生活を送るどこかの底辺女子ではないのです。

 

おそ松さんをミソジニ―から指摘するならまずそこからであるべきです。

 

そしてそのうえで、このアニメは彼らのミソジニ―を肯定しそれでいいと言ったことは一度もない、ということも、きちんと踏まえられてしかるべきだと思う。

おそ松はにゃーちゃんの握手会に乱入しセクハラをした罪で兄弟からあわや追放の憂き目に合い、それ以降「お兄ちゃん淋しいよ」と兄弟に向かってはっきり言うことなく兄弟に対して「分かってます感」を適切に運用することで二度と兄の座を失わないように汲々しています。カラ松は「女の子をチラ見して身勝手な幻聴を聞いた罪」で川に落ちます。トド松は女の子の気を引くために経歴詐称をした罪で処罰されるし、彼らは「レンタル彼女」が「金で買える」ということに依存した罪として手ひどい裏切りを受けます。彼らが女に寄せた身勝手な期待は常に裏切られ続けている。彼らが愛されないのは身勝手だからだ、彼女たちの気持ちを考えたことなどないからだ、そのことはきちんとこれまで描かれている。

そしてそのうえで、「セクハラ発言に凍りつくにゃーちゃん」「カラ松を罵倒する橋の上の女たち」「AV出演に対して拳でNOを語り六つ子が都合の良い行動を取らなかったら制裁するトト子ちゃん」「トッティに幻滅して足早に帰っていくスタバァ店員」、そして「悲鳴を上げて恐怖に怯える薫子ちゃん」、女たちは決して「自分は女神である」と自称したことはありません。彼女たちは彼女たちの人生をきちんと生きており、六つ子に対して冷たい目を向けている。

そしてじょし松さんたち、この物語において六つ子の視界に入ることができる「レベル」を維持している自己実現に成功し堂々と生きている彼女たちが「狙っている」のは、たとえば可愛い後輩男子であり、たとえば彼女のバイタリティに釣り合うだけのパワフルな男であり、たとえば山登りなんかを趣味にできるような安定志向で将来性と金のある男であり、とにかくイケメンであり、つまり、「松野兄弟ではない」。そして彼女たちははっきりと本音をぶつけ合い、「女の敵は女って本当よね」とまで言及するけれど、それはあくまでも彼女たちの間でのやりとりに収まっており(しかも女の敵言説に関して彼女たちは誰ひとり「そうだよね」とは答えず、「は?」というリアクションを返しています)、喧嘩のあとには彼女たちは泣いて抱き合って友情は最高! と言うことができるのです。

 

そして、対称的に、六つ子たちは誰も「ごめんね」も「大好きだよ」も言わずに、喧嘩なんてなかったかのように食卓に戻っていきます。

 

このアニメが「ニートの六つ子」を主人公とすると決まった時から、彼らを笑うことそれ自体に、政治的な微妙さはすでに付きまとっていました。

その上で、ニートであること、男がホモソーシャルを形成すること、そこにはミソジニ―が当然含まれること、なぜホモソーシャルにミソジニ―が付きまとうのか、そしてホモソーシャルの問題点とは何か、「どうして彼らは幸福になれないのか」。それをおそ松さんはずっと描いていて、それをPC配慮と言わずしてなんというのか、とわたしは思う。

PC配慮とは臭いものに蓋をして見えないように糊塗して、クリーンな世界を描くことだけではないはずです。六つ子は当然差別的世界観の中を生きている。でも幸福になれない。じゃあどうするのか。

 

ひとつの回答として、カラ松は2話で「カラ松ガールズ」という「カラ松ファンがきゃあきゃあ言う声」という幻聴を聞くことしかできませんでしたが、10話レンタル彼女では彼は兄弟のなかでただひとり身体接触ではないコミュニケーションを求め、11話では逆ナンについていっておそらく一対一の対話をしました――まあぼったくりバーだったんですが。かつて兄弟から「追放」され、いまでもほとんど話を聞いてもらえないカラ松ですが、彼はひとりだけ、兄弟の中で「他者と関わる」ということを自分から進んで行い続けようとしています。トド松さえスタバァ以降新しい女の子との関係を築いていないのに。

そして彼らの幸福な世界は13話に至って綻び始めています。「おまえいらない存在なのに」「そのキャラやめたら?」「十四松っていつからこう?」黙っているべきだった言葉のやりとりが行われ、それはなかったことのように平和な朝食に集約されましたが、彼らはじょし松さんたちのように泣いて抱き合って大好きだよと言うことはできない。

 

さてあと11話かな? 彼らが女神ならざる誰かの手をとることはできるでしょうか。

クリスマスという資本主義にフォーマットできない

カラ松よく言ったそのままぴえろまで走っていって燃やせ!

 

以外に特にいうことがないので(いや、あるっちゃあるんですけど、それはまあおいおいって感じなので)、おそ松さん11話エントリはお休みです。代わりに貧困飯についてのエントリでも(いま流行ってるから)書こうかなあと思いながらボーっといろいろ考えつつ出歩いていたら唐突にどぅるぅんっという感じで「クリスマスとわたし」というか「資本主義とわたし」みたいな情報が自分の中から引きずり出されてきて、そいつがあまりにも膨大な量だったのでどこから手を付けてどうまとめようかねと思いつつそういう話をします。

あ、ぴえろは燃やさなくていいです。「自己責任アニメ」という言及がその後きちんと回収され「恋する十四松」に繋がったので、「カラ松の扱い」は2クールへの布石だと思う。たぶん。まあでも回収がなかったとしても、少なくとも向こうはこっちを向いてるわけで、カラ松の耳に俺らの声は届いているわけで……届いたからなんだって話だけどでもカラ松が「ほんの少しだけでいいから」望みを持てているということが大事だし……。イエーイ見てる~?

 

クリスマスね。クリスマスの話をします。

 

左翼の娘に生まれました。

面倒臭いのでインターネットで喋るときは全部左翼の娘で通していますが、左翼に向かって左翼と言ったら左翼とひとくくりにされるほど一枚岩ではないと言い返されることは知っています。ていうか内部対立も相当激しいのも知っています。色々なことを知っていますがその話はまあいいです。「左翼の娘に生まれました」ということさえ伝わればいい。あとのことは雑に流しますので気にせんでくれ。

この場合の左翼というのは、おおむね全共闘世代の最前線だった人々を指していて、詳しく知らない人はググってください。とにかく団塊の世代とか全共闘世代とか呼ばれる世代の人がいて、社会を改革する、しよう、していこう、していけるはずだ、という熱意に燃えた青年がかつて日本で一大ムーブメントを起こした時代があって、そこには「なんとなくノリで」とか「みんなやってるから」くらいのテンションで参加した人もいっぱいいたし、そういう人たちはそれが終わったらなんとなく「まああれはあれ」みたいな感じで就職したりできた、らしい。らしいです。

でもそうはならなかった彼がいて、そうはならなかった彼女がいました。彼らは思想を通じて繋がりあいそうしてこいつとはワンチャンあるなということに気づきセックスして避妊に失敗して結婚するかしないかって話になって「結婚したら活動に支障が出るじゃん、困るじゃん」、まあじゃあおろすかつって、ひとりおろしました。でまあひとりおろしましたで済む話じゃないんで、そんなカジュアルなものではないので、色々ごたついた結果、「やっぱ結婚しようぜ、今度こそちゃんとやってこう」ってなって、仲間から「裏切者!」とか言われながら、次にできた子供は生んで、それがうちの兄、長男です。

というわけで、彼は仕事に励み、彼女は子供を育て、まあそう簡単ではないですが圧縮してしまうとそういうことで、次女が生まれて、家を建てて(逆だったかもしれん)、大分長い時間をおいて、三女が生まれました。これがわたくしです。

 

彼と彼女は子供たちに、当然ながら、彼らの信じるあるべき世界についての教育を施しました。

そのような家庭の子供たちが行くべき場所へ連れていきました(兄は幼いころからデモ行進のシュプレヒコールが上手かったそうです、今でも上手いです、彼は今でも現役です)。

そして彼らは子供たちにこう言いました。「でもこんなことを学校で言ってはいけないよ。警察に捕まるからね」

 

てな感じでさあ。

資本主義というものに対する懐疑心を植え付けられて育ったわけですよね。わたしは両親をひとりの人間としても子供を養育する立場の親としても愛しているし、良い人だったと思っているんだけれども、この教育方針に関してだけは「絶対にダメだった」と思っている。だって子供に、小学校にも上がってないレベルの子供に、「資本主義というものの持つ構造的欠陥や暴力性」を理解した上で「現在資本主義がどのように日本を構築しているか」そして「現在、日々わたしたちは資本主義のさなかを生き続けている」ことのすべてを理解しろったって不可能ですよ。「よくわからんがしんどい」ということと、「世の中は間違っているらしいが変わる見込みはあるようだ」ということしかわからん。

そうして「変わる見込みはある」というのは完全に気休めだしなんの根拠もありません。それを言わないわけにいかないのはわかるけど言葉のあやというものがわからない年頃の人間に教えるべきことではない。だって別にその「変わる見込み」というのは「世の中がクソであると永遠に言い続ければ少しずつ世の中というのは変わっていくはずだからそれを言わないより言った方がマシ」というレベルの話だからです。

もちろん「変わる見込みはある」「世の中を良い方に変えていこう」という姿勢自体は大事だしわたしも今でもそういう風に生きています。

しかしそれは子供が抱く世界観として明らかにこう……。

 

ディストピアだよね!?

 

現実がいくらディストピアであるとしても、せめてそこから守られているべき年頃というのは存在してしかるべきではないのか。

ちなみにわたしはこのような教育の結果、5歳頃にはぬいぐるみを使って「両親は死に、家を失い、肉体的にも精神的にも障害を負った姉妹が非合法な組織に匿われその組織が支配する村の人々との交流と共に生活してゆく」というディストピアファンタジーを構築して悲惨なおままごとをやっていました。環境によってすくすく芽吹く才能! 特に役には立たないけど才能だということだけはわかる才能!

 

これがまた不幸なことにうちの両親は言っちゃなんだけどさほど頭の良い人ではありませんでした。この場合の頭の良い人というのは筋の通った理論をかみ砕いて説明することができる人ではなかったという意味です。わたしはいまだに彼らの思想が体系的にどういうかたちをとっているのかさっぱりわかりません。彼らに聞いても把握できないし、わたしはそれ以上踏みこむのをやめたので。

彼らの批判をしたいわけではないです。誰の批判をしたいわけでもないです。

「わたしが」不幸だった、これはもう不幸だと言い切ってしまっていいと思う、という話です。生まれてきた世界が安心して生活できる場所ではないとさっさと教えられて不幸だったし不安だったし怖いことがいっぱいある世界だと言い聞かされて、そうして「正しいことだとしてもそれを言ったら警察につかまる」と思いながら秘密を抱えて生きるのはストレスだった。お友達に言えないことがいっぱいあった。夏休みになにをしたか、このあいだの日曜日どこに行ったか、言ってはいけないことが多すぎた。

そのうえわたしは団塊ジュニアとしては遅くに生まれた子供なので、同じ境遇の子供にろくすっぽ会えませんでした。

 

というわけで、資本主義の祭典であるところのクリスマスに直面するとケツの座りが悪いわけです。

(他人が関わるのでプライバシー保護)みたいな事情とかがあり、わたしは左翼というものに対して、少なくとも両親の関係のその辺に関して徹底的な不信感を抱くに至り、しかしまあ青春の逍遥の果てに一回そこに戻って実は前職はそのへんの関係のこと(母の友人の社会福祉法人勤務)だったんですがそこでありとあらゆる崩壊を見た上に親しかった同僚が過労死したのでこりゃもうだめだと思ってケツを捲って逃走し、その後さっぱり人生というものの輪郭がわからないまま文章を書くだけは書き続けて現在に至ります。

おそ松さん11話において六つ子が腐りきっているのはそういうことではないんですが、しかしそういうことなんすよと思いながら観ました。おもしろかったです。

高校生くらいから、「将来のビジョンは」みたいな話が大分鋭角になってきますよね、どういう学校行ってどういう仕事して、っていう。もうそんなん全く分からなかった。資本主義経済というものを肯定したらいいのか否定したらいいのかもわからないのに自分がどこのポジションにつけばいいのかがわからない。左翼は嫌です継ぎません(完全に家業は継ぎませんというノリです)とは言うものの、じゃあ何を信じたらいいのかわからなかった。中学までは小説家を一応目指していたんですが、高校入ってさっぱり書けなくなり、こりゃ駄目だと思いました。かといって興味があることは民俗学と言語学、就職につながるビジョンは全然見えない。とりあえず、いろんなことができそうな普通科じゃない高校に行って、就職活動に力入れてる女子私大行きました。わたしの外側をびゅんびゅんすごい勢いで、労働の定義が流れていきました。

そうしてわたしはめちゃくちゃに疲れて、もういい、帰って寝たい、と思いました。

高校や大学でびゅんびゅんかっとばされてゆく労働の定義のなかに、自分の形式をフォーマットする方法が、わかんないわけではないけどめちゃくちゃ疲れる。意味が分からない。だって全部異世界の言語だ。全然知らない言葉だ。みんなが生きてるだけで覚えられたことをわたしは今からインストールしないといけない。大分キツいしついていけない、ペースが速すぎる。

という経緯で就職活動をドロップアウトし、フリーターになり、いろんな仕事を泣きながら辞め、というようなことを綺麗な言葉で「青春の逍遥」と呼んでおります。青春の逍遥の果てにわたしはブラック社会福祉法人に勤務し金はろくすっぽ貰えませんでしたが金以外のあらゆるものを貰いました、人生経験とか、人生経験とか、人生経験とか。いやその話は今はいい。

資本主義にフォーマットできないからニートなんです。

生産する側としての「資本主義社会における」適切なふるまいも、消費する側としての「資本主義社会における」適切なふるまいもできないからニートなんですよ。

 

なんだよなあと思いながらおそ松さん11話を(略)。

 

少なくとも日本におけるクリスマスって資本主義の祭典で、誰とどこで何食うみたいな側面が過剰にでかくて、あとラブとハッピーがあるべきで、そういうの全部まとめてしんどいのでクリスマスは燃やそうと言っている人たちが少なくともここでは圧倒的にマジョリティであるインターネットがわたしは嫌いではないです。嫌いではないですがクリスマス爆発しろ言説にすら乗れないのは、それがカウンターに過ぎないからで、おそらくそこにすら乗れないからだと思う。結局のところここで語られているのは資本主義において勝者になれるかどうかという話だ。なりたいのか? 生活さえできればべつに金すらなくてよくないか? でもアニメが見られないのは困るんじゃないか? それはたしかにそうじゃないか? でもラブやハッピーを他人と持ち寄ってワイワイ遊ぶべきだと商業的に称揚された空間においてワイワイ騒ぐことを楽しめるのか? 結局楽しめないんじゃないか? 結局おまえ今でも左翼の娘なんじゃないの? まあそれは変えられないことだけどさ。

わかんねーから困ってんだよな。

 

クリスマスだ。鬱だ。死のう。

もういいかげん松野カラ松に付き合っていくのがつらいがそれでも付き合っていこうと思う

フランドン農学校の豚とカラ松兄さんの区別がつかない。

 

もうなんか10話が大変な話すぎて頭がパーンしているので分析とか放り出して雑談をします。ていうかサンジ君がカムバックしないの人に深い薫陶を受けまして(まだ読んでらっしゃらない方はどうぞ、キャラクターを愛するということをアイドルを推すことに絡めて切なく歌い上げた名記事です)もっとなんか「わたしが」、「わたしがこのアニメを観て何を感じているか」という話をしてもいいんじゃないかと思いました。昨日ブログ記事読み返したんですけど緊張が伺えたり気負ってたり怯えてたりいろいろあったなあと思ったんですが、まあなんか、もう、ここまで来たら何も怖くなくなってきたよね……。というかわたしに連絡を取る方法今メールしかないので(時々メールありがとうございます、大変ありがたく拝読しております!)、あとこれ書いちゃったんでもう大分吹っ切れたという感じです。

10話の冒頭のカラ松兄さんなんだよあれさあ……!

 

※以下カラ松兄さんに対する暴言が含まれますので気をつけてね!

 

あのねわたしたしかにバブみ以外に特にとりえのないような残念なイケメンが甘やかし放題に甘やかした結果あらゆる意味で破滅を迎えるみたいな話が死ぬほど好きですけど、だからわたしおそ松さんのカップリングは最初からずっと一松×カラ松を推してて、そしてこないだ書いた通り倫理委員会に「いい加減にせえよ」と言われて心のちんこ(腐女子の心にいつもあるやつ)が再起不能になり、うつろな目でさまよった結果唐突に一松×チビ太にいま萌えてますけど、いや一チビの話はこないだ散々したから今はいいんですけど

カラ松兄さんが、空回ってるけどいつだって愛の人であることに萌えてるのはたしかなんですよ。ありていにいってシコリティが高いよ。五話であそこまでひどい目にあわされたのにそれでもやっぱり家族のもとに帰ってきて相変わらず仲間のひとりとして隙あらば弟を甘やかそう家族好きアピールしようと狙ってるんですよ。いいから早くして! 何をとか言わせんな! みたいな話ですよ。

しかしわたしは本来的にはそういう受が、カラ松受ですけどわたし、「破滅するのは自明だから好き」だったんですよ。だって破滅しないわけないじゃないですか、破滅しないほうがおかしい。スポイルする男(女もだけど)は殴る男と同じくらい有害です。悪いことをしてもいいことをしてもなんも関係なく俺は信じてるぜ一緒にいるぜ愛してるぜと囁き続けたら、たいていの人間は善人でいるのがあほらしくなって水が低きに流れます。というのを共依存と言います。クズ生産機ですよ松野カラ松。あいつの話をみんなろくすっぽ聞いてないからクズ生産機としてすら機能してないだけの話で、あと「心配だよね~でもこのままでよくなーい?」と言ってくれるおそ松兄さんのほうが更にクズ生産機として精度が高いので事実上クズ生産機としてすら価値が見出されてないだけで。

だったんですよ。

だからカラ松兄さんが五話でひどい目にあったときはもう完全に瞳孔が開いた状態で「勝訴!!!!!!!!!!!!!!!」つってたんですよ。あのエントリめちゃくちゃわたしのそういうアレなところを綺麗に押し隠そうとしたあまりちょっとカラ松兄さんとそのファンの方に寄せすぎているのは反動ですすいません、別に嘘は書いてないけど。

ですけどね。

 

10話つらすぎじゃない!?

 

そもそもが8話でトト子ちゃんにうまく返事ができなかった時も思ったし、9話のおでん回で確信したんですけど、カラ松兄さんってあれ結局コミュ障ですよね……。

カラ松がいい感じの台詞をカッコよく言うのは、「おれはいい感じの台詞をカッコよく言おう、いまだ、いま言うべきなんだ、よし、ここだ!」って挟んでるのであって、あいつつまり、「雑談」というものができない。ずーっと「言うべきこと」を考えてて、どうにかその一言で「全然喋れない」ということを挽回しようとしてる。何にも喋らなかったら空気になって埋没していないも同然の存在になってしまうだけですから、せめてぎりぎり自己主張をどうにかしていかないといけないので、とっておきの台詞を毎回出してきているんだけど、会話は全然できない。

ということをまあもともと考えてはいたんですが、「恋する十四松」で一松が「クソ松おまえ今日いっぱい喋るな」と言ったことで完全に補強されてしまいました。あれ一松掴みかかったり叱ったりする文脈じゃなくて、完全に「雑談のノリ」で「めずらしいな、いっぱい喋ってんじゃん」って言ってて、あのね一松くん、きみの、口から、それを、補強してくれなくていいから。その兄は一松くんの何だっていうのよ!

いやその話は今はいいです。

つまりカラ松は「いっぱい喋れない」。10話に至るまででカラ松がいっぱい喋るのは2話釣り堀で、でもあれ完全に「台本通りの台詞を喋っている」。トド松のツッコミポイントはカラ松の想定内であり、カラ松は用意した通りのいい感じの台詞をぽんぽん返せばいいだけだった。そのあともずっとカラ松は台本通りに喋り続けますし、面接に至っては台本が容易できてなかったので兄弟のコピーをする(そして失敗する)。

カラ松が「とにかく空気にならないためのいい感じの台詞」ではなく、「素」で喋ったのが2話ハローワークであり5話であり9話チビ太とおでんであり、そして「用意された台詞であるにも関わらず素の自分のための内心を吐露した」のが10話冒頭釣り堀でした。

 

2話のハローワークの「静寂と孤独、己との試練、終わりなき戦い、やがておれは立ち上がることもできず」というのは「静かな職場で個人業務希望です、ノルマとか残業は大丈夫なんですが、立ち仕事はちょっと」くらいの意味ですねという指摘が某所であったっぽいんですけど、わたしこれを目にした経緯が「アニメのニコニコ動画転載」の「更にスクショツイート」という何重にもあの、権利上あかんがなという経緯だったので、わたしの指摘ではないですということだけ言及しますが、つまりあそこで彼は「事務員志望です」って言ってるんですけども、それを踏まえて考えると、「地味にハードルが高い」。

「事務員でお願いします」ってちゃんと言ったのにカラ松はどうして追い返されたのかということがわたし疑問だったんですが、そもそもまず仕事を探すうえで「孤独」を第一要件に上げるのはその時点で完全にハードルが爆上げされています。「コミュニケーションを取らないで済む仕事がいい」って言っているということになる。そんな仕事は基本的にありません。

そしてそれを踏まえてカラ松が「会話できない」ことに立ち返ると、これはとんでもなくまずい。

 

おそ松が言いたいことをべらべらしゃべれて、しかもそれはコントロールされてすらいるということは「恋する十四松」まで行かずとも「みんなごめん!」が言えた2話で自明です。チョロ松は当然言いたいことが全部言えますし、意見が通らないこともあるにしろとにかく強気に出ることに関しては兄弟随一です。トド松は人心掌握術のエキスパート、誰を立てて誰に媚び、誰を馬鹿にして誰のフォローをしたらいいか、常に理解しています。この三人が言語コミュニケーション上何の問題もないことは自明です。

そして言語コミュニケーションに難がある、もしくは「難がある人格をあえて演じている」一松と十四松は、プロレスごっこおよび野球(の素振りの練習)という「肉体コミュニケ―ション」を取ることができます。アイコンタクトも取れますし、ほとんど意味のないコントを繰り広げることもできる。彼らは確かに他人と筋の通った会話をすることは困難かもしれない、あるいはそれを放棄して「演じる」ことしかできないかもしれませんが、「そいや」つったら「そいや」って言い返すだけでいい、「ウェーイ」つったらハイタッチすればいい、ということは理解しています。

カラ松それどっちもできないんですよ。

「なんかいい感じの台詞」を一生懸命考えて、視線を集める努力をするので精一杯だし、しかもその「なんかいい感じの台詞」も「いっぱい喋れない」んです。トト子ちゃんにせっかく正論を伝えられて、トト子ちゃんはきちんと自分なりに解釈して理解して返事をしてくれたのに、それに引くことしかできないし、チビ太が想定外の行動に出たらチビ太の行動をどうにか止めることは一切できずに「できるわけない」を繰り返すことしかできず泣いて逃げる。

カラ松が仕事に「静寂と孤独」を求めるのは当然で、話しかけられたくないし話したくないし、働くのがいやなんじゃない、でもコミュニケーションが取れない。家族とすら取れない、幼馴染だって無理なのに職場で「できるわけない」。なんとなく察したハローワーク職員が引きこもり支援プログラムとか面接セミナーとかの資料を渡して「まずこのあたりから検討してみては……」つってるのが見えます。あああ。

 

あいつコミュニケーション取れないんですよ……。

コミュニケーション取れないなりに頑張ってるんだけど、頑張れば頑張るほど目障り扱いされてるんですよ……。

それを踏まえたうえで10話冒頭ですよ……。

 

カラ松めっちゃ喋った……。

 

発言内容こそ「言葉のあやというものがわからないカラ松」なのですが、あそこで扱われているのはつまり、「カラ松は自分が加害者であるという自覚をするに至った」です。

「違うよ!?」っていう話なんですが、まあそれは措いておいて。

「おれが『イタい』から、みんなを傷つけていて、おれは加害者なんだ。でもおれはみんなを愛しているし、加害者になんかなりたくない。どうしたらいいんだ、教えてくれ、助けてくれ」って言ってるんです。上手く喋ることも、兄弟や幼馴染に自分から話しかけることも、会話することも困難なカラ松が、自認のと環境認識のゆがみはともかく、非常に整頓された、冷静な自己分析を行って、率直に、「おれは変わりたい」と言った。

しかし選んだ相手が完全にミスっています。

松野おそ松がこの手のシーンで「おまえはそのままでいいよ」「ほんとはいい子なんだよね?」「大丈夫だよ」以外のことを口にしたことがあったか!? 変革への反逆児、自立へのNO、安寧の象徴!

かくしてカラ松が気付いた加害者としての自認は「そのまま」肯定され、「加害者だっていいじゃん、みんな慣れるよ」という結論をカラ松は微笑んで受け入れました。

トド松全部聞いていてくれてありがとう! 一緒に叫ぼう! 「なにがいいの!?」

 

つらすぎるだろこれ。

もちろんカラ松は加害者ではありません。だだ滑りである以外にはおおむね害はない男です(一松を庇うのが一松を傷つける可能性のことは措いておいて)。女子をチラ見するのはほとんどセクハラなのでやめましょう、あと女子の家にバスローブ姿で来るのもセクハラなのでやめましょう、でもそのシーンで都度カラ松はそれなりの制裁を受けていますし、なにしろ「加害者になるなんていやだ」って言ってるんだから「そういうのは人を傷つけるのでやめよう」と言われたら猛省するでしょう。あとは別にだだ滑りなだけです。そして滑るのはコミュニケーション能力に難があるからであり、コミュニケーション能力に難があるのは、おそらく、あまりにも長い間兄弟に足蹴にされてきすぎて、それと要領のいい兄弟のなかで振り回されすぎて、わけわかんなくなった結果です。カラ松には冷静な分析力と、深い愛情と、なにはともあれ発言を諦めない誠意があり、松野兄弟という環境に縛られてさえいなければ、何かしらの方向性を見つけて、落ち着いて会話してもらえる相手を見つけて、それなりに良い男になることができる素材です。残念ながら完全に迷走しているように見えますが(あるいは方向性はしっかりしてるがその方向性ではウケないわけですが)、少なくとも加害者ではありません。カラ松が革ジャン着てる如きで一緒に歩いて傷つくような繊細な人間は松野兄弟にはひとりもいません。加害者ではないんだよ!

なのにカラ松は「直すところがあるなら直すから」って言っているのです。

「直すところがあるなら直すからおれのことを好きになってくれ」って、ついに、言ってしまう次元まで到達してしまったのです。

そしてそのアンサーがこうです。

「変わらなくていいよ大丈夫。みんな慣れるから」

 

「なにがいいの!?」

 

フランドン農学校の豚とカラ松兄さんの区別がつかない。

フランドン農学校の豚というのは宮沢賢治屈指の鬱作品で、ほとんど精神的ブラクラなので読まなくていいですけど(名作ですしわたしは賢治でこれが一番好きですが)、「大切に育てられている豚が、自分は殺されるのだとうすうす気づいて怯えて暮らしていたら、上の人間がやってきて、おまえを殺すことの許可証にサインをしろと言う、豚は拒否するが結局は押し通されサインをし、殺される」という話です。「家畜であることは、生殺与奪の権利を、他人に握られるということであり、それを承諾するしかないということである」という話です。

もうカラ松兄さんの置かれた環境と区別がつかねーよ。

わたしは別にカラ松兄さんのモンペのつもりはないんですけど(何かのモンペであるとしたらチビ太のモンペだと思いますけど)おまえモンペ化してるよと言われたら別にそれでいいですと言わざるを得ない。「家畜はなにも考えずにおれたちが殺したいときに殺すために何も考えずそこにいればいいんだよ、そして殺したくなったらおとなしく死ね」と言われているようにしか見えない。

 

カラ松って、大家族の子供としては繊細すぎるし、愛情深すぎるんだと思うんですよ。兄弟を出し抜いてやろうとか騙そうとか、おれの意見をここでは絶対通そうとか、そういうのがない。2話で一回おそ松を殴れたのは完全に奇跡、あれ何だったんですかね。とにかくすごく気が弱くてコミュニケーション能力がすごく低い。一人っ子だったらたぶんここまで追い込まれる必要はなかった。自分が自分であることは確かだったし、わけわかんない方向に滑る前に、落ち着いて自分が本当は何を言いたいのか考えることができた。でもカラ松はそうじゃなかった。

そしてカラ松がたとえば女の子だったら、たぶんカラ松の「愛情深さ」だけは評価されたと思う。カラ松は外見に気を使っているし(つまり女の子だったら美人でしょう、女の美しさというのは手間暇かけて作り出すものである)、やさしくて甘やかしてくれる。やさしくて甘やかしてくれる「兄」はこの兄弟においては完全におそ松にお株を取られていますが、カラ松のやさしさ(と表裏一体の木の弱さ)はおそらく女の子だったらもっと「機能した」。つまり彼女は、兄弟の「レンタル彼女」を演じて「都合のいい女」として扱われることによって、少なくとも居場所を得たかもしれない。でもカラ松はそうじゃなかった。

カラ松は六つ子のひとりで、みそっかすで、「自分が愛されないのは、自分が加害者だからだ」というところまで追いつめられてしまった。

 

 

しんどいんですけどねえ。

マジしんどいんですけどこれすごく「正しい」よね……。

カラ松が女の子じゃなくてよかった。兄弟のなかでぼろぼろになるまで消費されてにこにこ笑いつづけることを求められなくてよかった。そんなひどいことにならなくてよかった。そっちのほうがカラ松は幸福だったかもしれないけど、それでも、カラ松がひとりの男として無価値な存在として扱われる方がずっとましだった。そしてあそこで傷ついて傷ついて傷つき続けて必死でそれでも生き続けてどんな形であっても自分の頭で考えて、考えて、考えて、言葉にした、カラ松は偉い、とても偉いと思う。

きみが死ぬ権利はきみが持っている。

生きる権利も。

 

 

トド松あいつをなんとかしてやってよーーーーーートド松だって現状納得してないでしょ!? おまえの溢れかえった才能こんな底辺に収まるもんじゃないはずだよ!? 革命だ! 革命!

金と女と労働の死という通過儀礼は終わった!

おそ松さん10話はちょっとあまりにも情報量が多く、かつあまりにもすさまじい内容で、萌えのことをさておいても何をどう書いていいのかわからないのですが、どうにかまとめてみようと思います。

おそ松さんというアニメが始まった時、「ニートの話」であると提示された以上、「脱ニート」がゴールではないか、という予測は当然ありました。

しかしこのアニメはやすやすとそんな単純なレベルをブチ壊し、「成熟するとは、人生を選択するとは、どういうことか」を、六つ子と仲間たちに突きつけようとしています。

10話はそういう話でした。

 

10話の骨子はこうです。

  • 住所不定無職を続けるイヤミは「レンタル彼女」という職業を把握、自分とチビ太、ダヨーンの三人で女装をしてレンタル彼女の事業を開始
  • しかしさっぱり客がつかず、六つ子に「誰が買うかブス」と侮辱される
  • 屈辱から立ち上がったイヤミとチビ太はあらゆる努力をして「美しく」なろうとするがどう転んでも無理だと自認
  • 彼らはデカパン博士を頼り、「美女に変身できる薬」を入手
  • 美女となった彼らは六つ子を客として取ることに成功、あらゆる手段で金を搾り取る
  • しかし薬に耐性がつきはじめ、有効時間がどんどん短くなってゆき、イヤミとチビ太は廃業を決意した矢先、もう払う金がないはずの六つ子が金を持って登場
  • イヤミとチビ太に貢ぐために勤労したという六つ子から最後に金を巻き上げようとしたイヤミとチビ太は正体を露呈
  • ふたりは六つ子に復讐される

全くすさまじい話なのですが、まず、ここで扱われているのが、六つ子が7話から9話にかけて抱いていた「女という夢」の徹底的な破壊であることは明らかです。そして併せてこの話では、「労働をするということ、金を稼ぐということ」も意味を失い、「金を払うということ」も意味を失いました。

2話から5話にかけて扱われていた「金がない」「住む場所を失いたくない」「遊んで暮らしたい」「カラ松を取り戻すのに100万も?」という問題が、「金」の問題ではなかったという話は以前しました。そこで扱われていた「金」とは「生きのびる方法」や「生きることを許されている立場の結果得られるもの」であり、彼らがクズと呼ばれることから逃げ出すか逃げ出さないか、あるいは言い逃れができるかできないかという問題でしかなかった。「職業選択」の結果発生する「金」には、「責任」がまとわりついています。

そして7話からこの10話にかけて彼らが夢見、求め続ける「女」たちは、一貫して「彼らを許し、受け入れ、求めてくれる相手」です。彼女たちは決して彼らに「自立して生活して金を稼いで一人の立派な人間になって自分と対等に向き合ってほしい」とは言いません。どんな面倒臭い欲求も何一つ言いません。というかそこにあるのは人間同士のかかわりですらありません。

なぜなら彼女たちが彼らと触れ合うのは「それが仕事だから」に過ぎず、また「彼らがいてもいなくても別に全然生きていけるけどちやほやされると気持ちいいから」に過ぎず、また「わたしを楽しくしてくれるのは確かだけど、きっとわたしのことはわかってくれないし、それを求める気もない」まま去っていくしかなかったからです。

六つ子が求めているのは「愛」「承認」「美」「憧れ」「アクセサリー」「許し」つまり「客体」です。「金」という「責任」から逃亡し続ける彼らは、「女」という「客体」に、許されたい。愛されて、特別な人間にしてもらいたい。そうして自分が自分であることを受け入れられたい。

彼らを固有の存在として認識しない両親は彼らを養ってはいても彼らを個人として個々に愛情を注ぐことはありません、それどころか「愛されるために自己アピールをしろ」とまで言う。彼らは「自分が自分であること」を家族に認めさせることすら困難な環境において、「他者に愛されること」に救いを求めている。そのひとつの残酷な結末が「恋する十四松」であり、そこには美しい恋はあっても、個人と個人が対等に対話する空間は存在しなかった。十四松は十四松として受け入れられたけれど、「松野十四松とは何であるか」「彼がピエロの裏側に何を抱えているのか」を彼女が知ることはなかった。

そしてもうひとつの残酷な結末にしてついに六つ子が至ることになった真実が、この10話です。

 

六つ子がレンタル彼女に金を払い始めたとき、彼らはまず、「自分が女を買うとき、自分たちには女をジャッジする資格がある」という立場に立っていました。「受け入れてくれる女ならだれでもいい」わけではないと彼らははっきり言った、そもそもそれは「女」ですらなく、女装した古馴染であり、しかもすごく仲の良い古馴染というわけですらない古馴染であり、デートをして特別楽しいわけがないという側面は含まれているのですが、しかし彼らは「イヤミとチビ太とダヨーンとデートをして何が楽しいんだ」と言って断ったのではなく、「鏡見ろブス」と言って断ったのです。

そして彼らはその結果、「美しく変身したイヤミとチビ太」にていよく弄ばれることとなりました。

イヤミとチビ太は事細かな料金形態を六つ子に提示し、その中には「おっぱいチラ見料」や「優越感に浸った料金」といったものすら含まれています。そこにあるのは「美しく、良い気分にさせてくれる女を隣に置くことで得られる全て」に料金が加算されている。そして六つ子はそれを支払い、それを手に入れ、それを手に入れることを嗜癖し、中毒症状に陥ります。

彼らが最初求めていたのは「女の子とデートをして楽しく過ごしたい、ほんとうはただでそれをしたいけど、お金を払えばできるっていうんなら、それでいい」だったはずでした。

しかし彼らは最終的に、「お金さえ払えば、女の子はなんでもしてくれる」という世界に陥ります。

そしてその結果、彼らはかつてあれほど愛した「自立し、自分の意志を持って、自分の好みと目的のために生きる主体的な女」である彼らのカリスマトト子ちゃんの魅力を理解する能力を失います。彼らはかつてたしかに「主体的な女はかっこいい、自慢の幼馴染だ、推せる、一生ついていく」という世界に生きていて、そのころ彼らにとって「女」という概念は「金なんかで買えるもの」ではなかったのです。

しかしレンタル彼女はすべての価値観を破壊しました。今や金さえ払えばおっぱいを見せてもらえるし、金さえ払えば一緒にいてくれるし、「彼氏」として認めてくれるし、抱きしめてくれて、あれがほしいこれがほしいとねだる彼女に対してぼくがいないとだめだなって優越感を感じることもできるし、どんなクズでも受け入れてくれる。金はすごい。金がないなんて些細な問題です。働けば良いのです。そうして六つ子はあれほど忌避してきた労働にいともやすやすと就き、いとも簡単に大金を手に入れ、意気揚々と彼らに買われるのを待っている女たちのもとに凱旋し、買える限りのものを買おうとしました。

 

そして彼らには唐突に真実が突きつけられます。

「女とは概念である」

「理想の女は実在しない」

「全部嘘」

 

「主体的に生きる女」であるトト子ちゃんがおっぱいチラ見を一ミリも許さないタイプの衣装を身にまとい一切男に媚びない姿勢のアイドルを貫こうとすることとは対称的に、イヤミとチビ太が演じる女は男の夢に溢れています。金髪巨乳だけれど立ち居振る舞いはクールかつ清楚でちょっとおちゃめな側面もあるイヤ代と、あくまでも愛くるしく庇護欲を掻き立てる小悪魔でありながら甘やかさのなかにどこか母性すら感じさせるチビ美は、単純に「美しい外見」を持っているだけではありません。彼らは「都合の良い女」を、完璧に演じ切っている。それは彼らが本当は男だからであり、「都合の良い女」とはどんなものであるか、何が求められているのか、よく知っているからこそ、行われました。

そこに用意されていたのは「夢」で、つまりそれは裏を返せば「嘘」でした。

 

トド松をリンチする姿勢からみられるように、彼らは一貫して嘘を憎んでいます。彼らは嘘つきをリンチし、嘘のない、対等で平等な世界を信じ切って六人でひとつであり続けようとしてきた。その結果彼らが陥った場所がここです。これは美しい世界以外を見つめなかった報いです。

 

当然ながらこれまでも、にゃーちゃんやトト子ちゃんや彼女の住む世界には嘘があり、それはスタバァの店員の完璧な笑顔にすらあります。六つ子はそれからずっと目を逸らしてきました。コンテンツとして提供される笑顔の裏側には、イヤミやチビ太のほくそ笑む顔が潜んでいます。彼らが愛した女たちの向こう側にはもちろん無数のイヤミやチビ太(彼女たちを男のためのコンテンツとして成立させようとする男たちの視線)がある。それはこれまでだってずっとそうだった。ただ知らなかっただけ、気づいていなかっただけ、もしくは、知らないふりをしていただけです。

そして彼らは徹底的に夢を破壊され、圧倒的な不信だけを抱くことになりました。

 

10話は本当によくできた精密な話で、「女というコンテンツを男のために作るのは男」ということだけではなく、「労働の価値とは何か」というところまで突っ込んで描かれています。

「労働の喜び」とは「正当な報酬を得、その報酬で何かを購入すること」であるということに六つ子はあまりにもあっさりと目覚めるわけですが、その夢はほとんど即座に叩き壊されます。「払った金に見合うものだったか?」という問題がすごい勢いで叩きつけられたからです。

労働を始めるとしばしば陥ることですが、「大人になったから遊ぶのをやめて働かなきゃいけない、働くとどうなるか、金がもらえる。金がもらえるとどうなるか、女が買える。女が買えたからなんなんだ?」という状況に六つ子はたった数分で突っ走りました。実際のところ人生においてはそのシーンで、「女(ないし任意のコンテンツ)を買う意義」を捻り出したり、「金を払うにふさわしい意義あるコンテンツをあてどなく探す」作業になったりして、それなりに折り合っていくわけですが、六つ子は凄い勢いで「つまり労働とは無意味である」という結論に直滑降していきます。イヤミとチビ太がおれらをだまして金を巻き上げたのなら、おれらもおれらでイヤミとチビ太から金を巻き上げ直せばいいだけの話です。金を稼ぐなんて簡単だということはよくわかりました。で、金を稼いだから何なんだ?

 

「大人になること」は「ニートが脱ニートすること」ではない、ということを、おそ松さん10話ははっきりと突きつけています。

「大人になること」はたとえば「社会」と繋がることであり、たとえば「他者を他者として受け入れあうこと」であり、たとえば「金の使い方を覚えること」であり、たとえば「世界に溢れる嘘を見抜くことや受け入れること」であり、それができないから六つ子は「大人になれない」。彼らには現実が常に叩きつけられる。金を稼いだから何なんだ? 女にモテたから何なんだ? なんのために生きてるんだ? こんなに退屈なのに?

 

それはあと14話で見つけるんだよ。

ドラマCDまで突っ走れ!(ついていきます!)

「きみがどんなクズだって、あたしはきみと一緒にいるよ」

これまでわたしのエントリを読んで「腐女子のバイアス」だの「CP厨の意見は結局偏向がある」だの言った連中はこれを読んで撤回しろ!

これが!

腐女子が腐女子として!

書く文章です!!!!!!!!!!!!!!!

 

というエントリを書かないとどうしても10話感想に入れないので悪いんだけど10話の分析の前に「チビ太がかわいい」という話をさせてください。チビ太がかわいい。本当にかわいい。切ない。かわいい。そして一松がかわいくてかわいそうで仕方がない。一松とチビ太の話をします。興味がない人も地雷の人もみんなさっさと帰って。一松とチビ太の話を! 腐女子が! します!!!!!!!!

 

いやわたしこれまでは極力冷静にバイアスをかけずに(おそ松兄さんに関してはバイアスがかかっているのは知っているのでかかっているよと言及したうえで)文章を書くように気を付けていて、たとえばわたしは腐女子なので(腐女子です、ちなみにここでいう腐女子の定義は、任意の男二人もしくはn人の間にあるものを愛好する上で(本編で言及がなくとも恣意的に、言及があればそのままに)恋愛や性愛を読み込む、またそのような創作作品を愛好する女性のことです、男性は腐男子)あいつらがゲイもしくはバイであるという前提において妄想をするわけですが、それと作品理解はまた別の問題であるというか、あいつらがバイじゃないとは言ってないです、「全人類がバイの可能性を秘めているように、その可能性はあるけど、本編で出てきていない以上、それを前提とした分析はしない」ということをやっていて、それはかなり気を付けてやっていて、そこをバイアスバイアスと言われたら脳天がブチ切れる。

いやまあ腐女子なのは確かなのでバイアスたしかにかかってるのかもしれないんですけど、だからまあ八つ当たりなんですけど、でも問題は、わたしの腐女子としての感性はおそ松さんを観ている間どんどん損なわれていく途上にあったということです。もはやわたしの脳内ではだれひとりセックスをしておらず、「カラ松兄さんがここまで追い込まれてしまっているというのにこの上性的搾取まで行うのはいかがなものか」という倫理委員会が幅を利かせていました。倫理委員会様のおっしゃる通りでございますと言って腐女子のわたしは小さくなって、どうしてこんなことになってしまったんだ……わたしはなにもセックスまでしてくれなくていいからそこまで高望みはしないからいやしてくれて一向にかまわないけど、わたしは別に愛し合う男が腕枕をしたりハグしてスヤスヤ寝ているところを想像するととても幸せな気持ちになるし世界はハートフルで安心していいんだという根拠のない確信を抱いて日々をやっていくことができる、おそ松さんというアニメがどんなに過酷な現実を描こうと、あれは六人もいる男が好きな組み合わせでキャッキャウフフをしているところを楽しく眺められるということだけは確かなアニメではなかったのか!?(腐女子の感想です) なんで「カラ松兄さん一松の隣に寝るのやめたほうがよくない……? だってその男カラ松兄さんに石臼投げたよ? 十四松と席替えしてチョロ松のとなりで寝たら? あっでもトド松を長兄ふたりの間という強固な壁から出すのはかわいそうだな……わたしなんの心配してんの!? 違うよ!!!!! ああっ全然世界がハートフルじゃない!」とか言いながら「一松はカラ松が好き」「そんなわけないのでは?」「一松はカラ松が好きかどうかはカラ松には関係ない」「もう一松とカラ松のことを考えるのをやめたい」「でもあいつら隣同士で寝てるんだよ!? 今日も! 今も!」みたいな生活を送っているのに

腐女子のバイアスがどうとか

やかましいわ!!!!!!!!!!!!! そんならわたしだって「なにがあろうと一松とカラ松の間には絶対に離れられない強固な絆がある、それが愛でも憎悪でも共依存でもなんでもいい、わたしは、それを、信じます!」ってエントリを! 書くよ!!!!!!!!!!!!! おそ松とチョロ松でも一松と十四松でも十四松とトド松でもチョロ松とトド松でもいいよ!

でも「何も信じられない、でも面白い」つってんだよ!!!!!!

来週も自CPの間に何らかの信頼関係(あるいは憎悪)がきちんと介在していると信じることができないというのにいったい何に萌えろというのか!?

 

 

(※今現在おそ松さんBLで楽しくやって盛り上がっている人を否定する意図はまったくありません、というか、pixivではお世話になっております……わたしの脳内にはないものがあそこにはある……)

 

 

って感じだったんですよね。

って感じだったんですけどもうむりチビ太がかわいい。

今後わたしがチビ太について言及する時はおおむね腐女子のバイアスがかかっていると思ってくださって結構です。結構です!

何故ならあいつは「可愛い女の子になりたい」と言ったからです!

 

以前も少し触れたと思うんですが、わたしが旧アニメ(平成版)観てたのって、ちまちました絵柄がかわいいとかボーっと観れる昭和のギャグが気持ちいいとかそういうのを凌駕して、「チビ太がかわいい」でした。たぶん8歳か9歳くらいだと思うんですが、そこで感じていたのはたしかに「リビドー」だったと思う。旧アニメのチビ太にはわたしのリビドーがめちゃくちゃに詰まっている。

で、原作最近読んで、原作もまあめちゃくちゃにかわいいんですよね、チビ太が。いや、原作ではチビ太というのは「あの外見をした人間」全員につく名前なので(子供ですらないこともある)、全部好きなわけではもちろんないんですけど、ママになりましたとか金庫破りとか、そういうやつ、「六つ子に往々にしていじめられ、もしくは絡もうとしてこっぴどくやり返され、家庭ある六つ子と比べて孤独でというか明らかに孤児である描写も多く、独立独歩の生活を営んでいて、孤独で辛いとはあまり言わないけど代わりに、愛するものが欲しい、家族が欲しい、愛し合いたいと願っていて、真っ当な人間として生きたいという願望すらあって、それをかなえようと必死で生きている」「甘えん坊だけれども、甘え方すらろくすっぽわからない」「六つ子と遊びたいけれど、どうやったら一緒に遊んでもらえるのかわからない、たいてい喧嘩になる」「イヤミには騙される、ときには優しくしてもらえるけどなかなか信頼関係が築けない」「ハタ坊にもさっくり裏切られることの方が多い」。

全話把握しているわけではないし原作も実は全部読めてないので、大分恣意的な話をしているとは思うんですが、少なくともこれが「わたしの好きだった」チビ太です。真っ当に生きることも、愛される方法もわからないまま、孤独な人生を、せめて明るく強く生き延びていこうとするけなげな男の子です。わたしはぬくぬく暮らしてやろうと思えば六人がかりでタコ殴りにできて無邪気に群体を生きてる六つ子が嫌いでチビ太が好きで、イヤミのことは好きだったしとてもセクシーだと思っていたけど信頼できない大人であることが切ないなあと思いながら観ていました。

「チビ太が切ない」、おそ松くんというアニメはわたしにはそういうアニメでした。

 

で、おそ松さんです。

おそ松さんにおいて、チビ太という青年は、おでん屋の主人という一国一城の主となって、おそ松に「人生」を語ってみせる、「立派な男」に成長していました。わたしは寂しさと嬉しさの寂しさの方が多いくらいの感情で、「ああ、こいつは、大人になれたんだなあ」と思っていた。チビ太が至った世界観はマッチョ極まりないけれど、かつてあのナイーブな少年がカエルや猫や時には赤ん坊を愛することで表現しようとした「愛されたい」という甘やかな切なさはもうほとんどどこにもなくて、ただ松野兄弟に夢を仮託するという形でしか口にできなくなってしまったけど、「少年が大人になること」として、とくに「孤独な少年が孤独な青年になること」として、こういう形で結論を出すのは、自然な流れだし、そうなるしかないよなあと思った。

何よりチビ太が、かつて「憧れの象徴」「せめて夢見ることのできる範囲の温かなともしび」であった「おでん屋の屋台」の主人になっていることがとても嬉しかった。たぶんチビ太はかつてのチビ太のような子供を見つけたら(平成の世におでんに憧れる小学生なんてたぶんいないんですが)飯を食わせてやるんだろう、9話でカラ松にやったのは、つまりそういうことだったんだと思います。チビ太にとっておでんは家庭の象徴で、家なき子にも温かなものを与えてくれる場所だった。

チビ太は大人になれた。あらゆる意味で最も完璧なかたちで大人になれた。下手したら六つ子より年下かもしれないチビ太(設定によって年齢にブレがあるのでわかりませんが)が、カード払い可Wi-Fi完備の「ハイブリットおでん」をやっているのは相当のやり手と言って良いと思う。なんだかんだと言いつつ六つ子に好き放題に飲み食いさせて食い逃げされても経営に支障はない程度の財力がある。

 

にもかかわらず、10話でチビ太は、「女装」をし、そして「変身」をして、「レンタル彼女」になります。

彼はおそらく金に困ってはいません。六つ子に踏み倒されれば腹を立てますが、それはやり込められたことや馬鹿にされていることに憤っているのであり、困っている様子を見せたことは一度もありません。誘拐の際に求めた「100万円」はおそらく金の問題ではないという話は以前しました。「レンタル彼女」という業務が性風俗と呼ばれる範疇なのかわたしは把握していないんですが、少なくともおそ松さん10話においてあれは完全に「売春」です。チビ太はもう独立して生きている一人の立派な大人であり金もあり生活ができていて自分の店があり、ゴザを引いて座って春をひさぐ、完全にあれ「春をひさぐ」という構図でしたが、必要は全くないのです。

にもかかわらずチビ太はそれをしました。

イヤミが「チビ太の女装はきっとかわいい」と言ったからです。

あの男は、「男らしい男」として生きることを選択したように見える、いつも「男らしく」格好良くきっぷの良い兄貴のように振る舞っている、そのようになったチビ太が、それなのに「きっとかわいい」の一言で、簡単に「かわいくなりたい」と思うということ。

すごくないですか。わたしはすごいと思う。

これはフォロワーさんから指摘を受けたんですが、おそ松くんのチビ太の女装回ってたしかにアニメでも原作でもけっこう多かったんですよね。そして女の子のふりをしたほうがかわいいって言ってもらえる。というか男の子のチビ太をかわいいと言う酔狂な人は基本的にいません。

つまり彼は子供の頃から、「女の子になったらかわいがってもらえる」という世界を生きてきた。

すごくないですか。わたしはすごいと思う(二度目)。

 

チビ太にはもう誇れる職業も自分の城も金も思想もあって、でもチビ太のそばには相変わらず誰もいません。トト子ちゃんは呼んでくれたけどどうせ頭数だし金は毟られるし、ハタ坊の誕生会には呼ばれなかったもしくは行かなかった。昔たびたびつるむことがあったイヤミは一度も飯を食いに来たことはないし別に頼めばおでんの少しくらい分けてやるのに頼みすらしない、六つ子はただ飯は食いに来るけど一緒に遊びに行こうとか誘ってくることは絶対にない。彼の人生はいまでもとても孤独です。

そうして彼は「かわいい女の子」になろうとした。「かわいいって言ってもらえるから」。格好良い大人の男になっても、だれも彼を愛することはない。でも女の子なら?

そして「女装」と「売春」を六つ子に侮辱されたチビ太がイヤミとともに行きついた先が、デカパン博士の提供する薬による「変身」です。

「変身」している間だけ、彼は六つ子(のなかの三人、おそ松と一松とトド松が彼を選びました)のためのアイドルになれました。彼らはチビ美ちゃんに夢中で、好きで好きでたまらない、有り金を全部払って一緒にいたいと言った。そうしてチビ太は彼らを弄んで金を思うさま巻き上げ心を蹂躙し、その後、その報いを受けました。

 

 

さて「男たち」の話です。

詳細は次のエントリに回しますが、「男たち」のなかで「女」を今まで求めたことのない青年がひとりいました。松野一松は兄弟と、兄弟共通のマドンナトト子ちゃん以外の人間に心を許したことがありません。というか兄弟やトト子ちゃんを「好き」だとしても「気を許して」いるかどうかは微妙なところです。「他人が怖い」「友達なんていらない」一松は、兄弟がそばにいてくれればそれでいい、そして兄弟と一緒だから、トト子ちゃんにだけはおもうさまきゃあきゃあ言うことができた。

そんな一松が「女」と「ふたり」で「デート」をしたのは、たぶん、チビ美がはじめてではないのか。

それどころか、兄弟以外の「他人」と、望んで関係を持とうと願ったのは、チビ美がはじめてではないのか?

 

「千円払うと一センチ近くに来られる長いストロー」は、一松をあしらう方法として完璧です。一松は「近くに行きたくない」けれど「近くに行きたい」、「ひとりは寂しい」「友達が欲しい」。一松は「長いストロー」を介して彼女と向き合うことで、「短いストロー」について考えることができた。それを渇望することができた。そうして彼は勤労し、「短いストロー」の距離に他人を置いた。たぶん学生時代ぶりに。もしかしたら学生時代だってそんな距離に他人を置いたことはなかったかもしれないくらいの距離に。

 

彼の夢の女神は彼の幼馴染です。松野一松という男をよく知っています。だから彼女はこう言うことができた、言わないにしても態度で示すことができた。

「きみがどんなクズだって、あたしはずっと一緒にいるよ」

 

そしてチビ美ちゃんなんてものは存在しないとしても、そこで一松が欲しかったものとチビ太が欲しかったものは、本当に存在していて、彼らは、それを差し出して、孤独を埋め合うことが、できたんですよ。

少なくとも夢を共有している間だけは。

 

そして今でもやろうと思えばそれは不可能ではないのにすべては終わってしまって圧倒的な不信だけが残りました。

 

 

ヴァー。

 

 

ということで10話を観てから放心状態ですというご報告でした。次からは元通り冷静なエントリを書くようにがんばるぞい。

ところで変身願望と言えば赤塚不二夫不朽の名作「ひみつのアッコちゃん」なんですがなんかうまいこと繋がったりすんのかな、ていうか「カラ松の手鏡」との関連性とかも引っ張っていいのかしらん、みたいなことをぼんやり考えているところですがひみつのアッコちゃんなんて4歳くらいの頃に観てただけなので(コンパクトが欲しかったのですがうちは貧乏なのでそんなものは手に入らず母の使い古しのファンデーションを使ってテクマクマヤコンと唱えていました)、なんか言おうと思ったら原作買うとかアニメ観るとかしないといけない。

笑うことができなくなった芸人オタクだった頃についてとやっぱりおそ松さんについて

M-1グランプリ2015開催とトレンディエンジェル優勝おめでとうございます!

といってもうちにはテレビがないので一切観れてなくて、というかテレビがあっても観る勇気が持てたかわかんないのですが、「開催されること自体全然知らなかった」ままでなんとなく受け流して終われたこと自体に「ああ時間が過ぎたのだなあ」という気持ちになりました。麒麟のファンでした。というだけでわかる方には「ああ……」と思っていただけるかと思うのですが、麒麟という漫才コンビはM-1グランプリの歴史と共に注目され、そして一度も優勝経験のないコンビです。M-1グランプリが開催されていた十年間、おそらくわたしを含むあまたのファンが「今年こそ」と思いながら一年を過ごし、「せめて決勝に上がってきてくれ」になり、「今年もつらい顔を観るのか」になっていった歴史とともにありました。敗者復活戦をぼーっと眺めながら、「上がれんのかなあ、これむりじゃねえかなあ、○○は今年は堂々としてるなあちゃんと客席見てるし……」とか言いながら過ごすクリスマス(だいたいそのへん)。

そんでそれいい加減だめだこりゃと思ってわたしは彼らを追うのをやめたのでした。

だめなのは彼らではなく(もちろん彼らであるはずがなく!)、笑えなくなってしまったわたしのほうにあります。

 

文脈上麒麟の名前を出さざるを得なかったのですが(M-1グランプリと麒麟の因縁と、わたしのこじらせは全く切り離せないものです)これは麒麟の漫才がどれだけおもしろくて、どれだけ技巧的にも非技巧的にも優れていて、どれだけナイーブなものをナイーブでなく分かち合っていたかみたいな話をするためのエントリではないので、かつて大好きだった漫才コンビを褒めたたえる趣旨のエントリではなくてなんだか申し訳ない。というか「現在」の彼らが何をやっているのかわたしは全く知らないので、その立場でそのへんについて喋ることなど全くできないと思う。少なくともわたしの知る限り本当にすばらしい漫才をやるコンビでした。狂気と正気の区別がつかなくなる瞬間というものがあそこにはあったし、他人と他人がわかりあえないということもあそこにはあった、そしてにも関わらずコミットしてゆくことの幸福さがあそこにはあってそれこそが麒麟の笑いの真骨頂だと思っていたし、それを目撃できたことはとても幸福なことだった、いまだにわたしは風呂に入るときに「おーゆ、おーゆ」と言います。

 

なんの話をしようとしているかというと、「ギャグ」を生きていこうとする男たちを愛し続けることのなかにあった「つらさ」と、それを抱いてしまったらもうそれは愛ではないのではないかとまで思うに至った経緯の話です。そう、つまりおそ松さんの話を、というかおそ松さんを観ているわたしの話をしています。

 

2006年の冬だったかと記憶しております。わたしは気づかぬまま既に発症していたらしいパニック障害に苦しみながら卒業論文を全没にして書き直していました。スタバでへんなおっさんに声をかけられて「これを聞いている間は資料を読まなくていいから」という気持ちでボーっとおっさんの身の上話を二時間聞いていたこともありました(おっさんは何故かスタバのオリジナルブレンドを一袋買ってくれました)。なにもかもすべてがよくわからない世界に突入しており、わたしは元気よく就活から脱走しました。周囲の人々にはでかい口をいろいろと叩いていましたが、脱走したのは歴然とした事実です。ほんと何にもわかんなかった。いっぱい寝て家にいたかった。わけがわかるようになるまで何にもさせないで待っていて欲しかった。文章を書きたかった。自分のための文章を。

そのころわたしが行くべきだったのは会社説明会ではなく病院だということに気づいたのはフリーターになってから上司の前で泣き出したり扉の鍵をかけられた気がしてパニックになったりするようになって以降のことです。

 

M-1グランプリをいつから観ていたのかは記憶にありません。2005年は観たような気がするし、その前も観ていたのかもしれない。というのは麒麟のファンだったのはもともと姉で、彼女は色々な事情があって(プライバシー保護)必死でお笑い芸人の青田買いをするためにあらゆる手段を使ってお笑い芸人が出る番組をチェックしていた時期があり、わたしと姉は昔から今まで仲が良いのでしばしば一緒に観ていたわけです。でもわたしが暗い部屋で毛布をかぶって2005年のM-1グランプリの麒麟一本目を何度も何度も眺めたのは2006年、DVDでのことでした。コントDVDを観て、いろいろな番組の録画を観て、笑っている間だけ自分の置かれている環境が相当追い詰められていて未来の展望とかとくになく、とにかく何もかもが怖くなりつつあるだけだということを忘れていられたし、

同時にそのことをしみじみと噛みしめることもできたのです。

コンテンツ化された笑いにはいろいろな種類のものがありますが、少なくともわたしが当時愛好して心から笑っていたのは、「絶望に近い狂気」の匂いと、「演じているときが最も美しく、それ以外の時は内気な青年になってしまう」切迫感と、そして「そこにはとにかく相手がいて常に返事をしてくれる」という環境、承認のある小規模な世界でした。川島さんが真面目でおとなしそうでギャグを言う時だけ目が輝くような青年であることや、田村さんが純朴で一生懸命な青年であることや、彼らが若手の中では名前が売れているにしても別にまだ全然レギュラー番組の数も少ないようなところで必死にやっていることは、たぶんあの時全部不可分だった。「だからこそ」しみじみと笑うことができたと思っている。

絶望することと笑うことはとても近くにある、ことがあります。多分。

 

で、「そういう人たちがやってるからこそ」好きだということは分かっているにもかかわらず、「そういう理由で底上げして笑ってほしくない」というのが、彼らはどうだか知らないけれど芸人オタクとして彼らを眺め続けていると嫌というほど感じる「空気」でした。

彼らは学歴も職歴も関係のない、ただ空気を掴むことに成功することができた人間だけが勝者である世界に立っていて、そこにおいて、「ごちゃごちゃ言わんと笑たらええんや」(これ言ったの誰でしたっけ?)という言葉が真実であり全てであるというのはわたしは十分知っていたしそれを確実にあの頃内面化していた。田村さんのかなりひどい中学生時代が有名になったとしてもそれが笑うどころではない話であったとしても、それは最終的にはそれをネタにして笑いを取ることが目的にされなければ「彼の仕事」は完成しない。

「笑わせた人間が勝者」であるあの空間において、ファンがすべき行動は「笑うこと」であり、しいて加えるならば「笑えなかったらつまんねーぞと文句を言うこと」です。

M-1をろくすっぽ楽しむどころではなくなったのが何年ごろだったか思い出せませんが、「あ、やめよう」と思いました。

あのぴりぴりした緊張しきった空気の中で作られる漫才がめちゃくちゃ面白いことはわかっていて、知っているのにもう点数に一喜一憂してああここがだめだったんだなとか言いたくない。言いたくないにも関わらず言うようになってしまった、おなか痛いなと思いながら観るようになってしまった、のは「良いファン」ではないなと思った。やめようと思った。それから笑い飯が優勝するまで観たことは観たはずですが途中からかなり「無」になっていたような記憶があります。笑い飯が優勝できて本当に良かった、でももはやあれが「笑い飯がここで優勝しないと絵的にまずい」じゃなかったと本当に言い切れるかと言われたらわかんねーなと思いながら観ていた。しんどかった。

 

しんどくなってしまったのはわたしの問題なんですよ。トーナメントは実際つらいけど、あっちとこっちのどっちがいいかとかそんなんややこしいわと思うけど、とにかく若手がコネ関係なく自分の技術だけで場所を勝ち取れる公正な場所です。たぶん。

 

コンテンツ化された笑いのなかには、「それを笑い飛ばすことができるチキンレース」をやっている側面が、すべてではないが確実にあって、そしてレースをやっているのは演者だけではなく客席の人間もそうだ、という状況がある。「笑わせることが格好良い」世界に彼らは住んでいて、それを共有するこちらも「笑わせている彼らは格好良い」と承認する形で笑い返す。そのやりとりがあってはじめて「笑いというコンテンツ」は成り立つのであって、そこで「笑えなかったけどでも面白かったよ」は、掛け違っている。

ギャグを観て笑うことの裏側には、ギャグを演じている彼らの人生があって、その人生に思いを馳せながら笑っているうちはいいんだけど、その人生を笑うしかなくなってしまった経緯についてふと思いを馳せてしまうと、うっかり笑えなくなる瞬間がある。それはでも「ダサい」ことだと思う、わたしも思うし、そう思う人はたぶんすごく多い、少なくともあの頃目にする言説はみんな「白ける」のは「ダサい」と思っていて、わたしは「良いファン」でいたかった。だから彼らを、関西吉本若手芸人を、baseよしもとを追っかけるのをやめました。うまく笑えなくなったから。

 

という経緯を経ていまおそ松さんにハマっているわけです。

 

わたしはおそ松さんを「笑ってないファン」として注目を浴びて、いろいろなリアクションを貰ったわけですが、「ダサい」というのは相当印象深くて、そして、「ああ知ってる、ギャグを観て笑わないのはダサいことなんだ、わたしもそれをよく知ってるよ」と思った。それはかつてわたしが内面化してわたしが自分で自分を裁いて自分で自分を追放した言葉だったから。笑うべき場所で笑わないのは実際にスタイリッシュではないことなんだと思う。そういう世界観は確実にある。

でもわたしはあのアニメはそんなことわかっていてやっている、と、思って観ています。

おそ松の孤独もチョロ松の恥ずかしさもトド松のリンチもカラ松の追放も一松の恐怖も十四松の思考停止も、全部、相当ぎりぎりのことをやっていると思う。「笑うか笑わないかを決める」のはこっちで、「笑えるか笑えないかを試している」のがあっちです。そしてそれはどちらにも、常に、残酷な側面が含まれている。十四松が笑わせ続けた彼女を十四松が引きずりよせて抱きしめて肯定することができなかった残酷、笑い続けることによってそこにある涙や痛みや苦しみに蓋をする残酷。おそ松さんというアニメはそれをいつもきちんと突きつけている。それは確実にあのアニメのひとつの側面です。そしてそれは「クズニートという社会的弱者」を高みの見物で笑い飛ばすアニメのスタンスとして誠実だと思う。彼らがどれほどクズであってもそこに恐怖や絶望や孤独がないわけではない。

そしてそういうファン、かつて笑えなくなった自分を裁くことしかできなかったようなわたしすら、取り込んでしまった、笑うことは残酷なことだと思いながら笑ってもいいのだと差し出してくれているとわたしは思っているし、そのことにとても感謝をして毎週笑ったり、笑えなかったり、これひどすぎるだろと喚いたり、しています。

 

そして重要なことなのですが、おそ松さんというアニメは、「残酷であるからこそ呻きながら楽しんでいる層」「残酷であることを平気で笑える層」から「残酷であるなんて何も思わない層」まで、きれいに全部取りこぼしなく取り込んで、そのどこに向かっても面白い話を作ろうとしていて、実際成功している。

それは驚くべきことだし、あのアニメをどのような形で楽しんでいるファンもどちらが悪いどちらは正道ではないということはなくて、全部、受け入れられているのだと思っています。凄いことだと思う。

 

というわけでわたしは楽しくあのアニメを見て呻きますので、あんま指さして笑わないで、ほっといてくださいな。

わたしはギャグと和解できて嬉しいのです。