「描きたいこと」と「伝えたいこと」について

以下の文章はウェブショップでやっている「萩ゼミ」という創作講座のテキストとして書かれたもので、そのテキストが冊子形態で売り出せる見通しがさっぱり立たない(進捗的な意味で)ので、まあこのくだりサビの部分でゼミで死ぬほど何回も繰り返すのでブログに投げておこうと思って投げました。

萩ゼミというのは昔わたしがask.fmでやっていたことを一時間~長くて三時間くらい(盛り上がるとずるずる長引く)延々としゃべっては質問を受けしゃべっては質問を受ける場所で、有料です。有料なのはいい加減金を取るべき濃さなのが半分、あとの半分は不要なノイズを弾くためです。

水金土日祝開催、平日22時から休日24時から。内容や時間帯などご相談いただければ融通がききます。黙ってても酒飲んでても大丈夫。どなたさまもお気軽においでください。

……というのをテキスト媒体に起こしてくれと言われ続けてもう半年くらいになるのでいい加減起こそうとして四苦八苦しているんですけど、マンツーマンだと伝わったかどうか確認できるけど文章は大多数に向けて発信するわけで原稿を書くのがとてもつらい。

とてもつらいという気持ちを押して書いているのだということを念頭においてもおかなくてもいいですがとても大変な思いをして書きました!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(主張)

なおnoteに置いているものとはちょっと違う内容ですが言いたいことは同じです。noteのほうがもうちょっとわかりやすいはずだ。と思う。

 

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ゼミをはじめてから二か月ほど、質問持ち寄りで、どういうことでお悩みですか、相談に乗って考えていきましょう、といった感じでやっていました。

実際作品を作る方からの相談を受けてどうこう、というのが多かったのですが、そうやってご相談をお受けしてみたところ、どうも、プロット以前、物語を作る以前のところの作業をもう少しやったほうがいいのではないか、ということがとても多かったのです。

集まった質問の内容は、具体的にはこんな感じでした。

・エピソードが広がらない

・話が一本調子で、おもしろみがない

・考えたできごとやキャラクターの動きがご都合主義で不自然な気がする

どれも、結局のところ、「お話を組み立てるうえで、おもしろくする方法がわからない」というご相談です。ひいては、「キャラクターの外側にあるものがうまく作れない」ということです。この章では、「描きたいキャラクターは用意できた」という前提において、「キャラクターの外側を構築する」方法について考えていきます。

以前から友人からも、「事件性のある話が書けない」「社会のある話が書けない」といった悩みをちらほら聞いていました。

「事件」「社会」つまり、「主人公の外部にあるもの」や「主人公に起こった出来事」をどう設定したらよいか、わからない、という状況です。恋愛を扱った作品、特に二次創作では、このような状況に陥ることがよくあります。主人公、もしくはカップルが存在している、というところまでは想定できる。好きなキャラクター、もしくはカップルを描きたい気持ちはある。描くために、「何か」を起こしたい。でも「何」を起こせばいいのかわからない。

1、まずキャラクターがいる、もしくは舞台がある。

2、そこに「事件」が起こる。

これはプロットの最小限のサイズです。物語には必ず「事件」が起こります。「事件」あるいは「できごと」あるいは「異変」「ノイズ」。

それは日常から脱出すること、もしくはさせられることです。

「事件」という言葉では大きすぎるかもしれません。「殺人事件」や「大災害」、あるいは大恋愛のはじまりなどを想起してしまうかもしれませんが、必ずしも大きいものである必要はありません。

普段始業ぎりぎりまで寝ている人が、五分早く起きることができた。

いつものスーパーで、好きなお菓子が半額だった。

普通は通り過ぎてしまう道端に、手袋が落ちていた。

「この物語での、いつもの風景」を設定すること。そして、そこから、「違う風景」へ移動すること。

これが「舞台」と「事件」の関係です。その移動の距離や齟齬は大きくても小さくても、どちらでも構いません。

重要なのは、この物語は、何のために存在するのか? ということです。事件のサイズはそこから導き出されます。

「物語を書こうとするとき、それを書くことでなにを描きたいのか」

「物語を書こうとするとき、それを書くことでなにを伝えたいのか」

このふたつをまず明確にしましょう。

 

 

2、イメージとテーマ

 

「描きたいこと」を明確なイメージにするということは、自分にとってこの物語の核になる部分、モチベーションになる部分、そこは絶対に外せないという部分を用意して、それを中心に描いていくために役立ちます。キャラクターの魅力に迫る話が書きたいのなら、キャラクターの中の最も魅力的と思える部分、もしくは今回特に取り上げたい部分はどこかしっかりイメージしましょう。

対して「伝えたいこと」は読者へ向かって差し出したいもの、もしくは突きつけたいものです。その読者は自分自身でも構いません。読み終わった人にどういう感想を持ってほしいか、どういう感情で読んでほしいか、どういう情報を持ち帰ってほしいか。これは物語のテーマであり、もしくは問題提起です。

二者は同じようでいて違うものです。

「キャラクターの魅力を描くこと」と「キャラクターが魅力的だと伝えること」は、同じ目的ですが、プロットの作成において違う作用をします。

「キャラクターの魅力を描くこと」は、情報を絞り込んでいく行為です。「どうしてもこれだけは外せない」情報だけを残して、それを最も効果的に使えるプロットを考えます。

「キャラクターが魅力的だと伝えること」は、情報を広げていく行為です。「魅力を感じるとはどういうことか」「誰に魅力を伝えるのか」「どんなふうに伝えれば伝わるのか」伝える相手を、架空の存在でも構いませんので具体的な相手を想定して、その相手により伝わる方法をたくさん考え、広げていきましょう。

「伝える相手」「読者」とは実在の誰かでも構いませんが、その相手に読んでもらえることを期待するよりも、まず自分自身にとって面白いものを書こうとするほうが目標としては現実的です。アマチュア作家にとって、自分自身は最も読者になってくれる可能性が高い存在です。絶対に読んでくれる(読み返してくれる)とは限りませんが、それでも、自分自身にとって面白いものであることで、書きあがりを楽しみにすることができます。

「自分が描きたいものを書くこと」と「自分が読んで楽しいものを書くこと」。それが何であるかを考えること。

これが「物語の始まるところ」にあるもの、プロット以前、事件以前にあるものです。

これは両方必要です。自分が書きたいものと、相手に読ませたいものは、同時に、感情と風景、抽象と具象のバランスを取ることにもなります。テーマは抽象、イメージは具象です。

物語という語におけるストーリーとナラティブについての認識の確認

物語というのは「物」を「語る」ことであって、叙述する語りそのものおよびそれによって生み出されるものを指しますが、日本語で物語という言葉は手あかがつきすぎていろいろな意味がくっついているのでここではナラティブと呼びます。民話伝承の現場において、「おはなし」というものは「口承で語られるもの」として発生し、それは時に観衆の影響を受けまた語り手の介入によって変質しました。特に日本語における物語という語は「竹取物語」「伊勢物語」「源氏物語」などから見られるように、あんなことがあったみたいだよ、みたいなおしゃべり的な意味が含まれていました。

対してストーリーとは出来事を形態としてパッケージングしたもので、わたしは厳密に言うとこれは物語ではなくストーリーはストーリーだと思いますし適当な日本語の訳語が思いつきませんが、というのは日本におけるフィクションとは口承文学の側面がすごく高いからです。源氏物語だって声に出して読むことが前提の作品だし文体も語り口調、平家物語はもちろん語るための作品、日本文学ははなしことばから切り離せない関係にあります。はなしことばで語られるということはだらだらいつまでも話し続けてもいいということです。オチは物語という言葉それ自体に含まれてはいない。

ウラジーミル・プロップによるストーリー分析で扱われているのはタイトル通りフォークロアですが、ストーリーとは何かという話をするときこの話になるのではないかと思う、ストーリーという言葉の語義についてはこれ以上突っ込んだ話はわたしはそちらの文学的知識がないのでできませんが、ストーリーは「最初から最後までの構造それ自体」を示し(プロップの構造分析もオチまでの構造が重視されている)、ナラティブは「語ることそれ自体」を示すという理解をいまのところしています。

そしてストーリーをどう構成するかがプロットです。プロットがあるものはストーリーであるという認識でおおむねいいんじゃないかと思う。このへんは若干自信がない(そっちの文学史に明るくない)。

 

というわけでキャラクタービジネスに物語がないのではないかという指摘に対して(の話題ですがリンクとか特に貼りません)、ないとしたらそれはストーリーであってナラティブではないし、ナラティブのないキャラクターは存在しない。初音ミクを例にとるなら初音ミク「昔々、初音ミクという女の子がいました、こんな外見で、こんな声で、この子にみんな歌を歌わせることができますよ」までを公式サイドが提示しており、これはナラティブです。その上で、初音ミクはクリンプトン社において二次創作が公認されているので、その後ファンによるナラティブの拡大まで含めて商品であり作品だったわけです(ここまで拡大するかどうかを当初想定していたかどうかはさておいて)。

少なくとも日本はその意味でキャラクタービジネスをナラティブとして受容し拡大するに適した土壌であり、そもそもが光源氏というキャラクターからしてべつにああいうオチになると決まっていたわけではなさそうな説が今のところ主流だったと思う……多分……あれ(そういう言い方をすればだけど)キャラ萌えありきで伸びた話だと思う……。これは確定資料がないので何とも言えるのはまあそうなんだけど……。

 

というわけでキャラクタービジネスはストーリーテリングが蔑ろにされがちではという指摘に対しては

  • キャラクタービジネスとストーリーテリングは別に相反しないしキャラがよくてストーリーもよくてついでにいえばナラティブとしてのアプローチもよいということはフツーにある
  • オチがついてなきゃ物語ではないというのはナラティブとストーリーを混同しているしナラティブがストーリーにエンターテイメント性で劣るということは別にない
  • キャラクターがあるところナラティブは絶対に存在する

 

以上です。

同人作家に感想を送るということ

まずはじめに、この話に正解はありません。テンプレもありません。

なぜならコミュニケーションに正解はないからです。

 

同人作家に感想を書いて送ることが迷惑なのかそんなことはないのか、という話をします。

何故同人作家に限るか、専業作家は別問題として扱うかは後述します。

先に行っておきますが、「送るな」と言っているわけではないんです。「何気ない一言のつもりだったのにそれが最後の一撃となって心が折れて筆を折る人はいる」「ましてや熱量のこもった言葉を浴びせられたら」「そして同人作家のメンタルを守ってくれるマネージャーはいないんだ」という話です。そして感想を送られたい人は「送られたい人です! むしろ何も褒めるところがなくてもわたしを褒めろ!」みたいなことをばんばん言うべきだと思います! 逆に感想を送られたくない人はそういうオーラを出す練習をしよう……。

そして感想を送られたくない人に高尚乙とか何被害者ぶってんのとか言うのやめてやさしく見守ろう……いろいろあるんだよ……。

 

まず第一に、同人作家というのはひとつのカテゴリの生き物ではありません。それは単に「作品を発表している人」にすぎません。

インターネットに何故文章を置くかというと大抵読まれたいからですが、それは大抵そうでしょうが(もちろんそうではない人も少数であってもいます、覚えやすい場所にアーカイブしておくと忘れないからとか)「読まれたい」ということの先に「そしてリアクションが貰いたい」があるとは限らない、というのが第一原則です。

たとえばpixivにはデフォルトでリアクションを返す機能が満載ですが、それをオフにする機能がない以上、pixivに投稿するということは感想を貰うリスク(あえてリスクと表現しますが)が切り離せません。が、「pixivに投稿しているのはそこに置かないと読まれないから」であって「別にリアクションが貰いたいわけではない、その機能はオフにしたいのだが、できないのだ」という人もいます。現在二次創作を作る女オタク(男性向けはもうちょっと違う場所もあるようだ)は大抵pixivに投稿します。感想が欲しくなければ「見ないふり」をするしかありません。

本を作るに至るともっと話がややこしくなります。食事を出すのは好きだがおいしいとかおいしくないとか言われたくない飲食店の店主がいるように、お店屋さんごっこはしたいがリアクションが欲しいわけではない同人作家は往々にして存在します。イベント会場ではそういう人はそういうオーラを出しているのでそもそも滅多に感想を言われることはありませんが(それでも言われる人は残念ながらオーラの出し方が下手な人なのであきらめるか頑張るしか……)、通販に流通した結果、まあいろいろなことがありますね。という理由で通販に流通させない人を何人か知っていますしわたしも一時期そうでした(だからうちに妙に古い在庫が余っていたわけです、それより前のは捨てました……)。流通に乗せると感想が来るんですよ……。ということは感想が来てほしくない本は流通に乗せたくないのです……。

 

別に「人に読まれる」ということはイコール「たくさんの人に読まれる」ではないし、もっと言えば「たくさんの人からたくさんのリアクションを貰う」ことではありません。

そうだと思っている人のほうが大多数でしょう。でもだからといってそれが「すべて」ではありません。

「ひとりで隠しておいたり友達と回覧したりするだけにしないで誰にでも見える場所に出す」のは、「知らない人なんだけど、これを読んでもらえたらうれしいなと思える人」が「インターネットのどこかにいる可能性がある」からであって(もちろん違う理由も人の数だけあるでしょうが)、「誰にでも見てもらいたい」し「誰のどんな感想でももらいたい」わけではない。こともある。

こともあるのです。

 

第二に、プレゼントと同じで、貰ってうれしい感想と、うれしくない感想が、人の数だけ存在します。

プレゼントに正解はありません。定年退職する先輩に金券を渡すのが正解か不正解か。出産祝いにはベビー用品を渡すのが本当に正しいのか間違っているのか。誕生日ではないタイミングで意中の相手にプレゼントを贈るのはアリかナシかあるいは誕生日でもナシなのか。お得意様からもらった手作りのティッシュケース、もらったからには使っているところを見せるまでがサービスだろうか。

親しい友達同士なら(あるいは親しい恋人同士なら、親しい家族なら)多分さほど問題はないでしょう。親しくなかったらプレゼントのちょっとしたタイミングで全てが瓦解する可能性すらあります。

感想はプレゼントの一種で、プレゼントとは、好意や感謝という感情を伝えるためのシステムです。繰り返して言います。「送り手の感情を」伝えるためのシステムです。

受け取り手のためのシステムの側面はその次に用意されています。「送り手のための」システムです。それが入りくんだかたちで冠婚葬祭でいくら包むかとか謝礼として何を贈るかお歳暮はお中元はお餞別はという「義理」の展開を見せるのでわけのわからないことになりますが、そのへんは「プレゼントを贈り合うことによって担保される社会性」の問題で、それも「あなたへの義理をきちんと果たす準備があります、我々は友好な関係ですよね/でしたよね」ということを確認するためにやるわけです。「送り手側の」感情を示すための行為です。

もちろんそれを「受け取ることがうれしい」人が大多数です。それは事実です。そうでなければこんなにプレゼントのやりとりが発達するわけがありません。わたしもプレゼントをもらうのは基本的には好きですしとてもわくわくします。お得意様に貰ったティッシュケースは申し訳ないけどたぶん捨てたと思うけど……。

そして冠婚葬祭に手作りのプレゼントを贈る人はいません、金を包むものです(金を包んだうえで手作りのプレゼントがありがたいシチュエーションもあると思う、父が死んだとき近所のおばさんがおにぎりを持ってきてくれてありがたかった)。誕生日プレゼントに金券を贈るのは関係性によっては喧嘩売ってんのかという話になりかねません(金券の方がありがたい関係性もあります)。「TPOと関係性と相手の属性に合ったプレゼント」が存在するのであって、「感想は送らないのが正解」でも「送るのが正解」でもないのです。義理の絡まないプレゼントにルールはないのです。残念ながら。

ましてや感想は物でもお金でもありません。「熱量を持った解釈違い」という「攻撃」になる危険性すらあります。物は最悪捨てればいいし、お金は最悪寄付するなりあぶく銭としててきとうに使い捨てることもできますが、貰った言葉はけっこう重たいものです。返事をしたほうがいいだろうなと思うと猶更、「返事をするためにちゃんと読んでダメージを受ける」人もいるわけです。

それがすべてではありません。でもいるわけです。

 

第三に、「感想を送ることでどうなりたいのか」が送る側にはっきりしていないのに送るのはリスキーです。

「あまりにも溢れ出るパッションが止まらないのでどうにかして何かを伝えたい」のか、「伝えたうえであわよくばワンチャン仲良くなって語らいたい」のか、「語らうまでいかないにしても好意くらいは持たれたい」のか、「傷つけるかもしれないくらいなら黙っておくべきだと思うくらい逆にもう好きすぎるけどパッションが(略)」なのかということ、自分が「何を理由に感想を送るのか」つまり「どうしてその感想を胸に秘めておくことができず、相手にはっきり伝えないではいられないのか、伝えるべきだと思うのか」ということを理解したうえで送るべきだと思う。

そして望み通りのリアクションが返ってこなくてもそれはそれでしょうがないじゃないですか。

専業作家は読者のパッションを受け止めるか、明言するにしろ暗に示すにしろ読者のパッションを受け止めませんという態度を取るか、マネジメントをしてもらえる人に間に立ってもらうかするまでが専業である責務に含まれてると思います、個人的には。だからわたしも時々しょーーーーーーーーもないお手紙を作家さんに送るわけですが、なんで送るかって作家さんへのお手紙じゃなくて出版社への圧が本星なんですが、でも同人作家はそこまでの覚悟を決めて作品を問うているわけではないじゃないですか、おおむね、たぶん。そして手紙が来たから部数が伸びるわけでもないし。部数を伸ばすのは同人作家の財布だし。モチベーションアップにはつながるかもしれないけど(つながらない人もいるという話をいましてるわけだけど)。

 

以上です。

 

繰り返して言いますが「送るのはアウト」じゃないんですよ。「好きなんでしょ? 好きだって言いたいんでしょ? リスクくらい負えば?」って話です。意中の相手に好きだって言うのが必ずしもポジティブな反応ではない可能性は大多数の人が考慮するのに好きな作家に好意的なリアクションを送ったら絶対喜ばれると思いこんでいる人が大多数なのはなぜなんだ!

 

わたしは「文章が読みやすいけど書いてある内容は難解すぎてよくわからないけど熱意はすごく伝わりました」と「雰囲気のあるかわいいお話ですね」と「心のきれいな方が書かれた文章なんだなと思いました」は、申し訳ないけど言われ飽きました。哉村哉子の解釈違いです。最初のに関してはわたしの技術不足を反省するところですが、後半二種に関しては喧嘩売ってんのかと(売ってないのは知っています)思います。悪意はないのは知ってるんだけど……。こういうこと言うと超性格が悪いの知ってるけど、容姿の美しい方が時々「おきれいですね」「存じ上げております」ってやりとりするよね……。

時間を取って感想を書いて頂くのはどんな内容であっても嬉しいですが、その内容がすべて嬉しいわけではないです。でも時間を取って感想を書いてくださってありがとうございます。コミュニケーションは難しいよね。正解はないんだよ。

修羅場のケーススタディ あるいは5日合同誌の話

腐女子のためのライフハックコラムをnoteでやってるんですけど、このタイトルで修羅場の乗り切り方を書こうと思って、

 

「あまりにも特殊な例すぎる……」と思って……。

 

あまりにも一般化しづらすぎるだろと思ったので、コラムとして投げるのどうかということで、ブログに書きます。同人生活は仕事や学業との兼ね合いに気を付けて用法要領を守って適切に行いましょう。

2015年のわたしはどうかしていました。

2014年~2015年に作った同人誌

ご覧のとおり頭がどうかしています。一年に出す冊数ではないし、月に三冊とか出しているし、五冊出してる月もある。一冊当たり一万字~なので(合同誌の場合ふたりで二万字ひねり出せば20ページの本にはなる計算です)実を言うと字数的にはそんなに書いてないと言いたいんですが厚い本は八万字あるし、この合間にpixivを、えーと今見たら三百件くらい更新している(pixiv更新用は一時間以上かけないと決めていて、わたし叩けるときは一時間六千字ペースなので一本千~六千字くらい)。いくら就活すらろくすっぽしていなかったとは言え「暇なのか?」では済まない量です。というか印刷費もそうだけどよく遠征費用があったな。

 

小説技法関係もそろそろいい加減もう一回ちゃんとまとめないといけない(旧ブログにちらほら書いてあります)と思うんですが、わたしの同人誌の作業としては、

  1. 企画を立てる
  2. プロット
  3. 本文
  4. 編集と校正

がワンセットでした。

1、企画を立てる

  • ネタ出し・コンセプトの決定
  • 同人誌の版型を決め、出すイベントを決め、印刷所を決める(順不同)
  • 同人誌のタイトルをつけて表紙を作るもしくは発注する

ここまでが「企画」。

『ルミナス』の話をしよう。この本は月曜にジャンプが来て火曜に企画を立てて金曜に入稿して日曜に頒布した本です。合同誌なんですがこの本は合同誌としての意見のすり合わせみたいなものが全く必要なかった(既に共有概念が成立していた)のでまあ合同誌だということは忘れていい。個人誌の進行と大差なかった。

ネタ出し段階で決まっていたのは「もしもボーダーで角移植技術を取り入れることになって荒船がその被検体に立候補するとしたら」で、当然「荒船はエネドラと同じ顛末を辿ることになる」が規定路線で、ここまでが共有認識。その上でテーマとしては「人間の死とは何か」で、「人間の手触りのある本」を作るということで、「視覚に訴える紙面構成」でやりたいということをわたしから申し入れて、それを踏まえた上でイラスト漫画班にも近いことをやってもらっています。わたしが既に視覚情報に訴える文章本(『まさかさかさま』を出していたのでイメージが共有しやすかったというのはかなり大きいと思います。

「直近のイベントにスペースがあるからそこに突っ込む」が目標だったので、とにかく印刷所を押さえられるかどうかが最大の焦点で、結局栄光さんの当日スタンダードに滑り込ませました(お世話になりました)。締切が遅いというのもありますが栄光さんはこういうざっくりした質感の本を作りたいとき向いてるという認識です。栄光コミックという本文用紙が好きなんだよ。

B5の小説本が作ってみたい、というのもひとつわたしの目標としてあり、そういう一般的ではないことをやる機会としてこういう「本文を読ませることそれ自体が目的ではない本」はチャンスではないかということでB5で作るよもわたしが言った気がする。B5本というか、「本文の量に対して余白の多い本」がやりたかったのです。これはまたやりたい。

表紙はひずみさん(言い出しっぺ)が描いてくださって、あとこういう写真素材を用意して、タイトルはこれまどマギですけども、「ものすごく明るくて、ものすごく絶望的で、何も伝わらないし表紙の雰囲気と何も合っていない」みたいなイメージでこのタイトルにしました。その上で、「人類の未来は明るい」みたいな意味。

ここまでで火曜。

 

2、プロット

ルミナスは企画の時点でプロットが半分くらい決まっていたようなものではあったし合同誌なのであとは各自自由にやってくれという部分は大きかったのですが(実際「好きに書いて!」以外伝えずに投げたらなんか全部パーツが揃いましたみたいになりました)、わたしの担当した範囲のプロットだと、「角の話をするんだからヒュースと諏訪という『荒船本人とは関係ないエネドラ関係者』の話を入れなくてはならない」と「こういうコンセプトの本である、という屋台骨の部分はわたしが書かないといけない」がわたしのなかでは決まっていて、その上で「人類の限界と絶望を踏まえた上で、前向きで、明るい話にすること」というルールがありました。

わたしはプロット作業が一番苦手です。この本は外注できる部分が多かったので小説を書く作業自体は極めて楽でしたが、プロットに詰まるとよくファミレスに行って出来上がるまで帰れないをやっていました。

 

3、本文

ここ二年近く、小説を書くときは即興小説(か即興二次小説)に30分(とりあえず勢いをつけたいとき)か一時間(多少呻かないと出てきそうにないとき)で入って、一時間五千字×何回で叩きだしています。書くのはまあ書けばいいから……。

ここまでで水曜。ていうかたしか水曜から職業訓練校が始まったはずだ。行きのバスでプロットを立てて、学校帰りに必要な文房具を買って、帰ってパソコンを叩いたんだな……。

 

4、編集

びっくりするほど時間が吸い上げられていくのが編集作業で、Wordというソフトはどうしてああも言うことを聞いてくれないのだろう。DTPソフトをいい加減買うべきではないかと言いながら結局今もWordを使っています。スキャナも欲しいんだよね……。

学校に行って帰って上がってきた原稿を読んでレイアウトを組んでこうなったよと連絡を入れて今晩徹夜するから大丈夫だから何時まででも待つからと声かけて細かいところをひたすら直して寝ないように見張っててくれとSkypeを呼びつけてスキャンしてもらったりいろいろ……みたいなことを……やってるうちに朝が来て入稿して終わった。金曜は学校が休みだった。徹夜明けに祖母の見舞いに行った。本は出た。

 

 

みたいなことを何冊も何冊も何冊も……。

もちろんこれは極端な例ですが何をそんなに頑張らなくてはいけなかったのかよくわからないが楽しかったです……。イベントが毎月あるのがいけない!(※出るのがいけない)

 

という前提において(※ここまでは前置きでした※)原稿中のおともにこういうのがよかったみたいな話をしたかったんだよ。

まず原稿中は睡眠時間を削るしかなくなるということはよくあると思うんですけどできれば寝よう。寝ることが可能なスケジュールを組もう。ということでまずスケジューリングが問題になり、「この原稿をやるのに何時間・何日かかるか」「その時間を確保するためにはいつから原稿を始めるべきか」をきっちり算出するのが必要ですが、手が早くなったからといって「まだ出せるな?」とか言うようになるまえに同人誌を出す以外のことが人生にはたくさん必要だということも思い出そうね……。

で、それでも睡眠時間を削るしかなくなったときカフェインが登場するわけですが、わたしは若いうちにカフェインを過剰摂取しすぎてカフェイン酔いがひどいので、できる限り飲まないように気をつけています。完全に禁止していた時期もあったんですが、一日一杯まで、それもできれば毎日は飲まない、というルールで運用しています。よく飲むのはリフレッシュ系のハーブティー、ミントならけっこうその辺のスーパーでも買えるのでよくペパーミントミルクティーを飲んでいました。ハーブティーのおすすめのエントリもそのうち書こう。

どうしても眠い時は仮眠の直前にカフェインを突っ込んでバタッと20分くらい寝るとスッキリ起きられていいよ! って現役の編集者さん(お疲れ様です……)に教わって一回だけ実行しましたが超命の前借りって感じでスッキリしました! このあいだライフハッカー読んでたら書いてあってフフッて思った……。

あとわたしは「深夜に炭水化物を摂ると眠くなるからタンパク質を摂るようにする」からスタートして(これは完全にただの体感です)「炭水化物を摂らないほうが眠くならないのでできる限り摂らない」をしばらくやっていて、原稿中は効率が良かった気がするんだけど、その後普通に炭水化物を食べようとしたら食後昏睡状態レベルに身動きが取れなくなるようになったので、あんまりこう……勧めない! 普通に食べた方がいいと思う!

 

健やかに食べて寝て無理のないスケジュールで同人誌を作るのが一番いいと思う!(※当たり前である)

 

あとぎりぎり入稿の時ってデータ不備がないかどうか全く把握できないので密に連絡を取ってもらえる印刷所にそういう時こそ入れた方がいいよね……と思います……。わたしは金もないし締切の余裕もないし部数が出る気もしないけど自分に確信も持てないときはブロスさんに入れています……。同人に慣れてくると安いかどうかとかオプションが多いかどうかとかじゃなくて何も考えなくてもどうにかなると信じられる印刷所に入れるよね……美容院と一緒だよね……。

 

ポイントは

  1. 最後まで走る体力と精神力を自分に問う
  2. 日数計算をミスらない、あとできればネームやプロットをやり直さないで済むように祈る
  3. 普通に寝て普通に食べて大丈夫なスケジュールで生きる努力をする

 

じゃないかなと思います! みんながんばってね! 週刊ジャンルは魔窟……泣きながら締切三日前にネームを切りなおす猛者を何人も見た……(みんなよくやるよな……)。

同人小説を書くということ、読むということ

女オタク界隈で「二次創作の小説における難読漢字のありかた」みたいな話が盛り上がっていて、おそらく提議した方はここまで話が広がってしまうとはまさか思ってらっしゃらなかったのではないかと思うんですが、ちょっとそのあたりのお話をします。というか、体調を崩している間に先にTwitterでひととおり書いてしまったので、改めて書きます。

 

まず、前提として、「なぜ同人小説書きは文章表現について言及されると噛みつくのか」という話ですが(商業小説家についてはひとまず措いておきます)、これは同人小説というものが一般に漫画作品・イラスト作品よりも読まれない・軽視される傾向にあり、そのことでフラストレーションを感じている人が多いからです。現在、小説SNSはnovelistpixiv小説家になろうpictBLandカクヨムあたりを使ってる人がわたしの周囲では多い印象ですが、あらゆることが数値として可視化されるSNSにおいて、イラストSNSに比べて閲覧数が桁違いに少ないのは見ればわかります。特に二次創作をやっている小説書きは、「どうせ書いても読まれない可能性は高い」「数に入っていない」という前提を踏まえて書いている人は多い。

SNSに限らず、同人誌即売会において、「小説ならいらない」と面と向かって言われた思い出を抱えている小説書きは数多く存在します。挙げていくときりがないのでここでは略しますが、「小説を書く」という行為が「作品として二級である」という評価を受ける頻度というのが非常に高い。これは女性向けに限ったことではなく男性向けでも言及されているのを時々見かけます(時々しか見かけないのはおそらくわたしの交友関係の問題)。

 

そして「文章は誰にでも書ける」ということに「なっている」ので、イラストや漫画に対して技術的な助言をしない人々も、文章に関しては積極的な助言をする傾向があります。「小説を書いているわけではない」し、「読み慣れているわけでもない」人が、「読みづらい」という言及をすること自体は別に個人の感想でしかないのですが、「読みづらいのでこうしたらどうか」というのはかなり危うい発言だし、「読者は作品に対する敬意をそこまで捨てていいのか」「というか、小説書きは自作に対してそこまで敬意を捨てないといけないのか」という話になってしまう。繰り返しになりますが、前提としてフラストレーションが溜まっているのです。

イラストや漫画を描いている人に対して、たとえば「背景が多すぎて読みにくい」「絵柄が作風に合っていない」と感じることはあるでしょう。それを伝えることもあるかもしれません。ただそれを伝えるということは、「その作品に対して描き手が払った努力に注文をつけることが価値がある行為である」というリスクを背負った上でのことであるはずです。

 

イラストの背景を描きこむことを否定するより、難読漢字を使うことを否定するほうがずっと簡単です。使うのをやめるのもとても簡単なことです。

しかし、難読漢字を使うことを「選んだ」小説書きの中でその難読漢字はどのような価値があるのか、それによって何を表現したいのか、それは漢字でなくてはいけないと何故作家は思ったのか、そういうことが背景としてある上で、選んで使っているということに対する敬意がまずあってしかるべきではないか。

もちろん、「ここは漢字じゃないほうがいいね」「読まれないって嘆く前に、文章を見なおしたらどうか」「今回の作品の雰囲気にはもっと明るい文体の方が合っていると思うよ」といったことは往々にしてあり得ます。しかし「難読漢字が読めない読者のために漢字をやめてひらがなで書く」が正解、ということは全くない。それは都度、作品内容に合わせて、作家が選んでいくべきことです。

 

 

昔話をします。

わたしは十五年前に二次創作小説をオンラインに発表し始めました。それ以前は五年間オリジナル小説を書いていて、友人や学校・塾の先生などに読んでもらっていました。わたしの「読者」になってくれる人はほとんど「小説を読まない人」でしたから、当然、「小説を読まない人のためのフォーマット」を模索することになります。その結果、わたしは学校の先生を含めたいろいろな人から「読みやすい」と言って頂けることになりました。

そしてここに問題が発生します。「とても読みやすかった。書いてある内容のことはよくわからない」

「書いてある内容のことはよくわからない」!

この感想は小説を書いて感想が頂けるようになってから二十年間いまだにわたしを苦しめています。たしかにわたしも全て理解されようとして書いているわけではありませんが(理解されるための文章を書くことは非常に難しいことです)、それにしたって「書いてある内容のことがよくわからない」文章ばかりを量産しているのだとしたらこれは問題だとしか言いようがない。何のために文章を書いているんだ! わかってもらうためやぞ! もちろんそれが全てではないけれども! というか小説なんてわかってもらわないことが目的みたいなところもたしかにあるけども! でもわたしは「読みやすい文章を書いている」し、みんな「読みやすかった」とは言うのに! 「読める、わからない」なんて、「読めないしわからない」より、よっぽど誤読の元になるだけではないか!?

というわけでわたしは学びました。

文章というのは読みやすければいいというものではない。内容の難易度に合わせて文章も読みづらいことが必要とされるシーンもある。

 

これは難易度に限った話ではなく、たとえばシリアスで重厚な雰囲気の小説なら難読漢字が多いほうが雰囲気が出るのではないか、愛し合うふたりのふわふわとした交情がメインの話なら和語や俗語が多いほうが雰囲気が出るのではないか、というところを認識して使い分けることは小説において結構重要なことです。

しかしここにひとつ問題があり、漫画やイラストを描く人が「わたしはこういう作品を描きたいがわたしの絵柄では合わない」という絶望を感じることがあるように、小説書きも自分の文体、ここでは文体という言葉は語彙の選択を含んだ文章のスタイルのことくらいに考えてください、文体をそう簡単に変えられません。変える能力がある人は、「変える能力がある人」です。それゆえに重厚な文体を手に入れてしまった人はその文体と付き合ってゆくしかないのです。あるいは何も書けなくなる可能性を賭して必死で文体を変えるしかないのです。

 

文体とは「これまで読んできたもの、これまで与えられてきた言葉、これまでこれが好きだと選んできた語彙」の集大成です。

好きな作家を真似したのかもしれないし、覚えたばかりの語彙を背伸びして使ってみようといま作り始めた文体なのかもしれない。自前の文体は特になくて、こういうのを書こうと思って文体模写をするのが上手い人もいます。あるいは友達や家族と喋っていて自然と身についた語彙がそのまま小説に現れているのかもしれない。これまで培ってきた「言葉」が、小説には、小説に限らずあらゆる文章には全て現れます。

わたしたちが言葉を話せる、それを選んでその言葉を使っている、ということは、そしてそれを文章にしている、ということは、お互いそれが読める、意味が(だいたい)わかる、ということは、たいへん尊いことなんですよ。読みやすいか読みにくいかなんてどうだっていいじゃないですか。「誰か」はそれを読んで「わかる」かもしれません。

 

そして読者の側も、「これは読めない、つまり、わたしのための文章ではないんだな」と、あっさり放り投げていいのです。みんながみんな「お互いにとって最善の表現」を選ぶなんて、不幸なことです。同人小説は私的領域でやりとりされるものであり、そこにあるのは書き手の私生活であって、それは誰に合わせるものでもなく単に個人の領域のものなのです。

 

小説技法とか文章技法とかの話をそろそろ再開しないとなあとは思ってたんですが……。やることが多くてな……。がんばります……。