同人小説を書くということ、読むということ

女オタク界隈で「二次創作の小説における難読漢字のありかた」みたいな話が盛り上がっていて、おそらく提議した方はここまで話が広がってしまうとはまさか思ってらっしゃらなかったのではないかと思うんですが、ちょっとそのあたりのお話をします。というか、体調を崩している間に先にTwitterでひととおり書いてしまったので、改めて書きます。

 

まず、前提として、「なぜ同人小説書きは文章表現について言及されると噛みつくのか」という話ですが(商業小説家についてはひとまず措いておきます)、これは同人小説というものが一般に漫画作品・イラスト作品よりも読まれない・軽視される傾向にあり、そのことでフラストレーションを感じている人が多いからです。現在、小説SNSはnovelistpixiv小説家になろうpictBLandカクヨムあたりを使ってる人がわたしの周囲では多い印象ですが、あらゆることが数値として可視化されるSNSにおいて、イラストSNSに比べて閲覧数が桁違いに少ないのは見ればわかります。特に二次創作をやっている小説書きは、「どうせ書いても読まれない可能性は高い」「数に入っていない」という前提を踏まえて書いている人は多い。

SNSに限らず、同人誌即売会において、「小説ならいらない」と面と向かって言われた思い出を抱えている小説書きは数多く存在します。挙げていくときりがないのでここでは略しますが、「小説を書く」という行為が「作品として二級である」という評価を受ける頻度というのが非常に高い。これは女性向けに限ったことではなく男性向けでも言及されているのを時々見かけます(時々しか見かけないのはおそらくわたしの交友関係の問題)。

 

そして「文章は誰にでも書ける」ということに「なっている」ので、イラストや漫画に対して技術的な助言をしない人々も、文章に関しては積極的な助言をする傾向があります。「小説を書いているわけではない」し、「読み慣れているわけでもない」人が、「読みづらい」という言及をすること自体は別に個人の感想でしかないのですが、「読みづらいのでこうしたらどうか」というのはかなり危うい発言だし、「読者は作品に対する敬意をそこまで捨てていいのか」「というか、小説書きは自作に対してそこまで敬意を捨てないといけないのか」という話になってしまう。繰り返しになりますが、前提としてフラストレーションが溜まっているのです。

イラストや漫画を描いている人に対して、たとえば「背景が多すぎて読みにくい」「絵柄が作風に合っていない」と感じることはあるでしょう。それを伝えることもあるかもしれません。ただそれを伝えるということは、「その作品に対して描き手が払った努力に注文をつけることが価値がある行為である」というリスクを背負った上でのことであるはずです。

 

イラストの背景を描きこむことを否定するより、難読漢字を使うことを否定するほうがずっと簡単です。使うのをやめるのもとても簡単なことです。

しかし、難読漢字を使うことを「選んだ」小説書きの中でその難読漢字はどのような価値があるのか、それによって何を表現したいのか、それは漢字でなくてはいけないと何故作家は思ったのか、そういうことが背景としてある上で、選んで使っているということに対する敬意がまずあってしかるべきではないか。

もちろん、「ここは漢字じゃないほうがいいね」「読まれないって嘆く前に、文章を見なおしたらどうか」「今回の作品の雰囲気にはもっと明るい文体の方が合っていると思うよ」といったことは往々にしてあり得ます。しかし「難読漢字が読めない読者のために漢字をやめてひらがなで書く」が正解、ということは全くない。それは都度、作品内容に合わせて、作家が選んでいくべきことです。

 

 

昔話をします。

わたしは十五年前に二次創作小説をオンラインに発表し始めました。それ以前は五年間オリジナル小説を書いていて、友人や学校・塾の先生などに読んでもらっていました。わたしの「読者」になってくれる人はほとんど「小説を読まない人」でしたから、当然、「小説を読まない人のためのフォーマット」を模索することになります。その結果、わたしは学校の先生を含めたいろいろな人から「読みやすい」と言って頂けることになりました。

そしてここに問題が発生します。「とても読みやすかった。書いてある内容のことはよくわからない」

「書いてある内容のことはよくわからない」!

この感想は小説を書いて感想が頂けるようになってから二十年間いまだにわたしを苦しめています。たしかにわたしも全て理解されようとして書いているわけではありませんが(理解されるための文章を書くことは非常に難しいことです)、それにしたって「書いてある内容のことがよくわからない」文章ばかりを量産しているのだとしたらこれは問題だとしか言いようがない。何のために文章を書いているんだ! わかってもらうためやぞ! もちろんそれが全てではないけれども! というか小説なんてわかってもらわないことが目的みたいなところもたしかにあるけども! でもわたしは「読みやすい文章を書いている」し、みんな「読みやすかった」とは言うのに! 「読める、わからない」なんて、「読めないしわからない」より、よっぽど誤読の元になるだけではないか!?

というわけでわたしは学びました。

文章というのは読みやすければいいというものではない。内容の難易度に合わせて文章も読みづらいことが必要とされるシーンもある。

 

これは難易度に限った話ではなく、たとえばシリアスで重厚な雰囲気の小説なら難読漢字が多いほうが雰囲気が出るのではないか、愛し合うふたりのふわふわとした交情がメインの話なら和語や俗語が多いほうが雰囲気が出るのではないか、というところを認識して使い分けることは小説において結構重要なことです。

しかしここにひとつ問題があり、漫画やイラストを描く人が「わたしはこういう作品を描きたいがわたしの絵柄では合わない」という絶望を感じることがあるように、小説書きも自分の文体、ここでは文体という言葉は語彙の選択を含んだ文章のスタイルのことくらいに考えてください、文体をそう簡単に変えられません。変える能力がある人は、「変える能力がある人」です。それゆえに重厚な文体を手に入れてしまった人はその文体と付き合ってゆくしかないのです。あるいは何も書けなくなる可能性を賭して必死で文体を変えるしかないのです。

 

文体とは「これまで読んできたもの、これまで与えられてきた言葉、これまでこれが好きだと選んできた語彙」の集大成です。

好きな作家を真似したのかもしれないし、覚えたばかりの語彙を背伸びして使ってみようといま作り始めた文体なのかもしれない。自前の文体は特になくて、こういうのを書こうと思って文体模写をするのが上手い人もいます。あるいは友達や家族と喋っていて自然と身についた語彙がそのまま小説に現れているのかもしれない。これまで培ってきた「言葉」が、小説には、小説に限らずあらゆる文章には全て現れます。

わたしたちが言葉を話せる、それを選んでその言葉を使っている、ということは、そしてそれを文章にしている、ということは、お互いそれが読める、意味が(だいたい)わかる、ということは、たいへん尊いことなんですよ。読みやすいか読みにくいかなんてどうだっていいじゃないですか。「誰か」はそれを読んで「わかる」かもしれません。

 

そして読者の側も、「これは読めない、つまり、わたしのための文章ではないんだな」と、あっさり放り投げていいのです。みんながみんな「お互いにとって最善の表現」を選ぶなんて、不幸なことです。同人小説は私的領域でやりとりされるものであり、そこにあるのは書き手の私生活であって、それは誰に合わせるものでもなく単に個人の領域のものなのです。

 

小説技法とか文章技法とかの話をそろそろ再開しないとなあとは思ってたんですが……。やることが多くてな……。がんばります……。