千羽鶴とは何か

「被災地に千羽鶴はいらない」が議論巻き起こす 被災者を「傲慢」と怒る人たちの理由とは

 

この間もひろしまブランドのホームページをふと見たら折り鶴がモチーフに使われててげんなりしたんだけどさあ……。

サッカースタジアムもかなりどうかと思うんだけどさあ……。

 

被災地に千羽鶴を送るのがどれくらい有害かという話をするためのエントリです。

 

わたしがいま文章を書いている家のあるここは広島ですので、千羽鶴のいわばメッカです。処分に年間一億かかるという話はネットではソースがとりあえず見当たらないのでどうだか知りませんが気が遠くなるほどの量が送られてきているのは事実であり、その上で、広島に千羽鶴を送るという行為の中にどれくらい「平和への祈り」が本質的に含まれているのかは相当怪しいと思います。少なくとも広島の子供はわたしの体感ではほとんど義務で折っているし、大量に折らなくてはならない以上、たくさん折れる手先の器用な子が良い子=「平和への祈り」が強い子ということになります。そんなことあってたまるかという話ですがそういうテンションになるのも事実です、競争させないと大量生産できませんからね。

まあでも広島に千羽鶴を送るのは送られる側としてフォーマットが整っています。再生紙を作ろうという取り組みもあるみたいなんですがよく知らない人の「祈り」をリサイクルして手元に置くという感覚が理解に苦しむ。それは「呪い」と何が違うんだ。まあその話はともかく少なくとも千羽鶴というものに対して感覚は麻痺していますし受け取って当たり前ということになっています。だから別にいい。わたしは、あの文化を、どうかとは思うんだけど、それはまあいい。

 

しかし慣れてない人があれを唐突に送り付けられたらかなり、あの、

気持ち悪いのでは……。

 

「千羽鶴」というのは「美談」ということになっていますが、たとえばですね、介護施設によくあるでしょう、今リンク貼ろうかと思ったけどなんか申し訳なくなってやめたのですが、折り紙で作ったフクロウとかああいうやつ(見たことない人はググってください)を、作ることを否定しているわけではない。作るのは結構おもしろそうだと思う。だたそれを貰ってうれしいかといわれると、大事な人からもらったものであってもこれどうしたらいいんだよと思う人は結構多いと思う。手作りのプレゼントは親しい人同士でもこれどうしたらいいのかわからないということが多いと思うんですが、わたし編み物サークルで「編み物をしてそれを送るなんていまの状況では自己満足だ、寄付をしましょう」という呼びかけをしているところも見かけたことがありますが、手編みのセーターはまだしも着れます。送れって言ってるんじゃないぞ!

千羽鶴は着れない上に、千羽分の、よく知らない人の感情が籠っているのです。

焼いていいのかどうかすら微妙なのです。

しかも結構でかい!

 

千羽分人の指が触れたものが全く無意味に送り付けられても何の役にも立たないし燃やすにも人目をはばかるし(おそらくそういうものを無下に扱うのはどうかという声は現地にすらあるでしょうし)、しかしその結構でかいものを送るための送料でもっとほかのことができたはずです。

折るなと言っているのではない。

送るなよ。

家で飾るか家で燃やそう!

 

心が乱れてしょうがないときに折り紙をするのは有効だと思います。それは祈りだ。でも祈りましたという成果物を誰かに渡すべきではない。心が乱れたのはわたしの問題、その成果物はわたしの問題、誰とも関係ないわたしの問題。それを世界規模で共有するメッカという文脈をつけた広島の千羽鶴文化はしみじみと有害だと思いますが今更やめられないだろうししょうがないんだけど広島の平和立県本当にどうにもならないのかこれ……。「平和」とは「鶴を折ること」ではないだろう……。平和とは何であるかはともかく鶴を(授業で)折ったから何なんだ?

 

 

あと付け加えると千羽鶴という文化は、というか迷信は、鶴が長寿である→長寿の鶴を千羽集めることによって病気快癒や長寿への祈願になるという理屈なんだけど地震とあんま関係なくない? もっと言うと平和とも関係ないと思う(本来的には原爆病に対するカウンターだと思う)んだけどだから変な文脈をつけるからこういうことにさあ……。

鶴を折ることで担保される平和って何だよ!

 

 

鶴を折ることは嫌いではない。でもばかばかしいと思っている。本当にばかばかしいと思っている。