思索のための手仕事、あるいは相談を受けるということについて

夏コミ申し込みました。で何冊出すんだっけみたいなことを考えたら四冊スタート本音としてはもうちょっと出したいみたいな状態になって、ウワッこれどこから手をつけたらいいんだって感じになり、結果として、考え事をしながらコイルを巻いていました。だいぶん上達をした……と思う……。

コイルを巻くとこういうものができる。これはモールス信号ネックレスです。モールス信号ネックレスの発展として短歌や俳句をモールス信号でネックレスにするというのも考えてるんですけどなにしろ長いのでデザインに難渋している。服飾デザインの勉強、全然関係ない世界すぎて知らないことばっかりで面白いし、模索しているうちに近代アメリカにするっと行きついてやっぱりなーと思った。わたしはデザイン関係はたいていアメリカに行きつく。

 

なんでアクセサリー作るようになったかという話はいろいろな理由があるんですが、なんでそれを続けているのかというと考え事をしているときにワイヤーをいじくりまわしているのが一番捗るというのがあり、次点ぼんやりしているときや目を通さないといけないけど特に何も考えないでいたいときは編物が捗ります。いえ、作るのが捗るのではなくて、思索が捗るのです。思えば子供のころからずっとそうだったような気がする。何かを考えるために歩き回り、泳ぎ、手仕事をし、料理をする。うっすらと考え続けるために。

 

人生相談を受け始めてから何年になるのかよくわからない。このよくわからないというのは数が数えられないという意味ではなくてどれが相談でどれがスタートだったのか切れ目がわからないという意味です。でも子供のころからなんとなく長話を聞かされることが多くて、なんとなく聞く側に回ることが多かった。という話は前にブログに書いたんだったか。わたしの家庭環境においては「わたしから語り始めることが可能なこと」は少なくて、だから黙って聞いていることのほうが多かった、そうするとほかの子はみんな自分の話をしたいので聞いてもらえる相手を見つける、わたしが見つかる、わたしが聞く。という順番だったんだろうと思う。

わたしにも話したいことがないわけではなくて、でもわたしの話したいことはうまく説明できなかったので、聞かせる相手はいなかった。だからわたしは自分と話し合うことにした。自分と話し合うというのが思索ということで、思索をうまく行うためにコイルを巻いたり編物をしたりしているわけです。散歩と水泳ももうちょっとやってほしいものだと思う。特に水泳はここのところ体調が悪かったのでまる一か月ほどさぼってしまっていて……。

思春期の頃はほどんど緘黙症だったこともありました。今でも疲れているとよくどもる。別にわたしは喋るのは得意ではない。

 

たぶん人より、ものを考えている時間が長いんですよね。黙っていることも苦にならない。人の話を聞くのは本当は別に得意ではないんだけど、なにしろ訓練する機会はたくさんあったので、「重要な情報」と「聞き流していい情報」を切り分けることができるようになった。喋るのはいまでも別に得意ではない。よく黙るし口ごもる。口ごもっている間は待っていてもらう。喋るのは得意ではないけど、口ごもったりどもったりするのを恥ずかしいとはあまり思わなくなった、しょうがないので。思わなくなるまでにはいろいろなできごとがあったのもたしかです。

 

まあそんなわけで「相談を受ける」ということに人より慣れていて、いまのところをそれを収入源にしていて、いや別に聞くのはいいんだけど喋るのはそんなに得意じゃないんだよなあ、こんなこといつまでも続くかどうかとは思うんだけど、まあ今のところやっていて、そもそもここ五年くらい相談を受ける頻度がめちゃくちゃあがっていたのもたしかでした。そりゃそうで、インターネットで匿名の人から質問を受けるプラットフォームが流行ったのがきっかけでインターネットの不特定多数から相談を受けるようになって、その結果爆発的に増えたという経緯なんですが。ask.fmというサービス、そういうかたちで相談に乗るのが上手い人がどんどん可視化されているところ、かなり高頻度で見かける感じがする。

 

相談を日常的に受けるようになってようやく相談を受けるときのこつみたいなものが最近つかめてきました。最近かよって感じですけども。まあ長い間人の相談に乗ってきたとはいえこんな量の相談をさばくこともなかったから……。

・依存関係に陥らないこと

・相手は自分の話がしたいのであって「わたし」はできる限り「あなた」を理解することに注力する必要があること

・必要な助言は大抵パターンが決まっていること

悩みを打ち明けられて一番徒労に終わりやすいのが親身になって一生懸命最適解の助言を出そうとすることで、これは大抵の場合必要がない。それはもちろん「殴られたんだけど警察と病院どっちでしょうか」「おそらく警察です」みたいな、いや状況によると思いますがこれは喩えですが、具体的な助言が具体的に役立つシーンというのはあるんだけど、はっきりと割り切れない問題はめちゃくちゃ多くて、それに対して「こうでこうが正解だよ、これをやれば解決するよ」は、親身になっているのは確かなんだけどお互い別に何の役にも立たない、徒労、ということがけっこうある。ので、たとえば接客業とか、あとわたしのような相談に乗り慣れている人間とかの、「パターン化された回答」のほうが役立つというシーンのほうが、個別にいちいちちゃんと考えて対応するより相手にとっては受け止めて処理しやすい、みたいなことはわりとあるっぽいなと思う。

必要なのは「これが正解」じゃなくて「何が『あなた』にとって正解なのか」を理解すること、わからないなら「あなたはどう思う?」と問いかけることなんだろうな、必要なのはある程度マイルドに映る鏡であって他人じゃないんだろうなと思う。

「こんなことずっとやってられるのか?」と思うのはその点で、「相談を受けているとき、わたしはそこにはいない」をあんまりやっちゃうと「わたしとはだれか?」がきわめて曖昧になってしまうのでは? なりかけているのでは? ということで、たぶんバランスを取るためにコイル巻いてる(あるいは糸をいじってる)部分はあると思う。

 

ところで相談に乗るとわりと高頻度で「何か恩返しをしなくては」と言われることがあって、一方的に与えられて終わるということを受け入れるのは体力の要ることで、要ることだということはわかるけど頼ってしまったのは事実なので一方的に与えられて終わるしかないということをある程度は受け入れて欲しいと思う。「親身にしてもらったから恩返しをしないといけない」という感情自体はべつに否定しないけど、「自分も親身になる」以外ないし、申し訳ないけど普段親身になり慣れてない人が親身にしてもらったからといって自然に親身になれるかというとなれない人がほとんどだし、別に普通に感謝するだけでいい。感謝というか、わたしが親身になったという事実、そしてそこで親身になってもらったことで扱われた自分自身に対して、敬意を払ってほしい。

相談を受けて一番徒労感を感じるのが、「自分に向き合う」以外ないですよとお伝えしたのに「自分に向き合っていない」人を見るときで、依存というのは結局そういうことだと思っている。わたしが敬意を払ったあなたに対してあなた自身も敬意を払ってくれ。徒労に終わらせないでくれ。

 

それで結局わたしは夏コミで何冊出すんだろう……。

専門店での買い物についての簡単なメモ

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カメラ買いました(これは一枚目に試しに撮ったうちのミニバラ)。OLYMPUS XZ-10。バーゲンになっていて、そろそろカメラを買わないと諸々不便だなと思っていたので。うちのiPhoneはどうもカメラの調子がおかしかった。

まださほどいじってないのでカメラの話はまた今度。

 

久しぶりに専門店で大きめの買い物をしたので、スムーズな買い物についてのメモです。

  1. 事前に何が欲しいのか何がしたいのかのイメージをはっきりさせておく
  2. 店に入ったらひととおり売り場を眺めて自分をその空間になじませはっきりものが言えるように気持ちを整理しつつどんなものが売られているのかなんとなく把握する
  3. 「こういう条件(の中でできれば安いもの)」とはっきり伝える、もしくは「どれがいいのかわからないので教えてください、こういう条件下で使います」と伝える
  4. 高価格帯の商品にも手を出したい気持ちがある場合、そのむねをはっきり伝える(低価格帯の中でも機能の良いものを勧めてもらいやすい)
  5. 判断がつかなかったら、「少し考えてみます、ありがとうございました」と言えば大抵それ以上押してこない

最近覚えたんですが、「これいいですね、買えないけど……」と予算外の商品について言及すると、店員さんの勧め方がかなり変わってくるというか、高額商品が売れるかも? みたいな意味ではなくて「そういうのがお好きならこれがおすすめです」って感じで低価格帯のなかでもイメージに沿ったものを勧めてもらいやすいように思います。高額の商品はやはりお金をかけて開発しているので細かいところに手がかかっており、その「細かいところ」の、いわばジェネリック的なぎりぎり予算内の商品を店員さんも考えやすいということではないかと思います。

なおXZ-10はざーっと眺めて予算内の商品でデザインのよいものに目星をつけたあとで、店員さんに「仕事で使う、印刷に耐えるレベルのものが撮れればなんでもいい」「カメラを買うのははじめてでよくわからない」と言って予算を伝えた上で、「いかにも家電っぽいてかてかしたデザインのものはちょっと、できればカメラっぽい黒い感じのか、マットな仕上げのものがいい」と「今見ていて、一眼も楽しそうだなと思ったんだけども、さすがに今は手が出ない」を伝えた上で第一希望だったこのカメラについて聞いて、「展示品なので傷がありますが」「あ、それは別に全然」でお買い上げでした。

あとで気が付いたんだけど、「仕事で興味を持ったけれども、カメラ自体にも実は興味があるが、初心者なのでさほど背伸びはできない」に対して「それなりに高機能だけど予算内に収まる商品」のセールスポイントをさくさく聞いてはいはいじゃあ買いますねとさっさと買えたという流れになっており、なんていうかコンパクトにうまくまとめて伝えられたなと……。引っ越しで家電を散々買って家電量販店でのやりとりに慣れたからかもしれませんが。あと今回に限っては相互に条件が合いすぎて「呼ばれた」感じがする。

 

あと、郊外はその限りではないけれど、少なくとも都市部や繁華街のなかにある家電量販店の店員さんは結構オタク率が高い気がするというか、業務を超えたレベルで商品に対する把握力が高い印象がある。やっぱそういう意味で優秀な店員さんが配置されてるのかなあという気がする。郊外の家電量販店は商品知識より接客それ自体に相当注力してる印象で、まあそりゃ電化製品触り慣れてない層にリーチするのが目的だからな……。というわけで買い物には地域性も関係あるっぽいなーと思いました。「安くてできれば機能が充実しているもの」をピッと買うには都市部の家電量販店でピッと買った方がいいんだなーと。わたしいつも買い物を都市部で済ませてしまうので、そういえば徒歩十分のところにある家電量販店に行ったことがない、今度行ってみよう……。

「今は買えない」をはっきり伝えたうえで、おすすめをごり押しせず、それでも機能について聞いたらきっちり答えてくれる専門店の店員さんはいいもんだなーと思いました。

いい買い物をした。

生理用ナプキンにまつわるあれこれ

そろそろ話題も一段落したかなと思うので生理用ナプキンの話をします。しんみりしたエントリを流した後に唐突に生臭いけどずっと書きかけにしてあったんだ。

 

生理用ナプキンをここ数か月買っていません。

どうしているかというとフツーのタオルをパンツの間に挟んでいます。衛生上問題があるのかどうかまではよく知らないんですが、というか(小鳥の鳴き声)的な(小鳥の鳴き声)が多くて調べる気になれないんですが、

  • 別にどうせ自分の体液
  • パンツについたときだって洗って使うんだから問題ないはず
  • フツーのタオルと布ナプキンの間にどれほどの違いがあるのか

という理屈です。

 

わたしは驚異的に生理(このあいだ男性はそもそも生理という言葉をよく知らないという話も聞いたので付記すると生理というのは月経のことです)が短く、1日か2日くらいで終わります。痛みはあるときとないときがありますが、日常的な不調と比べると生理中のほうがむしろ不定愁訴は少ないです(鈍感になっていてわからないのかもしれない)。短くて軽いかわりにおそろしいほどの量出ます。

何が起こるかと言うと九割九分の確率で漏れます。この量の経血に世の中のナプキンは対応していません。

わたしはタンポンを入れると気分が悪くなるたちです。

どうしていたかというと、尿漏れパッドを使っていました。当然生理中はおしりのラインが分かる服は着られません。

 

フェイスタオルでもかわらんやんけ。

 

もちろん洗わないといけないのでかわらんやんけって問題ではないし、布ナプキンでもかわらんやんけという話がしたいわけではありません。非常時はもちろん使い捨てナプキンが衛生的だし、ていうか勤め人の方は当然薄手のナプキン使うのがベターなのはもちろんです。単に

  • 在宅労働者だしそもそも尿漏れパッド時代からぴちっとしたズボンとか履いてないし
  • 量がめちゃくちゃ多いのでどうせパンツも洗ってたし
  • じゃあろくに役に立たないものに金を払う意義がない

という理由で最近ずっとタオルで済ませているという話です。

 

布ナプキン礼賛みたいな誤読を受けそうなエピソードなのになんでこんな話をしたかというと、生理というのは日常でありハレでもケガレでもない、という話がしたかったからです。

経血のついたタオルをざっと水で流して洗剤を少し溶いた水を張った洗面器に突っ込んでしばらく放っておいてざっと洗って洗濯機に突っ込んで回して、そしてそのタオルを別に普通に顔を拭くのに使う、ということを、しかしみんなできるかといわれたらできないのが現実であって、わたしも一人暮らしじゃなかったらこれ洗濯機に回さないしそれ専用のタオルを用意すると思うし客には出さないと思います。ケガレの感覚があるんだよねそこはやっぱり。まあ、「パンツで顔拭くか?」って言われたら拭かないわけなんだけど、でもパンツ、もっとも不衛生であってはならない場所を覆ってるんだから、清潔なはずだと思うんですけど……。

でも感覚としてできない。できない限り緊急時いちいち分けて洗ってられるわけないじゃないですか。っていう話がしたかった。なおわたしのふとんは経血が染みているので誰にも貸せません。固定です。そんなに不潔なのかと言われたらそんなわけないんだけどさああ。わたしは本当にすぐ漏らすので不潔であってたまるかと思うんですがそれでなくともボーッとしてるか腹痛いかなのに経血漏れを延々と気にしないといけない生活まじめんどいので生理のとき家から出たくない。家に血痕がついても最悪別に……わたしの家なんだから宿命だよ……。

ファンフィクションコミットメント索引(更新随時)

noteで連載している腐女子寓話が増えてきたので索引を作りました。


腐女子とコミュニケーション

 隠れたい腐女子と隠れない腐女子と隠れたくない腐女子

神とふぁぼ魔

斜陽ジャンル

神の虐殺のためのプラン

回顧厨

読者

作者


腐女子と二次創作原作

隠れたい腐女子と隠れない腐女子と隠れたくない腐女子

斜陽ジャンル

二度死んだ嫁

嫁の蘇生

あのころチョコエッグがあった

悪役


腐女子とカップリング

総受厨になりたくなかった腐女子

固定過激派になりたくなかった腐女子


腐女子と二次創作

 隠れたい腐女子と隠れない腐女子と隠れたくない腐女子

ジャンル撤退

地雷という概念のない世界

地雷という概念のない世界 二人目

地雷という概念のない世界 三人目

地雷という概念のある世界

オリジナルでやればいいのに

承認欲求

メアリー・スー


その他

男の子とライオン

男の子なんて大嫌い

絵を描く

おかあさんたち

昔話「感想とわたし」

同人作家に感想を送るということの続きですが、とりとめもなく自分の話をしてしまった。もっと「作家の方は感想とどう向き合うべきか」みたいな話をしようと思ったのに。まあいいや。ケーススタディだと思ってください。

 

ところでわたしはオンライン小説を読むのがメチャクチャ好きです。

オンライン小説に限らず素人の書いた文章を読むのがメチャクチャ好きで延々とググって延々とブログを読んでいることがあります。気に入ったオンライン小説はその作家のぶん全部読みますし、ブログはさかのぼれる限りさかのぼります。Twitterも文章が気に入ったらさかのぼれる限りさかのぼります。

別に「名文家」ではない人がほとんどです。内容にも共感できないこともある。でも好きです。

文章が文章であるというだけで結構好きなのです。そして文章に含まれる湿度とか体温とか呼吸感とかそういうものに惹かれて読んでいる。うまい文章が読みたかったら死んだ作家の本だけ読めばいい。わたしはうまくない文章、うまくないと言ってしまうと語弊がありますが、商業的にパッケージングされていない、むきだしの、本人が選んでそれを書くのを是としている、あるいは是とすらしていない自然のまま吐き出しているだけの文章が好きです。普段文章を書かない人の文章がずるずる読めるというだけでTwitterは存在する価値があるのでいいかげん金を払わせてくれ。

 

今も大概な量のブログやオンライン小説(pixivを含む)を読んでいますが、高校生くらいから二十代前半くらいまでは暇だったこともあり、めちゃくちゃな量読んで、めちゃくちゃな量の感想を送っていました。そしてある日唐突に同人作家に対して感想を書くことを諦めました。以降親しい友達にすら詳細な感想を伝えていることはあまりないと思います。

 

先のエントリでも何度も言いましたが、「送るな」とは一言も言っていません。

「人間は分かり合えない」って言ってるんだ。

分かち合うことはできるかもしれない。でも分かり合えない。

 

というのは「じゃあ感想送るのもうやめよう」みたいな意見を散見したからです。別にそう結論してもいいけどそうじゃないんだって。

 

好きな作家さんには更新即日長文のメールや掲示板の書き込みをするのが当然だったころのわたしは、当然自分のところの掲示板の書き込みやメールにも同じだけの熱量でレスを返していました。めっちゃ感想ほしかったし、今日の更新分どう思われるかなと思ってドキドキしてました。一個一個のやりとりが楽しかったです。当時オールキャラギャグをやっていたのでそれなりに舐めた書き込みもあったというか、「こいつ喧嘩売ってんのかな……」みたいな書き込みも頂きましたが、しれっと受け流して腹芸をかますのもそれはそれで楽しかったです。掲示板のレスでどれだけ面白いことを書くか姉と競い合うみたいにしてわいわいやっていたし(共同サイトでした)、ウェブ拍手が始まったらウェブ拍手のフォーマットでどれだけ遊べるかを考えるのに熱中しましたし、ウェブ拍手リリース前だったと思うんですが「通りすがりのものです! 大好き!」みたいなことがデフォルトで書いてある一言メールフォームをサイトに埋め込んで遊んだこともあります。インターネットが双方向で、どこかの知らない誰かとやりとりをしているということ自体が超楽しかった時代です。

受験生になって、大学生になって、忙しくなって、そういう熱量をキープするのがまず難しくなりました。掲示板いつ外したっけな。なんとなく、「ちゃんとやりとりできてない」ことと、「自分がだんだん気難しくなってきてて、というか、本来気難しいのに明るいキャラを装ってることの無理が来てる」ことが悲しかった。「メールを貰っても疲れててあんまり喜べない、疲れてるのにが先立ってちゃんとお返事ができない自分」が嫌で、性根が腐っていっているような気がしました。

「メールボックスを開く」こと自体が辛くなったのは同人とは関係なく友人と世にも凄惨なやりとりがありメンタルがずたぼろになっていたからでしたが、それに加えてものすごくささいなきっかけでウェブ拍手が荒らされて、今思うと別に全然幼稚な手口だったんだけどいろいろ疲れててぷつんとインターネットが無理になりました。20歳くらいの頃だったかな。サーチエンジンの登録を全部切って、日記とか作品分析とか全部消して、ブログのリンクをサイトに貼らなくなりました。そのうち貼るようになった気もするし、22歳くらいの頃にもう一回サイトをやるのが盛り上がっていた時期があって、長文メールのやりとりをしたりしてた時期もあったけど、それも個人が相手で、だんだん、「いろんな人がいるインターネット」が怖くなった。

24歳でBLを唐突に書き始めて、BLを書いている間はTPOがあっているかわからなくてめちゃくちゃ怯えていた。萌えましたと言ってもらえると村の一員にしてもらえた気がして嬉しくて、でも「一員にしてもらうために」書いてるだけのような気がしてきてどんどんよくわからなくなった。「書きたい」と「書くべき」と「書いたら褒められる」の境界があいまいになっていった。頑張ったら「正しい答え」が貰えるような気がしていたし、もう何を言われるのもなんだか怖かった。自分で合ってるか書きたいかわからないのに人に褒められてそれで嬉しいのかどうかもわからない。

 

歴史があるんですよ。

17歳の頃のわたしなら、どんな感想でも嬉しくてはしゃいだと思います。煽ってんのかな馬鹿にしてんのかなと思ってもヒュウと言って煽り返したでしょう。齢を経るごとに、自分の書きたいものが明瞭になっていけばいくほどに、だんだん「相手の文脈に則って感想を読み解いて返事をする」のがキツくなってきた。ギャグを書いていたときは少なくとも「笑ってもらえればそれでよかった」。そしてそれができなくなった自分がなんだか恥ずかしかった。でも自分にはギャグのセンスはないと思った。ラブコメのセンスもないと思う。でもギャグやラブコメを書くと褒められるし自分でも結構よくできているのではないかと思う、「優等生」だと思う、でも、「勉強しただけ」じゃないか、とも思う。なにが「良い作品」なのか自分でもわからない。誰に何を言われてももう全部ノイズに聞こえる。

 

という時期があって……28歳くらいかな……。

まあ今それほどこじらせてないですし、勉強して書いて何が悪い立派な才能だと思いますし、褒められたらアザースと言って笑い返すけども、28歳くらいの頃はわたし本当に「わたしを褒めるな、とくに、小説を褒めるな」ってずっと喚いてたし、今思うと自分に自信なかったんだなあと思う、逆に言うと今なんでこんな益体もないことばっかりやってるのに堂々としてるのかよくわかんないけど。

 

「わたしが書いているもの」に確信が持てていたころ、あるいは確信は持てないけど何かやりたいことがあることだけは誰かにわかってほしいと思っていたころ、「あなたはわたしにとってこういう人間だ」「あなたの作品をこう読んだ」と言われるのはすごく気持ちいいことでした。

たぶんそれが怖くなったのは、「わたしはわたしだ、ということを、わたし自身が決めないといけなくて、ほかのだれもそれを認めてくれないかもしれない」と思い始めて以降だと思う。「変な子」になんかなりたくなかった。みんなが面白いって言ってくれるような、誰が読んでも笑ってもらえるようなものがもっと書きたかった。でもそれを書けば書くほどわたしが遠ざかっていく気がした。そうしてある日疲れて泣きわめいて、「そんなに頑張る必要なんてないのに、やりたいことをやればいいのに」と言われて絶望した。「やりたいことをやっていたらわたしの書くものに興味なんかないくせに、意味もわからないくせに」と思った。「意味が分からない」と言われすぎていた。

 

どれだけ言葉を尽くしても意味が分からないと言われるのが怖くてたまらないので意味が分からない文章だけをいっそ書きたい。

つまり感想を書くことはできません。書き手に言いたいことが伝わらない感想を書くことは大抵の場合無意味だからです。

そしてわたしは作者相手ではなくインターネットにほそぼそと感想を垂れ流し、そしてばっちりその感想に対して第三者から「意味が分からない」と言われたのでありました。

 

 

伏線の回収……。

 

 

たぶん今でもわたしはわたしのことをわからない人に怯えていますよ。感想を貰って嬉しくないわけではないけど、怯えてはいる。誰のせいでもないんだ。

意味がわからないだけなんだ。

千羽鶴とは何か

「被災地に千羽鶴はいらない」が議論巻き起こす 被災者を「傲慢」と怒る人たちの理由とは

 

この間もひろしまブランドのホームページをふと見たら折り鶴がモチーフに使われててげんなりしたんだけどさあ……。

サッカースタジアムもかなりどうかと思うんだけどさあ……。

 

被災地に千羽鶴を送るのがどれくらい有害かという話をするためのエントリです。

 

わたしがいま文章を書いている家のあるここは広島ですので、千羽鶴のいわばメッカです。処分に年間一億かかるという話はネットではソースがとりあえず見当たらないのでどうだか知りませんが気が遠くなるほどの量が送られてきているのは事実であり、その上で、広島に千羽鶴を送るという行為の中にどれくらい「平和への祈り」が本質的に含まれているのかは相当怪しいと思います。少なくとも広島の子供はわたしの体感ではほとんど義務で折っているし、大量に折らなくてはならない以上、たくさん折れる手先の器用な子が良い子=「平和への祈り」が強い子ということになります。そんなことあってたまるかという話ですがそういうテンションになるのも事実です、競争させないと大量生産できませんからね。

まあでも広島に千羽鶴を送るのは送られる側としてフォーマットが整っています。再生紙を作ろうという取り組みもあるみたいなんですがよく知らない人の「祈り」をリサイクルして手元に置くという感覚が理解に苦しむ。それは「呪い」と何が違うんだ。まあその話はともかく少なくとも千羽鶴というものに対して感覚は麻痺していますし受け取って当たり前ということになっています。だから別にいい。わたしは、あの文化を、どうかとは思うんだけど、それはまあいい。

 

しかし慣れてない人があれを唐突に送り付けられたらかなり、あの、

気持ち悪いのでは……。

 

「千羽鶴」というのは「美談」ということになっていますが、たとえばですね、介護施設によくあるでしょう、今リンク貼ろうかと思ったけどなんか申し訳なくなってやめたのですが、折り紙で作ったフクロウとかああいうやつ(見たことない人はググってください)を、作ることを否定しているわけではない。作るのは結構おもしろそうだと思う。だたそれを貰ってうれしいかといわれると、大事な人からもらったものであってもこれどうしたらいいんだよと思う人は結構多いと思う。手作りのプレゼントは親しい人同士でもこれどうしたらいいのかわからないということが多いと思うんですが、わたし編み物サークルで「編み物をしてそれを送るなんていまの状況では自己満足だ、寄付をしましょう」という呼びかけをしているところも見かけたことがありますが、手編みのセーターはまだしも着れます。送れって言ってるんじゃないぞ!

千羽鶴は着れない上に、千羽分の、よく知らない人の感情が籠っているのです。

焼いていいのかどうかすら微妙なのです。

しかも結構でかい!

 

千羽分人の指が触れたものが全く無意味に送り付けられても何の役にも立たないし燃やすにも人目をはばかるし(おそらくそういうものを無下に扱うのはどうかという声は現地にすらあるでしょうし)、しかしその結構でかいものを送るための送料でもっとほかのことができたはずです。

折るなと言っているのではない。

送るなよ。

家で飾るか家で燃やそう!

 

心が乱れてしょうがないときに折り紙をするのは有効だと思います。それは祈りだ。でも祈りましたという成果物を誰かに渡すべきではない。心が乱れたのはわたしの問題、その成果物はわたしの問題、誰とも関係ないわたしの問題。それを世界規模で共有するメッカという文脈をつけた広島の千羽鶴文化はしみじみと有害だと思いますが今更やめられないだろうししょうがないんだけど広島の平和立県本当にどうにもならないのかこれ……。「平和」とは「鶴を折ること」ではないだろう……。平和とは何であるかはともかく鶴を(授業で)折ったから何なんだ?

 

 

あと付け加えると千羽鶴という文化は、というか迷信は、鶴が長寿である→長寿の鶴を千羽集めることによって病気快癒や長寿への祈願になるという理屈なんだけど地震とあんま関係なくない? もっと言うと平和とも関係ないと思う(本来的には原爆病に対するカウンターだと思う)んだけどだから変な文脈をつけるからこういうことにさあ……。

鶴を折ることで担保される平和って何だよ!

 

 

鶴を折ることは嫌いではない。でもばかばかしいと思っている。本当にばかばかしいと思っている。

朝ごはんと和解せよ

七時に起床してカーテンをあけて窓をあけて湯をわかしピッチャー二本分のお茶を作り(任意のハーブティーと麦茶、今日はクリッパーのレモン&ジンジャー)トイレに行って戻ってきてパソコンを開いて仕事をしているうちに昼になるという生活をついうっかりやってしまうのですが、

朝ごはんという概念が定着しない。

 

寝起きが悪くなかった覚えがない人生だったのですが、一人暮らしを始めてから唐突に朝七時(早いときは六時)にぱちっと目が覚めるようになりました。いわゆる「実家を出さえすれば全て解決する」案件だったということになりますが、記憶する限り6歳くらいの頃には既に寝起きが悪くしかも登校時間が長いために学校の近くに住んでいる子より一時間くらい早く起きなくてはならないし通勤時間となると片道二時間は当たり前だから起(略)という生活をしてきて、「だめだ! 通勤片道二時間はわたしには無理だ! 引っ越そう!」と思うまで十年の年月を経て引っ越したにも関わらずいま在宅で必死でパソコンを叩いたり資料の山をあっちへやったりこっちへやったりするのが仕事で別に昼夜逆転しても何の問題もないのに、たかが一人暮らしを始めたくらいで全て解決し朝七時に起きているのは理不尽ではないか。

別に誰が悪いということもない(しいて言えばさっさと家を出なかったわたしが悪い)んですが、理不尽ではないか。

それはともかく朝七時に起きています。夜十時には寝ていたい生活だしだいたい九時には寝ています。勤め人のみんなとSkypeのタイミングが合わない。いやそれも別にいいんだけど、わたしが起きていられそうな時に行くけど、この文章の議題は早起きができるようになってしまった理不尽さでもなく夜更かしができない弊害でもなく、それはどっちも別にいいよ、問題はどのタイミングで朝食を摂ったらいいのかよくわからないということです。

 

学生時代は当然朝起きていました。ろくに寝ていない(寝つきも悪かった、というか今思うと不眠症気味だった)ので食欲がなく、加えてうちの味噌汁はいろいろな点で雑なので、作ってもらっておいて文句を言うのもなんなので言いませんでしたがわたしはアサリの砂を噛むのが何より嫌いで次に出汁を取ったいりこがそのまま入っているのが嫌いだった、つまり頭がボーッとしているときにじゃりじゃりしたものが口に入ると自動的にエラーとして処理してしまうので味噌汁が飲めなかったのですが、今思うといちいちいりこと昆布で出汁取ってわざわざアサリの味噌汁作ってるのすげえな。飲んでなかったわけですが。アサリの砂を噛むのがめちゃくちゃ嫌いだったせいでアサリが嫌いでもっと言うと味噌汁が、そしていりこ出汁全般が嫌いな少女時代を過ごしましたが、大学生くらいで外食をするようになって全部和解しました。

のちに和解するわけですが、それはともかく外食を自発的に行うようになる以前、とにかく味噌汁が飲めないのです。そして選択肢として提示されたのは納豆ごはんでした。別に納豆は嫌いではないのですが、寝不足なので、納豆の匂いもエラーとして処理してしまって食べるには食べるんだけどよく通学中に吐いていました。

パンという選択肢がなかったわけではありませんが、常備されてはいませんでした。あとうちには大抵マーマレードしかありませんでした。マーマレードの苦みも(略)

というわけでわたしは朝食を諦めました。

 

わたしは食べ物についての文章を小説にしろノンフィクションにしろその中間くらいの文章にしろしょっちゅう書くわけですが、別にわたしは食いしん坊でも食べるのが大好きなわけでもなく、どちらかというと憎んでいる方だと思います。あいつらとの適切な付き合い方が分からない。栄養素というデータと味というデータの他に、記憶、憧れ、嫌悪、様々な感情的なデータが載っているものを、選択できるときは選択するし、選択できなくても何かを食べなくてはならない、適切なタイミングで、常に。毎日。作ってもらったごはんに文句を言ってはいけないことになっているし、養われている意味も考えなくてはいけないし、栄養バランスを考えなくてはいけないし、思想的な側面もくっついてくる。売れ残りの残飯を食うまでが仕事だと言われていた時代もあるし、よく食べれば褒められるから食べていた時代もある。よく食べるということや何を選んで食べるかということがセルフブランディングの側面すら持っている。

子供の頃はインスタントフードに憧れていました。バランス栄養食品にも。コンビニエンスストアにも憧れていました。文脈がなくて自由だからです。そして我が家はインスタントフードとお菓子は禁止でした。中学生になるまでコンビニで買い物をしたこともなかった。今は時々深夜にコンビニに行きます。深夜のコンビニは救いだ。どんなに不安でも社会は継続していることを教えてくれる。

 

おそ松さんの2話でチビ太とおそ松がディスコミュニケーションしていたことを思い出す。だから何だというわけではない。だから何だというわけではないが食べることの前提的な価値がどこかへ行ってしまってわたしはいまだにそいつを確保できない。朝食との適切な関係性が持てなかった人にはたぶんわからない。誰が悪いわけでもない。

 

朝ごはんを食べた方が全体的にシャキッとするのは知っている。朝食に重きを置いてだんだん軽くしていって夕食は軽めに食べるほうが睡眠状態が良いということも知っている。それなら実行できるかというとこれができずに四苦八苦している。

まず、空腹時のほうが文章が書けるので、起床時の空腹状態を阻害したくない。とりあえず一個片づけてから朝食を取ろうと思う。そうすると忘れていて十時くらいになっているのでどうせあと二時間でしかないのでもういいかと思う。さすがに頭がふらふらしてくるので昼食はどうにかする。オールブランフルーツグラノーラを2:1くらいで混ぜてヨーグルトをかけて食べると腹持ちが異常に良いのでそればかり食べていて、食事を摂ったというノイズが発生しなくていいんだけど、ほとんど空腹から逃げて時間を稼ぐくらいの感覚で食べてどうにかしている。先月末に浮かれていてペンネを四キロ買ったので、昼食の用意のついでにペンネを一合桝に二杯計って水につける。夕方になるとキャベツと豚肉に塩コショウをしてレンジで回して、水で戻したペンネを電子レンジで十分回して、合えて食べる。野菜や肉を触る気になれない時はレトルトのスパゲッティソースをかけて食べる。

朝食に限らず、食べることからどうにかして逃げようとしている。

食べることから逃げれば逃げるほど人間ではない何かになれるような気がしているのは知っている。

自由になりたいと思っている。

 

まあでも人間ではないふりをしている先に待っているのは必ず破綻だ。自分が地上に縛られており歴史と文化を背負って生きているということを認識するために明日こそ味噌汁を作ってごはんですよで米を食べます。朝ごはんと和解せよ。

 

料理をするという作業自体は好きなんだけど、いま(多分地震の影響で)野菜が高いんだよねえ。

何故料理の写真はおいしそうに見えなくてはならないのかという一考察

まず端的に言いますが、

  • わたしのスマートフォン(iPhone5S)は壊れかけていて、そもそも変な写り方します。
  • ほかにカメラはありません。
  • あと光源がありません。スタンドライトが壊れました。買い直す金がないし正直特にいらない。
  • 皿もろくにありません。
  • 正直都度撮影環境を整える前にさっさと食いたいです。
  • そもそもが写真というものにおいて定義される「良い写真」という定義に懐疑的です。
  • 最後に、料理の写真が美味そうに見える必要性を感じていません。

 

何の話をしてるって、「料理の写真が汚い」ってしょっちゅう言われるんだよ。今日もメール来てたよ。論破したから聞いてくれるとは思わないんですが料理の写真が汚くて何が悪いということによってみんなどんどん料理の写真を上げてくれてわたしが楽しいかもしれないので書きます。

 

べつにきれいそうな写真を上げようとしていないので汚いのはあたりまえなんですよ。

 

その機材がなく、その環境がなく、その技術を習得しようとした経験自体はあるがどうも理念がよく理解できなかったので放棄し、そして理念が理解できなかった以上写真を撮ることを努力するつもりがなく、そして、「うまそうに見える料理」というのは「机をきれいにして、光源を用意し、品数を揃え、たれがはねたら拭き、彩を添える」ことによって人為的に作れるというのは知っています。それが美味いかどうかはともかくそういうコントロールによって絵的にきれいであるということが成立可能なことは知っています。

やってられるか!

わたしがせめてちゃんとしたコンデジ持ってたら話は別です。おもしろがってがしゃがしゃ撮るでしょう。わたしのスマホが生きててもまた違ったかもしれません。わたしのスマホは瀕死なのでインスタグラム起動させるのも正直面倒です。というか正直もう加工が面倒です。

何が目的でTwitterに写真を上げるかって、

 

「ちゃんとした飯を食いました(生存報告)」

 

です! (上げてないときはちゃんとした飯を食ってない、カロリーメイトとか食ってるかぼーっとたきこみごはんだけ解凍して食ってる)

 

あと、「状況が切迫していてちゃんとした写真をどうする余裕もないがとりあえず貰った肉を食います食うからには一応なにをどうしたか報告します肉ありがとう」つって写真を撮っているのであって、繰り返して言いますが俺のiPhoneは瀕死なんだ、去年交換したのに……。もちろん「おいコンロ汚えよ掃除しろよ」は真っ当な指摘だし、肉を送ってくれた人に対してせめてもうちょっとまともな写真を上げろよというのはわかるんですが、コンロが汚いのはコンロを掃除する暇がないからだ。というわけでわたしはもういっそのこと肉の加工経緯の写真を上げるのはやめますけど逆に失礼かもしれないので……noteに連載を立ち上げましたのでそちらでどうぞ(まだ中身はないです立ち上げただけです、今日書きます)。

鹿ちゃん肉を食べる

表紙はみんな大好きダムるしさんだよ。

 

そもそも料理写真が何故まずそうであってはいけないのかというと、まずそうな料理写真はゲロに似ていて、ゲロに似ているとグロテスクだからなんですが、でもそもそも謎の肉というものは見慣れていないから全部グロテスクです。それを多少加工で飛ばしてなんだというんだ。

いいですか。前提として肉はグロテスクです。あれを素材においしそうに写真を撮るのはそもそも相当難しいです。そしてわたしは彩のためにミニトマト買うようなことだけはしたくない。

そして、ある種の人間、特に家庭料理をやり慣れている人間のうちある種の人間は、あれを見てすら「おいしそうーわたしもこんどやろ」とポジティブな何かを受信することが可能です。あれが「読み解ける」人はいるんだ。それは君じゃないだけだ。

 

まあ、というわけなんですけど、ついでに俺の写真を見ていってくれ。

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要するに何なのか全くわからないけどいい写真だと思う(俺は)。

機材があったとしてもそもそもが「何を意図してなにを撮りたかったのか一切わからないような写真」を撮ります。つまり料理写真を美味しそうに撮ろうという意思がないどころか料理だということが伝わるだけマシだと思う。

という話をするために写真を漁ろうと思ってインスタグラムインスタグラム(なんでアカウントがふたつあるのかよくわからない)見たら意外とまともな料理写真撮ってて、まあインスタグラム力では? とは思うものの、それなりに頑張ろうとしていた時期はあるらしいということはわかった。写真としてはまともだとは思うがこれをみて美味しそうかというとでも微妙だと思う。

いまはもう……どうでもいい……俺が飯を食ったということだけ確認してくれ……「写真を撮れるくらいのめしを食おう」と思うと「せめてまともなめしを作ろう」と思うんだ……。

というか今Twitter鍵垢ですけどね……。(だから外から飯の写真だけは見えるけど)(もう誰に気を使わなくてもいいやと思ってるからガチで気を抜いて撮っているのでまじでまずそうだけど)。

 

なんかほんまあの……。

汚い写真をお見せしてすみませんけどね、そもそもがわたしは汚い写真が好きですしね、えーとですね、8歳から16歳まで水彩画をきちんとした先生について学んでいたんですが(今のTwitterのbkydのヘッダは昔描いた絵です)、たぶん先生との相性が悪かったんじゃないかと思うんですがわたしはまず静物デッサンができず、できずというか、物質の形を物質の形としてそのまま理解することの意義がわからず、やるにはやったんですが意義が分からないので上達せず、「寺の裏」とか「川が遠くに見える道」とか、まあわたしの写真見ていただいたらわかると思うんですけど、「なにが目的なのかも何がきれいなのかもよくわからんが何かを感じたのでこれを何か形にしておきたい」みたいなことを描きたいんだということが理解してもらえずおそらく自分でもなにがやりたいのか焦点化されておらず、よくわからないままありものの絵の模写を悶々と続けて、ストレスの方が大きくなってやめました。

やめたあと数年後に大学でマルセル・デュシャンの泉を皮切りとする現代美術に関する講義を受けて、ようやく「あー!」と思ったんですが、その時にはもう文章を書くほうでばたばたしていて、えーとそのあといつだ……いつだったか写真ちゃんとやろうと思って一眼レフいじって光源がどう絞りがどうみたいなことをやっていた時期が……二年くらい……あったことはあった……。フィルム代がな……。

で、同人誌を作るようになって表紙作るのにグラフィックデザインをすごく中途半端にやって現在に至ります。同人誌の表紙はtumblerにある。

 

「おいしそうに見える」とか「きれいに見える」とか「反対色の扱い方」とか「ピントが合っている」とかが大事だという理屈とテクニックがわからないわけではないんだが意義が分からないんですよ。少なくともわたしがそれをやる意義がわからない。

というか、「美の定義」というものはものすごく微妙なものだと思うので、「絶対これが正解」とかないし、そこで「ウケることを狙ったいい作品として」グラフィックを扱うの面倒くさいんだよ……。ものすごく「セオリーを守る」ということを気にしないといけないんだ。すごくめんどくさいんだ……。わたしがこれはいい写真だと思って撮った写真がまずそうだと言われるよりとくにうまそうに撮ってない写真がうまそうに見えないほうがぜんぜんいいし……。

わたしが食い物を撮った写真で好きなのはこれです。

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美味そうには見えない。

 

 

「切り口がそこじゃなさすぎて帰ってこい」「今日調子悪いだろ色合わせいくらなんでも大丈夫か」「もういいから俺に描かせろ」と8年言われてうんざりして絵を描くのやめた道具全部捨てたあれから筆を手に取ったことは一度たりともない。好きにやらせてください!

ほんと世の中「好きにさせてやれよ」って案件が多すぎる! 俺だって先生に褒められるような風景画描きたかった! わたしはきたなうまい飯の写真が好きです。みんなもっと上げよう。人類は法に触れない範囲で自由で許されているんだ。

 

わたしは鹿の写真だけはわりとまじめに撮っています。

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若干の面倒くささと愉快さを伴う今回の経緯

ゴシップで騒がれた芸能人が「どうして、このたびはお騒がせしましたと言うのかわからん」「お騒がせしたのはあんたじゃなくゴシップ誌だろ」と思ってきたがちょっとわかったぞ。

このたびはお騒がせしてすみません。

以外に口火の切り方がない。

 

「しばらく見てない間にかなこさんどうした」と結構言われたので書いておきます。なおわたしが「かなこさんさいきんどうしてんの」ってわりとしょっちゅう言われるのはインターネットに十四年いるわりに全く落ち着きがなくやってることが見るたび違っているせいだと思います。十四年前から「ジャンルとかとにかく眺めつづけている」人がそれなりにいるんだ……。みんなありがとう……。

 

デジモンアドベンチャーtri.の告知が出たのいつでしたっけ、もうそこから記憶があいまいですけど。内容に関してはとりあえず触れませんというか連作映画なのでこれから何が来るわからない以上なんともいえなすぎますが、次観なくていいのかどうか死ぬほど迷っているということだけ言います。現場からは以上です。

内容云々以前に「サイトや商業展開やイラスト、あまりにも前作への敬意がない番宣ではないか」ということにわたしは真剣に腹を立てて封切りまでを過ごし、まあ観て、観たので、逆にそれまで怒りすぎて番宣に関してはもう大分どうでもよくなるという現象が起こったのですが、まあ、その話はいいんだ。

去年一年間ものすごく追い込まれた精神状態で生活していました。デジモンアドベンチャーはわたしが青春を捧げた作品です。誇張なしに貯金残高と可処分時間の全てを捧げパソコンを買ってインターネットを始めいまここにいます。あのタイミングであのアニメにハマらなかったらたぶんなにひとつ始まっていないでしょう。それの続編の告知を見ても不安しかない。ていうか根本的なことを言うと、大輔さんはどうなったんだ。

時代はリバイバルブームでした。あとNARUTOが終わったような終わってないような続いたような続いてないような生殺しを続けていました。もうリバイバルとか続編とかいう言葉を見るだけでナイーブになるしかないような状況で一年を過ごしそしておそ松さんが始まりました。

最速組の反応を観て、「ああ赤塚アニメっぽいことやってるんだなあ、これは当たりのリバイバルかなあ、いい加減当たりのリバイバル観たいよなあ」と思って観て、前も言ったけど指さして笑っていいよ……。

「赤塚先生怒ってないかな」「ごめんなさい」

リバイバル作中のメタ作品としてこれ以上「欲しかった」言葉はなかった。号泣して、「なんかもう全部受け入れよう」と思いました。というわけでtriは比較的心やすらかに観ました。松がなかったら前後半年くらいダメージを引きずっていたことは想像に難くない。

あの頃の夢はもうここにはない。何をしたらいいのかわからないんだ。偉大な原作が最高のコンテンツだった時代はもう過去のものだ。先生は死んだのにキャラクターは生きてる。どうやって生きていったらいいんだろうね。なにをしたらいいんだろう。そうだね、わかんねーよな。わたしだってどんな続編なら観たいのかわかんないよ。老害になんかなりたくなかった。大好きだったものをずっと好きでいるためにもうなにも見せないでいてほしかっただけなんだよ結局。

 

というわけでおそ松さんには恩があります。誰が「おまえがおそ松さんを好きになってワーワー言ったせいでこんなんなってあんなんなったじゃねーか」と言おうがわたしはこれは言います。リバイバルとは何かということにたいして真摯に向き合い言及したおそ松さんに恩があるしあの作品が好きだし今週もめっちゃ面白かったし、ぎりぎりなところは多い作品なので全人類に観てほしいとは言わないが(不快な気持ちになってもなんの補償もできないので)できれば観てほしい作品としてこれからもずっと推し続けると思う。

 

さて、わたしの好きになる作品が、メタ視点とメタファとオマージュとミスリードに溢れている(ように読める)ディストピア作品である(ように読める)のはいつものことです。全部そうです。というか、全部そうだとわたしは思って読んできました。作者がどういう意図で書いたとか関係なく、わたしは「ディストピア作品として読めるから」好きなのであって、それはわたしの「自由な読み方」です。そしてわたしはフィクションがディストピアを描いてくれるとものすごく幸せなんだ。

いいですか。繰り返して言いますが、「どういう作品として受容されることを目的として提供されたコンテンツであっても、受け取り手が実際にどう受容するかは、受け取り手の自由」です。

それはそれとしておそ松さんはギャグアニメとして非常によくできていて、たとえばわたしはカラ松兄さんのコメディアンとしての仕事のテクニカルさとそれが何故テクニカルであるがゆえに評価されずいじられキャラという立ち位置に立たねばならなかったのか実際の漫才やコントの作品を引いて賛美するエントリを上げたりしたほうがたぶんよかったんですが毎週エントリ一本上げるのがぎりぎりすぎて手が回らなくて、いやなんていうか、去年はtriに振り回されたあと冬コミでばたばたしてたし今年入ってからはずっと、ようやくそろそろ大分軌道に乗ったので(ライターの仕事が)逆に言うともうアニメエントリ書いてる暇もそもそもないのでこの状態でいいっちゃいい。いやこの話は今はいいです。それはそれとしておそ松さんはギャグアニメとしてよくできていて、というか、なんであの情報量を詰め込んでいるにもかかわらず「さらっと気軽に観られる一話完結ショートギャグアニメ」として成り立っているのかがわからない……。すごいお仕事だと思う……。毎週あんなものを観てこれから口が奢って何を観てもつまらなくなったらどうしたらいいんだと思って逆にほかの作品も一生懸命観るようになったし流行ってる作品を観ることを恐れなくなったしおそ松さんのおかげで朝6時に起きて20時に寝る生活ができるようになったし痩せたし背も伸びましたありがとうございます!

ところで松野カラ松新訳シリーズの続きわたし書いてもいいんだろうか……(カラ松兄さんのコメディアンとしての仕事がそもそもテクニカルであるというのはこういう話です……)。

 

違う。その話じゃない。

というわけでわたしは最高のギャグアニメであり良質なディストピア作品であり真摯なリメイクであるおそ松さんというアニメをめっちゃ楽しく観て、いつも通りの放言を繰り返していました。インターネットを始める前姉や友人を相手に、インターネットを始めて十四年、ずっとやってきた、いつも通りの放言です。いつものやつです。昔からの方はよくご存じだと思います。いつもやってるいつものやつです。

5話が来ました。

「あのな、父さん、これまでさすがにけいおんとかfreeとかに対して言ってたことはどう考えても本編に反映されない種類の放言だということはわかっていた。そしておそ松さんは先週までは社会風刺入り男けいおんだと思っていた。おそ松さん5話が来たんだ。いまからあらすじを話すぞ。これ、あのさあ、これ、先週言った。先々週も言った気がする。待って? なんで俺の言った通りなの言った通りだよねこれ? なんなの?」

「おめでとう鹿ちゃん!」

「鹿さん待って。鹿さん待って待ってTwitterタイムシフトさせて話が長いわたしまだ観てないから」

 

という経緯でめっちゃ久しぶりにブログエントリ書きました。なおわたしが旧ブログをぱかすか更新していた前回は、askが荒れすぎて(第一回ask荒れ時代、たしか黒バスです)めんどくさくなったのでaskで延々喋っていたようなことをブログに移動したのと、仕事が死ぬほど暇なわりにないわけではなく店にはわたしひとりしかいないので話し相手もおらずかといってわたしひとりの裁量で決めていい仕事の量が少なくひたすら確認案件を上げたあとは手帳を開いてうだうだ考え事をするくらいしかできることがなかったからです。今回は友達のために(あとカラ松ガールが慌てふためいていて気の毒だったので)書きました。

めっちゃ久しぶりにブログエントリ書いたら、エントリ告知ツイート4000RT。

アクセスログうっかり取り忘れましたが投稿日だけで25000ページリクエストされてたと記憶しています。

旧ブログでバズったときもそれくらいだったと記録がありました。RTはこっちのほうがされたんじゃないかな。みんな汀こるものを読もう! 新刊が出たぞ!

後者の方は全然荒れなかったんですよ。有益な情報をシェアします的な感じでどんどん広がって行ったけどわたし個人に対する何かみたいなのは良くも悪くも全然なかった。スッキリしたもんでした。

今回バズってまじ大荒れに荒れました。いやなんか意味わかんなかったしいまだに正直わかんないんですけどとにかく大荒れに荒れました。あらゆる悪口を言われているのでエゴサは当然しないほうがよく、すごい勢いでフォロワーが増えましたが増えすぎて誰が敵で誰が味方なのか、というか、解釈の合う合わないはともかくとして、誰なら友達になってくれるのかが分かりません。

わたしはもともと垢消し芸人です。しれっとブログを消し、一か月くらいTwitterアカウント消し、なにもかもなかったことにしたらほとぼりがさめるのはわかっていました。

でもですね!

好きな商業作家さんにフォローされてな!(わたしは商業作家さんのTwitterを見てがっかりするのがいやなので「Twitterが面白い人として視界に入るタイプのTwitterが面白い作家」しかフォローしないことにしていますが好きな商業作家さんにフォローされてうれしくないやついるか!?)

ジャンルあんまり被らないし、なんならギャグアニメ観ないような友達にも、「鹿氏のエントリはおもしろいぞ。おそ松さん観よう」って言わせてな!

あとさあ、義侠心が一切なかったとは言わんよ、カラ松担あんだけのことされて「いやこれさすがに笑えない」つって喚く正当な権利あったよ、公式に凸リプした子がいてまとめサイトできたよねまあ公式凸リプはおまえやめとけ気持ちはメールかお手紙にしたためろまとめサイトくらいできるわ人目につくところでやるんじゃないという話なんですが、それにしたって、「おい、こじらせてるオタクを指さして笑うな、みんな頑張って生きてんだ」と、言いたい気持ちがなかったとは言わない。義侠心もありました。

あの時点でケツをまくったらなにもかもなかったことにできるのはわかっていました。おそ松さんというアニメを嫌いになりたくありませんでした。5話メッチャおもしろかった俺ワーワー言っててよかったって思い続けていたかったです。俺は松に恩があって松を嫌いになるっていうことは松にあの時救ってもらった俺の気持ちの時点でリセットするってことです。俺はそれは嫌でした。ていうか、ここで松にしがみつくのをやめたらガチで、フィクションを愛すること自体が困難になると思いました(繰り返して言いますがわたしは青春のデジアドが生き返ったのか殺されたのかよくわかんない状況に、いまでもいます)。勘弁してくれ俺からフィクション取ったら何が残るんだ。

 

逃げたら全部詰むと思いました。

アカウントは消しませんでした。

感想を続行しました。

 

昔話ばかりして恐縮ですがわたしのインターネットは2002年に始まりました。当時はキャラクターに対する悪口を言うのを……当初は……気を付けていました。しかしキャラクターに対する悪口というのはもうなんか出てくるものです。出てこない人もいるのは知っているが出てくるものだもうこれは、少なくともわたしにとっては。2002年のうちに諦めたような気がします具体的にいうと松田啓人おいこら松田啓人あと秋山(※自担)てめえ自重しろ!!!!!!!!!!

みたいな形で解禁せざるを得なくなったような気がする……。秋山は……秋山……うん……。なんかみんなごめんねあの時は(俺の自担が)(唐突に乱入した俺の自担が……)(※デジモンテイマーズ)

キャラクターを愛するというのはたいへんナイーブなことです。それは承知しております。

でもナイーブな人がいるからといって「この作品のこの部分が許されない、ここは本当に改善してもらいたい、もらえなければもういいかげん読むのをやめるしかないが好きな部分はあるので和睦したいんだ」とか「このキャラクターのここの部分が本当にどうしてもだめだし俺はここだけは間違っていたって言い続けるからな」とか、言うのをやめるのが健全なことだとは全く思いません。

というか、作品キャラクター批判を「する理由がないからしない」のはあたりまえですが、「したいけどしない」が当たり前になるのは不健全です。

いいですか。

 

  • 作品理解の上でキャラクターを分析してそのうえでキャラクターを批判をする自由な権利がありそれは作品への向き合い方としてひとつの誠実さの示し方でありえる
  • 分析上誤読があることは当然ある
  • 「俺の感想」は「俺の感想」であって「俺は誰にこの感想をシェアしてもらいたいとも皆がこう考えるべきだとも言ってない」、言ったことはないはずだ。これは「俺の感想」なんだ。「君の感想」じゃないんだ。「誰の感想」でもないんだ。「俺が自分で考えた感想」なんだ。正直それにフリーライドした人間がいたからといって「おまえが石を握らせた」と言われるのは不可解だ。
  • おい冷静になれよたかがアニメの感想だぞ!?

 

というわけで、わたしは言いたいことを言いたかったし、これは言うべきではないということは言わないようにしていたし、見えないふりをするのが困難なくらいわたしの意見を支持する支持しない(そもそもなんで支持する支持しないみたいな話になったんだ……)みたいな話題が上がっているのは観測自体はしてたんですが下手に首を突っ込むとなんていうか、逆に燃えると思ったし、そっちに割くリソースはなかったし、それはそれとしてわたしは批判をしないというわけにはいかないというか、というかですね、15話で兄弟が止めなかったことに関してうだうだべろべろ恨み言を言ったのはともかく(あれはモンペとしての発言なので、モンペなんだからモンペとしての発言くらいあの時くらいは許してくれよ……)、それ以外はわたしの定義によると批判というほどのことは別に言っていないんだ……。

キャラdisという言葉の定義があまりにも広がりすぎではないか!?

広がりすぎではないか!? とは思うものの、まあ、disってるわけじゃないよって言っても担キャラについて他担が言ってる言葉が攻撃的だったらてめえ! みたいになるのはわかるし、悪意のあるなし関係なくいやなもんはいやだろうし、俺をブロックしても第二第三の俺(俺ではない)みたいになると不毛だろうし、なんかもう見てないふり不可能になってきたんで、ていうか、直リプが来たんで、もうまあ……「誰がここまで燃えろと言った!? 俺が拡散してほしいと言ったか!? 言ってないとは言わないよ……『ここまで来たらどこまでも拡散させてしまいたい』とは思ったよ……松の話題性が上がれば上がるほど松がおもしろいということをみんなが知るから……でももはや俺が何を言う必要もないよなみんな知ってるよなここまで来たら、カラ松兄さんも一区切りついたみたいだし潮時だな、さよなら俺の本垢」

という経緯でした。

今回ミスった点は、「5話エントリを上げる前に松垢を分けるべきだった」です。そしたら本垢に鍵かけるだけで本垢は本垢として残せました。でも正直600フォロワーの時点(2年くらい前)で多いなと思ってたんだよね……まあ垢移動潮時かなって……。

アカウントを宣伝用に切り替えて(あとホットな話題を時々流して)鍵垢に引っ込んで、友達になってもらえそうな人を引きずり込んでうだうだしております。毎週何を言ってももう叱られません。誰に対する影響力も考えずに喋れます。うれしくて24時間ぶっ通しで松の話をしました。みんなに寝ろと叱られました。うれしかったです。みんなが遠い目で眺めてくれて「いっぱい喋るな……」「大将やってるね」「おいいい加減にしろ追えない」「楽しそうで何よりだよ」と言われてうれしかったです。「俺は……まだ……話すことが……」と言いながら息絶えました。たのしかったです。百回くらい「俺は自由だ」って言いました。

 

で、前職のなんだかよくわからない社会福祉法人をやめてからえーと一年半? ついに無職ではなくなりました。とりあえず今のところ、ウェブライターで食えています。いや入金来月だからまだ食えてないけど。頑張りたいと思います。

わたしのブログエントリが拡散されてたくさんの人に好意と悪意を持たれたこととは、たしかに現在わたしがウェブライターでやっていけている理由なので、それが全てではないですが、確実に一歩を踏み出せたのはそのおかげなので、おそ松さんと、それを取り巻く言説、わたしに対する悪意も含めた言説すべてに感謝があります。ありがとうございました。その意味で松にフリーライドしてる部分は確実にあるんですがわたし生活費ぎりぎりまで削って松のグッズ買ってるんでWinWinということにならないだろうか。

おそ松さんという作品のことを毎日毎日考えて物語を作るとは何かおもしろさとは何によって担保されるのかということを考えていることと、松野カラ松というひとりの人間の選択を追いかけることも、大げさな言い方をすると逆に嘘くさいのはわかってるんだけど、わたしの人生に起こった最も良いことのひとつだと思います。ありがとう。これはなにをどうしてもWinWinということにはならないと思う。フィクションは尊い。ありがとう。

わたしが影響力を持ってしまったことによってうだうだ喚いて結果として死人がもし出たのだとしたらその件に関しては謝りますし、キャラdisと取れる内容が感想に絶対含まれないとは絶対言えないし、そしてキャラをdisって戦争をしたい人の火種を提供するのは勘弁なので、感想は上げませんが、それは「火種を提供するのは勘弁なので」というだけの理由であって、だからと言ってわたしは絶対におそ松さんを好きでいることをやめないからな! わたしは5話のときにインターネットからのリアクションに追い込まれて友達や家族との連絡すらつかなくなってた時期があった上でインターネットに帰ってきてこういう流れになったけどまだそれでもおそ松さんを好きでいることをやめないからな! 絶対やめないからな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

神様ごめんなさい、俺はもしかしたら間違ったことをしたかもしれませんが人生を詰ませないことからだけは逃げたくなかった。比喩的にずっと言っていくと思います。「赤塚先生ごめんなさい、来週もやります」そして俺が俺の人生においてミスったことを謝る相手は赤塚先生(概念としての神)だけだ。だれかの人生に対してやらかしたことがあったらそれは都度謝るけど俺の人生や俺の好悪や俺の愛に関しては俺が謝るべきなのは神だけだ。

The show must go on!

死の受容プロセスと感情の弔いの方法

「わたしは傷ついているし怒っていいんだ」と気づくことはものすごく大事なことです。傷ついていないふりを繰り返した結果、唐突にストレスで死ぬ可能性はあらゆる人間にあります。鬱病になる可能性は誰にでもあります。みんなストレスフルな生活を送っている。「わたしは傷ついているし傷つけられたことに怒っていいんだ」、それで何が解決するということはないにせよ、「怒っていいんだ」。

それはものすごく大切なことです。みんな怒っていい。

しかし怒っていいし怒るべきだけど怒り続けていてはいけないんだと思う。

 

いつも思うんですが、ストレスに対する感情の動きは、死への心理プロセスに似ているのではないか。

エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間―死とその過程について 」

わたしこの本実は持っていなくてわたしの手元にあるのは大学で噛み砕いてもらった講義資料です。なので孫引きで恐縮ですが(こちらの記事に詳しいまとめがあります)、

 

「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」

 

死ぬ前に(鬱あるいはあらゆるストレス由来の疾患によってリタイアを余儀なくされる前に)まず「現状に対する否定的感情を抱くことを自分に許す」及び「現状の理不尽さに対して怒りを抱く」ことは前提として必要な段階でありそれを抱くことすらできず死ぬよりずっといいことで、それをしなかったらストレスにおめおめと殴り殺されるだけです。なんの抵抗もできず。

しかしそれを自覚したあと、今度は怒りのままに誰かを殴り殺す側に立つのではない方向に行くことはできないものか。

死は(現実に肉体が滅びるという意味においてのリアリスティックな死は)抵抗することが不可能な現象です。だから死への心理プロセスは抗いがたくこのような経緯をたどる(あるいは怒りながら死んでゆく人もいるだろうけれども)。でも肉体の滅びを迎えない限り、腕を振り上げることができて、石を握ることができて、言葉を話すことができて、SNSに登録できる限り、怒りの表明は極めて簡単に行えます。わたしたちはTwitterでリツイートして怒りをシェアできる。石を投げている自覚がないまま石を投げることができる。怒りは共有すると増幅する。「この人だって怒ってる」「もっと怒っていい」「もっと怒っていい」「もっと」

 

そして怒りが行き着く場所は暴力であり、暴力と暴力がぶつかり合うのが戦争です。

 

取引をしよう。ストレス源を取り除く努力をしよう。それが暴力にならない方法を考えよう。そしてわかりあえないことに絶望してそれでも死なないためにどうしたらいいか考えようよ。感情を弔おう。そしてどうして怒らなくてはならなかったのか考えよう。

もうなんか永遠に言うよ。

わかるまで考えよう。