一松事変と信仰

このテキストはnoteに掲載した「キャラクターと信仰」というエントリの再投稿です。いまはいろいろ考え方が変わった部分もありますが、少し直したほかは書いた当初のまま掲載しています。


このテキストは「キャラクターを信仰対象として拠り所にすること」をめぐるさまざまな事象や「信仰するとは何か」「信じるとは何か」といった思索について書いていきます。

まず、わたし自身は特定の宗教に具体的な所属はしていませんが、思想的には浄土真宗の影響を受けています。また、自宅が神社の真裏にあるという立地環境から、「拠り所としての土地やご神体」の具体的な効力に関して思うところはあります。しかし宗教に関する体系的な知識を持ち合わせてはいませんのでその旨ご容赦ください。

ある種の思想的冒険の経緯としてお付き合いいただければと思います。

とくに大多数の日本人がそうであるようになんとなくぼんやりとした信仰はあれどもはっきりした信仰心の自覚はないわたしがなぜこんなお話をするに至ったのかことの経緯を説明しますと、「萩ゼミ」という名前で有料Skypeをやっておりまして、そこに「キャラクターと信仰」という題目で喋ってくれ、というか喋らせてくれ、という企画が持ち込まれました。

友人に橘さんという方がいまして、面白い人なんですが、持ち込んだのはこの人です。この人はキャラクターへの愛好というか敬意をこじらせている最中にニーチェ『善悪の彼岸』を読み、「内的な神としてのキャラクター」を信仰するに至った方です。こういうことに言及するなら『善悪の彼岸』、わたしも読まないといけないんですけども……。

ともあれ橘さんとはそのへんの話、それから「信仰の終りとは何か」という題目でゼミをやりまして、そういう感じでやりました、と報告したところ、その後、「キリスト教的観点からキャラクターを信仰している人」で一回やり、来月5/5には「キャラクターと信仰・アイドルと国体」というちょっとギリギリな感じのする題目が持ち込まれました。

つまりそろそろまとまった文章を書かないとだめですね?

という経緯でこのマガジンは用意されております。

かなり攻めた題材なのでうまく扱えるか不安ですが、ひとまず手近なことを書きましょうということで、ええととりあえず自分の話をしようか。

『うたの☆プリンスさまっ♪』という作品に登場するカミュ伯爵というキャラクターを信仰していた時期がありました。具体的にはカミュ伯爵のキーワード「氷」をモチーフとしたオーナメントなどを飾った「祭壇」を作り、祈る時間を設けていました。

なんでそういうことをしていたかというと、話が長くなるんですけど、うたプリという作品はパラレルワールドを扱った作品で、つまり続編が発表されたとしても「好ましいと感じたバージョンの彼それ自体」ではない、「彼らしさとされる彼の一部分の延長」が用意されるという作品であるという前提がありまして、そのうえでわたしがいちばん好きだったカミュ伯爵はファンサービスのためのコンテンツであるTwitterアカウントのカミュ伯爵でした。そして伯爵はそのTwitterアカウントの中で「ファンは自分を信じるならば、コンテンツとしての自分を継続しよう」という言及をしております。

わたしが「信仰していた」のはその発言自体であり、逆に言えば、そのほかのコンテンツにおけるうたプリを「楽しむ」ことではなく「その一言だけを信じるしかない」ことになったのはその言葉が別にほかのコンテンツに反映されるものではない(どこからどこまでがパラレルワールドなのかもわからないから)ゆえにそのキャラクターの「連続性」を鑑賞することが不可能になったがゆえです。

つまり「信じる」という行為は、わたしのこの体験に拠るならば、「信じるに足ると思える概念を外部に影響されない自分の中に固定すること」でした。

今はカミュのことは信じていません。というか、特に信じているものはありません。たぶん理由はいろいろありますが、わたし自身がある意味で「信じられる側」、つまりある意味で「神」になったからではないかと思います。というわけで、これ以上に実体験の話はとくにない――たぶんない、思い出したら書きますがとくにないんですが、ともあれ知っていることを話し続けましょうということで、次回から『おそ松さん』16話「一松事変」とその周辺を題材に「信じるということ」について書いていく予定です。よろしくおねがいします。

 

一松事変と信仰

さて、松野一松くんというキャラクターがいまして、テレビアニメ『おそ松さん』に登場する六つ子のひとりです。病的で危険なキャラクターを演じて弱い自分を糊塗しようとしていたものの色々あってごく普通の内気な青年でしかないことを暴露されてその後いろいろあるのですが、気になる方は『おそ松さん』をご覧になってください。

それはともかく、一松がかつて危険なキャラクターを演じきれていたころ、ほかの兄弟が一松くんの「上司とか殺しちゃいそう」な性格をいじっているなかで、兄であるカラ松が「俺は信じてるぜ」と言い、一松がカラ松に掴みかかるというくだりがあります。ここで「カラ松は何を信じているのか」も「一松はなぜカラ松につかみかかったのか」も特に説明はありません。

さて、『おそ松さん』17話はAパートは一松が猫カフェに猫としてバイトに行く話、Bパートが「美と信仰と搾取」を扱った壮大な話、Cパート「一松事変」はカラ松の服を着た一松がカラ松を演じようとする話です。16話を通してのテーマは、ひとつは「演じること」ひとつは「信じること」が挙げられます。特に「一松事変」は「演じることを信じること、信じられることを信じること」をめぐる葛藤が描かれています。

「一松事変」作中において、一松は別の兄弟を相手に「自分はカラ松である」ということを「信じさせなくてはならない」状況に陥ります。それは非常に困難を極める作業となりますが、当のカラ松が口裏を合わせ、一松は自分が「カラ松のふりをしている一松」であることの露呈を逃れます。

一松事変において信じられているのは、「一松が演じているカラ松がカラ松であること」ではありません。ここではカラ松本人はもとより、居合わせたほかの兄弟も「それが一松ではないこと」には気づいているのではないかと思わせる描写が行われています(それが真実どうであるかは言及されていませんが)。

ここでカラ松が一松を救うのは、つまり一松を信頼して口裏を合わせるのは、「一松が一松であること」それ自体を信じているからです。カラ松にとって一松は「前提的に信じるに値するもの」であるがゆえに、カラ松にとっては「カラ松を演じることで何かを行おうとしている一松」を信じて口裏を合わせる行動を取ることは自然な行為です。これは2話において前提的に「信じてる」と言及したカラ松と重なります。

2話、そしてカラ松が誘拐されるエピソードのある5話においても、カラ松は「信じる」という行為を前提的に行います。カラ松は2話において自分が愛されているという根拠のない確信を持っており、つまり「自分を信じる」ことができます。「自分を信じる」カラ松にとって拡大された自己としての「兄弟」もまた信じるに値する存在であるものとして扱われており、つまりここで「カラ松が信じている一松」とは「カラ松がカラ松であること」と等価です。

「信じる」という行為において、「それがあるということそれ自体を」信じるということと、「それが良い存在でありさえすれば」信じるということの間には違いがあり、カラ松が行っているのは「それがあるということそれ自体に対する信頼」です。これは裏を返せば「それがどのような行動を取るとしてもその行動の細かな点は取るに足らないことである」として認識しないということにも繋がります。

 

カラ松が信じたのは「それがあるということそれ自体」である、つまり「カラ松の内的な存在としての一松」である、裏を返せばそれは「それが何をしようとそれ以上に評価が下がるわけでもないがかといって上がるわけでもない、それはそれであるだけで信じるに値する」に対して、一松はそもそも「自分」を信じていません。

「信じるに値する自分」のイメージが持てないため「友達ができない」「行動を起こせない」ことに苦悩する一松は、「友達ができなくてもいい、僕にはみんながいるから」と吐露する(というかさせられる)のですが、ここで扱われている「みんな」とは、「目の前にいる兄弟」を指すものでは必ずしもありません。彼が気を許している相手はたとえば幼馴染も含まれますし、そしてその「みんな」への言及が行われたときそこにいなかったカラ松は含まれない可能性があります。彼が呼ぶ「みんな」とは「ありのままの一松をありのまま受け入れる任意の対象」を指すものです。

そしてそのうえで、一松は「みんな」のことも信じてはいません。「みんな」は前提的に一松をそこに置いてくれる存在ではないと一松は考えています。信じることができないからこそ、「みんな」の一員として自分の居場所が確保できるよう、いつわりの自分を演じ続けているのです。

 

一松がカラ松の「信じる」に対して怒りという形の表現を取るのは、ひとつには一松が「自分は信じられるに足る存在である」という自認が持てないからであり、更には一松が「信じるに足る存在でなければ信じることは不可能である」と考えているからです。

カラ松の信頼は「信じることとは前提として信じること」ですが、一松の信頼は「信じるに足ると思えるものを見つけ出すことができなければ成り立たない」ものです。そのうえで一松は「信じるに足るものを見つけ出すこと」ができません。そしてそのうえで一松は「自分は信じるに足るものを見つけ出すことができていないのに、カラ松はそんな自分を信じている」という状態にジレンマを抱き、「一松事変」以降ゆっくりと「自我とはなにか」を見失い始めます。

「信じる」という行為は「信じたい自分」のために行われる行為ですが、「信じるに足る行動を取り続けてくれる相手を信じる」、つまり「信じさせてくれなければ信じられない」、「信じる」という行為を他者の行動ベースに見出し始めると、「自分」を見失うことにつながります。

 

さて、「一松事変」に見る「信じる」の二通りのありかた、「信じることとは前提として信じること」と「信じるに足ると思えるものを見つけ出すことができなければ成り立たない」について書きました。「信じるに足るものを信じる」とは、つまり「自分(信仰主体)に対して良いことをしてくれる」「期待に応えてくれる」ことを信じる、ということです。

「神は救ってくれる」「期待通りの架空が提供される」「アイドルはノイズなき美しさや愛らしさを提供してくれる」「自分にとって良い存在であり続けてくれる」「良い気持ちにさせてくれる」これはつまり「契約」です。「良い存在であってくれるなら信じ続けていられる」という信頼、これは信仰対象、便宜的にこれを「神」と呼びますが、「神」を「自分ではないもの」つまり「他者」としてとらえている考え方です。

「他者」としての「神」は、しかし「他者」であるがゆえに、「期待通りではないふるまい」をする可能性があります。「神」を信じることが「契約」である限り、「神」が変容した場合、「信仰」は変わるか終わることになります。

対して、「前提として信じること」は「信じるべきと判断したものを、自分の中で不変のものとして固定すること」です。それはたとえ対象としての「神」が変化したとしても「自分の中の神」は不変であるという現象として成り立ちます。

他方、それは「他者と分かち合うことのできない自分のためだけの幻」であり、共有不可能なものです。

また、「自分にとって不変の神」を自分の中ではなく他者に対して、特に「神」本体に対して求めること、「神」に不変であれと願うことは暴力性を伴います。

 

神絵師と信仰

以下は付録の文章です。ここからもう少し広げたかったのですがこれ以上はもっと勉強しないとだめですねということで広げることができませんでした。

 

いわゆる「上手い絵あるいは漫画をインターネットに投稿している人」を指す「神絵師」、あるいはインターネットにおける著名人一般に対する、「会ってみたい」「一緒に遊んでほしい」という欲望は「神」という言葉が冠される通り「信仰」です。

神絵師が神であるのは「すばらしい絵を見せてくれるから」にほかならず、逆に言えば神絵師に「絵」以外のものを求めることはその特性に見合った行為ではないのですが、神絵師に「神」という要素が付与された瞬間から、つまり信仰が始まった瞬間から、「友達になることによるメリットを手に入れる」という欲望を抱く人が存在します。

あるいは別の側面として「神絵師の『絵』以外の要素も好ましくあってほしい」という欲望の表出も存在します。これは神絵師に対してアイドル的な側面を求める思考であり、「ひとつの側面で信じたもの」は「あらゆる側面で信じさせてほしい」という傲慢な欲望、「信じるに足るものを信じるために、信じさせてもらえる存在であり続けてほしい」という、信仰の傲慢さが現れています。

ここには「神とは特別な存在である」という感覚と「身近な存在に神がいる」という感覚のパラドックスによる「自分も神になれるかもしれない」という錯誤があります。

「自分にはできないことができる人」を「神」と呼ぶことと、「自分にはできないことができる人」に「好意を抱かれたい」と感じることのパラドックスのひとつの結論として「自分も神と同じ立ち位置に立ちたい」があり、そのかたちはひとつには「自分も神になりたい」そしてもうひとつには「自分は神になることができないので、神は神であることをやめてほしい」が発生します。

「自分も神になりたい」には、「自分も神となるべく努力をしたい」場合と「神の力で自分も神になりたい」があり、「神の友達になりたい」という欲望は後者を示します。

そして「自分は神になることができないので、神は神であることをやめてほしい」の場合、ここには「神」に「与えられたもの」に「返すことができない」という感覚が介在します。「神」は、職業として「神」を演じているわけではない限り、望んで「神」となったわけではない、つまり「与えようとして与えたわけではない」ために、「神に与えられたものにリターンを用意すること」は不可能です。「神」に一方的に与えられているということに対する抵抗感の行きつく先に「神をやめてほしい」「自分の次元まで降りてきてほしい」という欲望が発生します。

「自分ではない存在に対する敬意」が「畏れ多さ」「特別さ」になってしまう瞬間、そこには「神」が存在する。しかし人が人を神と呼ぶとき「神なので、期待に応えるべき」という傲慢な欲望へと繋がりやすい。

「信仰」を抱いているとき、そこには「人間同士の平等な関係」が築かれることはない。

ゆえに「神」とは自然と「架空」に対してイメージされる。