思索のための手仕事、あるいは相談を受けるということについて

夏コミ申し込みました。で何冊出すんだっけみたいなことを考えたら四冊スタート本音としてはもうちょっと出したいみたいな状態になって、ウワッこれどこから手をつけたらいいんだって感じになり、結果として、考え事をしながらコイルを巻いていました。だいぶん上達をした……と思う……。

コイルを巻くとこういうものができる。これはモールス信号ネックレスです。モールス信号ネックレスの発展として短歌や俳句をモールス信号でネックレスにするというのも考えてるんですけどなにしろ長いのでデザインに難渋している。服飾デザインの勉強、全然関係ない世界すぎて知らないことばっかりで面白いし、模索しているうちに近代アメリカにするっと行きついてやっぱりなーと思った。わたしはデザイン関係はたいていアメリカに行きつく。

 

なんでアクセサリー作るようになったかという話はいろいろな理由があるんですが、なんでそれを続けているのかというと考え事をしているときにワイヤーをいじくりまわしているのが一番捗るというのがあり、次点ぼんやりしているときや目を通さないといけないけど特に何も考えないでいたいときは編物が捗ります。いえ、作るのが捗るのではなくて、思索が捗るのです。思えば子供のころからずっとそうだったような気がする。何かを考えるために歩き回り、泳ぎ、手仕事をし、料理をする。うっすらと考え続けるために。

 

人生相談を受け始めてから何年になるのかよくわからない。このよくわからないというのは数が数えられないという意味ではなくてどれが相談でどれがスタートだったのか切れ目がわからないという意味です。でも子供のころからなんとなく長話を聞かされることが多くて、なんとなく聞く側に回ることが多かった。という話は前にブログに書いたんだったか。わたしの家庭環境においては「わたしから語り始めることが可能なこと」は少なくて、だから黙って聞いていることのほうが多かった、そうするとほかの子はみんな自分の話をしたいので聞いてもらえる相手を見つける、わたしが見つかる、わたしが聞く。という順番だったんだろうと思う。

わたしにも話したいことがないわけではなくて、でもわたしの話したいことはうまく説明できなかったので、聞かせる相手はいなかった。だからわたしは自分と話し合うことにした。自分と話し合うというのが思索ということで、思索をうまく行うためにコイルを巻いたり編物をしたりしているわけです。散歩と水泳ももうちょっとやってほしいものだと思う。特に水泳はここのところ体調が悪かったのでまる一か月ほどさぼってしまっていて……。

思春期の頃はほどんど緘黙症だったこともありました。今でも疲れているとよくどもる。別にわたしは喋るのは得意ではない。

 

たぶん人より、ものを考えている時間が長いんですよね。黙っていることも苦にならない。人の話を聞くのは本当は別に得意ではないんだけど、なにしろ訓練する機会はたくさんあったので、「重要な情報」と「聞き流していい情報」を切り分けることができるようになった。喋るのはいまでも別に得意ではない。よく黙るし口ごもる。口ごもっている間は待っていてもらう。喋るのは得意ではないけど、口ごもったりどもったりするのを恥ずかしいとはあまり思わなくなった、しょうがないので。思わなくなるまでにはいろいろなできごとがあったのもたしかです。

 

まあそんなわけで「相談を受ける」ということに人より慣れていて、いまのところをそれを収入源にしていて、いや別に聞くのはいいんだけど喋るのはそんなに得意じゃないんだよなあ、こんなこといつまでも続くかどうかとは思うんだけど、まあ今のところやっていて、そもそもここ五年くらい相談を受ける頻度がめちゃくちゃあがっていたのもたしかでした。そりゃそうで、インターネットで匿名の人から質問を受けるプラットフォームが流行ったのがきっかけでインターネットの不特定多数から相談を受けるようになって、その結果爆発的に増えたという経緯なんですが。ask.fmというサービス、そういうかたちで相談に乗るのが上手い人がどんどん可視化されているところ、かなり高頻度で見かける感じがする。

 

相談を日常的に受けるようになってようやく相談を受けるときのこつみたいなものが最近つかめてきました。最近かよって感じですけども。まあ長い間人の相談に乗ってきたとはいえこんな量の相談をさばくこともなかったから……。

・依存関係に陥らないこと

・相手は自分の話がしたいのであって「わたし」はできる限り「あなた」を理解することに注力する必要があること

・必要な助言は大抵パターンが決まっていること

悩みを打ち明けられて一番徒労に終わりやすいのが親身になって一生懸命最適解の助言を出そうとすることで、これは大抵の場合必要がない。それはもちろん「殴られたんだけど警察と病院どっちでしょうか」「おそらく警察です」みたいな、いや状況によると思いますがこれは喩えですが、具体的な助言が具体的に役立つシーンというのはあるんだけど、はっきりと割り切れない問題はめちゃくちゃ多くて、それに対して「こうでこうが正解だよ、これをやれば解決するよ」は、親身になっているのは確かなんだけどお互い別に何の役にも立たない、徒労、ということがけっこうある。ので、たとえば接客業とか、あとわたしのような相談に乗り慣れている人間とかの、「パターン化された回答」のほうが役立つというシーンのほうが、個別にいちいちちゃんと考えて対応するより相手にとっては受け止めて処理しやすい、みたいなことはわりとあるっぽいなと思う。

必要なのは「これが正解」じゃなくて「何が『あなた』にとって正解なのか」を理解すること、わからないなら「あなたはどう思う?」と問いかけることなんだろうな、必要なのはある程度マイルドに映る鏡であって他人じゃないんだろうなと思う。

「こんなことずっとやってられるのか?」と思うのはその点で、「相談を受けているとき、わたしはそこにはいない」をあんまりやっちゃうと「わたしとはだれか?」がきわめて曖昧になってしまうのでは? なりかけているのでは? ということで、たぶんバランスを取るためにコイル巻いてる(あるいは糸をいじってる)部分はあると思う。

 

ところで相談に乗るとわりと高頻度で「何か恩返しをしなくては」と言われることがあって、一方的に与えられて終わるということを受け入れるのは体力の要ることで、要ることだということはわかるけど頼ってしまったのは事実なので一方的に与えられて終わるしかないということをある程度は受け入れて欲しいと思う。「親身にしてもらったから恩返しをしないといけない」という感情自体はべつに否定しないけど、「自分も親身になる」以外ないし、申し訳ないけど普段親身になり慣れてない人が親身にしてもらったからといって自然に親身になれるかというとなれない人がほとんどだし、別に普通に感謝するだけでいい。感謝というか、わたしが親身になったという事実、そしてそこで親身になってもらったことで扱われた自分自身に対して、敬意を払ってほしい。

相談を受けて一番徒労感を感じるのが、「自分に向き合う」以外ないですよとお伝えしたのに「自分に向き合っていない」人を見るときで、依存というのは結局そういうことだと思っている。わたしが敬意を払ったあなたに対してあなた自身も敬意を払ってくれ。徒労に終わらせないでくれ。

 

それで結局わたしは夏コミで何冊出すんだろう……。

読書記録

前回が前すぎて最近もクソもないですけど曖昧に読み終わった本と読みかけの本がそのあたりに散らかり続けているので備忘録をつけておきます。再読も含まれる。

内田百閒『阿呆列車』1~3『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』

片岡義男『万年筆インク紙』

石井好子『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』

川上弘美『真鶴』

村上春樹『遠い太鼓』『やがて悲しき外国語』『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』

施川ユウキ『鬱ごはん』※久しぶりに読んだらなんかハマりすぎてSkypeで何回も音読して聞かせてしまった

小林銅蟲『めしにしましょう』

清家雪子『月に吠えらんねえ』

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』※そういえばkindleでクリスティー半額フェアやってたのにうっかりしてて何も買わなかったのが惜しまれる、これはそれとは関係なく持ってたものです

東條チカ『幼女戦記』

スケラッコ『盆の国』

樫木祐人『ハクメイとミコチ』

こうの史代『長い道』『この世界の片隅に』※今年病状が悪くて映画館に行けなかったのですが映画化とてもおめでとうございます、書店でCMを観て「うおお、動いてる」みたいなリアクションをしてしまった

伊藤理佐『おいピータン!』※実家に全巻あるんですがkindleで買い直し中

柘植文『野田ともうします』

『野田ともうします』すごくよくて、百合漫画というわけではないんですけどたぶん百合の人も好きだと思うので読んで欲しい。地味かつ奇妙な野田という18歳の女の子が人間関係を構築したりいろいろなことにチャレンジしようと立ち向かうギャグマンガなんですけど、ほとんど喋らない重松さんという友達の女の子がいて、めちゃくちゃ野田にあこがれているんだけどそのあこがれているとあきれているのさじ加減のバランスのとり方がめちゃくちゃいい。ハードボイルド。「絶対に喋らない」というある意味病的な重松さんに対する友人や先輩の視線もフラットでよい。重松さんはめちゃくちゃいいんだけどほかのキャラクターもひとりひとり丁寧に描かれていてすごくいいです。ドラマ化したらしいけどどんな感じだったんだろう。群像ギャグマンガはいいものだ。

 

またSoftbankに丸め込まれてタブレット買ったんでkindleで本大量に買ってるんですけど、読み終わったものが意外と少ない。

あとタブレット買ったんで青空文庫も結構読んだんだけど青空文庫は冊子ごとになってないから何を読んだんだか全然思い出せない……。最近読んでるのは幸田露伴です。

資料とか勉強の本を全然読み終わってなくて読みさしているまんまなことに気がついて「これだから読書記録くらいたまにはつけないといけないんだよ!」と思いました。いま積んであったアニメ誌ひっくり返してるところだから埋もれてるだけかもしれないけど。あとは手芸のレシピ本を大量に買ってるんだけどこれ記録要るかな……とりあえず今回はいいかな……。

赤塚王国フラグメンツ(5.5)松野カラ松とチビ太の「終わらない昭和」

このブログを読んでる人は大抵経緯を知ってると思うし知らない人は過去ログ読んだらリアルタイムで色々あった様子がご高覧頂けるんですけど、とにかくギャグアニメの感想を書いたらブログが炎上した(事実をまとめただけで事実がアニメよりギャグになりかねないこの……)のでわたしは課金制に引っ込んでnoteはじめたんですが、金取るからにはどうせならこれまで手を抜いてたところをちゃんと書こうと思って積んでる資料(赤塚の他作品とか、過去に出た赤塚関連ムックとか、怒涛のように出たおそ松さんインタビューの雑誌とか)を崩しているうちに半年更新が止まっていました。本当にごめん。

というコンテンツがようやく軌道に乗ってきたのでお試し無料分をここに置いておきます。チビ太とカラ松の話です。マガジン買うかどうかの判断材料にしてください。なんで800円なんだっけって思い返したら「たぶんA5で作ったら100ページ超えるからまあ800円くらいで頒布でいいか」という理由だったことを思い出しました。購入された方はPDFデータをDLできるようにしようかと思います。物理冊子版は印刷費回収させてください。

 

いいかげんしつこいと思うけど再度断っておきたいんですけどいいですか。

・論述文というのは仮説があって検証があって結論がある文章のことをいうし、いま書いてここに置いていくのがそれ

・わたしがここでおそ松さんについてのたくりまわしていたのは感想っていうかもっと正確に言うと仮説に対する発想の飛躍と論理の省略を含むある種のエンタメであって論述文ではないし「考察」ではないので論拠が浅いと言われてもそういう文章ですとしか言いようがないし論述文を書いたつもりはない

・仮説を立てて立てっぱなしで論証しないものを主とした論拠の浅い文章を考察と呼ぶ言い方がこの件を通じてまじめちゃくちゃ嫌いになったと言ってもさすがにわたしは悪くないと思う

わたしがなんで「父さんな、腐女子やめてアニメ評論にまじめにとりくもうと思うんだ」してしまったかというと「論拠が浅いのでもっと努力しろ」と「どうせ腐女子は何を言わせても論拠が浅い」を同時に言われた上に「わたし自身論拠は浅いと知っている情報をロンダリングする人」までいたからだよ! 冷静になってくれよ! アニメ見た翌日か下手したら当日に書いた文章がちゃんと仮説を検証し切れてるわけないだろ! 自分の首の上に載せてるやつの使用方法を考えながら生きて!

父さんな、腐女子やめてアニメ評論やろうと思うんだ。でも正直不&毛って気持ちのほうが強いので料金前払いでもらったぶんを書き終わったらアニオタ自体から足を洗おうかなとは思わないでもない。料金前払いでもらってなかったら逃げてた可能性わりと高いなってくらいおもに去年の10月頃(あまりに進まない進捗に)追い込まれて死んでいたのでオッ読んだろと思ってくださった、そしていまだに時々新規で読みに来てくださるみなさんありがとうございます……。


月刊PASH!2016年3月号藤田監督&松原脚本インタビューにおいて、最初にキャラクターが固まったのが六つ子の象徴としてのおそ松、そしてそれに対するツッコミ役としてのチョロ松、との言及ののち、「役割のあと、最初にキャラが見えたのはカラ松です」との言及がある。「非赤塚的なキャラクターとしてテンポを変える要請」と語られる一松、「末っ子という立ち位置からスタートした」と語られるトド松、「最後まで決まらなかった、違うタイプのボケを用意するという点でキャラクターデザイン浅野原案によって広がった」と語られる十四松の、ある種のキャラクターとしての明瞭さに比べ、カラ松というキャラクターが「なぜ」あの形に決まったのか、しかも最初に決まったのかという点に関する言及は少ない。しかしこのインタビューにおいて特筆すべきは、カラ松のキャラクターは「立ち位置」でも「物語上の要請」でもない部分において成り立ったという点であり、逆説的にそれは「カラ松は『六つ子』という組織において『代替不可能な立ち位置』を持たない」、そしてそれがゆえに「カラ松は存在を疎外され、追い詰められてゆく」という物語構造と密接に絡み合っている。

カラ松というキャラクターがどのように作られたのかを確定することはできないが、その要素をひとつひとつ考えていくことは可能である。その一考察として、「昭和90年」を意識したとの言及(spoon.2Di 10号 美術監督田村せいきインタビュー)前回の『おそ松くん』アニメ化である88年という年の「続き」を生きていると想定されるカラ松の好み(2話でカラ松の妄想のなかに登場する尾崎豊の活動期間は 1983年~1992年、妄想の対象となっている女性二人組の仮名アイダとサチコの元ネタと考えられるWinkの活動期間は 1988年~1996年)の関連性を踏まえると、「終わらない昭和」を最も先鋭的に生きているキャラクターとしてのカラ松が浮き彫りとなる。そしてその「昭和」は華やかで輝かしいものでありそしてスターたちの時代であり、古びて懐かしいものではなく、そのうえでカラ松はそのスターたちの時代としての昭和の申し子としての自分を生き続けることに何の疑問も抱いておらず、自分自身に対する確信が揺らぐことはあっても彼の中の「輝かしい昭和」としての「パーフェクトファッション」は最終回に至るまで終わらない。

「六つ子が平穏に生きていられた世界の終わり」が六つ子ひとりひとりに訪れていくという点に関しては『赤塚王国フラグメンツ』本論において述べた。それはいわば「現在が昭和90年ではなく平成27年であることを自覚する」作業であり、そのなかでおそ松は小規模な昭和を自分たちのなかで維持することを、チョロ松はおそ松に従うために平成を諦めることを、トド松は平成に順応するために六つ子から一度距離を置くことを選ぶ。一松と十四松はそれぞれ別のかたちで「現在」と「自我」からある意味で逃避する。トド松を除く五人の行動は「いまが昭和90年ではないことはわかっていても、なお昭和90年を維持しようとする」方向に向かいあるいは疎外せず、トド松は明確に組織としての六つ子の理念たる昭和90年を裏切ったが、それは明確な裏切りであったがゆえに対処は明確だった。

対してカラ松が「処罰」もされなければ「厚遇」されることもなく、ゆっくりと六つ子のなかで「いないもの」となっていった理由は、ここまで述べた論に準ずるなら明確である。彼は「昭和」を疑わなかったがゆえに、「今はもう昭和ではない」ことから目をそらす必要がなかった。それゆえに彼は四人が問題視しているのは何なのかもトド松が何から逃れようとしているのかもついに理解することはなかった。それは同時に「家族であること」「六つ子であること」が前提的に絶対的な事実であって離れたり別れたりすることはあり得ない、がゆえに救済は必ず来ると信じた、「カラ松事変」における彼の盲信ともつながる。彼は自己を、現在を、家族を、疑わなかった。それを怠慢と呼ぶことも信頼と呼ぶことも可能だが、いずれにせよカラ松は5話以降「自分の居場所」を模索した結果として、15話で結婚、24話ではチビ太の家に居候という、二回にわたる「別の家族を選択する」という結論に至っている。

「すでに昭和は終わっている」はすなわち、「すでに『おそ松くん』も『六人でひとつ』も終わっている」、ひいては「もう赤塚不二夫は死んだ」という事実を示し、カラ松を除く六つ子はそれぞれそれを突きつけられてゆく。そしてこの物語のなかで、既に「昭和が終わった世界」に順応しているのがイヤミをはじめとするサブキャラクターたちであり、ブラック工場やレンタル彼女をはじめとした現代的な手法での一獲千金を狙うイヤミ、近未来的な研究所を持つデカパン、アイドルを目指すトト子、高層ビルに君臨するハタ坊といったキャラクターは皆既に「平成的」なアイコンをそれぞれ手に入れている(ダヨーンは今作ではモブキャラクター的な存在であるため触れない)。そのなか、チビ太が流行らないおでん屋を続けていることと、トト子のライブへの招待およびレンタル彼女回を除き基本的にほかのキャラクターから「おでん屋の大将」以上のものとして顧みられることがないという点は、先に述べた「昭和を疑わないもの」は「取り残されて、忘れられていく」というカラ松の物語と密接に絡み合っている。「カラ松事変」は、昭和に取り残されたふたりが昭和に取り残されたと気づかぬまま彼らが顧みられないことを突きつけられるエピソードだった。

5話以降カラ松とチビ太は関連を持って描かれることが多くなり、24話では同居に至る。「終わらない昭和」を生き続けることによって物語から「浮いている」ことそれ自体を役割とされた彼らが「浮き続けること」を選んだひとつの結論、「終わらない昭和の続き」が、24話における彼らの選択であり、それはおそ松さんという「昭和の続き」を描いた物語のひとつの屋台骨だった。

小林大吾さんのこと、あるいは憂鬱な時に読むべき文章のこと

既知の人もしくは友人のように呼んでいますが単なるファンです。

小林大吾「小数点花手鑑

※アフィリエイター(年間二万くらいとはいえまあいちおう)のはしくれとして一応Amazonを貼りますが公式ホームページで買うとおまけがついてきます。なおAmazonのアフィリエイトプログラムは貼ったリンクから入ってほかのものを買ってもわたしの懐にシュッされますので良い意味でも悪い意味でもその旨ご了承ください。

※アフィリエイター、わたしがそこそこまじめにやると月間五千くらいで、真剣にやっている人の言によれは食えるくらいにはなるらしいですけど、わりとキツそうだし儲けようと思ったら反社会的な行動に結びつきやすいみたいだし業務上必要な反社会的な行動をとるとき(※取るべきではない)はせめて組織に所属していないとレッドカード即死なので、目指さないほうがよい職業のそれなりに上のほうには入ると思うと一応書いておきます

※わたしがまじめにやってないのは書影すら貼らないあたりから見てのとおりです

※収入源は指導とアクセサリーとライティング関係とそれ以外が4:3:2:1ってところで、2017年はせめて3:3:2:1:1になるのが夢です

※しょっぱい話は以上です、話が長くなったのでフリーランスで生活するとは何かというエントリを別で立てよう

 

一人暮らしをはじめてよかったことのひとつに、読みたい場所に本を積んでおけるというのがあります。今のところトイレには積んでいませんが、というのはうちはトイレのスイッチが変な場所についていてしょっちゅう消し忘れるので近頃トイレの電気をつけずに用を足しているので読むとすれば懐中電灯代わりに持ち込んだスマートフォンの画面で、SNSの類を眺めることがあるとすればこの時間で、つまりバックライトのついていないものは読まないということになります。

トイレ以外の場所にはひととおり積んでいて、といってもうちは狭いのでさほど積む場所はありません。玄関から入って、玄関にはゴミの日を待っているゴミと靴と傘と気に入って持って帰ってしまった電子レンジ(動かない、台としてはそれなりに有用だけど棚としては正直不便だけど気に入っているので一応しばらくそこにいる予定)があり、ここで寛ぐことはまあありません。ゴミを背にして椅子がひとつ置いてあってここは朝食を食べたり気分転換に座ったりするはずなんですが今去年出しそびれた資源ゴミが占拠しているのでいまのところここにも本は積んでありません。トイレには積んでないのは前述のとおりです。

さてここまできてどこに本を積んでいるのかというと風呂とキッチンとベッドと作業机です。もちろん本棚と本棚以外のところにも積んであるんですがそれは単に積んであるのであって、単に積んであるというのは現在進行形で読むつもりで積んでいるのではなく読む予定はなく徒に積んでいるのであって、今回の件とはあまり関係ありません。当ブログ用語でいうところの「情報共有制限」に類する本と雑誌がびっしりあって、あとは松尾芭蕉を中心とした日本史書がびっしりあって、あとは、えーと、おおむね読んだ本です。たぶん。買ったけど読んでない本がまだ実家にあると思うのでこんど拾ってきます……。

さて、風呂に本を積むと怒る人がいるのは知っているのですがそれは本に対する感性の違いの問題ですのでこの項目は飛ばすことをお勧めします。風呂に積んであるのが『銃・病原菌・鉄』と『泥棒日記』(再読)、わたしは風呂にいるとき一番コンディションがいいのである程度ややこしい本が読めます。ある程度ややこしいけど、でも風呂に入っているからメモが取れないので、メモを取らなくてもある程度書いてあることがわかる本がいい。風呂でぼけーとしているときにじゃあまあ読むかと手に取りやすい本がいい。あと文庫本なのでまあ濡れても大惨事にはならない。湿ってたわみますが。『銃』が終わったら積んでいる日本史料に戻る予定です。

風呂の話はこれで終わり。次はキッチンテーブルで、ここにはずっと伊藤比呂美と菊池成孔が置いてあります。ここに大野晋先生(日本語学を大学でちょっとやっていたころよく話題が出たのでわたしには大野晋先生はいつも大野晋先生です)が混ざっていることもあり、これはなんとなく「たましいのふるさと」というか、「実家」というか、そういうセレクトで置いてあって何回読んだかよくわかりません。伊藤比呂美で一番読むのは共著ですが『なにたべた?』、菊池成孔は『スペインの宇宙食』です。

キッチンテーブルの向こうに作業スペースがあって、まあ本は散らかってるんですが、読みかけだから積んである本は『物語論』『魔法昔話の研究』『はじめて考えるときのように』、あと情報共有制限、これは仕事の合間に疲れたときに読んでいるのと、仕事の一環で読んでいるのがごっちゃになっています。

ベッドサイドには『夜の果てへの旅』がずっと置いてあって、これは読んだんだか読んでないんだか正直よくわかりません。寝る前に本なんか読んでも内容は全然覚えていないのでただ美しい文章が美しいなあ~と思っているだけです。読み終わったらもうちょっとまともな状況で読みたいと思います。正直フランス人が書いた文章(の翻訳)を読むとほっとするので内容はなんでもいいんじゃないかという気はするんですが、そういう扱いをするべき本ではないことは重々わかっています。すいません。

家の中ではこんなところで、家の外ではkindleでアガサ・クリスティーを読んだり青空文庫をあさったりしています。

 

CDの感想を書くんじゃないかという話なんですけど、何の話をしているかというと「これだけ並列で読んでいて、ゴハンを食べるとき読む本の持ち合わせがない」ということです。ゴハンを食べているときはややこしい本は読みたくありません。文章の美しさでゴリゴリ来るものも正直食欲が失せる。食欲をかきたてるような文章もそれはそれで実際ゴハンを食べながら読むと気分が悪くなる時がある。

ゴハンを食べるという作業、そう、作業ですが、作業があんまり好きじゃないんだろうなと思うんですよね。だからゴハンを食べながら文章を読みたい。できるだけ罪のない、風のような文章を。

ということでそのような本の持ち合わせがない時、そう、今まさにそうですけど、ムール貝博士言行録を読んでいます。2013年の夏からみたいだからもう3年半くらい読んでいることになり、最新のエントリから読み始めて初投稿まで読むということをたぶん五回はやっています。という経緯でわたしはおもしろいブログないですかと聞かれたらこちらをずっと勧めてきたんですが実をいうとCDを持っていませんでした。

という話をしたら友達が誕生日にくれました。

 

小林大吾さんがCDというメディアを使ってどういうことをしてらっしゃるのかは正直説明がむずかしいのでブログをごらんになってくださいというかんじなんですけどもブログをごらんになってもわからないかもしれませんが、なにをやっているのかわからないという意味ではわたしも人のことはまったく言えないのでなんとなく全体的に把握してくれとしか言いようがないし全体的に把握するのが一番正しいのではないかと思います。ので説明はしないんですけど、CDとてもよくて、誕生日(11月)からこっち毎日聞いていて、気が付いたらほかの3枚のCDもどうにかして手に入れており、毎日聞いていて、ほんとうにいいんですがなにがいいかというとやっぱり「罪がない」だと思う。わたしの普段読む文章の中でこれだけ罪のない文章をこれだけの量書いている人はいまのところほかにふたりしか知りません。武田百合子と内田百閒です。

わたしが普段読んでる本、あるよね。罪が。

 

YouTubeで聞ける範囲だと「コード四〇四」を聞いたときはなぜか涙ぐんでしまってたいへんでした。

2016年にあったこと

ブログには何を書くんだっけ? という気持ちで机に向かっているところです。

 

向田くん(向田くんというのはわたしの非実在部下です)のask.fm経由で「もうブログは更新しないんですか?」と問われたのはずいぶん前なんですが、さてブログをもう更新しないのかというのは難しい問題で、そもそもこの場合求められている「ブログ更新」とは何のことなんだろう。

アニメの話をすると障りしかないということが現状まだ続いているので少なくとも向こう半年ほどはアニメの話はしません。夏になったら考えます。というわけで今のところアニメの話を求められても何もできません。以下(情報共有制限)と記述される項目に関しては以上の理由で向こう半年は言及しないと意固地になっている要件です。

あとTwitterをやめてしまったので話題の出来事についても特に情報が入ってこない。ここでいうやめてしまったのでというのは告知用のアカウントしか持っていないという意味です。年末まで一応交流用のアカウントがあったんですが年末に大掃除のついでに消滅しました。今はもう何もありません。正確に言うとLINEグループ的なものがひとつ生きていますがそれで終わりです。なお向田くんのask.fmもかつてのわたくしのask.fmと同じ経緯で閉鎖しております。さようなら、ハートフルなインターネット! というわけでわたしは世間様とのコミュニケ~ションをいまのところおおむねSkypeからの伝聞で成り立たせています。noteはみんな好きなことを好きにだるだる喋っている印象のほうがつよいのであまり情報入手SNSではないな。

 

このブログがアニメの感想と時事ネタでいちおう回されていたことを思うと(去年はほとんど告知しかしてないけど)ブログを更新するというのはそのへんを指すのではないかと思うけどそのあたりについては言及する気は全くないというかインプットをしていません。さようなら、ハートフルなインターネット!

 

去年は大量に買ってある(情報共有制限)関連書籍を徒に積み続けた以外の書籍の購入はアクセサリー製作関係と編物関係が中心で、編物関係に関しては執拗に「誕生日には編物の本をください」と言い続けたために17冊になりました、ありがとうございます。何らかの形でお返ししていきたい。というわけでアランニット関係の現行書籍をざっと買ったんですが特に良かったのはこの本。

Clooth-Na-Bare『アラン編みのちいさなニット: アイルランドの素朴な伝統模様を編む

アランニットの歴史と現在、いわゆるアラン諸島についての美しい写真、伝統ニットパターンとともに簡単な小物レシピがたくさん載っているという読み物として充実していて情報から手芸に入りたいタイプにはおあつらえむきの一冊です。読むところが多いレシピブックが好きなのでこれはとてもよかった。レシピもわかりやすい。

あとは積んであったロシア・フォルマリズム関係の本を崩したり買いなおしたり買い足したり、ロラン・バルトとかソシュールとか、大学生の頃に読んだんだか挫折したんだかというラインナップに再挑戦しつつ、そういや読んだんだっけ読んでないんだっけと言いながら日本近代文学をひっくり返しています。とりあえず漱石の短編の読み漏らしとかを浚ってる。なおわたしにとっての日本近代文学は「書いてある意味ぜんぶわかる」と泣きながら演習の準備の合間に読むもので学問としてちゃんとやったことは実はあんまりない(日本文学が専門だと思われることがちょいちょいあるんですが義務的にちょっと触れただけで別に専門ではない)。大学では言文一致をやっていたんですがそれも「日本近代文学・翻訳文学・新聞口語・落語」というラインナップでいちおう読むだけ読んだというだけで……。いちおう読むだけ読んだけど……。学問というのはいちおう読むだけ読む範疇がほとんどではないかという気もするけど……。

あと去年始めたのは、あまりにも「始めた」だけでろくにできていないので忘れていたけどホロスコープとトランペット。どっちも「音が出てすごい」とか「用語がちょっとわかる」くらいに留まってるけど。

 

こう書いてみると去年はずいぶん充実した年だったし、(情報共有制限)に言及するまでもなく書くべきことはいろいろあるという気もするな。どうせ動かないとわかっているのに押し続けていた石が唐突にごろっと向こう側に落ちたみたいな2016年でした。向こう側に何があるのかはまだよくわかりません。以下に去年あったことのまとめを書いていたら5月ごろまではすごくまじめにブログを書いていたことがわかり「なるほど、更新しないのかと言いたくもなるな」とちょっと思いました。

 

2月 観念してインターネットからお金をもらう手段を整える

4月 向田くんの誕生

5月 ウェブショップを開店

6月からゼミをはじめていろいろな進捗が爆発 勢いだけでトランペットを買う

8月 唐突にアクセサリーを作り始める(2012年に一瞬作っていたことがあるのでいちおう再開)

10月 唐突に編物を再開する(2011年ぶり)

11月 水泳を始める(たぶん高校生ぶりくらい)

12月 ジョギングを始める(十年ぶりくらい)

 

「昔やっていたこと」が多い人間だなあ。という感じです。まあ生活は完全に一変しました。2017年もこの風来坊同然の生活を続けるのか全てなかったような顔をしてインターネットから完全に姿を消すのかは神のみぞ知る。遊べるうちに遊びに来てね。

2017年の抱負

1、大都会に引っ越す

2、積んである資料を引っ越すまでにひっしこいて読む

3、断捨離(ダイエットを含む)

 

あとは喋る仕事と書く仕事と作る仕事のバランスを取って息をするようにするするやっているうちに一年が過ぎるんじゃないのかなと。

昨年中に始めた新しいこと(あるいは微妙にやったことはあったけどちゃんとやりはじめたこと)はオミセヤサンをすることと人前に出て講義をすることとジョギングとアクセサリー製作、再開したことはスイミングと編物。継続しているのはまるっきりノンフィクションの文章を書くことと短歌、あまりできなかったのは小説を書くこと、例年よりできたのは架空の男の演技。やめたのはask.fmとTwitter、はじめたのはnote。

こんなもんかしらね。去年は万年筆は頂いたものも含めて6本でした。

これまでのあらすじ

二次創作はもうしないんですかというようなことやそれ以外のことをちょくちょく聞かれるし、もう一年くらいになるので再度まとめておきます。

 

1、去年の11月におそ松さんの感想(感想です)エントリを上げたところめちゃくちゃ反響があってハートフルなインターネット(隠語)に色々な側面から話題にされた結果インターネットで書けないことがいろいろ増えた

2、今年の1月に限界がきて感想(感想です)エントリを上げるのと二次創作をするのを一切やめた

 

ポイント

1、二次創作およびリアルタイムのフィクションの感想は一切書かない、理由はハートフルなインターネットが面倒くさいことをたくさん言ってきてすごく面倒くさいから

2、わたしが書いていたのは感想であって「考察」じゃない

 

以上です。

リアルタイムコンテンツじゃなくなったと思っていいと思うし(先日特番ありましたけど)おそ松さんの話そろそろしようかなと思ってTwitterにもちょくちょく書いてたけど、まあこういうエントリを書いているという以上、お察しくださいって感じだ。

嫉妬について

おお ask.fmよ 君を泣く!

 

去年の10月にask.fmのまとめを作ろうと思った形跡をぼちぼちまとめなおしているんですが、当然ながら当時の文章を読むことになり、無邪気に永遠にask.fmを続けていられると思っていた(そしてやめるときはやめたいときにやめるのであってやめざるを得ないからやめるのではないと思っていた)頃をつきつけられて容赦なく落ち込むのですがわたしは最近ようやくask.fmをやっている人をみかけても嫉妬の炎に焼かれなくなりました。

最近ですよ!

わたしは嫉妬という感情をほとんど抱かないんですけど、というか抱かない種類の人間なんだと思っていたんですけど、それはたぶん人間に興味がないということと自分に特に確信を抱いていないということによって裏付けられているのではないかと最近思うんですけど、それはともかくask.fmのログを呼んでいると「嫉妬の炎に困っている」という質問ていうか相談がたくさん寄せられており、何の話をしているかというと、

 

ask.fmをやっていない今こそask.fmにきりもなく雨のように降り注ぐ、あの人がうらやましい、あの人になりたい、あの人がどうしてあんなに幸せでいられるのかわからない、といった質問に親身になってこたえられるのに!!!!!

 

というジレンマです。ask.fmをやっている人がうらやましい。いや最近ようやくなにも考えなくなれたのですがうらやましい。すごくうらやましい。無料で有象無象からしょうもない質問に答えたいが無料でしょうもない質問に答えるプラットフォームにはハートフルなインターネット(隠語)がやってくる人生になってしまったのでそれをやる日は二度と来ないのですがわかっているのはわたしが嫉妬という感情について答えなくてはならなくてはならなくなったときの答えはもうわかったということです。

どうでもよくなるまですごい勢いで別のことを考える。

しかない。

「描きたいこと」と「伝えたいこと」について

以下の文章はウェブショップでやっている「萩ゼミ」という創作講座のテキストとして書かれたもので、そのテキストが冊子形態で売り出せる見通しがさっぱり立たない(進捗的な意味で)ので、まあこのくだりサビの部分でゼミで死ぬほど何回も繰り返すのでブログに投げておこうと思って投げました。

萩ゼミというのは昔わたしがask.fmでやっていたことを一時間~長くて三時間くらい(盛り上がるとずるずる長引く)延々としゃべっては質問を受けしゃべっては質問を受ける場所で、有料です。有料なのはいい加減金を取るべき濃さなのが半分、あとの半分は不要なノイズを弾くためです。

水金土日祝開催、平日22時から休日24時から。内容や時間帯などご相談いただければ融通がききます。黙ってても酒飲んでても大丈夫。どなたさまもお気軽においでください。

……というのをテキスト媒体に起こしてくれと言われ続けてもう半年くらいになるのでいい加減起こそうとして四苦八苦しているんですけど、マンツーマンだと伝わったかどうか確認できるけど文章は大多数に向けて発信するわけで原稿を書くのがとてもつらい。

とてもつらいという気持ちを押して書いているのだということを念頭においてもおかなくてもいいですがとても大変な思いをして書きました!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(主張)

なおnoteに置いているものとはちょっと違う内容ですが言いたいことは同じです。noteのほうがもうちょっとわかりやすいはずだ。と思う。

 

―――――――

ゼミをはじめてから二か月ほど、質問持ち寄りで、どういうことでお悩みですか、相談に乗って考えていきましょう、といった感じでやっていました。

実際作品を作る方からの相談を受けてどうこう、というのが多かったのですが、そうやってご相談をお受けしてみたところ、どうも、プロット以前、物語を作る以前のところの作業をもう少しやったほうがいいのではないか、ということがとても多かったのです。

集まった質問の内容は、具体的にはこんな感じでした。

・エピソードが広がらない

・話が一本調子で、おもしろみがない

・考えたできごとやキャラクターの動きがご都合主義で不自然な気がする

どれも、結局のところ、「お話を組み立てるうえで、おもしろくする方法がわからない」というご相談です。ひいては、「キャラクターの外側にあるものがうまく作れない」ということです。この章では、「描きたいキャラクターは用意できた」という前提において、「キャラクターの外側を構築する」方法について考えていきます。

以前から友人からも、「事件性のある話が書けない」「社会のある話が書けない」といった悩みをちらほら聞いていました。

「事件」「社会」つまり、「主人公の外部にあるもの」や「主人公に起こった出来事」をどう設定したらよいか、わからない、という状況です。恋愛を扱った作品、特に二次創作では、このような状況に陥ることがよくあります。主人公、もしくはカップルが存在している、というところまでは想定できる。好きなキャラクター、もしくはカップルを描きたい気持ちはある。描くために、「何か」を起こしたい。でも「何」を起こせばいいのかわからない。

1、まずキャラクターがいる、もしくは舞台がある。

2、そこに「事件」が起こる。

これはプロットの最小限のサイズです。物語には必ず「事件」が起こります。「事件」あるいは「できごと」あるいは「異変」「ノイズ」。

それは日常から脱出すること、もしくはさせられることです。

「事件」という言葉では大きすぎるかもしれません。「殺人事件」や「大災害」、あるいは大恋愛のはじまりなどを想起してしまうかもしれませんが、必ずしも大きいものである必要はありません。

普段始業ぎりぎりまで寝ている人が、五分早く起きることができた。

いつものスーパーで、好きなお菓子が半額だった。

普通は通り過ぎてしまう道端に、手袋が落ちていた。

「この物語での、いつもの風景」を設定すること。そして、そこから、「違う風景」へ移動すること。

これが「舞台」と「事件」の関係です。その移動の距離や齟齬は大きくても小さくても、どちらでも構いません。

重要なのは、この物語は、何のために存在するのか? ということです。事件のサイズはそこから導き出されます。

「物語を書こうとするとき、それを書くことでなにを描きたいのか」

「物語を書こうとするとき、それを書くことでなにを伝えたいのか」

このふたつをまず明確にしましょう。

 

 

2、イメージとテーマ

 

「描きたいこと」を明確なイメージにするということは、自分にとってこの物語の核になる部分、モチベーションになる部分、そこは絶対に外せないという部分を用意して、それを中心に描いていくために役立ちます。キャラクターの魅力に迫る話が書きたいのなら、キャラクターの中の最も魅力的と思える部分、もしくは今回特に取り上げたい部分はどこかしっかりイメージしましょう。

対して「伝えたいこと」は読者へ向かって差し出したいもの、もしくは突きつけたいものです。その読者は自分自身でも構いません。読み終わった人にどういう感想を持ってほしいか、どういう感情で読んでほしいか、どういう情報を持ち帰ってほしいか。これは物語のテーマであり、もしくは問題提起です。

二者は同じようでいて違うものです。

「キャラクターの魅力を描くこと」と「キャラクターが魅力的だと伝えること」は、同じ目的ですが、プロットの作成において違う作用をします。

「キャラクターの魅力を描くこと」は、情報を絞り込んでいく行為です。「どうしてもこれだけは外せない」情報だけを残して、それを最も効果的に使えるプロットを考えます。

「キャラクターが魅力的だと伝えること」は、情報を広げていく行為です。「魅力を感じるとはどういうことか」「誰に魅力を伝えるのか」「どんなふうに伝えれば伝わるのか」伝える相手を、架空の存在でも構いませんので具体的な相手を想定して、その相手により伝わる方法をたくさん考え、広げていきましょう。

「伝える相手」「読者」とは実在の誰かでも構いませんが、その相手に読んでもらえることを期待するよりも、まず自分自身にとって面白いものを書こうとするほうが目標としては現実的です。アマチュア作家にとって、自分自身は最も読者になってくれる可能性が高い存在です。絶対に読んでくれる(読み返してくれる)とは限りませんが、それでも、自分自身にとって面白いものであることで、書きあがりを楽しみにすることができます。

「自分が描きたいものを書くこと」と「自分が読んで楽しいものを書くこと」。それが何であるかを考えること。

これが「物語の始まるところ」にあるもの、プロット以前、事件以前にあるものです。

これは両方必要です。自分が書きたいものと、相手に読ませたいものは、同時に、感情と風景、抽象と具象のバランスを取ることにもなります。テーマは抽象、イメージは具象です。

誰が架空の鹿を殺したか、あるいはインターネットフォークロア「おそ松さんとインターネットとわたし」

そろそろTwitter(@bkyd)でおそ松さんの話をするとフォロワーが減るまでに至ったのでこれまでのあらすじです。

 

~これまでのあらすじ~

わたしの文章がうますぎたので馬鹿が爆釣れした結果、文章がうますぎる責任を取ってプロになりました。

以上。

 

長い一年でしたけどもう一年も経ったのに「鹿さん(※わたし)の文章がうますぎるので虎の威を借った人たちが迷惑です><」もクソもねえだろと思うので猫をかぶるのはやめましょう。どうも架空の鹿です。半年ほどきーわーめーてー静かに淡々と仕事をしていましたし別に今後も淡々と仕事をしていくつもりなんですが、いいかげんおそ松さん関係のnote更新してほしいッスとコメントをいただき、そうやなあ有料マガジンやしなあ止めてごめんなあと思いつつ、おそ松さんのことを考えていたら、まあ5話一周年ですし、どうしても当時のことを思い出して

腹が立って……

きたのでもうなんかブログでも書くかと思って書いている次第です。おひさしぶりでーす。きわめて感情的に文章を書いていますしそもそもきわめて感情的に文章を書いちゃいけない理由が何かあるのか?

 

当時もさんざん言ったけどもう一回言うけど、わたしに「ギャグにマジレス」って言った人全員に言いたいんだけど(そんな人もうここ読んでないと思うけど)、

じゃあギャグアニメの感想におまえはなんでマジレスしたんだ。

ギャグにマジレスしてるわたし自体はもちろんギャグだし、そしてそれを笑ってるおまえのその状況もギャグだぞ。

なにを俺のほうがギャグを理解してる面してるんだ。おまえがギャグだぞ。

 

アニメの感想を書くという罪のない遊びをしていただけでなんであんなにいろいろな目にあわされたのかいまだにあまり理解できていないんですが、この一年間いろいろなことを考えたし、もう二度とあんな目に合わないためにはどうしたらいいのか考えたし、「アニメ考察」という罪深いと言えば罪深い(しかしたわいのないといえばたわいのない)遊びがこの世に存在することをわたし経由でうっかり知ってしまった人の責任を取ったほうがいいのかもしれないと思ったし、ていうかもう面倒くさすぎるのでアニメとか漫画とかゲームとかの感想を書くつもりいまのところ一切ないし死んだ作家ないし友達の話しかしたくないしおそ松さんに関してnoteに掲載しているものも分析であり情報の整理であって感想じゃないしましてや考察とかでは一切ないし、ていうかわたし二次創作界隈で使われる考察という言葉の無責任さが松でバズって以降本当に嫌いなんですけどまあその話はいまはいいですけど、まあそれはいいんですけどわたしが言うべきだったのは

 

うるせえ馬鹿は死ね

 

の一言だったのではないかと思わないでもないです。

 

友達が「2016年にアニメの感想が炎上した人」ってわたしを紹介しているんですけどマジでそれ自体がギャグすぎてわたしも早く笑えるようになりたい。

 

 

応援してくださってた方とかわたしを好きでいてくれた人に対してこういうこと言うの本当に申し訳ないんですけどわたしはいまだにこういう形でアマチュアではいられなくなったことが悔しくて仕方ないしプロになればいい金を取ればいいって言った人みんなに

「これで満足?」

って聞いて回りたい。プロになるということは言えないことができるということだし守るべきものができるということだし責任を負うということだしもう二度とできなくなることがたくさんあるということだし、わたしがいまとても楽しく仕事をしているということとは全く無関係にわたしは、目が覚めたらなにもかもリセットされていて何かを好きでいることが端的にそれ以上の意味を持たない世界に戻れるのなら多分戻る。

 

仕事は楽しいです。夢がたくさん叶いました。

それはそれとして怖くてたまらないのも本当なんだよ。

 

むかしむかしあるところに、楽しく暮らしているオタクがいました。どうでもいいことを毎日言って、仲間たちと楽しく暮らしていました。ある日オタクのTwitterがたくさんリツイートされました。そうしてオタクはどこかにいる誰かに言われました。「もう帰ってこないで」

目覚めかける瞬間に「ああ、帰らなくちゃ」と思うことがあります。

どこに?

 

 

 

 

ていうかこの「誰が〇〇を殺したか」がマザーグースが元ネタでギャグアニメの文脈で引用するんだから当然パタリロだということもたぶん伝わってないんだろうなということに今気づいた。