松野カラ松リアクション気にしすぎ問題、あるいは効率の良い虐殺

※タイトルは村上春樹です(昔「誰が松野カラ松を殺したか」というタイトルを使ってパロディだといまいちわかってもらえなかったふしがあったので書いておきますがタイトルはパロディです)

 

おそ松さんにおける自担抑圧問題というのがあって、あってというか今勝手に名前をつけましたけど、おそ松がなんで長男と呼ばれなくてはならないのか(その抑圧は誰が与えたものなのか)とか、トド松はなんで家族から逃れることができないのか(なんで逃れるための適切な段取りを踏めないのか)という件について身に覚えがある人が自分の身に引き比べて「長男というのはそういう抑圧を受けて育つから」とか「末っ子というのは(略)」という認識をする、しやすい作りになっている、そして感情移入して苦しむことになる、そしてなんでわたしがそういう話をよく知っているかというとうちにはそういう「自分は長男/長女なので」という自分語りのメールが当時よく来ていたからです。別に送ってもいいですがそういうことをするとこうやってサンプル扱いされるけどいいの?別に送ってくれと頼んだわけではないので悪いけどメールをもらったということ自体は喋るよ……誰から何をもらったまではさすがに言わないけど……。

まあでもたとえばおそ松が「親から」そういう抑圧を受けてるかって言われたら別にそうじゃねえだろというのはこのあいだ書きました。彼が背負っている「長男」という言葉に内包されている言葉は少なくとも「長男というのは弟を守るべきだから」という教育を受けたからそうなっているわけではありません。おまえ長男だろと自発的に言及するのはチョロ松とトド松くらいだし(チビ太は「長男なので敬われたい」に対するカウンターとして言及しただけ)、トド松のそれは「末っ子だから」という理由で抑圧されている(これはほんとに末っ子だからという理由で抑圧されている)カウンターと取るのが妥当でしょう。なのでおそ松が長男なんだから云々といわれなき抑圧を行っているのはチョロ松だけということになりますがそのチョロ松にしたって長男しっかりしろと言及したのは(これちゃんと確認してないんだけど多分)2話だけじゃない?チョロ松が2話で長男しっかりしろ的言及をしたこととそれ以降しなくなったことに関しても色々書きたいんですけど今回はまあいいです。ていうかそもそもおそ松はチョロ松の長男しっかりしろを気にしている形跡はありません(2話の当該のシーンにおいては)。

何を問題にしているかというと、おそ松が「長男だから」という設定に自分を追い込んでいったのは、本人の問題であって、特に誰がそうであれと抑圧したからではないんじゃないのということです。

おそ松が問題にしている(そしてチョロ松も問題にしている)のは「ニューおそ松兄さん」に見られる、「この話は『おそ松さん』なので、『おそ松』という名前の人間だけは欠けるわけにはいかない、けど別にそれは松野おそ松という個人である必要は全くないので代替品は用意可能」という状況の恐怖であって、むしろおそ松はあそこで「長男である自分」を全うしないと自分はこのアニメから追放される可能性があるということに向き合ってしまったからそれ以降自分が長男であるとことあるごとに言うようになるわけじゃないですか。それは「おまえはいなくてもいいから」という話であって「おまえが長男でいてくれないと困る」という話じゃないんですよ。「俺が長男でいないと俺が困る」のはおそ松のアイデンティファイの問題です。

 

トド松の話もしようと思ってたのに長くなっちゃったじゃないか。こんどします。

 

何の話をしようとしていたかというとカラ松くんの「え?」の話です。カラ松くんの発言が無視されたときにカラ松くんが発するあの「え?」ですが、初出は3話です。3話なのでカラ松くんというと発言が無視されるのを嫌がる人みたいな印象があるんですが、これは印象操作だよ! という話をしようとしていた。「長男長男言われ続けて育つの嫌じゃん!?」は「別に(チョロ松くんくらいにしか)言われ続けてないですよ」なわけですが、「無視されたら嫌じゃん!?」という感情移入を誘うカラ松くんの「え?」に関しては「5話で追放処分を受けてしまったので自己改革をしようと思ってるんじゃないですかね」と思うわけです。

というのは3話というのは時系列的に2話と4話の間ではないんじゃないのというエピソードのほうが多いんですよ。

3話のおそ松さんのメインストーリーと乖離してないエピソード(変な言い方だな)というか、まあメインストーリーの一部なんじゃないですかねと思えるエピソードは

  • キラキラネーム
  • パチンコ警察
  • 寝かせてください
  • 10月31日
  • 銭湯クイズ

なんですけど、このうち「キラキラネーム」「パチンコ警察」に関しては特に矛盾するところはないです。しいて言えばパチンコ警察のトド松は14話でひとり富士山登頂を果たしたトド松と同じトド松なのか? という感じはしますが14話に関しては「本人談」の域を出ないのと21話「麻雀」や24話の一人暮らしの様子とパチンコ警察での対処の甘さは重なるので、14話のほうが嘘じゃねという気はします。トド松というのは笑顔で嘘をつく生き物(5話、7話)だし……。

「寝かせてください」に問題のカラ松の「え?」があって、で、この回で気になるのは「いびきをかくのは十四松」という言及で、十四松がいびきをかくエピソードが入るのは9話。あと一松と十四松のプロレスも9話。まあ矛盾てほどの話ではないんですけどちょっと気になる。

「10月31日」に関してはこの間も書きましたが、イヤミが文無しになったのは4話と6話の間と考えるのが妥当で、そう考えるとこのハロウィンのエピソードのあとにトト子ちゃんのライブに行くような余裕がイヤミにあったか? と考えると微妙。

「銭湯クイズ」ではハタ坊に「ずいぶん成長したね」と言ってるわけですが、六つ子は6話でハタ坊に「ずいぶん会ってない」ので、これは明確に銭湯クイズのほうが6話よりあとだと考えるのが妥当。

そしてそのうえ「3.5話」という存在があります。円盤収録の3.5話は「4話と5話の間」をふいんきで観てね! みたいなアナウンスが入っているんですが、じゃあなんで4.5話じゃないのかというと、そもそも「3話」が「こぼれ話集」つまり「どこで起こったいつの話だかははっきりしない話を集めたもの」だという前提があるからでしょう。多分。

 

つまり逆に言うと3話+3.5話「以外」のエピソードは「どこで起こったいつの話だかはっきりしている」ということになるのでは?

 

とはいえ2話と4話はエピソードごとに完結していると考えることは不可能ではありません。じっくり見ているとトド松が2話で「働きたくなーい!」しかし4話扶養面接を経て「自立しよう」と決意し7話で働き始めるという経緯があるんですが、それでも4話までなら文脈は発生していません。4話までは別にこれは一話というかエピソードごとの完結で設定は更新されないし彼らの心の傷はその場で終わると信じていられたのです。

問題は5話ですよ!

5話が衝撃的だったのは、エピソードが明確に全然まったく区切られていなかったところです!

つまり、5話Aパートで痛手を負ったカラ松の痛手はBパートまでキャリーオーバーした(ので今後もずっと傷ついたあとのカラ松に付き合っていかなくてはならない可能性が発生した)という点です!

です! って得意げにいうようなことでもないんですが、なんで5話があんなに大騒ぎになったのかというと4話までの「エピソードごと完結だからひどい目にあったとしても来週は関係ないでしょ」という見方と「少なくとも今回はAB繋がってたわけでABの間はそのひどい目にあったという設定は引き継がれているわけで」という見方がごっちゃになった上に「そもそもなんでこんなひどい目に合わないといけないのか」「ギャグアニメだからでは?」という意見が交錯したせいだったので……

つまり、3話で「話はつながってないです」というミスリードを食らったせいで、「こんなのありかよ!」とわめくことになったわけです。

効率の良い虐殺ですね。

 

さて、カラ松の「え?」問題の話をすると言っていたんでした。話を戻しますけども、カラ松が「え?」を言い始めた、というか、なにか言ったらリアクションがもらいたいという態度を取るようになったのは、3話を除くと、6話でフラッグ社社員に対してのものが最初です。だと思う。

4話ではカラ松は「まともじゃない、か……褒め言葉だ」が完全に滑っているのですがまったく気にしていません。

なぜならカラ松は自分の周囲の人の声を適宜補完する能力があるからです。2話でカラ松ガールの声を幻聴しているようすに基づくならば。あるからですというか、あったからです。だから5話で兄弟が迎えに来ることを確信できたわけで、細かいことを言うと2話で一松に「俺は信じてるぜ」を言ったのもそういうことで、それまでカラ松の世界は「俺が愛している世界に俺は愛されている」は前提的にあたりまえだったわけです。だからリアクションを求める必要は別になかった。

それまでというのがいつまでかというと5話までです。

というか、5話オチまでですね。多分。

5話のオチで「扱いが全然違う」と喚いたカラ松は、その後どうしたかというと、待遇の改善を求めたわけではありません(最終的にダヨーン相談室に苦言を呈すけど)。カラ松が始めたのは自分の「テコ入れ」です。具体的には6話では「ハタ」に合わせた小粋なジョークを披露、7話ではスタバァの正しいお作法を披露、8話ではトト子ちゃんに具体的な助言。そして10話では「自分の何が間違っているのか教えてほしい」とおそ松に尋ねる。そう、カラ松がリアクションを気にし始めたのは、「どうも自分が悪いようだから」という理由で「寄せはじめて以降」のことです。「努力の成果が出ない」から「え?」なんですよ!

その「努力の成果」は全然実らない結果兄弟より自分を評価してくれる花の精とのなかば駆け落ち的な結婚に至り、帰ってきたカラ松くんは憑き物が落ちたように他人の評価を気にしなくなるわけです。そもそももともとは気にしない人だったわけで、5話で受けた傷が15話で癒えたということに、まあ、なると思う。15話における花の精、わたしはチビ太とカラ松のそれぞれの願望がそっくりそのまま具象化しただけだと思っているんですが、そういう前提でここまでの話を考えるとカラ松は5話の件をほぼひとりで自分で消化して自分でケアして自力で元に戻ったわけで、まあ、タフな人ですね。見習いたい。

たかがアニメの感想だぞ

わたしは2015年に30冊くらい同人誌を作るくらい二次創作が好きで、忘れたけどpixivにも200件か300件くらい投稿をしていました。同人誌を刷るためなら薄給を削っても惜しくなかったし毎日楽しく暮らしていました。

 

二次創作をやめたいまも楽しく暮らしています。わたしは楽しく暮らす才能があるからです。

 

でもだからといって二次創作をやめたほうがいいんだろうなと思うに至った経緯のことは許してないよ。

 

面倒臭いので今回の件の火元に関してはリンクを張りませんが(当ブログは基本的に火元のリンクは貼りません)「舞台レポ漫画」は「ナマモノ」だから「漫画・アニメ作品(いわゆる二次元)を題材にしたスペースで頒布すべきではない」の話ね。

問題点は以下だと思います。

  • 「ナマモノ(いわゆる3次元)」の取り扱いが微妙であるとして、その微妙さに言及できるのは微妙さに日々さらされている当事者間の問題であり、第三者が注意喚起できるかどうかはそれもまた微妙な問題ではないか(この件に関しては本当に媒体によって微妙さの種類が色々に存在するのは知ってるのでこれ以上踏み込む気はありません)
  • 「ナマモノ」と「半ナマ(いわゆる2.5次元)」の取り扱いの問題はそもそも別のはずだし(これも媒体によって全く別とは言い切れない側面もあるらしいので全く別とまでは言いませんし部外者が踏み込む気もありません)、舞台は「2.5次元」では?
  • そもそも「ナマモノ」「半ナマ」という表現は「二次創作的フィクション」に対しての呼称であり、「レポート」「感想」の類は「評論」であって、ここまで挙げてきたあらゆる「微妙さ」とは全く関係ないのでは?
  • また根本的な問題ですが、「アニメ」スペースで「評論」を頒布しようが逆に「評論」スペースで「ジャンプFC」を頒布しようが(コミケのジャンルコードっぽく例えましたがコミケ以外のイベントでも)、イベント側が規制していない限り自由である

 

まあナマモノと半ナマに関しては微妙にこう十年間くらい聞き取りができるシーンがあれば「最近どうですか、どんな感じでやっていますか、若い人とはうまくいってますか」みたいな話をぼちぼちして、誠実な対話ができる人もいればできない人もいるし、べつに理屈が通らないわけでもないし、でも平和にやってきたので平和にやらせてくれというのがあるのはわかっているつもりなので別に踏み込まない。逆に言うと「ウワッめんどうくせえ!!」と言われるのを覚悟でやっている(やらざるを得ない)ということなんだろうな~という話はいっぱい聞きました。のでそれが「微妙」「繊細な問題」と言われること自体は頑張ってくれーッと遠くから言うことが友人として誠実な態度だろうと思っています。

でもそれは「ケガレ」の問題じゃないんですよ。

普通に具体的に障りがあるという理由があるわけです。たとえばわたしがほんの少しナマモノジャンルにいたころは妄想の対象である彼らの多くが男同士の同性愛に対する完全な偏見を持っているということは分かり切っている状態でやっていました。本人に絶対にばれたくない(ラジオとか舞台でネタにされたくない)ということがおわかりいただけるかと思います!!!!!

なので、「ナマモノは立ち入り禁止」みたいな言い方をするのは、どうなんだ? 「ケガレ」だから「近寄るな」という話になっていないか? というのが気になったポイントですがていうかその話もいまはどうでもいいんですよ。

 

他人の活動につべこべ口を挟まない!!!!!!!!!!!

 

わたしはブログに書いている文章を一貫して「感想」と呼んでいて、noteの有料エントリに上げているもののことは「評論」として書いていますが、それはそれとして全部コミケのジャンルコード的に言うと「評論」です。感想、考察、評論、なんでもいいですが、「データベース本」の話は今回はともかく、基本的に「評論」というのは別に「事実」ではありません。いいですか、「評論で扱われている言説は事実ではない」それこそ「個人の感想です」!

なにをうじゃうじゃ喚いているかというとですね。

かつてわたしは同人誌を月に三冊くらい作りながらpixivをぱかすか更新しながらアニメや漫画の感想をばかすかTwitterに書くタイプのオタクでした。アニメがあんまりおもしろかったのでアニメの感想をブログに書きました。なぜかめちゃくちゃバズってしましました。まあそれはいいです。ありがとうございます。

荒らしと粘着が付きました。まあそれもいいです。よかあないけどインターネットの風物詩ですからね。

捨て垢でもなんでもない普通のオタクアカウントから、「あなたに影響を受けた人たちから攻撃を受けてとても困っていたのにあなたは楽しそうにしていてわたしは泣いている」みたいなリプライを受けました。

この場合悪いのは誰でしょうか? わたしではありません。あってたまるか。

  1. わたしに影響を受けていて、わたしの考えたことを基準に何らかの発言をした人(※実在するのかは知らない)
  2. わたしに影響を受けていなくて、わたしの影響を受けた人の何らかの発言に傷ついた人

答えは両方です。

  1. 影響を受けるな。
  2. 傷つくな。
  3. おい冷静になれよたかがアニメの感想だぞ!?

まあね、でもおまえのせいで喧嘩をしてると言われたらさすがにどうかと思うよ。という理由でわたしは「俺のせいで喧嘩をするなよ」と言う完全な体制を整えるべく、二次創作を発表するのをやめ(かなむらさんはどうせ○○を書くような人だからと言わせる権利を奪い)、知的な発言を増やし(かなむらさんの影響を受けている人は悪い人だと言う機会をできるだけ削減し)、そのうえで喧嘩の火種になりそうな文章を有料課金制にし(金を払って影響を受けた人は別に影響を受けるくらい正当な権利では? そして金を払わないと読めない以上傷つけられた人がいたとしてもわたしのせいではないのでは?)現在のような状況があるわけです。

 

この件を受けてレポ漫画の件についてなんでこんなにとやかく言わないといけないと思ったかというと骨子はこう。

  • 人はイベントルールに則っていれば頒布したいスペースで頒布する権利があります。
  • それはそうと、人はダルいインターネットに出会ったら全力で逃げる権利があります。
  • 都合と判断はひとそれぞれです。
  • 他人の意見を鵜呑みにするな。自分の首の上に乗ってるやつを使って考えろ。
  • 他人の意見を鵜呑みにして攻撃的になった人間の攻撃性の責任は、わたしにはない!

 

もう昔の話なので書きましたが、おそ松さん二期が始まってわたしが同じ轍を踏むと思うなよ。お楽しみに! 夏コミ受かってたら評論で出ます! よろしくね!

永遠に終わらないモラトリアムに引きずり戻されるイヤミの話

春ですね。隣の家の演歌じいさんの歌も春めいてきたように思われるこのごろですが、わたしはといえば『華麗なるギャツビー』の円盤がほしくなって欲しいものリストに入れていたところくれそうだなと思っていた相手とは別の人からもらい、欲しいものリスト(をとりまく環境)は人生の縮図といった感で毎日観て「実質松……実質松……」と唱えています。脳が沸き立つ季節ですね。フィッツジェラルドが大好き。終わらないモラトリアムが大好き。さて今日も元気よくおそ松さんの話をしましょう。『グレート・ギャツビー』は「人生の最も美しい部分は追わらないモラトリアムのなかにあるので、最も美しいタイミングで電源を切るべき」という内容であり、おわかりのとおり美しい物語というのは終わらないモラトリアムを内包します。あるいは終わらないモラトリアムは美しい物語を内包します。『おそ松さん』における松野おそ松の絶対に行動してはならない22話(1話と18話と25話を除く)は完全に赤塚先生という永遠に失われた緑の灯火に向かって差し出される手のひらです。

ところで村上春樹翻訳ライブラリー版『グレート・ギャツビー』の表紙、最高ですね(最高ですということがわかる人は最高ですねと言ってください)。このあいだ友達とフィッツジェラルドの話をしていて「村上春樹は国内の壁サー」と言ったらやたらウケました。わたしは村上春樹の小説が死ぬほど好きというわけではないんですが(すきは好きですけど)フィッツジェラルドの壁サーとしての村上春樹のことは激推しなので……。

 

イヤミのことを考えてたんです。

イヤミが2話で仕事持ってて、しかもそこそこ成功してる、あるいは成功しようとしている……ダヨーン量産工場とはなんだったのか最終回まで観てもなにひとつわからなかったけど、まあダヨーンとは量産の象徴であり母なる惑星のメタファであるとか人間は他人の権利を侵害しない範疇において言いたいことを言いたいように言う権利があるわけですけど、その話は今日はよくて、2話のあと6話で唐突に失墜してるのはなんでかというと、どう考えても3話で六つ子に身ぐるみ剥がされたからです。それ以外の理由は全くありません。少なくとも作中にはありません。

3話で身ぐるみはがされたあと、4話でわりと余裕がありそうな様子で出てくるので誤魔化されがちですが、3話は「こぼれ話」なので、時間軸は任意に判断できるものとすることができます。3話(と3.5話)におけるあれこれが必ずしも2話と4話の間にあるわけではないっぽいという形跡はいろいろあって、たとえばハタ坊は6話で久しぶりに会ったと言っているので銭湯クイズの時系列はたぶん6話よりあととか、「十四松がいびきをかいている」は9話のあとではとか、そういう話なんですけどまあ今日はその話もいいです。

2話 成功者として登場する

4話 トト子ちゃんのライブチケットを買う金はあった

身ぐるみはがされる

6話 橋の下

8話 (チョロ松よりも)トト子ちゃんのマネージャー然としている

9話 カラ松チビ太の後ろで猫と乱闘

10話 噴水で水浴び

11話 マッチ売り

18話 逆襲のイヤミ

22話 ファイナルシェー

最終回

ついでにぜんぶまとめてしまいましたが、つまりイヤミが金がなくなったのは4話と6話のあいだです。そして順当に考えれば4話までのイヤミには家がありそうだし6話からイヤミには家がない(ずっとなさそう)ので、4話のあとくらいに3話のハロウィンエピソードが入ると考えるのが妥当です。

でもだからといって六つ子がそれを手に入れたわけではありません。4話と6話のあいだには5話があって、5話は「金がない」から起こった悲劇だったからです。まあ4話の時点でトト子ちゃんに貢ぐ金はあるのですが、だから六つ子の言う「金がない」は「口座に金がない」とか「手持ちの金がない」とかいう意味じゃなくて必要に応じて発生する何かっぽいのですが(カラ松のけっこう高価そうな小道具はギャグに使うからという理由で「支給」されてるんじゃないか)、「カラ松事変」「恋する十四松」「レンタル彼女」に関しては「金がない」というのがキーワードだった。「金がないからできない」。しかも「カラ松事変」と「恋する十四松」に関しては「金があったら解決した」問題が「金がないので解決できなかった」側面があるわけで。まあそもそも前述のとおり「必要なら錬成できる金」にすぎず、つまりカラ松事変の件に関しては本当にダルかっただけなんですが……多分……。

まあその話も今日はいいです。

ここで問題にしているのはイヤミの「富」を六つ子が「奪った」わけでは多分ない、ということで、考えられるのは、

  • イヤミの富は消滅した
  • 奪ったのは六つ子ではない

このどちらかです。両方である可能性もあります。なにしろ題材はハロウィンで、「悪魔」という概念としてたまたま六つ子のかたちをしていた何かにイヤミが富を奪われたのだと考えるのは妥当です。

あるいはもっと単純に、イヤミというのは「奪われるもの」なのかもしれません。その可能性はあります。全22巻の『おそ松くん』のなかで、あるいはアニメシリーズのなかで、時代が下れば下るほどイヤミは「持たざるもの」として描かれます。88年版アニメのオープニングは歌詞のなかで歌われる「くたびれたサラリーマン」にイヤミが扮していると捉えることができますが、あそこで描かれている「大人」とは「持たざる敗者」であり(前後して放送された『天才バカボン』のバカボンのパパが「持たざる勝者」であるのと対照的に)、イヤミが抱えるそのペーソスこそが『おそ松くん』のナンセンスギャグの芯を成していました。

しかし、それでは逆に、どうしてイヤミは「持てる勝者」として最初登場したのでしょうか? どうして「大人になることとは何か」を六つ子に示したのでしょうか? イヤミはどうして六つ子のかたちをした悪魔たちに奪われなくてはならなかったのでしょうか?

そこにあるのは畢竟「大人と子供の境界を破壊する」行為であり、もっと言えば「デカパンやダヨーンの側にイヤミを置くことに対する抵抗」ということになります。デカパンとダヨーンは父性と母性のメタファであるという話は延々と向こうでやってるんですが、デカパンは失われた3話デカパンマンでおそ松に殺されていて、ダヨーンは23話でチョロ松の妻になりかけていて(25話で再登場してるし普通にその後結婚したのかも)、表裏一体として「殺すべきもの」「手に入れるべきもの」なんだけども、イヤミの立ち位置って「そこ」ではない、「大人」や「憧れの存在」ではない。

六つ子がイヤミから何かを奪ったのだとすればそれは富でも、あるいは主人公という地位でもなく、「大人でいる」という特権であり、それはひいては「ライバルとして永遠に現役であり続けなくてはならない」という期待だったと取ることができると思います。「永遠に終わらないモラトリアム」の座を降りることができないまま六つ子ちゃんたちのライバルを続けざるを得なくなった瞬間が、4話と6話の間にひっそりとあったんじゃないか。

 

いずれにせよ、イヤミの視点から見て何が起こっていたのかって全然わからないんだけど(何かがあって家をなくしたらしいということしかわからないんですが)、それはたとえば88年版で六つ子の視点から見てあの日々は何だったのかわからないのと対照の話なんだろうなと思います。

人類は孤独を選択できるほど成熟していない――映画『夜は短し歩けよ乙女』

※原作既読勢へのネタバレには配慮

※原作のネタバレはふつうにある

※ネタバレがそんなにはないようにしようとした結果、歯切れが悪い

※「森見は好きだけど、スゲエ好き全部読むというほどではない」「湯浅監督のオリジナル作品がめちゃくちゃ観たいというほど湯浅監督が好きなわけではない」なんですが、四畳半は原作もアニメもめちゃくちゃ好きで、映画夜もめちゃくちゃ好きでした、という人の感想です

 

おそ松さんのTVシリーズを六時間くらいに再編集してちょっとだけ新規映像をつけて一時間あたり一律1500円で全国の映画館で公開するという気の狂った貴族の遊びに3000円分参加して(3000円分なのはたまたまぎりぎり仕事と体調の折り合いがつく時間がそこしかなかったからです)完全に頭がおかしくなり、そもそもわたしは閉所恐怖症なので映画館に行くと体調がめちゃくちゃ悪くなりグニャグニャになりながらしかし絶対に観たかったので、絶対に観たかったけどもう一回映画館に出直す元気があるかどうかよくわからなかったので、どうにかして椅子にしがみついて観てきました。結果的にはグチャグチャになりながら観るのもそれはそれで映画の内容に合っていたような。なんでわたしのコンディションの話をするかというとつまりそれくらい曖昧模糊とした魑魅魍魎の幻覚のさなかで観たのでなにを観たんだか記憶が曖昧であると言いたいんですが、内容が内容なので、その感想で正しいのでは? とは思う。体調が悪すぎて&終わったら即歩き出すことでかろうじてぎりぎり終電に間に合うという状況だったので観終わってから酒をひっかけに行けなかったのが残念でした。みんなはぜったいに観たあと飲み屋に繰り出すべきだとおもう。そこにお酒がある限り!

さて、『夜は短し歩けよ乙女』、原作は既読ですが今の家に持ってきてなくて、つまり最後に読んだのは二年くらい前です。なので原作との比較に以下触れるとしてもすごく曖昧な記憶だということをお許しいただきたい。アニメの『四畳半神話大系』と同じスタッフのはずで、アニメ四畳半神話大系にも多少触れると思いますがこれは引っ越してきてすぐくらいに作業用BGVを求めていた頃二週くらい観た覚えがある。にしても一年半くらい前なんですよね。あらゆる全てがBO.(おそ松さん以前)の出来事です。

 

長くなりましたがそのような経緯によって、映画夜は短しに登場する学園祭事務局長が一体どれくらいあの通りだったかぜんぜんわからなくなってしまったんですよ。

学園祭事務局長が最高なんですが、(ネタバレ)が(ネタバレ)という点において(ネタバレ)なのでなにをどう書いたらいいのかぜんぜんわからない。とにかく学園祭事務局長がよすぎて脳がバグってしまったんですよ……。学園祭事務局長まわりのあれこれ、原作好きな人はかなり首をかしげる点だろうとは思うんですがわたしは「最高だった」としか言えない。

 

おそ松さん24話の感想の時に書いた、いや書いてないな、当時ブログを自粛していたのでブログに書かずに適当に喚き散らしただけだ多分、とにかく24話と25話のときも散々喚いていたことなんですけど、あとシムーンの感想をダラダラ喋っていた頃にもよく言っていたように思いますが、「成長」や「青春の終わり」や「モラトリアムからの卒業」を題材に物語を描くときに、「主人公はたまたまこれを選んだけど、これを選ばなかった人もいます」そして「そっちもべつに不正解なわけじゃない」を描く作品が好きだし、できれば描くべきだと思うし、描くことが誠実だと思っています。無職の人も、就職した人も、結婚した人も、恋愛しない人も、成就した恋も、成就しなかった恋も、等価に「べつにどの人生が不正解ってわけじゃない」という話が誠実だと思う。べつに面白い物語がぜったいに誠実でなくてはならないというわけではないんですが、でもわたしは誠実な物語が好きです。

そういう意味で、映画夜は短しにおける「先輩」(主人公)は「恋の成就」、いや、というか、「恋の成就の可能性」か、そこに至らざるを得ないわけだけど、これは「至りたいから至る」わけじゃなくて「至らざるを得ない」という書き方をあえてしていますけど、「先輩」が至った場所が「絶対の正解」なわけではない。

「先輩」はその選択肢に至らざるを得なくなって(というか、自分でそこに自分を追い込んだあとで後悔しても遅くて)至るし、パンツ総番長は「選択をしたい」という欲望が爆発した結果として目的より手段が優先された結果ひとつの人生が成就するし、「恋した相手と結ばれない方が理性的である」と解く彼の成就しない物語もあれはあれでひとつの人生の成就である。

 

そして学園祭事務局長は、あるいは李白さんは、「自分の人生の傍らには誰もいない」を貫くことがひとつの人生の成就である。学園祭事務局長も李白さんも、「先輩」も、まあ東堂さんもですけど、「自分の人生が孤独である」ということにある程度酔っていて、それは「孤独である以上つらいと言っても構わないのだ」あるいは「孤独であるくらいなら酷いことをしても構わないのだ」という甘えの話になる、というか、映画版はそういう態度を、それは甘えですよね、と追求していく側面がけっこう強くあったと思う。

それらを踏まえたうえで乙女が説く「我々はそう簡単に孤独になることはできない」は、だから、けっこうシニカルな話で、これは原作を読んだ時はそういう印象は持たなかったんですが、だから映画に特有の部分ではないかなと思うんですが、「そう簡単に孤独になることはできない」「孤独に溺れて死ぬのだと思っているとしても、結局誰かを、それもかなり多くの誰かを巻き込んでいくしかない」というのは相当厳しい話だし、「甘えるな」ということになっていくと思うんですよ。乙女はべつに「甘えるな」と言いたいわけではない(というか乙女の発言には隠された意味とかない)と思うけど。

「我々はそう簡単に孤独になることはできない」というのは単なる「事実」であって、それに対して「それでは、孤独ではないと確認し続けることを一緒にやってもらえると考えてもよろしいか」という提議を「できた」のが「先輩」の物語で、「どれだけ愛されたとしても別に誰かに選ばれるわけではないけど、でも自分は孤独ではないと知ってはいるよ」というのが学園祭事務局長の人生で、そこははっきり意図的に描いていたという印象でした。「結ばれない恋」とか「選ばれない人生」を生きるキャラクターというのが明確に「それが間違っているわけではないし、負けたわけでもない」ものとして描かれていたと思うし、それは誠実なことだったと思う、と同時に、原作と明確に違う部分ではあって、そこに目を向けるにしろ向けないにしろどっちにしろ別の残酷さが付きまとうとは思うんですが……どっちがいいとか悪いとかではなくて、どっちにしろ残酷なのは確かなんだけど。

「人生の傍らに誰かがいるわけではないが、それでも生きていくことはできる」という側面を、映画版ははっきり出していたと思うし、恋愛映画がそれをきちんと描くというのは重要なことで、李白さんをひとりの人間として描くために学園祭事務局長をあのように描いたことは意義があったと思いました。「孤独に生きることにある程度酔っていてある程度苦しんでいる高貴で美しくある種の邪悪さと残酷さを持つ青年」として学園祭事務局長を描いたことの意義は、李白さんを物語を推進する装置ではなくひとりの弱い人間にする効力があった。

ただひとりひとりがひとりの人間として弱さをきちんとクローズアップされていくというのは(パンツ総番長が原作よりだいぶんどうかしてるという点もですけど)原作の愛らしさをシャープに、より残酷な方向に舵を取った、という印象はあって、そういう意味で原作通りではぜんぜんないと思う。まあ夜は短しの映像化に原作通りを期待する人がどれくらいいるのかはわからないですが……。

 

『四畳半神話大系』は「恋が成就しなかった世界線」はあって(アニメ版だと大量にあって)、それでも、これはとくにアニメ観て強く感じたことなんですが(原作はそうでもなかったかもしれない)「どのバージョンの自分の人生にも永遠に終わらないモラトリアムがあったという事実」は間違いなくあって、「私の人生には小津がいる」ということで描かれている。「いろいろな可能性、いろいろな選択肢」はあって、「それを選ばなかったら変わったかもしれない人生」、という話なんだけど「小津というモラトリアムの化身」が存在すること自体は変わらなくて、それが「私」の人生のぜったいになくならない一部分である、という話だった――メインテーマではないにしろそういうサブテーマがころっと転がっていた話だったと思ってるんですが、つまりアニメ四畳半は永遠に終わらないモラトリアムの話だったと思うんですが、映画夜は短しにおける「先輩」のモラトリアムは確実に乙女との関係によって終わろうとしていて、そして多分学園祭事務局長は「永遠にモラトリアムが終わらない」ほうの人種じゃないかと思う。

四畳半の樋口さんのモラトリアムは一応終わるけど、夜は短しの樋口さんはモラトリアムの化身であるとか、そういうことも含めて、「終わるからいい」「終わらせないといけない」じゃない、ということも、明確に描かれていたと思います。「先輩」の長い脳内会議と広すぎるインナーワールド、超よかったです……。

 

最後に、これはまあ当たり前なんですがアニメーションとしてハイパーキュートで、あと詭弁踊りが最高だった。

おそ松とチビ太の半世紀ディスコミュニケーション

今日の要点

  • 「おそ松の憂鬱」がつらい
  • メタフィクションを生きることの不自由さという観点からのつらさ
  • メタフィクション的な意味でおそ松とチビ太が結局分かり合えなかったというつらさ
  • 他人の人生は他人の人生であって人間は分かり合えない

 

今週の土曜におそ松さん2話の話をする有料Skypeを主催するので(お気軽にご予約ください!)おそ松さん2話をとっくりと見返してたんですが、2話Bパート「おそ松の憂鬱」はほんとうにつらい話だなとしみじみ思っていました。わたしはつらい話という意味では9話「恋する十四松」がいちばんつらくていまだにつらいんですけど、「おそ松の憂鬱」はわりと匹敵するくらいつらいと思う。なお当ブログがめちゃくちゃバズった(=つらいと思う人が多く、拠り所を必要とした)のは5話と13話(実松さん)なんですが、わたしは5話と13話に関してはつらいという感情はとくになく、「人間のある種のカテゴリを上から笑うというスタンスで話をつくる以上外してはならないパーツを埋めたという意味で誠実な回」という認識をしています。

2話、おそ松が「拠り所としての家庭」における「自分らしさ」を喪失する話、という側面でつらいのはまあそこは前提としてそうで、まずそれがつらい。

そもそも「長男であることを求められる」ことのつらさ、というのは2話を受けてけっこうたくさんの人が言及していて、なぜかわたしのところにもそういうメール(2話がつらかった)がけっこうな数来ました……。わたしにメールしたからどうなんだという気がするんだけどまあ気が済むなら別にいいです……。まあそれはともかく、家庭環境に悩んでいる人は2話と7話(スタバァ回)が刺さって死んだ人が多かったように思う。前者は「そのように生まれた」という理由で重圧があるということそれ自体、後者はいわゆる毒親案件に悩んでいる人って感じだったと思う。

長男であることを強いられるのはつらい、それはそう。それが長男長女のみなさんに刺さったのはわかる。2話でチビ太に怒鳴り散らすシーンはとても良いシーンでした。ああいうことを自分はずっと言いたかったんだという思いを抱いている人はほんとに多かったと思う。あとそれはそれとしてきちんと「それはそれとしてクズではある」という描写が成り立っているのですごい。甘えがない。まあそれはともかく。

 

まあそれはともかく、おそ松さんにおける「長男」ってなんのことなんだ? というのは、実は曖昧模糊としている。

というのは親は別に彼らを序列で呼ばないからです。

ていうか、親はそもそも彼らの見分けをしていないからです。これは原作からそうで、話によってばらつきはあるんだけど六つ子のどれがだれなのかというのは基本的に誰にとってもどうでもよくて、おそ松が六つ子のなかでは比較的目立つ行動をとりがち、というだけのことにすぎず、過去作品において彼らは兄でも弟でもない。そもそも赤塚不二夫が彼らをキャラクターとして設定した段階で彼らは「主人公が六人いる」という並列の存在であるという点に新奇性を担保させていたのであって、それは区別がつかないことが前提だったわけです。六つ子は六つ子という群体であって、あるいはおそ松プラス五人という二項だった。

彼らに序列が発生したのはおそ松さんという作品の固有のもので、それがなんでああいう設定になったのかという話の推論もおおむねこうじゃねえかなは思ってるんですけどその話はたぶん有料の方に詰めます。

で、じゃあおそ松は「特別」じゃないのか、六つ子のひとりにすぎないのか、と問われたらそれは明確に「特別」で、おそ松は長男とは呼ばれていなかったにせよ、明確に「ボス」で「リーダー」ではある。六つ子が活躍するのは彼らのキャラクター史において原作初期とそれに対応するアニメだけなんですけど、そのなかで「六つ子のなかで特に目立った活躍をする存在」が「おそ松」である、という描写があって、それに対してチョロ松がちょっかいをかけたり結局和解したりやっぱりちょっかいをかけたりというエピソードがいくつかある。

だからおそ松が「リーダー」であるのは確実で、おそ松さんにおいてはそれが「長男」と呼びかえられている、という認識が妥当ではないかと思うんですけど、「どっちにしたっておそ松は六つ子を引っ張っていかないといけないわけじゃないですか」ということになる。それはどっちにしろそうで、結局それはおそ松が「タイトル」である、という時点で、キャラクターとして発生した瞬間から、「物語から逃れることができない」という運命を背負っている、ということを示しているんだと思う。

おそ松さんにしろおそ松くんにしろ、メタフィクションの話で、おそ松は自分が「おそ松くんという永遠に続く芝居に縛られている」ことを知っている。タイトルを背負っている。おそ松がぜんぜん出てこない、あるいはほとんど本筋とは関係ない話(大量にある)であっても、それはおそ松が名前を背負っている作品である。「おそ松が長男である」あるいは原作で言うなら「おそ松がボスである」という言及があるのは結局そういう話で、誰がそれを決めたかといえば赤塚先生で、だからおそ松は「なにをしても、なにをしなくても」物語から逃れられない。

はずだったんですよ。

「そういうわけではない」をやってしまったのが、「ニューおそ松兄さん」です。

 

おそ松はF6のこともそうだし(という話を先週しました)、いつも漫画を読んでいるのは「ギャグマンガのキャラクター」である以上あれ「勉強」では、と思うし、赤塚先生に対する言及をするのも基本的におそ松だけなわけで、自分がメタフィクションのキャラクターであるということに対してめちゃくちゃまじめに向き合ってると思うんですが、アニメに対する自己言及も行うし。それがなぜなのかというと、ここまでの推論に基づくなら「自分がタイトルの作品だから」ですよね。で、そうやってギャグアニメたらんとして自分がいま出演しているアニメに向き合った結果ああいうキャラクターを「作って」いるんじゃないかという認識をわたしはしていて、「ギャグアニメをまじめにきちんとやろうとした」結果、「なにもしない」を内面化していくという経緯を辿ったと思う。

バカボンのパパは「無職」(≒バガボンド)でなくてはならなくて、おそ松さんの世界にはバカボンのパパ本人は出てこないにせよ赤塚先生とほとんど同一化している(赤塚先生の遺影はバカボンのパパのコスプレをしているし、「これでいいのだ」はバカボンのパパの決め台詞だし)ので、おそ松はバカボンのパパを目指さないわけにはいかない。何故ならもう「赤塚不二夫がギャグマンガの主人公になにを求めるのか」を本人から聞き出すことはできないから、「最も成功した赤塚主人公」を模倣するしかないからです。おそ松はその意味で本来赤塚先生から与えられた人格を「捨てて」あれをやっている。「長男だから」という言及も外部からより自己言及のほうがずっと多い。「主人公だから」「長男だから」をなぜやらなくてはならなかったか。

というのは、「おそ松というタイトル」は「任意の存在に代入可能」だと言われてしまったからですよね。

たしかにこの作品が「おそ松さん」である以上、「おそ松と呼ばれているキャラクター」は絶対に必要不可欠なんだけど、それは別にこの世界の任意のnたる聖澤庄之助でいい、という話をチョロ松が(あれ仕掛け人はチョロ松だと思うんですけどという話はここでやっています)ぶち込んだので、おそ松は「自分がいなくても作品は成り立つ」と気づいてしまった。そしておそ松は「自分がいなくても成り立つ作品」を受け入れることはできなかった。ならどうするか。長男は誰か、ボスは誰かということを自己言及し続けるしかない。

 

「作品を背負うことによってしかアイデンティティを保てない」のがおそ松なら、「背負わされた作品が自分を守ることも救うこともない」のがチビ太で、わたしにとって2話がつらいのはそういう点です。

おそ松に準じてメタ的にキャラクター史を紐解くなら、たとえばイヤミは鳴り物入りできっちり作りこまれたギャグを携えて登場したおそ松くんの立役者であって、だからおそ松さんにおいても「自分はヒーローである」という自己言及を続ける。それはおそ松が「自分が主人公で、長男で、ボスだ」と自己言及を重ねるのと、あるいはトト子ちゃんが「自分がどれほど可愛いか」に自己言及を重ねてヒロインたる自己を拡大していくのと同じ文脈にあります。実際イヤミとトト子ちゃんはイベントやインタビューでも六つ子に並ぶ準主人公くらいの扱いをうけている。円盤のジャケットにもなっているし。おそ松やイヤミやトト子ちゃんにとっては(六つ子のあとの五人に関してはとりあえず置いておいて)、おそ松くん、そしておそ松さんという作品は、れっきとした居場所であり、自分の、自分たちの作品であるという確信がある。

でもチビ太は違います。チビ太はおそ松さんにおいて「脇役」です。チビ太は原作でも主役級の話が多いし、88年版のアニメではイヤミと並んでほとんど主役扱いされているのに、おそ松さんにおいてチビ太は「脇役」で、その上で、「家族がいてうらやましい」「長男なんだから兄弟を大事にしろ」と言及する。そして15話では明確に「孤独であることがつらい」という話をする。

チビ太の話をすると長くなるんですけど、ここまでですでにこのエントリ長いのでどうしようかなって感じなんですけど、まあ書きますけど、チビ太って結局「孤独という概念」、六つ子が「群体」であるのに対してチビ太は「ひとり」という概念である。66年版の、OPテーマ曲が、「六人揃えばなんでもやるぜ」と「ひとりだけでもなんでもやるぜ」で対応していて、チビ太は「ひとりである」ということが前提のキャラクターで、イヤミとコンビを組むことはあっても、イヤミとニコイチの存在では別にない。イヤミは「キャラクターとして作りこまれて鳴り物入りで登場した」けれど、チビ太は特に名前もなくなんとなく原作に描かれていたモブキャラのひとりがだんだん人格を持つようになった存在であって、最初からずっと六つ子なりイヤミなりを引き立てるための脇役で(主役回はあるけれども)、おそ松さんにおいてもそうで、しかもそれは「そのエピソードが終わったあと、自分が帰る場所というようなものはどこにもない」寄る辺というものが全くない存在であるからこそどこにでも行けて何にでもなれる「何者でもない」チビ太だったわけで……。

 

べつにそういうことを考えながら観る必要はないんだけれども、おそ松が「タイトルを背負わなくてはならない」ことと、チビ太が「背負えるものがほしくておでん屋をやっているけれど誰にもそれを顧みられない(おでん屋に立ち寄るのは金を払わない幼馴染ばかりだし金を払わないしオフでは会わない)」ことがぶつかった瞬間が「おそ松の憂鬱」のあの瞬間で、

その上、あそこで決定的に衝突したおそ松とチビ太の間にあのあと何かがあったかというと、そんなことは特になかったかのようにカラ松の誘拐、レンタル彼女、クリスマスの軽口、イヤミカート、センバツと、「何事もなく」特別親しいわけでも友達なわけでもない単なる幼馴染を「続ける」だけ、2話がおそ松とチビ太のキャラクターとしての歴史のなかで最も近づいた瞬間で、それは二人が「求められている立ち位置」がどれだけかけ離れているかを確認する作業だった、というのが、

「他人であることを確認した」「分かり合うことはない」おわり、っていうのが……。

しみじみとつらいな……と思いました。チビ太はその後六つ子の中のはぐれ個体であるところのカラ松と友情を築くわけですけど、おそ松がカラ松になれない(六つ子からはぐれることができない、つまり作品をぶん投げることができない)ことと、カラ松がおそ松になれない(ニューカラ松すら必要とはされていない)ことはどっちにしろしんどいんですけど、まあなんか、それが人生というものである(C’est la vie)という話ではありますが、「人間の人生は誰にも肩代わりできない」「自分がそのような人生を背負っていることから逃れることはできない」って感じだなと思います。「人生は歩き回る影法師」(マクベス)という感もある。

 

 

なんかひさしぶりに長いエントリを書いたな。というわけで土曜はそういう感じの話をします。遊びに来てね~。

鹿ask自選集(更新中)

ask.fmが見づらい!!!!!!!!!!

宗教についてというゼミ題目をいただいてまして、信仰のことをもっとも考えていた2014年上半期のログを読み返していました。というのは黒子のバスケの高尾和成くんをこじらせていたのと(彼がわたしの信仰対象という話ではなくて、彼が信仰をしているという話です)うたの☆プリンスさまっ♪のカミュ伯爵をわたしが信仰対象にしていたのが2014年上半期で、まあそのへんの話をブログにも書かないといけないと思うんですけどすごい遠い目になるので触れたくない気持ちがあります。

それはともかくせっかく掘り返しているのでおもしろかったaskを貼っておきます。また掘るたびに更新します。

なおおやくだちtipsはbestをあさるとまとめてあります。

 

ふだんどうやって小説を書いているのか教えてください

幸せになるためには何が欠けている?

なにうどんが好きですか?

おすすめの小説2013

おすすめの高速バス

児童書について

まどマギキャラにタイトルをつける

のっぺらぼうはどうして喋ることができるのか

 

この質問者さんがすごいシリーズ

マイナーカップリングで最後のひとりになるときの心構え

おそ松くん、タイトルは取り戻せましたか?

今日の要点

  • 『おそ松くん』はシチュエーションコメディである。
  • 『おそ松さん』における松野おそ松は自分と自分の率いる六つ子が絶対に勝利できるシチュエーションコメディの場を作ろうとした

というような話を仮説といいます。仮説というのは論証なくして成り立たないものであって論証をしない仮説は放言である。仮説の検証をこういうことをちまちまちまちま論証しているのがnoteの有料マガジンなので、有料な理由はそもそもおそ松さんの話をするだのしないだのでぐちゃぐちゃぐちゅぐちゅツナ缶をかき混ぜるような音を立てて囃したてられたくないというのがあり、まあでもここでうだうだ喋り始めてしまったのでそれはあんまり関係ないんだよね。そこに関してはあんまり関係ないです。

せっかく金を払ってくださった方に申し訳ないのでブログにも書くのはそれはどうなのか? という気持ちもあり、ただ、内容としてはあんまりかぶらないように気をつけているのでご容赦いただきたいと思います。というわけでブログには適当なことしか書きません。マガジン、有料だからまじめなことを書いているんですが、有料だからこちらのほうがきちんとしており(というかできる限りちゃんと調べて書いており)、きちんとしていないものをブログに投げ捨てておくみたいな感じになり、つまり金をもらっていないほうが詰めの甘いことを書いているということになり、詰めの甘いことをインターネットに放流していいのか? という感じです。いいんじゃないかな。

というわけで適当な事を言います。

みんなちゃんと気づいていて欲しいと思うのでしつこく書きますけど、ギャグアニメに対してこういうこまけえことを延々と言い続けるという形態のギャグであるということをちゃんと理解してくれよな。まじめにやっているからといってギャグではないということにはならないんだぞ!

 

おそ松くんという漫画において、彼らが、彼らというのは六つ子やトト子ちゃんやイヤミやチビ太やデカパンやダヨーンやハタ坊のことなんですが、彼らが「演じている」という言及がけっこうあります。舞台裏みたいなシーンが挟まるということなんですが、つまりこれシチュエーションコメディですよねいわゆる。シチュエーションコメディというのはざっくりいうと舞台固定で一話完結のコメディ作品のことです。

そしてそのシチュエーションコメディの舞台において松野おそ松および六つ子はどんどん背景へと追いやられていったという話はもうみんな知ってるでいいでしょうか。六つ子が主人公として活躍するのは最初の数巻で終わっており、終わっているという事実をして原作に書き込む隙が存在していて、おそ松さんというアニメシリーズになったのですが、その事実をアニメの作中事件として扱ったのが永遠に失われた1話、におけるおそ松とF6の関係じゃないでしょうか、というのが本日の話題です。

 

失われた1話においてF6というシステムを用意し主張したのはおそ松であり、つまり、あそこでおそ松が「するべきだと考えたこと」は物語の奪還、自分の名前をタイトルに冠したコンテンツを自分の名前のもとに呼び戻す作業だったといえるでしょう。おそ松が出てこない回で漫画の最後に「ぼくの出番なかった!題名変えろよ題名!」と喚く回が原作22巻にあり(これはリメイク回なのでもっと前にあるはずなんですがそれをいま見つけ出せないので見つけたらそれも書いておきますが)、おそ松がやろうとしたのは題名の奪還、自分が主人公として名付けられた物語の奪還です。そしてそれは25話に至るまで曖昧なまま、25話に至ってようやく実現した命題だったわけです。

 

おそ松さん25話というのは、「六つ子のそれぞれ個人の人生」がのこりの5人にはある、おそ松には「個人の人生」がない、という話をやった24話を踏まえて「六つ子というコンテンツのリーダーとしてのおそ松というキャラクター」として生きることはできるをやった、という話として認識しているんですが、これはようするに「現実的に可能なレベルにF6を再構築した」話である、ということじゃないかと思っています。

F6は六つ子が絶対に勝利する世界なんですが、それはなぜかというと六つ子が特徴の薄いキャラクターデザインだから改変が自由にできるということを強みとして生かしたということであり、同時に、トト子ちゃん以外のキャラクターの「絵柄がなじまない」問題によって1話のF6の世界は崩壊した(そして16話で幸福な絵柄の合流を可能にしたがそのF6はおそらくもうおそ松の思惑とは、というか六つ子とはもう全く関わりない存在になっている)わけです。

そして25話は「彼ら全員が彼らとしてなんの矛盾もなく、主人公である」をようやく成り立たせることができた話で、あれをやってようやくおそ松は「おそ松さん」の主人公で、でも松野おそ松が主人公であるというのは六つ子が主人公であるということと絶対に等価でならなくてはならなかった。

「松野おそ松」の定義にはつねに「六つ子のひとり」であるという情報が含まれていなくてはならない、ということが、「原作に対して冷静で誠実な結論」であるというのはすごい話だと思うんですがこれは余談です。

萩ゼミメニュー表とそもそも萩ゼミとはなにか

そもそも萩ゼミとはなにか、なんでこんなことになったのか、という話なんですけど、話せば長くなるんですがむかしask.fmで4000回答したことがありました(だいぶん消したので数値上は3500くらい)。いろいろな事情があってこれを続けられなくなったのですが、「金を取ってもいいから相談に乗って欲しい」という結構な申し出をなかなかの分量いただくようになりました。それで始めたのが現ドーナツ革命党事務局(旧萩の原、ブログタイトルとお店の名前が一緒だった頃があったのですね)です。

そのなかで、Skype通話にて相談に乗るコースを「萩ゼミ」と呼んでおります。一応ゼミという名前がついていますがべつに勉学に限った場ではないです。基本的に複数人集まる想定の価格設定ですが、マンツーマンがご希望の方はその旨伝えて頂ければ可能です。

有料Skypeグループというかたちにおちつくまでには紆余曲折あったのですが、基本的にはお客様のご要望にお答えして整えていった結果としてこういうかたちに落ち着いております。

 

現在の萩ゼミの状況としては

【開講日】水金土日および祝日とその前日

【時間帯】20時~24時くらいで応相談、基本的に一時間(そのときの盛り上がり方と参加者さんの予定によって伸びるときはとことん伸びていきます)

※これ以外の曜日時間帯をご希望の方はご一報ください、別にできないわけではなく、月火木はぜんぜん人が来ないから強いてやらないだけです

【受講可能人数】1~8名、マンツーマンをご希望の方は事前にお問い合わせくださいませ。なお「哉村とマンツーマンは絶対にいや」という場合の対応はちょっとむずかしいので、お友達とお誘い合わせのうえお申込み頂けると回避できるかと思います。

 

【内容】

小説技法、同人活動、人生相談、その他相談したいことがあればおおむねなんでも、事前に一度お問い合わせくださるとたいへんありがたいです

※恋愛相談には残念ながら対応していません

 

【最近用意しているメニュー】

★小説技法

二次創作者のための「物語以前」の小説技法

「小説でも書くか~~~!!」という気持ちはあるけどもなにからやったらいいのかさっぱりわからない人のための小説技法講座です。自作品を事前に持ち込んでいただいたり、こういうシチュエーションは思いつくんですが~! みたいなご相談から始めることも可能です。二次創作・オリジナル問いません(参加者さんがいらっしゃる場合ジャンルやキャラクター・カップリングを伏せてお話することも可能です)。すごく基礎的な話なので書き慣れてる人はたいくつかもしれない。詳しい内容はリンク先をごらんください。

・キャラクターメイキングと『萌え』とはなにか考える

印象的なキャラクター作りについて、「会話」を中心に考えていく予定です。こちらも自作品の持ち込み等していだけるとたいへんお話しやすくなると思います。二次創作・オリジナルは問いません(参加者さんがいらっしゃる場合ジャンルやキャラクター・カップリングを伏せてお話することも可能です)。

・「解題『八月は次の季節

哉村の自作小説を題材に、広く小説の書き方についてお話します。

水曜限定バーゲンセール文章を褒めます出張版

持ち込んでいただいた小説および文章のよいところをお喋りする時間です。公開可能な作品であれば参加者さんにも読んでいただいてお話をさせていただきますが、公開したくない場合、マンツーマンでのお話も可能です。褒める以上の(添削的な)コースも必要でしたら御用命ください。

★短歌

・「解題『愛なき世界』」、二次創作者のための短歌と換骨奪胎についてちょっと考えてみる会

基礎的な短歌のつくりかた(こちらもすごく基礎的な話なので作り慣れてる方は今更だと思います)と、二次創作としての短歌について考えてみる時間です。こちらは「わたしはこうしている」というケーススタディをいろいろやっていくかんじです。なお、参加された方には『愛なき世界』のPDFデータをお配りします。

★そのほか

・就活応援「仕事とは何か」

そもそも働くってどういうことなんだ……覚悟とかやる気とか言われるけど本当にそれがないとだめなのか……みたいなことでつまづいている方向けのお喋りです。就活の具体的な細部に関しては対応していません。考えるのに疲れた時お手伝いできればうれしいです。

 

・モチベーションとタスクのコントロールとスケジュールの立て方

内容としてはnoteのこのエントリをベースとし、どこでつまづいているのかというケーススタディをお話します。

・スパコミ応援「同人誌を作る」

印刷所の探し方やイベント参加に関して気をつけたいことを中心に、同人誌制作全般をサポートします。

・毎週土曜夜はおそ松さんについて1話ずつお話します(2017/4/8 1話~)が、そのほかの曜日にご要望があればいつでもかけつけます。

・そのほかの作品解題は事前に問い合わせてくだされば検討します(できない場合もあります)、既知未知にかかわらず長編作品(シリーズアニメ、漫画など)に関してはリソース上対応しかねます。申し訳ないです。※村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』解題の準備中です

・そのほか、人間関係や人生など、お悩みがあればお気軽にお問い合わせください!

わからないことがあったらお気軽にcontactもしくはメールフォームからお問い合わせくださいませ。

ただいま!

おそ松さん二期ありがとうございます!

 

というわけで一年経ってこの朗報でまことにめでたいんですけど、わたしはその間に二次創作をやめ自分がオタクかどうかもあいまいになり毎週土曜におそ松さんの話をする仲間だけはできその話をするためのフォーマットも整い、そして完全にインターネットを商用利用する側に立ち、もはやTwitterでおそ松さんの話をするとフォロワーが減るまでになり、それでも意地でおそ松さんの話を続けてきて、半年間有料Skypeを駆け抜け終えた、ところでこれなので、

もう恐れるものなどなにもないぞ。

 

逆に言うと、ここで引いたらわたし失業なので……。インターネットを全部辞めるか、炎上覚悟で松の話をするか、どっちかしかないですからね! しますよ別にそんなの。イエーイ! ただいま! 煮るなり焼くなり好きにしてくれ! 俺は好きにやらせてもらう、それ以外の橋は全部焼いてきた!

ここに書いてある文章は個人の感想であり、個人の感想のレベルにおいてここに書かれている内容はわたしの固有の財産です。

個人の感想という言葉の意味がわからない人が今後なにかを言ってきたとしてもその人はそもそもここの文章を読んでいないものとみなします。君の読解力は君の問題だ。自由にしてくれ。わたしは知らない。なんでも説明してもらえると思うなよ! ワハハ!

 

 

それで松野カラ松くんの話なんですけど、一年間二次創作を書くあてもなくダラダラひたすら脳内でカラ松くんがやったこととか言ったこととかについてずっと考えていたんですよ。ファッションにも(当社比)意識を使うようになりましたよカラ松くんが好きなものだからね。ダイエットには成功していないのでそこをどうにかしないと人前に出るときにこう……自担だからじゃなくて……。

似てるよねという……。

もちろん、わたしにですけど……。

話をしておいてダイエットに成功していないのはすごくカラ松くんに申し訳ないんですが……カラ松くんの純粋な美点のひとつじゃないですか肉体が美しいのは。肉体が美しいという点においては純粋な美点として挙げていいと思うよ! 立ち居振る舞いが美しい、そして布面積が少ない衣装に見合うだけの肉体を維持している。「アニメキャラとしては別にふつう」の美点だけどそれでも「純粋な美点」であるということは疑う余地のない純粋な美点だと思いますよ! 似てるのはそこではありません。そこを似るべきだとわたしも思う! がんばりたい! がんばってくれ! ダイエットの話じゃないんだよ。

「あっ、こいつとは話が通じないな」と思った相手に対する、急速な熱の冷め方。

 

カラ松くんてふつうに話しかけるの兄弟の中ではおそ松くんと十四松くんだけなんですけど(兄弟以外でもチビ太とトト子ちゃんくらいじゃないかとは思いますけど)、なんでその選択肢なんだと傍から見ていると思えますでしょう、わかるんですよ、わかる、なぜならそのふたりは「怒鳴らない」からだ……。「ふざける」ので「話が通じない」ことはあっても「そもそものしょっぱなから会話が成立しない」ことはないからだ……。というか、「会話が成立しない」という定義が違うんだと思うんですけど。

「とにかく一回言い分を聞く」うえで「その話は自分にはいま関係ないですね」という判断を下す、下されなかった場合(相互に共有が必要な情報があると判断された場合)「やりとり」が発生する、というのを「会話」と呼ぶ人間と、

「言葉のやりとり」を「会話」と呼ぶ人間が、

いますよね。

カラ松くんがやってるのは前者じゃないかと思うんですよ。

そして前者は、「その話は自分には関係ないですね」あるいは「その話はおまえには関係ないとあなたは言いましたよね」における情報の遮断がすげえ早いと思う。十四松もわりとそうだと思うんですけど。そしてわたしはめちゃくちゃ身に覚えがあります。別に自分に似てるからカラ松くんを好きになったわけじゃなくて(ああいう生き物に自分が似ていると思う人ふつうあんまりいないと思う)カラ松くんについての情報を口に入れてもちゃもちゃ噛んでいたら唐突に「ゲッ!!!!! 身に覚えがある!!!!! おなかいたい!!!!!」と思ったというだけなんですけど……。

カラ松くんには美点がたくさんあると思うんですけど、それはそれとしてわたしは、わたしの話ですけど、身に覚えがあるので、「でもおまえはいついつにああいうことを言ったし、いついつにこういう行動をとったじゃないか、それが示す意味はこうだろ、よって対話の可能性はないです」というやつを少し改めようと思いました。せめて自覚しようと思いました。わりと最近思いました。

松はこええなあ!人間を活写しているなあー!「団体行動が取れない」とかもわりと……いや、取れないわけではないんですけど(カラ松くんが取れてないと言いたいわけではないんですけど)あんまり興味ないのは確かだと思うんだよね……。十四松と一二を争うくらい団体行動に興味なさそう……あんまり関係ないけど十四松が団体競技好きだけどやったことないってそういうところだよね……。

 

はい! わたしは! おそ松さんの話を! します!!!!!! わかりましたね!!!!! そしてこれは個人の感想です!!!!!! わからない人は帰って頼むから!!!!!!

有料noteはもうちょっとまじめに書いています。ていうか考察というのはこういうことをいうんですよ! よろしくおねがいします。

あと毎週土曜日におそ松さんについてワイワイする有料Skypeをやります。こちらもよろしくお願いします。

最近読んだ本

例によってあんまり思い出せないまま適当にメモを書いています。

 

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ラオスにいったい何があるというんですか?』

ラオスは初読。熊本のくまモンのくだりが思ってたより相当良かったです。

レイモンド・カーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』

カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』

フィッツジェラルド『雨の朝パリに死す』

武田百合子『日々雑記』

最近読んだもなにもずっと読んでるだけですが……

トールキン『妖精物語について』

これもおおむねつねに読んでるだけだな

ジャン=ミシェル・アダン『物語論―プロップからエーコまで』

クリストファー・ボグラー&デイビッド・マッケナ『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』

これはまあ仕事の資料です。そのうちどっかになんか書くなりします。

ポール・オースター『ムーン・パレス』

人にオースターを勧めたてまえ自分でも読もうかと思って引っ張り出してきました。『ムーン・パレス』は公園のところと老人との生活のところが好きであとはそうでもないんですがたぶん何回も読みすぎたせいでどこを拾い読みしたらとりあえず満足するかということがわかってしまっただけだと思う。

保谷伸『マヤさんの夜ふかし』

谷崎潤一郎『細雪』

伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』

手元にとりあえず読めるゾンビパニックがこれしかなかった。

九井諒子『ひきだしにテラリウム』

こうの史代『この世界の片隅に』

ジャン・ジュネ『泥棒日記』

向田くん(うちのアクセサリー作家)はジュネが好きで、わたしは彼のことを考えるときはとりあえずこれを引っ張り出してくることになる。

デュラス『愛人 ラマン』

 

ハヤカワがキンドルセールをやっているので喜んで大量に買い込んだので今後そういう読書傾向になる予定です。

 

このものすごくやる気のない読書記録、感想書いてうだうだ言われるのマジ鬱陶しかったのでメモだけ残すという形でこうなっているんですが、なんかもうそろそろ鬱陶しくすらなくなってきたし、読んでる本の傾向はこうだし、なにをいつ読んだのかぜんぜん思い出せないし、もうちょっと丁寧に記録をつけてもいいのでは? という気はしてきた。おそ松さん放送終了後一年経ったしな……。

あとおそ松さんのインタビュー記事を延々と読んでいました。大量にありすぎてなにをどうまとめたらいいのかぜんぜんわからない。