オオソ~ジ2017spring

ものを捨てました。

 

わたしの部屋にはおそ松さん放送中のあらゆる雑誌があって、あと大量の日記帳と大量のネタ帳があります。ありました。これらを全部捨てました。

正確にはおそ松さん関係の記事はとりあえず切り取って残してある。整理がついたらもう半分くらいに減らせると思います(インタビューは残したいから)。

あと直近半年で買った服以外全部捨てて、かばんも捨てて、キャラグッズも捨てて、文房具も高額文具を残して捨てて、本棚の本を半分くらいこれは実家に送ったら読むかもしれないのでまとめて、そんなとこか。二十年持ってたものから去年買ったものまでとにかくひととおり捨てられる限り捨てました。なんだろうな。

ここんとこ「失踪したい」ってずっと言ってて、あらゆることがつらくなっていて、人間関係、仕事、物質、全部リセットしたいという感情が強くて、じゃあリセットできるところから、まあリセットはできないんだけど捨てられるものから捨ててみようと思ってまずSNSを整理して、それからとりあえず仕事を休んで、仕事を休んでなにしてたかって部屋掃除、とにかくひたすら「燃えるゴミ、燃えないゴミ、いるもの」って分けていく作業をやっていました。

 

小説を書き始めたのは小学校五年生の頃です。そのころの小説が取ってありました。

これを捨てたとたん堰を切ったようにほんとうに全部捨てた。次は在庫のパッケージをはがし終えたらエコサリオに送ろうと思ってて、さっき言った雑誌の整理を完遂させて、大型ごみがちょっとあるので出して、そしたら本当に仕事関係のもの(パソコン、編み物の道具とレシピ本、ビーズワークの材料と資料)と勉強の本(松尾芭蕉と赤塚不二夫と北欧神話と言語学と物語論)、あと少しの本と生活用品とトランペットと水着と万年筆が残ります。整理してもこれだけは残るわけだ。

 

 

別に断捨離を勧める記事ではありません。

ただなんか、これまでの人生が自分にしがみついていることにうんざりした、これまでの人生を、なかったことにできるとは思ってないしなかったことにしたいわけでもないと思うけど(たぶん)、せめて「思い出」にしたかった。物質として手元に置かないことでそれができるんじゃないかと思った。それでそうした。とりあえず部屋が広くなって、ああそうか、部屋が狭いのがいやだったんだなと思いました。面積の問題ではなくて。

人間が抱えられる荷物の量には限りがあって、でもその限界は人によって違う、というのが持論です。

わたしは閉所恐怖症なんですけど、閉所恐怖というのは「認識できる広さ」に対する恐怖症だと思う、少なくともわたしはそう、わたしは狭いところが怖いわけではなくて、その空間に入っている物量がこわい。なので、たくさんのものを持つのに向いていないのだと思う。だからわたしはコレクターではない。たくさんのものを持つのに向いている人もいて、コレクターの資質というのはそういう人に宿るのだと思う。

 

もうひとつ。

「ものを買う」ことが不得意で、それは「訓練をしていないから」、子供のころから大人になってもずーっとお金がなくて何かを買うということの練習ができなくて、だから買ったものを「捨てる」タイミングもよくわからなかったんだけど、「買わなかったら使えなかったもの」を「買って、使った」ら、それはもう「買った価値に対する行動はとった」んだなと最近思うようになった。

アニメキャラのグッズとか全く使わないわけなんですけどなんで買うのかというと「市場が動いている」ということを示したいから買うんですが、だから逆にいうとあれって「別にいつ捨ててもいいもの」なんだなというか、気が済むまで飾っておいて気が済んだら捨てる、でいいんだと思う。というわけで気が済んだ範疇から捨てました。

 

 

たぶん近々引っ越すので、引っ越すときにソファとソファテーブルと家電品は買い取りに出す予定で、書き物机は捨てていく。たぶん資材もそのとき半分くらい捨てるし、いまここにあるアニメキャラのグッズもそのとき捨てていくと思う。本も読み終わったら置いていく。断捨離を勧める記事ではないです。わたしの人生の尺に合ったものを持ち運ぶには「過去」は量が多すぎるという話です。

 

「生活の質を上げる」ということを最近考えるようにしている。生活の質を上げる、というか、生活のなかで死にたくならない、というか、そういうことについて。で、部屋を掃除すること(いらないものを捨てて掃除しやすくすること)、料理すること(料理のための買い物をすること)まで考えて、まあぼちぼち、といった感じです。ひとり暮らし一年半、ようやく「生活をする」ということができるようになってきたのかもしれないと思う。