物語という語におけるストーリーとナラティブについての認識の確認

物語というのは「物」を「語る」ことであって、叙述する語りそのものおよびそれによって生み出されるものを指しますが、日本語で物語という言葉は手あかがつきすぎていろいろな意味がくっついているのでここではナラティブと呼びます。民話伝承の現場において、「おはなし」というものは「口承で語られるもの」として発生し、それは時に観衆の影響を受けまた語り手の介入によって変質しました。特に日本語における物語という語は「竹取物語」「伊勢物語」「源氏物語」などから見られるように、あんなことがあったみたいだよ、みたいなおしゃべり的な意味が含まれていました。

対してストーリーとは出来事を形態としてパッケージングしたもので、わたしは厳密に言うとこれは物語ではなくストーリーはストーリーだと思いますし適当な日本語の訳語が思いつきませんが、というのは日本におけるフィクションとは口承文学の側面がすごく高いからです。源氏物語だって声に出して読むことが前提の作品だし文体も語り口調、平家物語はもちろん語るための作品、日本文学ははなしことばから切り離せない関係にあります。はなしことばで語られるということはだらだらいつまでも話し続けてもいいということです。オチは物語という言葉それ自体に含まれてはいない。

ウラジーミル・プロップによるストーリー分析で扱われているのはタイトル通りフォークロアですが、ストーリーとは何かという話をするときこの話になるのではないかと思う、ストーリーという言葉の語義についてはこれ以上突っ込んだ話はわたしはそちらの文学的知識がないのでできませんが、ストーリーは「最初から最後までの構造それ自体」を示し(プロップの構造分析もオチまでの構造が重視されている)、ナラティブは「語ることそれ自体」を示すという理解をいまのところしています。

そしてストーリーをどう構成するかがプロットです。プロットがあるものはストーリーであるという認識でおおむねいいんじゃないかと思う。このへんは若干自信がない(そっちの文学史に明るくない)。

 

というわけでキャラクタービジネスに物語がないのではないかという指摘に対して(の話題ですがリンクとか特に貼りません)、ないとしたらそれはストーリーであってナラティブではないし、ナラティブのないキャラクターは存在しない。初音ミクを例にとるなら初音ミク「昔々、初音ミクという女の子がいました、こんな外見で、こんな声で、この子にみんな歌を歌わせることができますよ」までを公式サイドが提示しており、これはナラティブです。その上で、初音ミクはクリンプトン社において二次創作が公認されているので、その後ファンによるナラティブの拡大まで含めて商品であり作品だったわけです(ここまで拡大するかどうかを当初想定していたかどうかはさておいて)。

少なくとも日本はその意味でキャラクタービジネスをナラティブとして受容し拡大するに適した土壌であり、そもそもが光源氏というキャラクターからしてべつにああいうオチになると決まっていたわけではなさそうな説が今のところ主流だったと思う……多分……あれ(そういう言い方をすればだけど)キャラ萌えありきで伸びた話だと思う……。これは確定資料がないので何とも言えるのはまあそうなんだけど……。

 

というわけでキャラクタービジネスはストーリーテリングが蔑ろにされがちではという指摘に対しては

  • キャラクタービジネスとストーリーテリングは別に相反しないしキャラがよくてストーリーもよくてついでにいえばナラティブとしてのアプローチもよいということはフツーにある
  • オチがついてなきゃ物語ではないというのはナラティブとストーリーを混同しているしナラティブがストーリーにエンターテイメント性で劣るということは別にない
  • キャラクターがあるところナラティブは絶対に存在する

 

以上です。