おそ松くん、タイトルは取り戻せましたか?

今日の要点

  • 『おそ松くん』はシチュエーションコメディである。
  • 『おそ松さん』における松野おそ松は自分と自分の率いる六つ子が絶対に勝利できるシチュエーションコメディの場を作ろうとした

というような話を仮説といいます。仮説というのは論証なくして成り立たないものであって論証をしない仮説は放言である。仮説の検証をこういうことをちまちまちまちま論証しているのがnoteの有料マガジンなので、有料な理由はそもそもおそ松さんの話をするだのしないだのでぐちゃぐちゃぐちゅぐちゅツナ缶をかき混ぜるような音を立てて囃したてられたくないというのがあり、まあでもここでうだうだ喋り始めてしまったのでそれはあんまり関係ないんだよね。そこに関してはあんまり関係ないです。

せっかく金を払ってくださった方に申し訳ないのでブログにも書くのはそれはどうなのか? という気持ちもあり、ただ、内容としてはあんまりかぶらないように気をつけているのでご容赦いただきたいと思います。というわけでブログには適当なことしか書きません。マガジン、有料だからまじめなことを書いているんですが、有料だからこちらのほうがきちんとしており(というかできる限りちゃんと調べて書いており)、きちんとしていないものをブログに投げ捨てておくみたいな感じになり、つまり金をもらっていないほうが詰めの甘いことを書いているということになり、詰めの甘いことをインターネットに放流していいのか? という感じです。いいんじゃないかな。

というわけで適当な事を言います。

みんなちゃんと気づいていて欲しいと思うのでしつこく書きますけど、ギャグアニメに対してこういうこまけえことを延々と言い続けるという形態のギャグであるということをちゃんと理解してくれよな。まじめにやっているからといってギャグではないということにはならないんだぞ!

 

おそ松くんという漫画において、彼らが、彼らというのは六つ子やトト子ちゃんやイヤミやチビ太やデカパンやダヨーンやハタ坊のことなんですが、彼らが「演じている」という言及がけっこうあります。舞台裏みたいなシーンが挟まるということなんですが、つまりこれシチュエーションコメディですよねいわゆる。シチュエーションコメディというのはざっくりいうと舞台固定で一話完結のコメディ作品のことです。

そしてそのシチュエーションコメディの舞台において松野おそ松および六つ子はどんどん背景へと追いやられていったという話はもうみんな知ってるでいいでしょうか。六つ子が主人公として活躍するのは最初の数巻で終わっており、終わっているという事実をして原作に書き込む隙が存在していて、おそ松さんというアニメシリーズになったのですが、その事実をアニメの作中事件として扱ったのが永遠に失われた1話、におけるおそ松とF6の関係じゃないでしょうか、というのが本日の話題です。

 

失われた1話においてF6というシステムを用意し主張したのはおそ松であり、つまり、あそこでおそ松が「するべきだと考えたこと」は物語の奪還、自分の名前をタイトルに冠したコンテンツを自分の名前のもとに呼び戻す作業だったといえるでしょう。おそ松が出てこない回で漫画の最後に「ぼくの出番なかった!題名変えろよ題名!」と喚く回が原作22巻にあり(これはリメイク回なのでもっと前にあるはずなんですがそれをいま見つけ出せないので見つけたらそれも書いておきますが)、おそ松がやろうとしたのは題名の奪還、自分が主人公として名付けられた物語の奪還です。そしてそれは25話に至るまで曖昧なまま、25話に至ってようやく実現した命題だったわけです。

 

おそ松さん25話というのは、「六つ子のそれぞれ個人の人生」がのこりの5人にはある、おそ松には「個人の人生」がない、という話をやった24話を踏まえて「六つ子というコンテンツのリーダーとしてのおそ松というキャラクター」として生きることはできるをやった、という話として認識しているんですが、これはようするに「現実的に可能なレベルにF6を再構築した」話である、ということじゃないかと思っています。

F6は六つ子が絶対に勝利する世界なんですが、それはなぜかというと六つ子が特徴の薄いキャラクターデザインだから改変が自由にできるということを強みとして生かしたということであり、同時に、トト子ちゃん以外のキャラクターの「絵柄がなじまない」問題によって1話のF6の世界は崩壊した(そして16話で幸福な絵柄の合流を可能にしたがそのF6はおそらくもうおそ松の思惑とは、というか六つ子とはもう全く関わりない存在になっている)わけです。

そして25話は「彼ら全員が彼らとしてなんの矛盾もなく、主人公である」をようやく成り立たせることができた話で、あれをやってようやくおそ松は「おそ松さん」の主人公で、でも松野おそ松が主人公であるというのは六つ子が主人公であるということと絶対に等価でならなくてはならなかった。

「松野おそ松」の定義にはつねに「六つ子のひとり」であるという情報が含まれていなくてはならない、ということが、「原作に対して冷静で誠実な結論」であるというのはすごい話だと思うんですがこれは余談です。