永遠に終わらないモラトリアムに引きずり戻されるイヤミの話

春ですね。隣の家の演歌じいさんの歌も春めいてきたように思われるこのごろですが、わたしはといえば『華麗なるギャツビー』の円盤がほしくなって欲しいものリストに入れていたところくれそうだなと思っていた相手とは別の人からもらい、欲しいものリスト(をとりまく環境)は人生の縮図といった感で毎日観て「実質松……実質松……」と唱えています。脳が沸き立つ季節ですね。フィッツジェラルドが大好き。終わらないモラトリアムが大好き。さて今日も元気よくおそ松さんの話をしましょう。『グレート・ギャツビー』は「人生の最も美しい部分は追わらないモラトリアムのなかにあるので、最も美しいタイミングで電源を切るべき」という内容であり、おわかりのとおり美しい物語というのは終わらないモラトリアムを内包します。あるいは終わらないモラトリアムは美しい物語を内包します。『おそ松さん』における松野おそ松の絶対に行動してはならない22話(1話と18話と25話を除く)は完全に赤塚先生という永遠に失われた緑の灯火に向かって差し出される手のひらです。

ところで村上春樹翻訳ライブラリー版『グレート・ギャツビー』の表紙、最高ですね(最高ですということがわかる人は最高ですねと言ってください)。このあいだ友達とフィッツジェラルドの話をしていて「村上春樹は国内の壁サー」と言ったらやたらウケました。わたしは村上春樹の小説が死ぬほど好きというわけではないんですが(すきは好きですけど)フィッツジェラルドの壁サーとしての村上春樹のことは激推しなので……。

 

イヤミのことを考えてたんです。

イヤミが2話で仕事持ってて、しかもそこそこ成功してる、あるいは成功しようとしている……ダヨーン量産工場とはなんだったのか最終回まで観てもなにひとつわからなかったけど、まあダヨーンとは量産の象徴であり母なる惑星のメタファであるとか人間は他人の権利を侵害しない範疇において言いたいことを言いたいように言う権利があるわけですけど、その話は今日はよくて、2話のあと6話で唐突に失墜してるのはなんでかというと、どう考えても3話で六つ子に身ぐるみ剥がされたからです。それ以外の理由は全くありません。少なくとも作中にはありません。

3話で身ぐるみはがされたあと、4話でわりと余裕がありそうな様子で出てくるので誤魔化されがちですが、3話は「こぼれ話」なので、時間軸は任意に判断できるものとすることができます。3話(と3.5話)におけるあれこれが必ずしも2話と4話の間にあるわけではないっぽいという形跡はいろいろあって、たとえばハタ坊は6話で久しぶりに会ったと言っているので銭湯クイズの時系列はたぶん6話よりあととか、「十四松がいびきをかいている」は9話のあとではとか、そういう話なんですけどまあ今日はその話もいいです。

2話 成功者として登場する

4話 トト子ちゃんのライブチケットを買う金はあった

身ぐるみはがされる

6話 橋の下

8話 (チョロ松よりも)トト子ちゃんのマネージャー然としている

9話 カラ松チビ太の後ろで猫と乱闘

10話 噴水で水浴び

11話 マッチ売り

18話 逆襲のイヤミ

22話 ファイナルシェー

最終回

ついでにぜんぶまとめてしまいましたが、つまりイヤミが金がなくなったのは4話と6話のあいだです。そして順当に考えれば4話までのイヤミには家がありそうだし6話からイヤミには家がない(ずっとなさそう)ので、4話のあとくらいに3話のハロウィンエピソードが入ると考えるのが妥当です。

でもだからといって六つ子がそれを手に入れたわけではありません。4話と6話のあいだには5話があって、5話は「金がない」から起こった悲劇だったからです。まあ4話の時点でトト子ちゃんに貢ぐ金はあるのですが、だから六つ子の言う「金がない」は「口座に金がない」とか「手持ちの金がない」とかいう意味じゃなくて必要に応じて発生する何かっぽいのですが(カラ松のけっこう高価そうな小道具はギャグに使うからという理由で「支給」されてるんじゃないか)、「カラ松事変」「恋する十四松」「レンタル彼女」に関しては「金がない」というのがキーワードだった。「金がないからできない」。しかも「カラ松事変」と「恋する十四松」に関しては「金があったら解決した」問題が「金がないので解決できなかった」側面があるわけで。まあそもそも前述のとおり「必要なら錬成できる金」にすぎず、つまりカラ松事変の件に関しては本当にダルかっただけなんですが……多分……。

まあその話も今日はいいです。

ここで問題にしているのはイヤミの「富」を六つ子が「奪った」わけでは多分ない、ということで、考えられるのは、

  • イヤミの富は消滅した
  • 奪ったのは六つ子ではない

このどちらかです。両方である可能性もあります。なにしろ題材はハロウィンで、「悪魔」という概念としてたまたま六つ子のかたちをしていた何かにイヤミが富を奪われたのだと考えるのは妥当です。

あるいはもっと単純に、イヤミというのは「奪われるもの」なのかもしれません。その可能性はあります。全22巻の『おそ松くん』のなかで、あるいはアニメシリーズのなかで、時代が下れば下るほどイヤミは「持たざるもの」として描かれます。88年版アニメのオープニングは歌詞のなかで歌われる「くたびれたサラリーマン」にイヤミが扮していると捉えることができますが、あそこで描かれている「大人」とは「持たざる敗者」であり(前後して放送された『天才バカボン』のバカボンのパパが「持たざる勝者」であるのと対照的に)、イヤミが抱えるそのペーソスこそが『おそ松くん』のナンセンスギャグの芯を成していました。

しかし、それでは逆に、どうしてイヤミは「持てる勝者」として最初登場したのでしょうか? どうして「大人になることとは何か」を六つ子に示したのでしょうか? イヤミはどうして六つ子のかたちをした悪魔たちに奪われなくてはならなかったのでしょうか?

そこにあるのは畢竟「大人と子供の境界を破壊する」行為であり、もっと言えば「デカパンやダヨーンの側にイヤミを置くことに対する抵抗」ということになります。デカパンとダヨーンは父性と母性のメタファであるという話は延々と向こうでやってるんですが、デカパンは失われた3話デカパンマンでおそ松に殺されていて、ダヨーンは23話でチョロ松の妻になりかけていて(25話で再登場してるし普通にその後結婚したのかも)、表裏一体として「殺すべきもの」「手に入れるべきもの」なんだけども、イヤミの立ち位置って「そこ」ではない、「大人」や「憧れの存在」ではない。

六つ子がイヤミから何かを奪ったのだとすればそれは富でも、あるいは主人公という地位でもなく、「大人でいる」という特権であり、それはひいては「ライバルとして永遠に現役であり続けなくてはならない」という期待だったと取ることができると思います。「永遠に終わらないモラトリアム」の座を降りることができないまま六つ子ちゃんたちのライバルを続けざるを得なくなった瞬間が、4話と6話の間にひっそりとあったんじゃないか。

 

いずれにせよ、イヤミの視点から見て何が起こっていたのかって全然わからないんだけど(何かがあって家をなくしたらしいということしかわからないんですが)、それはたとえば88年版で六つ子の視点から見てあの日々は何だったのかわからないのと対照の話なんだろうなと思います。