七人目の兄弟としてのチビ太の孤独と闘争、そして手を握るということ

このあいだ象徴論に片足をつっこんだので「魚」「鳥」に続いて「橋本にゃー、エスパーニャンコ、そして松野一松からひも解く象徴としての猫」を書きかけていて、あと人物主線色変更問題(もともと言われた方はツイートを消されてるっぽいかな……? まとめサイトへのリンクは宗教上の理由で貼りません)を頭からチェックしてる最中なんですが(今のところオープニングと2話ブラック工場と3話OSOと7話北へと9話恋する十四松で主線色変更があります、あとの話確認が取れてなんかありそうだなと思ったらエントリ書きます)、あと「人造人間ダヨーンと彼の父デカパン、そして革命児イヤミ」のためのエントリを書きたいんですが、一松と十四松の共存関係についても言及したいんですが、ていうか冬コミの原稿中なんですが

そんなことはどうでもいいんですよ!

チビ太だよ!!!!!!!!!!

チビ太とカラ松の話をします。またカラ松の話ですが、このブログはそもそもカラ松の話をはじめたせいですっかりおそ松さんブログになってしまいましたので(もともとは前ブログに引き続き小説技法の話をするはずでした……)、もうここはカラ松ブログなのだと偏りに関しては諦めてください。

今日は珍しく(本当に珍しく)愛についての話をします。わたしは原作旧アニメを通じてチビ太という少年にものすごく思い入れがあるので多少の暴走はご勘弁いただきたい。

 

主題としては9話Bパート「チビ太とおでん」です。「チビ太のおでん」じゃないんですよね。「チビ太」と「おでん」の話。

骨子はこうです。

  • 「珍しく」チビ太のおでん屋にやってきて歓迎され、おでんを食わせてもらうカラ松
  • 食事をとるカラ松のとなりに腰かけて親身に今後の進退について訊ね、「何になりたいのか」リストアップするチビ太
  • リストを見て「これを完全に満たす仕事がここにある、おでん屋だ、なんだおまえおでん屋になりたかったのか」と浮き立つチビ太に戸惑うカラ松
  • 戸惑いを伝えることができず完全に強制的に「弟子入り」させられるカラ松
  • チビ太は熱くカラ松におでんとは何か、おでんを作るとはどういうことか伝えようとするが、カラ松は困惑しかできず、困惑していることをチビ太にうまく伝えることもできない
  • カラ松は泣きながらチビ太のもとを走って逃げ出す

骨子からご覧のとおり、これは9話「鶴の恩返し」「チビ太とおでん」「恋する十四松」に通底するテーマ、「愛の破綻」を扱っています。愛の破綻であり、デリバリーコントで示される通り「あなたがわたしを愛しているとしても、わたしとあなたは関係がない、わたしの人生をあなたは変えることも、関わることすらできない」という話です。男は鶴を家に迎え入れることもなく追い返し、前回のエントリで述べた通り十四松と彼女は人生を交換することなく別れました。そしてカラ松はチビ太の人生そのものである「おでん」に恐怖を感じて泣きながら逃げ出す。愛は受け取られることなく破綻し、鶴は雪の中どこかへ帰っていきます。

しかし、この3つの物語のなかで、「チビ太とおでん」においてのみ、少なくとも「可能性」は残されている。

 

「チビ太」と「カラ松」の話である以上、これは5話「カラ松事変」の続編にあたる物語であると捉えて良いと思います。

実際チビ太の(かつて2話でおそ松を扱った時とは全く違う)打って変わった温かい態度、歓迎し、金のことは一切なにも言わず食事を取らせてやり、仕込みの手を止めてカラ松の隣に腰かけ(チビ太が客席側に腰かけたのはこれがはじめてです)、うまいかと訊ね自慢そうにし、これからのカラ松の人生について本当に親身になって考えてやっているチビ太がどうしてこれほどにカラ松に優しいのか、それは「カラ松事変」を受けていると思えば理解できます。

チビ太はかつて、「六つ子」という群像のなかからカラ松を選び、誘拐しました。そのとき彼が何を基準に選んだのか(もしかしたら誰でもよくて完全にランダムに選んだのかもしれない)は示されていません。だからチビ太にとって誘拐以前のカラ松が「何」であったかはわからない。

しかし誘拐以後のカラ松が「何」であるかは自明です。

兄弟に顧みられなかったあの日、カラ松はチビ太の前でありのまま悲しみを全てさらけ出し、子供のように泣きました。そしてチビ太は号泣するカラ松の手を握り、彼を「最高の兄弟」と呼んでやったのです。

チビ太がそのあとカラ松のために行ったことは完全に裏目に出たわけですが、そして今回もやっぱり裏目に出ているわけですが、あの日チビ太がカラ松の手を握ってから、ずっとチビ太は「カラ松の手を握っている」ということになる。チビ太にとってカラ松は「カウンターの向こう側の客」ではなく、「自分とおなじひとりの孤独な青年」です。だから隣に座って話しかけるし、親身になってやる。チビ太がカラ松の「手を握った」のはいつものおでん屋の屋台ではなく、居酒屋という「対等の空間」で行われました。チビ太はカラ松を客以上のものとして受け入れた。そうして受け入れ続けようとしている。

 

チビ太という青年の話をします。

原作や旧アニメでしばしば示される文脈を忠実になぞって、チビ太は「身寄りのない子供」です。それは六つ子という群体を生きる松野兄弟と対比構造にあり、かつてはしばしば対立する関係にありました。それは「おそ松さん」においても伺え、チビ太は2話で「六つ子の幼馴染としての孤独な自分」が六つ子を「大嫌いだった、でも羨ましかった」と思っていたと吐露する。

おそらく孤児かそれに類する立場と察せられるチビ太は、帰る家も仲間もいる六つ子の「兄弟愛」に既に2度期待を寄せ、悉く夢を打ち砕かれています。チビ太がおそ松に「兄弟は大事にしろ」というのは余計なお世話を通り越してハラスメントの域であるという話は以前しましたが、チビ太にはチビ太の言い分がある。孤独に生きるしかなかった彼は、せめて温かな家庭というものは存在するのだと信じたい(そしてもしかしたらいずれは自分もそれを手に入れるためのモデルケースとしたい、かもしれない)。それは身勝手な夢に過ぎませんが、身勝手な夢に縋るしかないほどに、「現実」を知るチャンスが与えられないほどに、彼はこれまで孤独に生きて、必死でサバイバルしてきたのです。

5話でチビ太が欲しかったのはおそらく金ではありません。そんなものあいつらが用意できないことは知っているし、チビ太は人情家ですから、どんな手段を使ってでも金を調達して来いとはおそらく言えなかっただろう、たとえば消費者金融に行くであるとか、そういうことを、あの頭が固くて古風な倫理観に囚われた、そして友達思いの男が「やれ」と言えるとはとても思えない。

チビ太が5話で求めていた「100万円」は「兄弟愛」です。

たぶん、「金はないけどカラ松を返してくれ」で良かった。彼らは彼らを必要としていて、一緒にいたいと思っている、家族というのは、兄弟というのは、そういうものなんだ、という夢を、チビ太は買いたかったのだと思います。

おそらくチビ太が六つ子に金を払え金を払えと言いながらも毎回つけにしてやるのも、あいつらの長話を延々と聞いてやり、親身になって話に乗るのも、彼が家族愛に飢えているからです。彼は「客席」、つまり六つ子のいる側に立つことはできない。彼らと一緒に飯を食いに行ったことも、一緒に遊んだこともない。彼にできるのはただ六つ子がやってきて自分の目の前で「仲の良い兄弟」を演じてくれるのを待つことだけです。金は払えよという話ではあるんですが、チビ太がそれを待ち、そして楽しんだのだと考えることは、それほど外れた発想ではないと思う。

そして5話でチビ太はついに「現実」を知りました。兄弟愛なんてものはありません。おしまい。

 

そして5話から9話に至るまで、「六つ子がおでん屋に立ち寄る」ことはありませんでした。

9話は本当に久しぶりに六つ子のひとりであるカラ松がチビ太のもとに顔を出した回であり、おそらく、チビ太がカラ松に会うのは、あの日カラ松になにをしてやることもできずに立ち去って以来のことだったのではないかと思います。そう考えるとあの大歓迎も、そうしてあれほど強引に弟子になれと言ったことも痛切に響いてくる。チビ太はあの日カラ松が「帰りたくなかった」のに「帰してしまった」ことを、どうしていいかずっとわからずにいたのだろう、と思える。

チビ太には家族がいません。チビ太にあるのはおでんだけです。そこにはおそらく実在するのであろう「彼のおでんの師匠」を含む、「これまでおでんに関わった全ての人々」が含まれています。彼らはチビ太の「家族」です。ほとんど宗教的ともいえる態度でチビ太が語る「おでんの歴史」はチビ太が擁する唯一無二のバックグラウンドであり、チビ太は「六つ子」と抵抗するために「チビ太とおでん」の話をカラ松に与えようとする。カラ松を「おでんの眷属」つまり、自分の「家族」にするために。カラ松に「帰る場所」を与えるために。カラ松だってそれを喜ぶはずだ、だっておでんはカラ松の夢である「世界平和」を作り出すんだから。

そしてカラ松はどん引きして泣きながら逃げ帰りました。

 

都度都度裏目に出るのですが、しかし、これに続く物語である「恋する十四松」において、実に5話ぶりに、六つ子がチビ太の屋台に集います。当然カラ松もいます。

都度都度裏目には出るけれど、しかしカラ松は別にチビ太を避けないし会いに行くし、つまりチビ太はまた「やらかす」かもしれません。「手を握っていること」を証明し、し続けるために。愛を知らぬ夢見る青年であるチビ太が、いつか「愛とはいかなるものか、どのようなかたちであればそれは受け取られるのか、カラ松を兄弟が見捨てるとしても自分は見捨てないということを、どうやったら伝えられるのか」ということを、いつか理解する日が来るかもしれません。

ここにあるのは「責任」です。彼はカラ松が孤独であると直面させてしまった現実に対する「責任」を取ろうと奮闘している。裏目には出るけど。

 

チビ太はあの日居酒屋でカラ松に「刺身」を食わせようとしました。ここで「おでん」ではなく「刺身」であったことは象徴的です。魚とは愛の象徴であるというわたしの論をここに対応させるならば、あのときチビ太は「気にすんなよ、おれはおまえを好きだよ」と言っていたのです。そうしてそれは受け入れられなかったから、チビ太は「うち帰る?」と訊ねた。「愛のある場所はあそこだと、それでも信じるか」と。信じられやしません。でも帰るしかないのです。

だからせめてチビ太は、「おまえの帰る場所はほかにもある、おいらがなってやる」と、もう一度、言ってくれた。それが完全に空回りしているとしても。

わたしが好きな「おそ松くん」原作のエピソードに「チビ太はママになりました」というのがあるんですが(平成版旧アニメでは7話)、これはおそらく孤児であり自分の生活もままならないような生活を送っているチビ太が捨て子を拾い、自分の家族として育てようと奮闘する話です。チビ太は結局赤ん坊を手放すことになる切ない話なのですが、チビ太とカラ松の「現在」は、あの物語の続きを思わせます。そうしてチビ太にはまだチャンスが残されている。なにしろカラ松は傷つくことには慣れきっていて、そして自分の過酷な人生を「これが人生さ」と笑って受け入れてしまう男です。チビ太のトライ&エラーがみたび行われるチャンスをカラ松が与える可能性は十分にある。

 

さてここで、ここまでの物語を振り返ってみましょう。

1話のことはさておいて、2話ハローワークからのブラック工場から始まったこの物語は、3話パチンコ警察、4話の家庭崩壊の危機を経て、5話で「金の問題で家族のひとりが孤独を知る」という顛末に至りました。そして続く6話、六つ子は「金儲けのおぞましいほどの簡単さ」を目の当たりにし、金という概念は完全に崩壊します。

そしてそれ以降彼らは全く金の話を口にしなくなりました。

かわりに現在の彼らの心を占めているのは「女」あるいは「愛」です。

7話がトド松の合コン、8話がトト子ちゃんの夢の終わり、9話が十四松の恋。路面店の売り子、会いに行けるアイドル、(おそらく)AV女優、そして来週「レンタル彼女」というラインナップは、閉ざされた世界を生きる彼らにとっては「同級生」「ご近所さん」あるいは彼らにはそもそも存在しない「同僚」よりずっと身近な「女」です。

かつて「金」が「労働報酬」でも「社会貢献」でも「自己実現」でもなかったのと同じように、というか「なにかを購入するためのもの」ですらなかった(トド松はパチンコで勝った金をどうしたらいいかわからない)のと同じように、「女」もまた、一個の人間を示しているのではありません。彼らの人生に現れる「女」たちが全員職業人であること(十四松は職業人としての彼女に恋をしたわけではありませんが)からも読み取れる通り、ここで求められているのは「人間関係」とか「パートナーシップ」とかあるいはいっそもはや「性欲」すらほとんど関係ありません。

彼らが求めているのは「金」ではなく「生き延びる方法」であり、「女」ではなく「彼らが生きている価値を認めてくれる存在」です。彼らは六つ子という「男同士の関係」において充足し、また同時に閉塞している。だからこそ求められているのは彼らとは違う存在、「女」であり、それはつまり「他者」です。

そしてそれは六つ子だけではなく、チビ太も全く同じ文脈に沿って生きている。

チビ太は5話を境に「金をよこせ」と言わなくなりました。そして彼は「弟子」を求めました。職業人であるチビ太、個人であり、「五人の兄弟と比べられることはない」チビ太もまた、自分が自分であることの報酬と、自分が自分であるという価値を認めてくれる他者を求めている。六つ子とチビ太は別の境遇にあって、同じものを探し求めて、待ち続けている。

 

チビ太もまたこの物語の主人公のひとりであり、七人目の「おそ松さん」です。

そうして彼はとにかく、「手を握り続けることにした」のです。たぶん。

 

 

 

 

これは本筋とは全く関係ないのですが、わたしがおそ松さんを視聴する上で脳内にいつもあるのが『悪童日記』シリーズと『心臓抜き』です。前者は双子がふたりの世界からひとりひとりの世界に離れてゆく物語、後者は三つ子が支配的な母から逃れ「空を飛ぶ」ことを覚えたにも関わらず母親に「鳥籠」に捕らえられ永遠にそこから出られないという物語です。

孤独な青春の逍遥をサバイバルする「おそ松さん」たちの未来は、「鳥籠」にあるのか「空」にあるのか、「彼ら」は「彼」になることができるのか、誰かが「彼」を「彼」として受け入れる日は来るのか。