魚に愛をしたためた男の「六つ子のブルース」

5話エントリで「カラ松はおそらく一松を憎むだろう」と書きましたが撤回します。

カラ松はそんなケツの穴の小さい男ではありませんでした。

 

というエントリです。8話のトレンチコート、めちゃくちゃ格好良かった。

 

8話BパートとCパートの話なのですが、Bパートの骨子は「トト子ちゃんアイドルとして迷走する」です。これ自体にはほぼ触れません。弱井トト子最強に推せる(メンタルの強さが)し腕っぷしの強さは保証済みなので女子プロにでも行ってくれんか、あそこんち(原作では)兄貴がプロレスラーなのですでに十分検討して「ねーわ」って捨てた案なんだろうとは思いますが……。まあ、同級生には特に自慢できないよね、腕っぷしが強くても……。

まずCパートの話をします。ハンカチ必須、涙なしには見られないおそ松さん8話Cパートは、松野家の屋根でカラ松が十四松とともに弾き語りをしたのち、カラ松が屋根から落ちるという短いエピソードです。

この歌詞がすごい。全文引用します。

「行くぜ」「おう!」

六つ子に生まれたよ「あいあい」

六倍じゃなくて「六分の一」

六つ子に生まれたよ「ウィー」

育ての苦労は「考えたくない」

六つ子に生まれた「ぽーん」

生活臭も(唱和)野郎六人分

六つ子に生まれた「六つ子に生まれた」(唱和)六つ子に生まれたよ

ちなみに「あいあい」は「I&I(カラ松と十四松)」、「ウィー」は「we」ですねと草鹿さんが言ってました(草鹿さんはわたしの3人しかいないおそ松さんガチ勢の友人のひとりで、わたしはTwitterのリツイートを全員切っておりおそ松さんに関しての考察がどのように展開されているかを一切知らないので、つまりほとんど草鹿さんが言ったことしか知らないという状況でブログを書いています……)。「ぽーん」は産まれる擬音ですね。

なにがすごいって、これを歌っているのはカラ松と十四松です。

カラ松が兄弟にどんな扱いを受けてきたかは以前書きましたが、十四松だっていい加減たいがいです。彼は愛嬌があるし害もないので(玄関は壊しますし、しばしば「間違えて」卍固めをかけますが)兄弟に可愛がられていますが、なにしろ3話で2回も死んでいるし、面接では努力の甲斐なく「保留」されました。十四松に関するまとまった記事は9話放送後に書こうと思うのですが、そう、カラ松と十四松というコンビは、4話選抜面接において「採用枠」に入ることができなかったふたりであり、チョロ松に「おれこいつらと暮らすの絶対無理」と言われたふたりです。

ふたりとも機嫌よく明るく不満を(5話のカラ松以外)漏らさず暮らしていますが、ほかの兄弟と比べて基本的にババばかり引いているコンビです。特にカラ松は親に面接で一蹴され、梨の配給にありつけなかったことすらある。

にもかかわらず、おそらくカラ松が書いたのであろうこの歌詞ではきちんと「育ての苦労は考えたくない」という、つまり「苦労かけてごめんなマミィ」というメッセージすら歌い込まれています。

カラ松と十四松は、「おそ松くん」時代はともかく、「おそ松さん」において、六つ子に生まれてよかったことなんかほとんどないのです。散々な目にあわされ、フォローをし、フォローをスルーされ、裏目に出て、それでも――彼らが兄弟をフォローしなくてはならない理由は十分に伝わりました。

彼らは「六つ子に生まれた」自分たちを、そのまま受け入れようとしているのです。少なくともこの高らかに歌い上げられた歌の意味はそうです。「六つ子になんか、生まれなきゃよかった」なんて思わない、だって六つ子に生まれたのは、事実であり、せっかく苦労して六つ子として育ててもらったのだから。

 

5話エントリで「きっとカラ松は一松を憎むのだろう」とわたしは書きましたが、撤回します。

あの後数人から「カラ松が自分と比較しているのは一松ではなく、『必死で探してもらえた』猫と『一顧だにされなかった』自分を対比して泣いているのではないか」という指摘を受けて、「あっなるほどそっちのほうが筋が通る、しかしだとすると自分を猫と比較するカラ松はあまりにも憐れではないか、自分を一体兄弟のなかで何だと位置づけているのか」と思って判断を保留していたのですが、「六つ子に生まれたよ」を聞いてしまった今となっては、「なるほど、カラ松がたとえ何をされようが兄弟を否定などするわけがない」という理解に落ち着きました。

カラ松が5話で泣いたのは、「さすがに梨に負けたくなかった」「さすがに猫に負けたくなかった」ということであって、きっとあのあと彼は涙をぬぐって「六つ子に生まれたよ」「働かない我が人生、セラヴィ!」と呟き、元通りに家に帰っていったのでしょう。

セラヴィ、これが人生さ。エンディングの決め台詞として高らかに宣言されたこの言葉は、松野カラ松という男の口から出るにはあまりにも重い言葉です。兄弟から目をそらされても、イタい気持ち悪い警察沙汰だと言われても、誘拐されて助けに来て貰えなくても、梨に負けようが猫に負けようが、兄弟にあらゆるものを(一松なんか石臼です、ほんとに死ぬがな)投げつけられようが、スタバァのお作法を披露しただけなのにメニュー表を投げつけられようが、全部「人生なんてこんなもんさ!」

わたしは松野カラ松という男を誤解していました。あいつは5話エントリでわたしが書いたような繊細な弱い男ではありませんでした。たしかにハローワークで机を叩かれればあっさり素に戻り、一松につかみかかられると涙目になりますが、逆に言えば「まじめにやれ」と言われたらちゃんとまじめにやるし、考えてみたらおそらく喧嘩に強い(2話Bパートでカラ松はおそ松の頭に相当でかいたんこぶをこしらえており、その直前のチョロ松のパンチと比較すると相対的にカラ松が強いことが見て取れます)カラ松が一松に掴みかかられて泣くのは「怖いから」ではなく「愛する弟に嫌われて悲しいから」だったのです。

カラ松が一松を擁護しおぶってやり隣で寝ることすら、「一松は危険だなんて全然思ってない」ですらない可能性があります。もしかしたらカラ松は「一松が危険かどうかなんて関係ない、おれたちは六つ子に生まれて、お互い愛し合うべきで、たとえ一松がどんなことをしようが、おれたちだけは、少なくともおれは、一松の味方をしてやるべきなんだ」と思っているのかもしれない。一松を擁護するのみならず、チョロ松に「子守唄を歌おうか」と言い、十四松に刺さった矢を抜こうとしてやり、トド松の職場でひとりだけきちんと適切に振る舞おうとしたカラ松が弟たちを心から可愛がっていることは既に示されています。おそ松にこそ手を上げますが、これはおそ松が「兄」であり、カラ松が兄としての自分を内面化している証左でしょう(「兄貴が弟になんてことするんだ」ということです)。

 

しかし同時にそれはカラ松が「松野家の六つ子の次男として生まれし俺、兄として相応しい自分」を演出し続けているということでもあります。

気になる女の子たちに自分から声をかけることができないカラ松は、ひたすらに「カッコイイおれ」を演出し続けていれば、いつか向こうから話しかけてくれるはずだと信じています。

おそらくカラ松は全く同じように、「兄として相応しい優しさと包容力を見せ続けていれば、きっと兄弟は自分を愛してくれる」と思っている。親にアピールする方法に至ってはなにひとつわからないのですが、とにかくカラ松は「愛されるだろうと思えることをやり続けていれば、きっとみんなおれを愛してくれる」と思っている。

そしてカラ松は一松に掴みかかられれば涙目になり、スルーされれば「え?」と漏らし、梨が食べたくて号泣し、猫との扱いが違うことに憤ります。カラ松は愛されない自分にとっくに気づいています。それでもカラ松は笑顔で今日も「カッコよく」している。「六つ子に生まれた」、「それが人生」だから。

今となってはカラ松が良い顔をして手鏡を見つめているシーンを目にするたびに胸が痛みます。

手鏡の向こうの青年は、松野カラ松をまっすぐに見つめて、心からの愛をカラ松に告げているのです。

 

さて、5話Cパートのラストにおいて、カラ松は屋根から「転落」します。

ここから想起されるシーンが2つあります。

1つは2話Bパートにおける川への転落。

1つは5話Aパートにおいて兄弟はカラ松に「二階の窓」から投擲を行ったということです。

 

後者のほうが簡単な話なので先に述べます。

5話Aパートにおいて、兄弟はカラ松に「二階の窓」から投擲を行います。この部屋は彼らがいつも寝ている子供部屋です。つまりカラ松はあそこで、「子供部屋からの追放」を受けました。

続いて放送された6話冒頭において、カラ松が座っている場所が「二階の窓」、カラ松が追放された窓です。つまり6話でカラ松はあっさりと、「窓」に帰ってきました。

ソースがよくわからないのですが、5話と6話は放送順が逆だったのではないかという話題があり、わたしは散々この話を入れ替えて考えてみたのですが、やはり5話→6話という順の方が筋が通ると思う(なぜなら5話が「金がない」話であり、6話が「金なんかどうでもよくなるほどあるところにはある」という話だからです)ので、「カラ松は窓から追放され、そして窓から迎え入れられた」ということがはっきりと描かれていると取って良いと思っています。

さて、8話です。

カラ松と十四松がいるのはもはや「子供部屋」という「彼らの世界を象徴する場所」をはるかに超えた高い場所です。彼らは全てを包み込む決意を込めて、あそこですべてを受け入れようとする。

しかしカラ松はそこからも転落してしまう。「いつも通り」に。十四松の切ない声だけが響きます。

 

川への転落のほうの話題に移ります。

おそ松さんというアニメにおいて、「松野カラ松と水あるいは魚」はずっと関連性を強調されてきました。

  • オープニングでカラ松の耳から魚
  • 2話Aパート釣り堀にて魚に愛をしたためる
  • 2話Bパートでカラ松ガールに話しかけられるのを待っていたところおそ松のせいで川に転落
  • 3話銭湯クイズでメインキャストとして扱われる
  • 4話トト子ちゃんライブで最も高額を支払う
  • 5話海に誘拐される
  • 8話トト子ちゃんに「魚キャラから離れた方が良い」と指摘、兄弟から大ブーイングを受ける

カラ松がカラ松ガールを待つのが「川」であることと、カラ松が釣り堀で「魚にラブレターを贈り、次いで花束を贈ろうとした」ことの関連性から考えて、「魚」とは「愛」もしくは「愛すべきもの」を示すと考えることは可能ではないか。

というかそもそもこのアニメのヒロインは「魚アイドル」弱井トト子なので、彼らが「魚」に愛を告げるのは流れとしてもさほど無理がありません。カラ松のラブレターと花束は「ナルシスト通り越してサイコパスだよ!」と言われますが(まあ実際突拍子もないですが)、カラ松が「魚」を何だと考えているかという筋は通っている。

トト子ちゃんの家によりによってバスローブを着てワイングラス片手にやってきたというトンデモ行為も(あの下下着着てるんだろうか……)、「愛の象徴」である魚トト子ちゃんになんと声をかけられたという経緯を思えば(カラ松はカラ松ガールに話しかけてもらうことも魚を釣ることもできなかったのに、トト子ちゃんは自宅に呼んでくれたのです!)、カラ松の中では整合性が取れている。ちなみにこれと完全に同じ格好で「なごみのおそ松」において死ぬわけですが、この話はいずれ機会があれば。

 

カラ松にとって「魚」とは「愛」であると定義します。

 

そのうえで、トト子ちゃんライブを最初から最後まで楽しみ切り、十万も払い、魚アイドルの晴れ舞台を心から楽しんだカラ松が、それまでとは打って変わった完璧に着こなしたトレンチコート姿で現れ、トト子ちゃんに「魚から離れたほうがいい」と告げるシーンは、あまりに残酷です。

このシーンでカラ松はものすごく正論を言っているのですが(魚アイドルとしてのトト子ちゃんはとても可愛いと思うのですが、なにしろ何故か生魚を衣装に使っていていつもびしょびしょで生臭いのであとはお察しです)、しかしトト子ちゃんは魚キャラでキャラ付けを行っているのであって、トト子ちゃんから魚を奪ったら、腕っぷしが強くて魚に詳しいだけの「ふつうにそのへんにいる程度に可愛い女の子」に過ぎません。魚キャラでやっていくことの無理はともかく、魚キャラをやめたらそもそもなんの売りもないのです。前述しましたが、たぶんトト子ちゃんは腕っぷしの強さのほうを売りにしていく気はありません。可愛くないもんな。

一松が食ってかかる(なんと一松がはじめてカラ松に話しかけました)のも当然です。以前述べた通り、「一松がサイコパスキャラでやっていく無理はともかく、一松はそれでやっていくしかない」のです。

 

しかしこのシーン、なんとそれまでずっとカラ松を自分より下に見ていたチョロ松が「カラ松兄さん」と呼び、そして一松がついにカラ松に話しかけたという奇跡的なシーンです。

つまり、「愛なんてものはこの世にはない。ありのままの自分を受け入れろ」と言った瞬間のカラ松が、過去最大にそしてこれまでで唯一、兄弟に評価された瞬間です。

カラ松はあんなに愛を求め続け兄弟を許して愛し続けていたのに、カラ松がおそろしくシビアなことを言ったとき、ついに兄弟は彼を「見た」のです。

 

松野家の茶の間には金魚のモビールが飾ってあります。彼らは作り物の愛の下で現実から目をそらしモラトリアムを続けています。

そしてオープニングで、松野カラ松の耳からは魚が出て行き、カラ松は笑顔を捨てて死んだ目でうつむきます。

 

カラ松兄さんのことをさんざん空気と呼んですみませんでした。カラ松兄さんが兄弟を愛することをやめ、愛なんてものはこの世にない、魚は釣れないしトト子ちゃんは魚じゃないんだということをおれは知っていると兄弟にはっきりと告げてそれを押し通す強さを発揮すれば、この兄弟は「作り物の愛」のある松野家を失い、「現実」に叩き殺されて死にます。そのほうがいいかもしれないけど。

しかしカラ松は十四松とともに「六つ子に生まれたよ」と歌い上げ、松野家の抱える全ての歪みを承認し、そうして転落してゆくのです。

 

いつも通りに。