誰が松野カラ松を殺したか、あるいははなまるぴっぴをもらえなかった子の話

ゆるふわギャグアニメだと思っていたおそ松さんに唐突に投げ込まれたどう転んでも鬱以外の何物でもない鬱回第五話を視聴したみなさんお疲れ様でしたというエントリです。「え? いつも通りギャグアニメだったよね? おもしろかったよ?」って人は帰っていいです。

あれはとてもよくできた誠実な話であるということを書いておこうと思いました。石を投げてもいいよ。カラ松兄さんも石を投げられて死んだからな。

ちなみにわたしは88年版アニメ視聴勢で、おそ松さんは1話から配信で観ていて(テレビを持っていません)いろいろあってリメイクとか続編とかに対して不信感を抱いていたところ1話を見てなんかめちゃくちゃに感動して泣いてしまい勢いで原作全巻を買って今読んでるところです。漫画読むのが遅いのでまだ16巻です。

 

5話の骨子はこうです。

  • いろいろあってカラ松が誘拐されたのに兄弟は誰も救おうとせず火あぶりにされるカラ松に向かって石(に類するいろいろなもの)を投げてカラ松は死んだ(※死んでない)
  • いろいろあって一松は兄弟に対して「兄弟がいるから友達なんていらない」とぶっちゃけてしまうがそこにはカラ松はおらず、それを聞いた兄弟はやたらに一松に優しくなるが、それを遠くから見ていたカラ松(重傷)が「扱いが違いすぎる」と激怒する

骨子からご覧のとおり完全にギャグとしては成立していません。実際笑えないというか「やばい」か「つらい」か「ひどい」の感想を抱く人が相当量だと思いますしカラ松のことを大変愛していたファンが胃をいわして寝込んでいるというような話も風のたよりに聞きました(お大事に……)。絵柄が相変わらず可愛いのでストレスなく観れてしまうというのがますますやばく、更に「ギャグアニメだからこんなものでは?」という言説がますます混乱を招いています。冗談キツいっすよ笑えねーから笑えねーっつってんのにギャグアニメだからこんなもんでは? もクソもないです。

 

でもこれはきちんと話として成立しています。何として成立しているか。

「箱庭の崩壊」を扱った、ニートを題材にしたファミリードラマ、しいては「かつて存在した赤塚王国はもう存在しないということを描くためのリメイク」として成立しています。

 

振り返ってみましょう。

1話 「赤塚先生の名を冠した学園において完璧なアイドルとしての六つ子、そしてそれを崩壊に導くチビ太」という茶番を経て「というわけで茶番だった、迷走した」「赤塚先生怒ってないかな」「大丈夫だよ大分前に死んだから」「ごめんなさい」「これからどうしよう」「何も思いつかない」「十年くらい経ったけどどうする?」「何も思いつかない」

2話「とにかく大人になったので就職しなくてはならない」からブラック工場への就職を経て「焦ってもしょうがない、できることをやっていこう、ぼくたちは六人でひとつなんだから」という結論に達するも、Bパートで六人はバラバラでありお互いのことを何も知らないというストーリーを展開する

3話 唐突なショートコント回

4話 両親が離婚するので全員は引き取れないと言いだし、六つ子の選抜面接が行われ、そのうちカラ松だけが何のアピールもできない。Bパートは六つ子の子供の頃からのアイドルであるトト子ちゃんに六つ子が金だけ搾り取られてなおきゃーきゃーいう話で、この世界にはトト子ちゃんと松野母以外の女は基本的にいないので、結婚して松野家脱出という線は事実上断たれた。

で、5話です。

前述のとおり、彼らは最初「六人でひとつ」であり、1話(の茶番)では「六人いれば世界さえ救える」という物語を高らかに宣言していたはずでした。実際旧アニメや原作では六つ子はほぼほぼ書き分けられておらず、「おそ松くんの六つ子」という一個の概念であって、個性なき集団であり、2話ではチビ太が「集団であること」に対する羨望をおそ松に対して吐露します。

しかし「十数年後」のおそ松さんの世界においては、2話Bパートでおそ松が痛感した通り、彼らはばらばらで固有の個性を持った存在で、おそ松自身も「六つ子っていうのは五人の敵がいるってこと」と言います。美しい群像の時代はすでに失われてしまった。それでもおそ松は家に帰りますし、「ニューおそ松兄さん」と呼ばれている存在を家から放り出してきちんと松野家長男の座に戻ります。

三話の話をすると話がややこしくなるので飛ばしますが、そうして「いろいろな不信や不和はあるけれど、それでも六人だった」話が「やっぱり六つ子っていうのは五人の敵がいるということ」だという話が展開されるのが4話で、松野母とトト子ちゃんというふたりの女(生活能力があり、金銭的に余裕があり、彼らを愛し養ってくれる可能性のある存在です)を巡って六つ子は対立するも結局なんの結論も得られない、という話を経た後の、5話です。

「六人は養えない」って言われたんですよ。

ひとり追放しました。

非常に「そうなるよね」という話です。残酷極まりないですが、「まあそうなるよね」。話としては筋が通っています。オープニングタイトルは「はなまるぴっぴはよいこだけ」です。「よいこじゃないとはなまるぴっぴはもらえない」のです。松野母から一顧だにされなかったカラ松が「はなまるぴっぴをもらえるよいこ」ではないのは明瞭です。カラ松がとてもいい子であるということは関係なく。

それゆえにカラ松は梨の配給にありつけません。はなまるぴっぴではないから。

 

さて、松野カラ松という青年の話をします。

「十数年」の間にそれぞれのアイデンティティを獲得した(成長の過程として、あるいはメタ的な意味での商業戦略として)六つ子の中で、カラ松は「ナルシスト」という役柄で、それも大分時代遅れのナルシスト像を演じています。好きなアーティストは尾崎豊だそうです。一周回って新しいと言えない程度に古い。兄弟はカラ松のことを「イタい」と思っていて、彼のいろいろな行動や発言は基本的に「ナルシストゆえの空回り」として処理されてスルーされてきました。

反面、兄弟に対しては「仕事のことはノープランだ」と言ったくせに、ハローワークで唯一具体的な職種を口にしたのはカラ松です。兄弟たちが、暗い性格の一松を社会不適合者だと言っていじっているとき、ひとりだけ一松を擁護したのはカラ松です。兄弟の中で最も何をするかわからない犯罪者予備軍と呼ばれていた一松を弁護し、酔いつぶれたらおぶってやり、ふとんの一番端で寝ている一松のとなりでいつも寝ていたのがカラ松です。ビビリで小心者で、浮いていて空回りしていて、でもだれを傷つけることもなく、「優しくて頼れる兄」であろうとしていたのが松野カラ松です。

カラ松はたしかに一松を(そしてほかの兄弟たちを)愛していたと思います。愚直で優しい男でした。

そのカラ松が、兄弟に優しく扱われる一松を見て、それまでいつもあまり面白くないボケだけを続けてきたカラ松が、よりによって一松をめぐる兄弟のありようにたいして、怒りを漏らすんですよ、

「扱いが違いすぎる」。

 

でもそれは最初からずっとそうでした。カラ松はずっと兄弟の中で軽視されていた。いなくていいもののように扱われていた。「なんで生まれてきた」とすら言われた。カラ松はずっとそれに怒っていいはずだった。でも六人でひとつであるためにはカラ松はそこで怒ることができなかった。いまはできる。

追放されたあとだからです。

 

5話Bパートで一松は「一松の言っていることは全部裏返し」と暴露されてしまいます。

カラ松に擁護されるとキレていた一松、カラ松が誘拐されたと知ったとき「めんどくさい」ではなく「カラ松がいなくなって嬉しい」とひとりだけ明確に態度を示した一松、けれど一松はずっと「兄弟がするからする、兄弟が決めたからそうする、兄弟がいるから友達はいらない、自分の考えとか、自分の言葉とか、必要ない、全部みんなに決めてもらえばいい」と思っていた。それなのに一松はカラ松に接する時だけ、「ほかの兄弟」の言葉ではなく「自分自身の態度」を示していた。

一松は知っていたはずだと思います。カラ松がどうして一松を庇うのか。

それはカラ松も一松と同じように弱く虚勢を張っていて本当のことを口にできない人間だからです。

一松はそれを知っていたはずだと思います。だから一松はカラ松にだけ特別に振る舞うことができた。カラ松を泣かせたあとでもカラ松がおんぶして帰ってくれることを、今日も隣で寝てくれることを、いつでも「信じて」いてくれることを、知っていたからです。そして一松はカラ松に石を投げました。

「みんながそうしたから」です。

 

兄弟がカラ松に石を投げたとき、そこに深い悪意はなかっただろうと思います。迎えに行かなかったのは「朝で眠くてだるかったから」忘れたのは「梨が食えたから」石を投げたのは「夜で寝ててうるせえ静かにしろいつまでふざけてんだと思ったから」。誘拐したのはどうせ幼馴染のチビ太で、チビ太がどれだけちょろい人間か六つ子はよく知っています。そしてカラ松は「目立つためならなんでもやるナルシスト」です。ふざけるのもいい加減にしろと思ったんだろう。

でも一松はそうじゃないことを知っていたはずなんですよ。

 

だれが松野カラ松を殺したのか。

松野一松です。

カラ松が徹底的に傷つくことを止めることができたのは、一松だけでした。

 

ということが自明である証左として、Bパートがエスパーニャンコ回なのだろうとわたしは信じています。カラ松が比喩的な意味で殺されてしまったからこそ、一松には名実と共に「猫以外に仲間はいなくなった」のです。一松が狂人だと信じているあとの四人が残り、一松が本当は一松なりに必死で生きようとしていると信じようとしていたカラ松はもうここにはいません。カラ松が失われた部屋で、それでも一松は吐露させられてしまう。「ぼくにはみんながいるから、友達はいらない」。

そこにはもうピースが欠けているのに。

 

そしてエスパーニャンコの顛末を見届けたカラ松が最も憎むのはおそらくあとの四人ではなく一松です。カラ松と一松はよく似ていたのに、カラ松は追放され、一松は愛されたからです。カラ松はかつて一松をたしかに愛していました。カラ松はかつてピュアで愚直で的外れな、優しい子でした。

あの子が憎悪という感情を知ってしまった物語です。全て失われて、もう戻ってきません。

 

でもそもそも1話から、F6の庇護下にあるあの美しい学園は、崩壊していたんですよ。

赤塚先生は大分前に死んだんです。

 

おそ松さんはそういう話です。彼らが6人でひとつだった時代は終わりました。もう同じ顔が六つ程度じゃ視聴率取れません。みんな個人として生きていくしかない。キャラが被ったら弱い方を追放するしかない。自立するしかない。五人の敵と戦うしかない。そういうことをごく率直にフルスイングで、途方もなく残酷に描いた回だったと思っています。

 

願わくば、一松がいつかカラ松に向かってまっすぐに「ありがとう、大好きだよ」と言える日が来ますように。

 

おそまつさまでした。