おそ松さんを好きな理由と、しんどい世界をしんどいまま生きていくわたしについて

先日はエントリを見てくださってありがとうございました。あれは「あれをどう受け止めていいかわからない人」のために書きました。今日のエントリは「わたしの話」をします。

わたしはおそ松さん5話がとても好きで、気恥ずかしい陳腐な言い方ですが、「わたしのための話」だと思っています。そういう話をします。

 

わたしは去年の夏に仕事を辞めて、それから療養と同人活動と一応の就活と、職業訓練校での教育を受けていました。8年くらい前からパニック障害と広場恐怖を患っていて、ずっと定職につけずにいろいろな仕事を転々としてきました。ニートだった期間も長いです。何の話をしているかと言うと、わたしは六つ子と同じ「ニート当事者」です、という話です。就活をしていることはしているし、勉強もしたし、田舎では職が見つからないと痛感したので一人暮らしも始めたしニートの定義とは外れているけれど、でも「ニートであること」がどういうことで、「実家暮らし」がどういうことか、ということを知ったうえであのアニメを見ている。

で、もうひとつ言うと、三人兄弟の末っ子で、次女です。うちの兄弟は三人ともいまひとつ要領が悪いので(長男は基本的に内気だけれどそのわりに行動力があり正義感が強いので突っ走りすぎて無理をきたすという人で、長女は内気でおっとりしていて静かで充足した生活を求める人、わたしは万事無理に無理を重ねて唐突にぶっ倒れるという感じです)兄弟と比べてわたしは、という気持ちはあまりないですが、皆どっこいどっこいでポンコツなりに頑張っていると思っていますが、それでも「兄弟であること」は実感できると思う。

で、そのうえで言うんですけど、おそ松さん、ずっと結構しんどい。

あのアニメをギャグとして楽しんでいる層が十分に存在するということはわかっているんですが、そのうえで言います。しんどい。

そしてわたしはあのアニメがしんどいからこそ、あのアニメを支持してずっと観てきました。わたし基本的にリアルタイム放送中のアニメ観ない(というか観る能力がない、すぐ忘れる)んですけど、おそ松さんに関しては本当にかじりつくように配信を待ち構えてGYAOに金を払って観ている。選択的に観ています。あのアニメがしんどいから、しんどいことをきちんと、しんどいこととして描いてくれるからです。

 

 

「なにが?」とって話ですよね。具体的に上げていきます。

 

たとえば1話、皆が集合しておそ松に「おそ松兄さん」と一斉に呼びかけるシーン、同い年でこっちからしたら見分けもつかないのに、「兄」とカテゴライズされるおそ松。わたし88年版のアニメ観てたんですけど、あれっおかしいなと思ったんですよ、みんな呼び捨てじゃなかったっけって。初代アニメや原作(まだ16巻から先に進めてません)にそういう描写があったら申し訳ないんですけど、少なくともわたしのなかの「おそ松くん」は「六人に区別はなかった」はずだった。おそ松さんは最初からその前提を引っぺがしてるんですよね。「兄」であるというカテゴライズをされた松野おそ松が用意されている。

2話はハローワークが「やめてやめてやめてやめて」ってなるのはまあそれはそれとして(それはそれとして笑いましたが)、一松がいじられるのもしんどいし、チョロ松がなんだかんだ言いながらも兄弟が行動を起こさないと自分も行動を起こせないで一緒に酒を飲んでしまうところもしんどい。ブラック工場で兄弟の予想を裏切ってひとり管理職につけたのに(つけたからってろくな立場ではなさそうですが)兄弟が出ていくと決めたら唯々諾々と従う一松もしんどい。

 

んですけど、わたしが2話で一番キツいのはおそ松がチョロ松の握手会が台無しにされるシーンです。

わたしはドルオタではないですがオタクだし、ドルオタの友達もいるし、チョロ松がドルオタ仲間と楽しくやっていたことや、握手会という場所がどれだけチョロ松にとって神聖な空間で、どれだけの期待を持ってそこに行ったかということをどうしても考えてしまう。それを、よりによって自分と全く同じ顔の男に台無しにされる、しかもセクハラ発言で台無しにされる。あの文脈におそ松の悪意がないのはそりゃもうわかるんですよ。わかるけど、わかるからこそしんどい。チョロ松はあの後にゃーちゃんの話題を一切出さないわけで、たぶんもう顔出せないんじゃねえのかなあと思う。友達もあこがれのアイドルも失った。Twitterのフォローは当然返らない。つらい。

 

なんだけど、2話はすごくて、まず「おそ松が(1話からずっと)兄としてカテゴライズされていること」に対しておそ松がきっちり「長男だからなんだ、同い年だよ、おれだって一人っ子がよかった、六つ子っていうのは五人の敵がいるってことだ」と喚く。「そうだよね」と思う。そりゃそうです。同い年なんだから兄も弟もない。いや、あるということになってるんだけど、あるということになってるだけで、同い年です。そもそも同い年じゃないからって兄だから弟だからという重圧自体外から向けられると面倒臭いだろう。わたしは兄であったことも姉であったこともないけど、そりゃあもうめんどうくさいだろうと思う。幼馴染だからっておまえふざけんなと言いたいだろう、よく言った、と思う。でも金は払えよって話なんですけど。

そんでそのあとのニューおそ松兄さんですけど、まあシーンとしてはひどい、やられたら一週間くらい寝込む、みたいなところですが、ここで肝心なのは、「ニューおそ松兄さん」は、2話の冒頭でチョロ松が唐突に取り出して十四松が「家宝にする!」と言った「ヒジリサワショウノスケ」なんですよね。このコントが何を意味するのかについては話がややこしくなるので気が向いたらそのうち書きますけど、とにかくこの2話という物語の中で「ヒジリサワショウノスケ」は「家宝」で「ニューおそ松兄さん」なんですよ。彼らにとって「おそ松兄さん」という存在に対する認識がどのようなものであるかという点はまあこれだけ並べてもだいぶん捩れてそうだなあと思うけど少なくとも「おそ松兄さんなんていらない」とは彼らは言わなかった。

で、2話Bパートにおいて一番実害を蒙ったのは前述のとおりチョロ松だと思うんですが(カラ松も川に落ちましたがこれはまあ可哀想ですが「通常運行」です……)、だからこの意趣返しはおそらくチョロ松のために用意されたシーンなんですが、おそ松を振り返った皆のなかでチョロ松だけが「やばい」という顔をしているんですよ。「してやった」じゃない「やばい」。

そのうえでおそ松が言う台詞は「てめえら何やってんだ」じゃない。

「誰だてめえ」です。

 

しんどいんですよ。おそ松はチョロ松の恋が実ればいいなと思って善意でやった。おそ松は兄弟にハブられて寂しくて悲しかった。兄弟にチョロ松はおそ松に意趣返しをしようとして、でも「悪いことをした」と思っている。そのうえでおそ松は「彼らがやったこと」ではなく「自分ではない存在がそこにいること」に対してキレたんです。彼らは選択して一緒にいる。おそ松は選択して松野家長男と呼ばれ続けていく。

 

挙げていったらきりがないです。デカパンマンもパチンコ警察も選抜面接もとてもしんどい。そしてそのたびに、「ああ、わたしはこのつらさをよく知っている」と思う。笑うには笑うんですよ、笑うんだけど、それは「ああわかるよ、ほんとうにつらかった、いまでもつらい」って思って笑ってるんだと思うんです。

 

 

5話がつらいという話は前回書きました。

5話は本当につらくて悲しくて、まじ笑うどころですらなかったんですが、でもわたしはあの話がとても好きで、えーと奇行に走ればいいってもんじゃないとは思うんですがありのままをお伝えすると見終わってあまりの興奮に座ってられなくなり立ち上がって家を飛び出して近くの海まで走っていって四時間だか五時間だかそこを悶々と行ったり来たりしながらTwitterで延々と喚き散らし八百屋で35円のニラを500円分買ってしまい帰ってきて泣いて寝て起きてエントリを書いてそのままの勢いに任せて餃子を六人分くらい作って泣きながら寝ました。現場からは以上です。餃子おいしかったです。無職っていいですね三日くらい延々と泣いてても支障がないから。

何の話だっけ。5話が好きなんですよ。

それはあの話が、「だってもはや笑ってる場合ですらないじゃねえか」というところまで描いてくれたからです。

カラ松はずっと兄弟に引かれてバカにされてスルーされて親切にしたら掴みかかられて、踏んだり蹴ったりだったんですよ。まあやってることがやってることなのでそういう扱いになるのはわからんでもないとは思うけどだからといってつらくないわけではない。それはもうずっとそうでした。

5話はそれをきちんと「まじであいつらひどい」とチビ太を通じて実感するところまでちゃんと描いてくれた。

そしてその扱いを柳に風と受け流しているかに見えたカラ松が、ちゃんと、そのことで傷ついているということを、きちんと嘆く描写を、ほんとうにきちんと入れた。カラ松は食事を勧めるチビ太に言うんですよ、「梨が食べたかった」。その梨は梨を示しているのではありません。あそこにあったはずの自分の分の梨を、食べることができなかった、自分の分の梨が食べられなかったということを嘆くということ、兄弟として、仲間として、一緒にいたかったということを、カラ松はきちんと嘆いて泣いた。

結果としてカラ松は受け入れられることなく最後まで兄弟から弾かれて、怒りもしくは悲しみを漏らします。

「扱いが違いすぎる」

 

ほんとうにかわいそうだと思う。

でもわたしはそれを聞きたかった。

わたしはそれを聞きたかったし、それを聞いてとても救われた。

 

 

唐突にわたしの話に戻りますが、わたしは創作物でもドキュメンタリーでも、「全員が完全に調和して幸福で、誰もそれに異論がなく、破綻がなく、なんの翳りもない」といったたぐいの作品が嫌いです。仲良しでハッピーでラブラブなものを見るとほんとうにつらい気持ちになるしできる限り目にしたくない。

たぶんそれは、わたしがその場所にいたら「うまく立ち回れているか不安」になったり、「全然楽しくないのに笑って」いたり、みんなが休憩時間にドッヂボールをしているときひとりで教室で本を読んでいたりするような子供だったことと関係があると思います。わたしがパニック発作で混乱のなかに叩き込まれているときわたしを混乱させているものを周囲の皆はだれも恐れていないということも関係があるかもしれないし、わたしがそもそもいつでも「閉じ込められて出られなくなって殺される」という恐怖感を抱いて生活している(広場恐怖です)ことも関係があるかもしれない。

よく言われます、「どうして美しくて平和な物語を愛さないのか」「どうしてあなたの書く物語はこんなに陰惨で痛苦にあふれているのか」。

それはわたしがフィクションに求めているものが、「べつにいつだって仲間に入れてあげたのに」というIFではなく、「あのときわたしがつらかったと、誰かに、伝えられたら」というIFだからです。「わたしをいじめたり、好きになれない子と一緒になんていたくなかった。でも、寂しかった」。「本当はずっと痛くて辛くて怖かった。でも、寂しいのはいやだった」。

大多数のその言葉がどこにも漏らされることなく凝っていきます。そうしてへらへらと笑いながら、好きでもない仲間と一緒に暮らし、好きでもない価値観を肯定せざるを得なくなり、自分がなにを愛して何を憎んでいるのかさえあやふやなまま、自分のなかにどんな傷があるのかさえ、わからなくなっていく。

 

おそ松さんはギャグアニメの文脈で、蓄積されていくカラ松の傷を描き続けたのちに、「それがどれだけ残酷なことだったか」を、きわめて残酷に、シンプルに描いてみせた。

そのうえでカラ松が、チームの中で自分が保っていたキャラクターをかなぐり捨てて彼らにNOを叫ぶことができたことを、彼ら自身に面と向かっていうことはできなくても、わたしたちがそれを聞くことができたということを、わたしはとてもうれしいと思う。

そして、5話に対して「これはいくらなんでもひどい、あんまりだ」と言う人がたくさんいたということが、とてもうれしかったんですよ。

 

わたしがおそ松さんを好きな理由はほかにもあるんですが、とりあえずこんなところで。カラ松は、兄弟たちは、これからどうなっていくんだろう。それはただもう楽しみに待つしかないことで、もしかしたらもっとずっと残酷なことが起こるかもしれないけれど、とにかく今はカラ松があそこに立って叫べたということに対して言ってやりたい。

「それでいいんだ」