二次創作が好きだった話

~これまでのあらすじ~

1、色々あって二次創作をやめてから一年くらい経ちました。

2、ちょっとだけ斜視なので視界が恒常的にブレていてそれは普通ではないということが発覚しました。

 

~今回のあらすじ~

斜視おもしろくて遊んでたら小説が書きあがっていた。

 

人生いつ何がわかるかわからないものですね。

風と桶屋の関係のようにいろいろなことが複合的に絡み合っているんですよ。2月仕事がむちゃくちゃキツかったんです。なんでキツかったのかというとここに書けない理由プラス夏コミに申し込んだからで、夏コミに申し込んだのはわたしのことを松で覚えた人にいいかげん名刺を渡す機会のひとつくらい設けろよと思ったからなんですけど、仕事がむちゃくちゃキツくてめちゃくちゃ失踪したくなり、まあまあとりあえず落ち着けよということでとにかく部屋掃除をしたんです。極限までものを捨てたら(そこまでではない)かなりスッキリしてメンタルが明るくなり、よーしカラオケでも行くかと思いました。カラオケに行くというのは皆さんが思ってらっしゃるような楽しい娯楽ではなくて試練です。閉所恐怖症なんだよ。でもこう、テンションが上がっているときはいつもできないこともできるかもしれないですからね。それでカラオケに行って、まあ具合は悪くなったんですけど、でも一応三時間耐えきったのでわたしは超えらくて、超えらいのでウキウキしていて、眼鏡買お! と思いました。これもまあ試練なんですけどね。なんで服を買うとか眼鏡買うとかが試練だったのかということは眼鏡屋でその日発覚しました。

そうです。

斜視の話にここでつながるわけです。

人生とは物語性を孕んでおり伏線は回収される。

 

ここまでがこれまでのあらすじなんですけど、で、斜視だということがわかった、というか、これまで視界がボーっとしているとかものが二重に見えるとか疲れているとよく見えないとかっていう状況があった、さらに言えばそれを「目の周りの筋肉に力を入れて」修正し、かつ「脳内で重複している情報を整理して」修正して生活していた、そしてこれが大事なんですが、それはふつうのことではなかったということを理解しました。君の見ている世界とわたしの見ている世界は違う!

というのがわたしがオリジナル小説を書いていた頃の永遠の命題だったということは、書いてから思い出しました。

「うわスゲー面白い、超ずれる、知ってたけどそっかこれそういうことか! 一点を集中して見ていると二秒くらいで五個くらいに増える! 知ってたけどこれそういうことか! これみんなはないやつでわたしはあるやつか! えっもしかしてわたし画面見ないでも小説かけるんじゃない? ていうか、見てなくない? 書いてみーよっと。うわめっちゃおもしろいさすがに目をつぶると怪しいけどそれでも別に書けることは書けるわブラインドタッチの精度っていうかこれどうせわたしミスタイプしても気づかないのは見てないからじゃねーか! 校正下手な理由もわかったよ! 小説書けた~」

書けました。

二次創作を、最後に書いたのが、えーとおそ松さん10話のときだから2015年の12月頭かな。丸一年ちょっとくらいですね。それきり小説の書き方がよくわからなくなっていて、そう、小説技法の塾をやっているくせに(やっています)小説の書き方がなんかいまいちぴんときてない状態でダラダラ書いたり書かなかったりしていたんですが、書けました。

まあいろんなことのつじつまが合ったんですよね多分。これの一個でも足りなかったら、あと大阪で友達に眼鏡屋に連れていかれて眼鏡はいいぞと言われたとか、京都で友達と発病以降はじめてのカラオケに行ってちゃんと楽しく過ごせたとか、それ以前のこととか、いろんなことが絡みあって現在に至っていて本当に風と桶屋なんですけども。

小説を書きました。

これまでで一番うまく書けました。

というか、小説がうまく書けたと思ったのは生まれて初めてでした。

 

小説技法の塾をやってるんですが、基本的に小説技法の塾なんですが、まあ持ち寄られた内容によってはなんの話でもやります。ということで小説を書いたちょうど次の日、就活対策というか観念的な意味での「仕事について」をやって、その中で「創作を仕事にするということについて」に触れました。「と言っても別にわたしは創作を仕事にしているわけではないんですが、そうなれるかどうかはともかくどうしてそれをしようとしていないかというと、水準に達していないと思っていたからです」という説明をしました。

終わったあとで、「あれ? 水準に達しているような気がするな」と思いました。

商業的にどうこうなるかどうかはわたしにはわかりませんが、「わたしの書きたいものを書けているという意味では水準に達している」し、「わたしの書きたかったものがひととおり書けたんだから、商業的にどうこうなるかどうかちゃんと確認してみよう、ダメならまあ別にそれは仕方ないけど、送るからにはもちろん全力を尽くそう」と、生まれて初めて思いました。「小説を商品にしてみたい」と思いました。

 

で、「二次創作のこと、たぶんわたしはわからなくなるんだろうな」と思った、というのが今日の本題です。枕が長い。

 

ファンフィクションコミットメントという本をずっと作っていて、作り終わりました。内容はnote再録、腐女子寓話とそれにまつわるコラムをまとめた本です。紙媒体は金ができたらぼちぼち……。

なんだろうな、もうここに出てくる彼らのこと、よくわからなくなってしまったんですよ。

二次創作のことも、二次創作者のことも、忘れちゃうんだろうなと思った。

本に入れたエントリに、「嫉妬のこと」というのがあります。ここではオンラインの交流が難しくなった話をしていますが、ブログやTwitterに作品の感想を書きづらくなったこと、二次創作をやめたこと、における、「オタクを続けている人に対するなんとなく苦しい感情」がずっとあって、ああこりゃダメだなと思って、好きだったものや愛したものをくだらない理由で憎みたくないと思って、そういうものから自分を切り離した。オタクの友達とある程度距離を取って、アニメやゲームや漫画の情報を一時期ほとんどシャットアウトしていた。「感想を書きたくなったら嫌だから、やりたくないから、やりたくなりそうなものは見ない」を続けた。そしたら本当に興味がなくなった、というか、どうやって、どんなふうに、興味を持っていたのかわからなくなった。

そしてそのかわりに、小説が書けた。

 

二次創作とはどうして二次創作でなくてはならないのか」というエントリは、ファンフィクションコミットメントのためのテキストとして、最後に書きました。難しかったです。もう二次創作のことがあんまり思い出せなかったから。

創作全般ですが、ひとつの側面として、「架空の実在性を手に入れたい」とか「架空に接触したい」という感情、「そこにある何かを、『ある』と言いたい」という欲望、そういうものがあって、それはたとえば「可能性」を幻視するという行為だと思う。そしてその「可能性」は、「絶対にこのかたちをしていなくてはならない」ことがあって、だから「わたしが幻視した彼らの人生やその続き」は「たとえほかの可能性を裏切るとしてもそのかたちをしていなくてはならない」ということがありえる、という意味において、二次創作は二次創作でなくてはならない。そういう、「わたしは彼らの可能性を見ることができる」「彼らの可能性に触れることができる」という、なんていうんだ、確信? オリジナル書いててもそれはやっぱり「可能性を形にすること」には違いないんですが、この場合の「可能性」は「存在するかしないか自体を選択できる」であって「存在しているものそれ自体の別の可能性に触れる」ではなくて、なんかうまく言えないんだけど、体験として別個の部分はたしかにある、「彼らに触れることはできないけど、彼らの可能性に触れることはできる」をやっていたことを、間違っていたとか無駄だったとか思いたくないし言われたくないし、これから先忘れてしまったあとで言いたくもない。ので、完全に忘れる前にここに残しておきます。

ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』に、超雑に要約すると「俺は戦争に行ったかもしれないし戦友は死んだかもしれないしそれは全部起こらなかったかもしれないけど全部本当の戦争の話なんだよ」みたいなことが書いてあるんですけど、わたしにとって二次創作というのは(これはわたしの話でみんなそうだという話ではないんですが)そういう「これは起こったかもしれないし起こらなかったかもしれないけどどっちにしろ全部自ジャンルなんだよ」っていうのを超カジュアルに前提として体験できるもので、そこが好きだった。と思う。「可能性を体験する」っていうのはそういう話で、そのうえでその可能性を共有するっていうのはめちゃくちゃ贅沢なことだと思うんですよ、まあ共有できない(人がいないとかで)こともあるけど……。

そしてオリジナル小説を書けば書くほど「可能性を共有する体験」というものが何だったのかわからなくなっていく。たぶん、わからなくなろうとしてわからなくなっているから、必死で遠ざかるために、嫌いにならないために、憎まないために、書いているんだと思う。わたしの目に見えているものはわたしの目にしか見えないということを、書いてしまっている。あなたの見ているものをわたしが書くことができるという可能性を、見失ってしまった。たぶんわたしは「自分の戦争」の話は書けても「わたしたちの戦争」の話は書けなくなっていて、それをいつかまた書く日は来るのかもしれないけど、それはかつて信じていたものではない、んだと、思う。風が吹いたのでそうなりました。いろんな理由で。

 

わたしは二次創作が好きでした。

「どうして」好きだったのかは思い出せなくなるとしても、「好きだった」ということは忘れないでいたいと思う。