どうして腐女子は隠れなくていいのか

わたしはひとり暮らしの自宅にテレビを持っておらず、新聞を取っておらず、マスメディアというとTwitterを眺める以上にはなにも持ちません。大事なこと(外国を含むどこかでテロだとか)は数人のフォローイングが呟くので支障はありませんし、わたしは十年近く選挙管理事務所の臨時アルバイトをしていて選挙の時は必ず電話がかかってくるので(選管のアルバイトは身元調査が厳しくそして休日に薄給で長時間労働のため常に人手が足りないらしく必ず連絡を頂きます)、選挙を忘れることもありませんし選挙の際にはグーグル先生で情報収集をすれば何が争点になっているのかはわかるのでそれで不自由もありません。どういう仕組みなのかはよく把握してないんですがiPhoneに位置情報を渡しておけば緊急の際は教えてくれます。便利な世の中です。

そんなわけで、家を出て角のお好み焼き屋(広島にはお好み焼き屋が遍在しています)に入るときだけ、わたしはテレビというものを目にします。久しぶりに目にするテレビはすごくおもしろい。ものすごく下らない内容でもまじまじと見てしまう。みんなぴしっとした格好をしているし、しゃべりかたもうまい。画面だってきれいで飽きないように作ってある。

そしてしょっちゅうゴシップをやっているのである。

 

今も、あれだ、誰かと誰かが、不倫かなにかをやって、どうにかなっているということだけは知っている――インターネットのどこかでぼんやりとした情報をなんとなく掴みました。ゲスの極み乙女のことは「ロマンスがありあまる」というフレーズだけ知っています(若い友人がこのフレーズはエモいと言って教えてくれました)。ずっとファンをしていて軽い恋のような思慕を寄せていた(軽くなくともよい)というならともかく、良く知らないどこかのだれかが恋愛をしてそれに責められる要素があろうがなかろうが正直これほどどうでもいいことはないとわたしは昔から思っているのですが、とにかく、テレビというものを目にするたびに男と女が何かをやってどうにかなった話をしているような気がする。

そうしてそれはいつだって男と女なのです。

 

さて、それはともかく、どこかの誰かが恋愛をしたかどうかより、わたしのTLでいつもホットなのは「腐女子は隠れなくてはならないのか」「同性愛表現を含む創作物は隔離されなくてはならないのか」という問題です。わたしを含め、わたしの周囲の人々は「隠れようなんていい加減そろそろナンセンスだ」「だいたいそもそもがなんで隠れないといけないという前提になったんだ」という立場にいます。わたしは2009年にTwitterを始めましたがそのころからずっとそういう内容の話をしていて、そういう関係で相互フォローになった人も多くて(当時は表現規制に関する話題が特別華やかでした、もちろん今でも大切な問題です)、だからそういうTLが形成される。

しかしわたしのTLの外の世界ではそうではないということも知っています。なぜなら定期的に、ずっとずっといつでも、腐女子はぐるぐると「どうしてわたしたちは隠れなくてはならないのか」と言い続けているということをわたしは(わたしたちは)目にして、ほとんどうんざりしながら「どうしてわたしたちは隠れなくていいのか」と言い続けているからです。

どうして腐女子は隠れなくていいのか?

という話をそろそろ一回まとめておこうと思いました。

 

テレビでは男と女のスキャンダルの話をします。そして男と男のスキャンダルあるいは女と女のスキャンダルの話はしません。そしてこの世界には同性愛者が存在します。LGBTの家族と友人をつなぐ会によると、少なく見積もっても50人にひとりは含まれるだろうということです。つまり男と女のスキャンダルが50回くらい報道されたら1回くらいは同性愛のスキャンダルも含まれるもんだろうという話になる。でもテレビはその話は(ほとんど)しません。少なくともこの国では。

 

ところでわたしはレズビアンです(たぶん)。わたしは性嫌悪をこじらせていておそらく区分としてはノンセクシャルと呼ばれる(恋愛感情は抱くが性的欲求は抱かない)カテゴリに入り、かつ、恋愛感情を寄せた相手とパートナーシップはおろか相互関係を抱きたいと思ったことはないので(なぜならわたしが好きになる相手はだいたい異性愛者だからだ)、あと、そもそも「女の体」というものは「性的にまなざしてもよい」と、少なくともこの国では定義されているので女性の肉体に何らかの感情を抱いてそれに自己嫌悪することは恋愛感情とは別ではないかとか、自認にいまだに色々と混乱がありますが、少なくとも男に思慕を寄せたことも感情をこじらせたこともない。「絶対同性愛者だ」と言い切れるかどうかはわからないが、「少なくとも異性愛者ではない」とは言い切れます。わたしが(BLという形で)犯される男性を眺めるのを愉しむことができるのは、その肉体にろくすっぽ興味がないからにすぎません。

で、わたしがレズビアンだという話を誰かにするかと聞かれると、別にしない。いや、こういう場所で、文脈上必要があればしますが、別にその話をするメリットがない。第一にわたしの自認もややこしいし、第二に(そして最大の要素として)それを打ち明けることによるデメリットが大きすぎる。

「デメリットが大きすぎる」ような社会である、という前提はあります。

 

そしてわたしは腐女子です。BLを読み始めたのは就学したかしないかくらいの年頃のころですが(姉の蔵書です)、それはただ選択肢のなかにあったから楽しく読んでいただけで、自分で選択的にBLをまなざして読み漁り自作するようになったのは24歳、結構遅い方だと思います。

それ以前は男女恋愛を書いていました。男女恋愛の二次創作を書いていた頃は「公式に読まれるかもしれない」は「前提」でした。インターネットというのはそういうもの、双方向のものだと思っていたし、そこがすばらしいと思っていたし、もしかしたら読んでもらえるかもな、と思いながら、結構気をつけて文章を書いてアップロードしていたのを覚えています。17歳でした。公式スタッフが読むかもしれないし、小学生が読むかもしれないし(わたしがインターネットをはじめたのはデジモンアドベンチャーという男児向けアニメがきっかけでした)、誰に読まれてもいいような文章を書く、というのは前提だと思っていましたし、今でも、オープンな場所にアップロードする限りにおいては、そう思っています(クローズドなSNSというものも今では存在しますが)。

でも2003年か2004年か、それくらいだったと思うんですが、わたしがサイトからリンクを貼ろうとすると「検索避けをしているサイトに限りリンクフリー」という文言が目立つようになりました。それは高じて「女性向け作品を扱っているサイトに限りリンクフリー」になることもありました。わたしは検索避けまでは入れてみましたが(リンクが貼りたかったので)、「女性向け」つまりBL作品を扱っていないという点に関してはどうすることもできず、なんだかよくわからないけどBLを書く人は大変なんだなあと思った覚えがあります。ちなみに検索避けタグをHTMLの中に入れてサイトの検索を避けることには成功しても、大抵の場合サイトタイトルでググると(あの頃はYahoo!を使っていたかもしれない)登録しているサーチエンジンが引っかかりました。これあんま意味ねえなあと思っていました。

BLと検索避け、ひいては、いわゆる「腐女子の自重圧力」に関する話題はものすごくいろいろな側面と歴史があり、それが悪いとは一概には言えません。それを「しなくてはならなかった」歴史もあれば、「それをしていれば大丈夫だった」時代もあるのではないかとは思う。それはわたしにはわかりません。歴史を知る当事者ではないから。

 

しかし現在、時代はTwitterとpixivです。

pixivはGoogle検索にめちゃくちゃ引っかかります。Twitterも鍵をかけなければ検索しほうだい、複数のキーワードを突っ込んだ検索タブを立てておくTwitterクライアントなんていくらでもあり、どんなに検索避けキーワードを考案しても、考案したキーワードが共有されればすぐに割れて検索対象に含まれます。「二次創作元の公式の目から逃れる」なんて不可能です。なぜなら向こうだって商売でやっているのであり、腐女子は立派な顧客、何がウケているのか調べるのはマーケティングです。

そして現在、BLは隠れるべき趣味でもなんでもなくなりました。書店にはBLコーナーが当然作られ、毎月たくさんの新作が並びます。毎月こまめに買ってカードを切っていく固定客というのがいると複数の書店員の友人から聞いたような気がする。中村明日美子先生の「同級生」が映画化して全国ロードショーだ。当然美しいポスターがあちこちに貼られ広告が打たれることでしょう。

 

以前「2.5次元のBL創作の話題で腐女子が煽られてるとモヤモヤするという話」を書きましたがそこから、ちょっと長いですが、引用します。

これからもしばらく(半生がどうこうに限らず)一定量の腐女子は隠れていくし隠れる権利がもちろんあるし、でも「隠れないことで生じるリスクがまだあまりにも多い」っていうのは実際あるんだろうな、悲しいことだなーと思います。べつに「BLが好きで、男二人のイチャイチャを考えるのが好きで、エッチな妄想が含まれることもあるよ」っていうだけのことで、無害なのにね。

結局のところ「腐女子という生き方」ってまだまだぜんぜん差別されてて、それは非腐がどうこうってことだけじゃなくて、当人の側にもそれは明確にあるんだよなっていうのはいつもすごく思います。BLはやばくて男女は全然問題にならない、っていうのは、結局のところホモフォビアの問題じゃねーかと思うし……。

「腐女子という生き方」に対するノイズ、ホモフォビアと、ミソジニーと、貞女幻想と、あとモノガミーとか儒教とかもたぶん絡んできててめちゃくちゃめんどくさそうだなというのは、それについて六年くらい考えてて思うことです。

「同性愛は気持ち悪い」「同性愛を面白がる女気持ち悪い」「同性愛をおもちゃにしてる女気持ち悪い」「セックスの話をする女気持ち悪い」「女は自分を愛してくれる男にだけ欲望すべき」「女らしくない女は気持ち悪い」「セックスの話をしてるくせに高尚ぶるな」「セックスの話をでかい声でするな」

そしてそれが内面化されて「わたしたちは気持ち悪い」になり、更に「気持ち悪いほうがカッコいい」になってる人もいれば「おまえも一緒に気持ち悪くなろう」になる人もいて、でかい声でセックスの話をすることの是非と、セックスの話をしていないのにセックスの話じゃねーかと言われる混乱がある(BL、やおい、カップリング、っていうものはべつにセックスや性愛を必ずしも含みません)。めちゃくちゃややこしいまま文化としてはどんどん拡大してどんどん変化して、「腐女子べつに気持ち悪くないのでは?」という層も「BLはふつーにおもしろい」という層もどんどん出てきている上で、迫害の歴史に怯えたまま「こんなんじゃだめだ」と言い続けてる人もいて、ややこしい現状だなあと思うし、一朝一夕には変わらないだろうな、ずっと揉めながら、やりあいながら、笑いものにしたりされたり、キレたりピーキー言ったりしながら、やっていくんだろうなと思う。

だからといってべつに腐女子が被差別層で底辺だから可哀想だとは言わないしたとえば文芸部や漫研が腐女子の巣窟でそのセックスファンタジーにハラスメントを感じて辛かったみたいな話もそれはそれとしてあるわけです。「腐女子が気持ち悪い」と言っている側にもそれはそれで言い分があることもある。

だから何だって、どうしようもない。

ただひたすら、歴史を喋って、現在を喋って、理想を喋って、ここが、よりよい場所になっていく日を夢見て、言葉を重ねて、コミュニケーションして殴り合って泣いてキレて、それでもやっていくしかないというだけの話です。

 

「隠れたい感情」と「隠れてきた歴史」はたしかに存在するだろう、でも、「現在」わたしたちはいったいどこにいて、なにに向き合って、どういう現実を生きているのかを、都度確認しつづけなくてはならない。

なぜなら、「隠れたい感情」のなかに含まれる、「同性愛表現はいけないものだ」「隠すべきものだ」という感情が、「同性愛者は隠れるべきだ」という感情に結びつくのは、きわめてたやすいことだからです。

 

わたしはレズビアン(たぶん)で腐女子ですが、それをたとえば「職場で」言うかと聞かれれば、たとえば「親戚に」言うかと聞かれれば、あるいは「ヘテロの友人に」好んで打ち明けるかと言われれば、それはNOです。七面倒臭い。わたしはそこまで自分の自認を社会に対して訴えていこうという強い目的意識も改革意識もありません。「意識が低い」と言われれば仰る通りですとしか言えない。

腐女子であるというのは「時として七面倒臭い反応を招く」、それは事実です。

でもだからといって「わたしは隠れる、おまえも隠れろ」というのは筋が通らない。「いろいろと微妙で七面倒臭いからわたしはひっそりやってたい」のは「あなたの問題」であって、それを他人に強要することは誰にもできない。わたしたちはpixivを選んだ。pixivは(運営はクソな行動をずいぶんとりますが)少なくともすごく便利だ。そしてわたしたちはpixivのアドレスをTwitterに貼ってこれすごくよかった泣いたと言う、それはすごく楽しいことだ、検索避けに汲々していたあの頃には考えられなかったすごく楽しいことで、そうして別に、アドレスをシェアするなんて、インターネットにおいてそもそも当たり前のことだったんじゃないのか。

pixivとTwitterはすごく楽しい。それはすごく良いことです。わたしたちのインターネットは最高だ。つらいことだっていっぱいあるけど、いいことだっていっぱいある。

そうしてpixivとTwitterは「隠れるのに適さない」、それも同時に受け入れていくべきではないか。

 

さて、お好み焼き屋のテレビではどこかの男と女のゴシップを告げています。わたしはそれを見て「これってセクハラだよなあ、芸能人だって言っても」と思います。

「隠れるべき」という前提が存在するならば、「下世話なゴシップで騒ぎ立てる根性の醜さ」のレベルで存在するのであり、それは性別を問わず等価に存在します。

そうしてわたしたちは空想の世界において、誰かと誰かの恋愛模様を想像して遊んでいます。それは「隠れるべきこと」でしょうか? それで傷つく「当事者」が存在しないとしても?

 

なお二次創作ガイドラインというものを用意している公式も増えてきましたね。ルールを守って楽しくやっていきましょう。なおガイドラインがない公式に問い合わせるのは向こうも困ると思いますのでやめておきましょう。口にしないでおけばお互いハッピーなままでいられるということもあります。