差別的思想を描くこととPC配慮について

 ときどき、香田が恋人とふたりでいるところを見かける。香田の恋人はとても美しい女で、ふたりは絵に書いたような幸福なカップルに見える。完全無欠を絵に書いたようなカップルに見える。音は彼らから目をそらす。

早久良音は香田春人を憎んでいる。

こちらはときどきどころの話ではなく、伊藤さらばと倉井さわこが腕を絡ませて歩いているところも見かける。過不足のない容姿のさらばと美少女という概念の擬人化じみて見えるさわこの組み合わせはこれまた完全無欠なカップルに見える。

早久良音は倉井さわこを憎んでいる。

早久良音はあらゆるものを簡単に憎む。その範囲がどんどん広がりつつあることを自覚していた。自覚しているから大丈夫だ、と音は思う。それがどこから生まれるどんな感情か、気づいているから大丈夫だ。大丈夫。

本当に

オリジナルBL企画「ラブディスコミュニケーション」から。この作品はキャラメイクからネタ出しまでが共同作業で、わたしは中澤ユーハイムという名義でプロット整理とノベライズを担当しています――ということでキャラクターを「どのように運用するか」に関してはわたしの裁量で行われます。

わたし今告知っぽいことに使える仕事がLDCしかないのですがまあ直近の大仕事がこれなので仕方がない……。LDCは厳密には「わたしの作品」ではないんですけど、少なくともキャラクターの物語上の運用に関してはわたしの裁量が大きいので、LDCの話をします。あとLDCはキャラメイクにわたしが噛んでいないこともあり、クリティカルに「魅力的だけどやばい」キャラが多いのです。わたし個人で行ったキャラメイクだとつい修正をしてしまいそうなくらいに。

 

先日に引き続き、PC配慮についての話をします。

引いた文章の視点キャラは早久良音くん、LDCの主人公です。彼は「群像ラブストーリーの主人公としてありがちな空虚さ」をテーマにキャラメイクされたので、当初キャラクターがぺらっぺらでした。ぺらっぺらであることを目的としてぺらっぺらなんだけどあまりにもキャラとしての魅力が薄いので、テコ入れとして投入されたのが「コンプレックス」。

音くんは「ぺらっぺらなのは外面だけ、心の中はあらゆるものへの憎悪で真っ黒」というキャラクターで、彼は「自分を選ばず再婚して幸福になった父親」「自分を捨ててどこか遠くへ逃げてしまった母親」に愛憎を寄せるあまり、「男」も「女」も「他人」も「自分」も全て憎んでいます。唯一の愛を寄せるのは「それらとは全く関係がないはずの」美しい幼馴染。そして幼馴染の売春という事実を突きつけられたとき音くんの世界に信じられるものは一度全て喪失します。

で、承前の文章は音くんの最初の述懐ですが、さほど詳細には書いてないのであれですが、ここだけの情報を切り取ってもう少し詳細に書き込み、彼の抱えるミソジニ―とミサンドリー、ホモフォビア(さらばとさわこはゲイカップルです)、そして「リア充への憎悪」、をきっちり描き込むのは(描き込んだらこの話それでなくても全体で十五万字近くあるのに膨大な量になるから描き込んでいませんが)不可能ではありません。そしてそれをきっちり描き込んだ結果「早久良音のような差別主義者の差別意識をキャラクターの魅力的な側面として描くのは差別を助長している」と非難される可能性は十分にあり得ます。

でも音くんが差別主義者になったのは経緯があり、そして音くんは差別主義者であるがゆえに孤独で不安な世界を生きており、最初から最後まで彼の孤独と不安は解消されることがないままでした。わたしはそのように彼の差別意識を描きました。

 

LDCは厳密にはわたしの作品ではないんですが、ともかく、わたしの作品には差別主義者が登場します。それは前提です。

何故なら、この世界の大多数は正しくも美しくもない弱くて不完全な存在だし、しばしば間違った行動を取るし、それがわたしの生きている現実で、そしてわたしは間違った行動を取る彼らをある意味で愛しているし、その上でとほうもなく憎んでいて、そうして「彼らを描かないではいられないから」です。わたしは彼らをモチーフに取り続けるし、わたしの物語のなかで彼らは差別的にたわめられた視座から人間を愛し憎み人生を生き延びあるいは死んでいくでしょう。

差別主義者には差別主義者の文脈があり、そこに至る背景、至らざるを得なかった社会や環境による抑圧もしくは教育があります。そして彼らは自分が間違っているかどうかを問うことすらないままに往々にして生きて死んでいきます。

わたしはそれを「恐怖」として描くし、「そのような救われなさと断絶」を描くことは、わたしにとって正しいことで、「この世界はどのように正しくあればいいのか」という視座、つまりポリティカリー・コレクトに対するわたしからのアンサーです。「間違った人間がいる世界は恐怖と孤独と不安に満ちている」。それがわたしがずっと描いてきたことであり、そして、どうしてもその先にブレイクスルーすることができなかった限界でした。

 

おそ松さんの話に戻ります。

おそ松さんに対してわたしは「あの作品をPC配慮が欠けていると指摘するのは文脈の理解があまりにも乏しいのではないか」と指摘をしているんですが、あの作品の「痴漢冤罪」あるいは「ニート」「ミソジニー」が「つらい」というリアクションがあるのは当然だと思う。つらい。ものすごくつらく描かれている。

ただ、わたしが言いたいのは「差別主義的な視座を持つ作品」は「PC配慮に欠ける」というわけではない、ということです。

先に述べたように、「音くんの差別意識」には、文脈と、そして差別意識を持って人間に接した結果得られなかったものと、不完全なまま放り出された彼の人生がある。それは彼が差別主義者であった、そして他者と向き合って他者の傷がどんなかたちをしているか見つめることができなかった報いです。そして実松さんは孤独で退屈な日常から救い出されることはないし、六つ子のもとにやってくる白馬に乗った女神様はいない(いても彼らが手を取ることはない)。それは彼らが自分の殻に閉じこもって他者を見ず、他人だけでなく自分が、そして自分の兄弟が何ゆえに傷つくのか無頓着に生きている報いです。

PC配慮とはシーンではなく文脈に宿るものではないかとわたしは考えますし、そうでないとしたら、「間違った人間が間違った人間として生きている」こと事態を描くことができなくなってしまう。差別主義者は「敵」ではなく「いまそこにいる誰か」であり、そして彼らが存在する世界がここにあるという絶望を描くことには正しさと意義があるとわたしは考えます。

 

そしてわたしの限界は「みんな死ね」という結論にあり、「祈りなき世界」というおそ松さん二次創作を先日書いたんですが、つまりそういうことでした。

 

でもおそ松さんという作品は「もういいみんな死ね」の先をきちんと描こうとしており、たとえばじょし松さんたちは六つ子や実松さんが陥った孤独な不幸を超越して「他者のいる幸福」を生きています。デカパンとダヨーンもそうです。六つ子がデカパンとダヨーンのハッピーなクリスマスを手に入れられないのは、じょし松さんたちの本音トークとそれを乗り越えたうえでの承認を手に入れられないのは、どうしてなのか、という疑問は既に投げられている。そうして六つ子は少しずつ変化をしています。「連続テレビドラマ 実松さん」は第三話にして「実松さんの狂気」に至りました。たぶん四話をわたしたちは観ることはないわけですが(あんなのは一回で十分ですが)、でも実松さんと薫子ちゃんの明日は三話とは違う形をしているでしょう。

新オープニングが示す通り彼らは「前進することができる」し、13話が示した通り「彼らが必死で自分の役割を守り通すことによってあるいは兄弟を弾圧して黙らせることによって得ていた平穏」は音を立てて崩れ去ろうとしています。カラ松は「台本通りではない台詞」を獲得し、トド松はかつてあれほどの恐怖に彼を叩き落した一松をだれひとり味方がいなくても正面切って虚仮にしました。

この物語は「その先」へ向かおうとしているし、それを、「絶望」も「孤独」も「出口のなさ」も描いた上で「その先の未来は必ずある」、「人生にたわめられて正しく生きることができなかった人間でも、生き延びるチャンスはいつでも残されている」ということを描こうとしているとわたしは、少なくともわたしは感じているし、それを持ってこの作品を「きわめて誠実で親切で、配慮の行き届いた作品である」と考えています。

 

ニートがニートだからという理由で笑われていいはずもないのです。そうしてそれは「脱ニートしたから今度はニートを笑う側に立っていい」という結論に至るべきでもないのです。走っていく彼らの選ぶ未来を楽しみにしています。「もういいからみんな死ね」ではない未来を。

 

 

ところでLDCの次回プロジェクトおよびネット販売物の整理は鋭意進行中です……よろしくね!