この世界では女は女神の形をしている

おそ松さんのポリティカリー・コレクト配慮に関して物議を醸している現場は見に行っていないんですが、どうもそのあたりの話が話題になっていると小耳に挟んだのでその辺の話から新春のブログ始めをしたいと思います。

前提として、わたしはおそ松さんというアニメをかなり初期から「PC配慮が非常に行き届いている」アニメとして評価していて、その前提は13話を観て以降も覆っていません、というスタンスから話をします。

 

おそ松さん13話ですが、「痴漢冤罪」と「女の敵は女」がキーワードとして大きくて、おそらく問題視されるとしたらここだろうと思う。

13話は3つのパートに別れており、

  • 全く絵柄も登場するキャラクターも違う「連続テレビドラマ 実松さん」
  • 六つ子の名前とキャラクターをもじった女キャラクターによる本音女子会「じょし松さん」
  • いつも通りの六つ子がいつも通り(というか)の日常を繰り広げる「事故?」

によって成り立っています。以下ネタバレだよ!(ネタバレはいつものことだけど今回どんでん返しがあるから)

「実松さん」は

  • 孤独で退屈で苦痛に満ちた生活を送る青年実松さんが、痴漢冤罪や周囲の心ない言葉に怯えながらも、幸福な生活を送っている
  • 彼には彼を待つ五人の兄弟がおり、彼らと過ごす時間が実松さんには至福の時間であり、そこで彼は受け入れられ、慕われている
  • 幸福な時間を過ごす実松さんのもとに買い物袋を片手に現れる職場の後輩、薫子ちゃん。しかし彼女がチャイムを鳴らしてもノックをしても、それは伝わることはない
  • 庭先に回って窓を覗いた薫子ちゃんは恐るべきものを目にし、悲鳴を上げる。そこにいたのは「兄弟との団欒」をたったひとりで楽しんで笑う実松さんの姿だった

という内容です。

痴漢冤罪のシーンは冒頭に置かれており、実松さんは「違う」と主張しますし、それ以降電車の中で手を上げている(冤罪を受けないために対処している)というシーンもあることから、これは実際「冤罪被害にあってつらい青年」のシーンと取ることもできる。

しかしあらすじからみてもわかるように、最後に「実松さんの世界の認知は歪んでいる」と明らかにされます。薫子ちゃんという第三者から見た実松さんの世界の実松さんの幸福は、驚愕し悲鳴を上げるに足る恐怖に満ちたものとして描かれる。

つまり、それ以前彼が「受けている」と感じていた非難の全てが、「彼が見たもの」「彼の耳に聞こえていたもの」でしかない可能性は高い。というか、「いつから実松さんが正しいと思っていた?」というどんでん返しを機能させるためのミスリードと取ったほうが自然な読みだと思います。この話を一度見て最初から観返すと、歯ブラシが六本茶碗が六個スーツが六着、きっちり用意されている彼の家の異常に気付く。そしてその前提で観ると、今度は「実松さんがかわいそう」だったはずの痴漢冤罪を主張するシーンはがらっと意味を変えます。「この男が主張する真実とはいったい何だ? 信じる理由がどこにある?」

そして彼は「幸福な生活」を送っているがゆえに、「なにも聞こえない」。彼に救済の手を差し伸べ、彼の人生を孤独ではないものにしようとした薫子ちゃんの言葉は彼には届きません。彼は自分ひとりで充足し、自分ひとりで自分を肯定することができる世界を完璧に作り出して、そこにずっといることが彼の幸福で、そこには誰も入り込むことができない。

さて、ここで重要なのは、薫子ちゃんの側に、きちんと、実松さんに手を差し伸べる動機が描かれているという点です。

おそらく先輩に当たるであろう同僚に「薫子ちゃん」とマスコットのように呼ばれ、馴れ馴れしく肩や背に触れられて、実松さんと対話をしたいという要求を阻害される薫子ちゃんは、これだけの描写で十分「セクハラ被害を受けている」と取れます。そう取れば彼女が実松さんをランチに誘ったことも、実松さんの自宅をわざわざ訪ね、意を決してコミュニケーションしようとしたことも、自然な流れとして置かれています。彼女は同じ会社で同じように言われなき攻撃を受けている「被害者」として、何かを分かち合おうとしていた。

しかしそれは成されなかった。彼女の声は実松さんには聞こえない。どんなに大きな悲鳴を上げても。

 

「実松さん」は作中でテロップが出る通り、文字通りの「これまでのあらすじ」です。六つ子たちはこれまで、イヤミのブラック工場へ招かれ、ハタ坊のところに就職し、チビ太に弟子入りを求められ、彼女と共に新幹線に飛び乗って旅立つことさえ、しようと思えばできた。でも彼らは結局いつでも「六人でひとつ」の世界に回帰していきます。そこにいるのが一番楽だから、そこにいれば少なくとも集団であるというだけでひとつの武力を持ち、たとえ愛されることはなくてもそこにいれば食べて寝て存在することは許される。そこには他者がいないからです。彼らはお互いを他者として認めていない。自分の一部分として扱うことがあたりまえだと思っているから、心ない言葉も平気でぶつけるし、平気でそれを受け流してしまう。彼らは対話をしない。他者ではないからです。

おそ松さんは時々ギャグアニメの体裁の根底から放り出した話をやってきていて、それが5話「エスパーニャンコ」(これは最後にオチがつきますが)、9話「恋する十四松」そして13話「実松さん」でした。これらは全て同じ構造によって成り立っています。つまり「善意の第三者」の介入による世界の崩壊の危機と、「崩壊することを選ばず五人ないし六人(=ひとり)で結束し幸福な世界を保つ」物語です。そして「エスパーニャンコはいい話じゃない、悪意だよね?」というのが12話副音声で齎されたキャストコメントでした。「エスパーニャンコ」「恋する十四松」まではそれでも「一見良い話に見える」体裁は保たれていた。「実松さん」はもうそこから放り投げています。「だれもいない世界で幻影を相手に幸福に過ごしている姿はおぞましい」「そこには他者がいない」。

そして、かたや、この世界では薫子ちゃんが、トト子ちゃんが、イヤミがチビ太がハタ坊が、にゃーちゃんや彼女が、みんなたったひとりで自分の持てる武器を必死に抱えて闘争を繰り返しあるいは挫折しており、そしてまたあらゆる場所でデカパンとダヨーンは幸福な「友情」を交わして「ひとり」と「ひとり」が「ふたり」であることを愉しんでいます。

そちら側を選ばないのは実松さんの、そして、六つ子の問題なのです。

 

おそ松さんのそのようなもうひとつの側面を描き出しているのが「じょし松さん」です。

この話で登場する女たちは皆六つ子に似た名前を持ち、六つ子をどこか想起させるようなキャラクターで登場しますが、しかしその実六つ子とは全く関係のない女性たちです。これは彼らのIFルートではあるかもしれませんが、単純な意味でのIFルートではありません。これは「彼らが女だったら」というIFではなく、「彼らが自分自身を肯定し、自立した人間として生きることを選択していたら、あるいはできたかもしれないこと」です。たとえばおそ松は兄弟の長所短所をそのまま素直に受け入れリーダーシップを取る能力を外の世界で発揮していれば、今頃会社で後輩に慕われて先輩に可愛がられてそれなりにうまくやっていたかもしれない。

それは「男だからできない」「女だからできる」という種類の話ではありません。男にもできる。業種によっては男のほうがうまくできるかもしれない。

何故「じょし松さん」たちはあんなに輝いて自己実現をし、自分の欲望に正直に振る舞い、お互いに本音をぶつけ合えるのか。なぜそれが「女子」でなくてはならなかったのか。

それはこのアニメに登場する「女」は、畢竟「六つ子の視界に映ることができる女」に過ぎないからです。

 

おそ松さんは「男のニート」が主人公のアニメであり、加えて「男のニートのホモソーシャル」が主人公のアニメです。

彼らが「ニートになるしかなかった」経緯は、「赤塚先生なき現代、いったい何がギャグで何が面白いのかわからないのに、アニメこの先どうしよう」というメタ発言によって1話で既に語られました。彼らには進むべき道がないからニートになるしかなかった。そして彼らには幸か不幸か、漫画連載開始からずっと支え合ってそれなりにつらいキャラクターとしての人生(おそ松くんたちはタイトルロールであるにもかかわらず、かつてイヤミとチビ太に主役の座を奪われ、背景と化しました)を耐えて生き延びてきた、五人の兄弟がいました。本心では嫌っていても嘲っていても見下していても、それでも彼らは毎日一緒に食事をし、毎晩おなじ布団で眠り、一緒に行動します。彼らは彼らであり続けている限り、幸福でいられる。それを彼らは選び続けている。

「男の結束」はもう十分足りています。だから彼らは外の世界に「女」を求める。そしてそこで求められる「女」は「会いに行けるアイドル」「顔採用とうわさされる路面店の店員」「AV女優」「レンタル彼女」つまり、「客体」です。彼らが求めているのは彼らをちやほやして良い気分にさせてくれる、あるいは美しさを振りまいて夢を見せてくれる、あるいは彼らを見て笑ってくれ、彼らを指さしてきゃあきゃあ言ってくれる女の子であり、そこには「対等な人間関係」はありません。

この世界で女は女神のかたちをしている。女神は彼らを評価して宝物を与えてくれる。女と金は同じかたちをしている。そうしてそれは人間のかたちをしてはいない。

この世界のどこかにいるかもしれない松野姉妹、出口のない生活を送る女のニート、あるいはそのような底辺を生き延びる女たちは、六つ子の視界に入ることができません。彼らは「ブス」を「相手にしない」立場にあると、かつて10話で言及しました。彼らの世界に存在するのは「女神」であって、彼らと同じ退屈で苦痛に満ちた生活を送るどこかの底辺女子ではないのです。

 

おそ松さんをミソジニ―から指摘するならまずそこからであるべきです。

 

そしてそのうえで、このアニメは彼らのミソジニ―を肯定しそれでいいと言ったことは一度もない、ということも、きちんと踏まえられてしかるべきだと思う。

おそ松はにゃーちゃんの握手会に乱入しセクハラをした罪で兄弟からあわや追放の憂き目に合い、それ以降「お兄ちゃん淋しいよ」と兄弟に向かってはっきり言うことなく兄弟に対して「分かってます感」を適切に運用することで二度と兄の座を失わないように汲々しています。カラ松は「女の子をチラ見して身勝手な幻聴を聞いた罪」で川に落ちます。トド松は女の子の気を引くために経歴詐称をした罪で処罰されるし、彼らは「レンタル彼女」が「金で買える」ということに依存した罪として手ひどい裏切りを受けます。彼らが女に寄せた身勝手な期待は常に裏切られ続けている。彼らが愛されないのは身勝手だからだ、彼女たちの気持ちを考えたことなどないからだ、そのことはきちんとこれまで描かれている。

そしてそのうえで、「セクハラ発言に凍りつくにゃーちゃん」「カラ松を罵倒する橋の上の女たち」「AV出演に対して拳でNOを語り六つ子が都合の良い行動を取らなかったら制裁するトト子ちゃん」「トッティに幻滅して足早に帰っていくスタバァ店員」、そして「悲鳴を上げて恐怖に怯える薫子ちゃん」、女たちは決して「自分は女神である」と自称したことはありません。彼女たちは彼女たちの人生をきちんと生きており、六つ子に対して冷たい目を向けている。

そしてじょし松さんたち、この物語において六つ子の視界に入ることができる「レベル」を維持している自己実現に成功し堂々と生きている彼女たちが「狙っている」のは、たとえば可愛い後輩男子であり、たとえば彼女のバイタリティに釣り合うだけのパワフルな男であり、たとえば山登りなんかを趣味にできるような安定志向で将来性と金のある男であり、とにかくイケメンであり、つまり、「松野兄弟ではない」。そして彼女たちははっきりと本音をぶつけ合い、「女の敵は女って本当よね」とまで言及するけれど、それはあくまでも彼女たちの間でのやりとりに収まっており(しかも女の敵言説に関して彼女たちは誰ひとり「そうだよね」とは答えず、「は?」というリアクションを返しています)、喧嘩のあとには彼女たちは泣いて抱き合って友情は最高! と言うことができるのです。

 

そして、対称的に、六つ子たちは誰も「ごめんね」も「大好きだよ」も言わずに、喧嘩なんてなかったかのように食卓に戻っていきます。

 

このアニメが「ニートの六つ子」を主人公とすると決まった時から、彼らを笑うことそれ自体に、政治的な微妙さはすでに付きまとっていました。

その上で、ニートであること、男がホモソーシャルを形成すること、そこにはミソジニ―が当然含まれること、なぜホモソーシャルにミソジニ―が付きまとうのか、そしてホモソーシャルの問題点とは何か、「どうして彼らは幸福になれないのか」。それをおそ松さんはずっと描いていて、それをPC配慮と言わずしてなんというのか、とわたしは思う。

PC配慮とは臭いものに蓋をして見えないように糊塗して、クリーンな世界を描くことだけではないはずです。六つ子は当然差別的世界観の中を生きている。でも幸福になれない。じゃあどうするのか。

 

ひとつの回答として、カラ松は2話で「カラ松ガールズ」という「カラ松ファンがきゃあきゃあ言う声」という幻聴を聞くことしかできませんでしたが、10話レンタル彼女では彼は兄弟のなかでただひとり身体接触ではないコミュニケーションを求め、11話では逆ナンについていっておそらく一対一の対話をしました――まあぼったくりバーだったんですが。かつて兄弟から「追放」され、いまでもほとんど話を聞いてもらえないカラ松ですが、彼はひとりだけ、兄弟の中で「他者と関わる」ということを自分から進んで行い続けようとしています。トド松さえスタバァ以降新しい女の子との関係を築いていないのに。

そして彼らの幸福な世界は13話に至って綻び始めています。「おまえいらない存在なのに」「そのキャラやめたら?」「十四松っていつからこう?」黙っているべきだった言葉のやりとりが行われ、それはなかったことのように平和な朝食に集約されましたが、彼らはじょし松さんたちのように泣いて抱き合って大好きだよと言うことはできない。

 

さてあと11話かな? 彼らが女神ならざる誰かの手をとることはできるでしょうか。