金と女と労働の死という通過儀礼は終わった!

おそ松さん10話はちょっとあまりにも情報量が多く、かつあまりにもすさまじい内容で、萌えのことをさておいても何をどう書いていいのかわからないのですが、どうにかまとめてみようと思います。

おそ松さんというアニメが始まった時、「ニートの話」であると提示された以上、「脱ニート」がゴールではないか、という予測は当然ありました。

しかしこのアニメはやすやすとそんな単純なレベルをブチ壊し、「成熟するとは、人生を選択するとは、どういうことか」を、六つ子と仲間たちに突きつけようとしています。

10話はそういう話でした。

 

10話の骨子はこうです。

  • 住所不定無職を続けるイヤミは「レンタル彼女」という職業を把握、自分とチビ太、ダヨーンの三人で女装をしてレンタル彼女の事業を開始
  • しかしさっぱり客がつかず、六つ子に「誰が買うかブス」と侮辱される
  • 屈辱から立ち上がったイヤミとチビ太はあらゆる努力をして「美しく」なろうとするがどう転んでも無理だと自認
  • 彼らはデカパン博士を頼り、「美女に変身できる薬」を入手
  • 美女となった彼らは六つ子を客として取ることに成功、あらゆる手段で金を搾り取る
  • しかし薬に耐性がつきはじめ、有効時間がどんどん短くなってゆき、イヤミとチビ太は廃業を決意した矢先、もう払う金がないはずの六つ子が金を持って登場
  • イヤミとチビ太に貢ぐために勤労したという六つ子から最後に金を巻き上げようとしたイヤミとチビ太は正体を露呈
  • ふたりは六つ子に復讐される

全くすさまじい話なのですが、まず、ここで扱われているのが、六つ子が7話から9話にかけて抱いていた「女という夢」の徹底的な破壊であることは明らかです。そして併せてこの話では、「労働をするということ、金を稼ぐということ」も意味を失い、「金を払うということ」も意味を失いました。

2話から5話にかけて扱われていた「金がない」「住む場所を失いたくない」「遊んで暮らしたい」「カラ松を取り戻すのに100万も?」という問題が、「金」の問題ではなかったという話は以前しました。そこで扱われていた「金」とは「生きのびる方法」や「生きることを許されている立場の結果得られるもの」であり、彼らがクズと呼ばれることから逃げ出すか逃げ出さないか、あるいは言い逃れができるかできないかという問題でしかなかった。「職業選択」の結果発生する「金」には、「責任」がまとわりついています。

そして7話からこの10話にかけて彼らが夢見、求め続ける「女」たちは、一貫して「彼らを許し、受け入れ、求めてくれる相手」です。彼女たちは決して彼らに「自立して生活して金を稼いで一人の立派な人間になって自分と対等に向き合ってほしい」とは言いません。どんな面倒臭い欲求も何一つ言いません。というかそこにあるのは人間同士のかかわりですらありません。

なぜなら彼女たちが彼らと触れ合うのは「それが仕事だから」に過ぎず、また「彼らがいてもいなくても別に全然生きていけるけどちやほやされると気持ちいいから」に過ぎず、また「わたしを楽しくしてくれるのは確かだけど、きっとわたしのことはわかってくれないし、それを求める気もない」まま去っていくしかなかったからです。

六つ子が求めているのは「愛」「承認」「美」「憧れ」「アクセサリー」「許し」つまり「客体」です。「金」という「責任」から逃亡し続ける彼らは、「女」という「客体」に、許されたい。愛されて、特別な人間にしてもらいたい。そうして自分が自分であることを受け入れられたい。

彼らを固有の存在として認識しない両親は彼らを養ってはいても彼らを個人として個々に愛情を注ぐことはありません、それどころか「愛されるために自己アピールをしろ」とまで言う。彼らは「自分が自分であること」を家族に認めさせることすら困難な環境において、「他者に愛されること」に救いを求めている。そのひとつの残酷な結末が「恋する十四松」であり、そこには美しい恋はあっても、個人と個人が対等に対話する空間は存在しなかった。十四松は十四松として受け入れられたけれど、「松野十四松とは何であるか」「彼がピエロの裏側に何を抱えているのか」を彼女が知ることはなかった。

そしてもうひとつの残酷な結末にしてついに六つ子が至ることになった真実が、この10話です。

 

六つ子がレンタル彼女に金を払い始めたとき、彼らはまず、「自分が女を買うとき、自分たちには女をジャッジする資格がある」という立場に立っていました。「受け入れてくれる女ならだれでもいい」わけではないと彼らははっきり言った、そもそもそれは「女」ですらなく、女装した古馴染であり、しかもすごく仲の良い古馴染というわけですらない古馴染であり、デートをして特別楽しいわけがないという側面は含まれているのですが、しかし彼らは「イヤミとチビ太とダヨーンとデートをして何が楽しいんだ」と言って断ったのではなく、「鏡見ろブス」と言って断ったのです。

そして彼らはその結果、「美しく変身したイヤミとチビ太」にていよく弄ばれることとなりました。

イヤミとチビ太は事細かな料金形態を六つ子に提示し、その中には「おっぱいチラ見料」や「優越感に浸った料金」といったものすら含まれています。そこにあるのは「美しく、良い気分にさせてくれる女を隣に置くことで得られる全て」に料金が加算されている。そして六つ子はそれを支払い、それを手に入れ、それを手に入れることを嗜癖し、中毒症状に陥ります。

彼らが最初求めていたのは「女の子とデートをして楽しく過ごしたい、ほんとうはただでそれをしたいけど、お金を払えばできるっていうんなら、それでいい」だったはずでした。

しかし彼らは最終的に、「お金さえ払えば、女の子はなんでもしてくれる」という世界に陥ります。

そしてその結果、彼らはかつてあれほど愛した「自立し、自分の意志を持って、自分の好みと目的のために生きる主体的な女」である彼らのカリスマトト子ちゃんの魅力を理解する能力を失います。彼らはかつてたしかに「主体的な女はかっこいい、自慢の幼馴染だ、推せる、一生ついていく」という世界に生きていて、そのころ彼らにとって「女」という概念は「金なんかで買えるもの」ではなかったのです。

しかしレンタル彼女はすべての価値観を破壊しました。今や金さえ払えばおっぱいを見せてもらえるし、金さえ払えば一緒にいてくれるし、「彼氏」として認めてくれるし、抱きしめてくれて、あれがほしいこれがほしいとねだる彼女に対してぼくがいないとだめだなって優越感を感じることもできるし、どんなクズでも受け入れてくれる。金はすごい。金がないなんて些細な問題です。働けば良いのです。そうして六つ子はあれほど忌避してきた労働にいともやすやすと就き、いとも簡単に大金を手に入れ、意気揚々と彼らに買われるのを待っている女たちのもとに凱旋し、買える限りのものを買おうとしました。

 

そして彼らには唐突に真実が突きつけられます。

「女とは概念である」

「理想の女は実在しない」

「全部嘘」

 

「主体的に生きる女」であるトト子ちゃんがおっぱいチラ見を一ミリも許さないタイプの衣装を身にまとい一切男に媚びない姿勢のアイドルを貫こうとすることとは対称的に、イヤミとチビ太が演じる女は男の夢に溢れています。金髪巨乳だけれど立ち居振る舞いはクールかつ清楚でちょっとおちゃめな側面もあるイヤ代と、あくまでも愛くるしく庇護欲を掻き立てる小悪魔でありながら甘やかさのなかにどこか母性すら感じさせるチビ美は、単純に「美しい外見」を持っているだけではありません。彼らは「都合の良い女」を、完璧に演じ切っている。それは彼らが本当は男だからであり、「都合の良い女」とはどんなものであるか、何が求められているのか、よく知っているからこそ、行われました。

そこに用意されていたのは「夢」で、つまりそれは裏を返せば「嘘」でした。

 

トド松をリンチする姿勢からみられるように、彼らは一貫して嘘を憎んでいます。彼らは嘘つきをリンチし、嘘のない、対等で平等な世界を信じ切って六人でひとつであり続けようとしてきた。その結果彼らが陥った場所がここです。これは美しい世界以外を見つめなかった報いです。

 

当然ながらこれまでも、にゃーちゃんやトト子ちゃんや彼女の住む世界には嘘があり、それはスタバァの店員の完璧な笑顔にすらあります。六つ子はそれからずっと目を逸らしてきました。コンテンツとして提供される笑顔の裏側には、イヤミやチビ太のほくそ笑む顔が潜んでいます。彼らが愛した女たちの向こう側にはもちろん無数のイヤミやチビ太(彼女たちを男のためのコンテンツとして成立させようとする男たちの視線)がある。それはこれまでだってずっとそうだった。ただ知らなかっただけ、気づいていなかっただけ、もしくは、知らないふりをしていただけです。

そして彼らは徹底的に夢を破壊され、圧倒的な不信だけを抱くことになりました。

 

10話は本当によくできた精密な話で、「女というコンテンツを男のために作るのは男」ということだけではなく、「労働の価値とは何か」というところまで突っ込んで描かれています。

「労働の喜び」とは「正当な報酬を得、その報酬で何かを購入すること」であるということに六つ子はあまりにもあっさりと目覚めるわけですが、その夢はほとんど即座に叩き壊されます。「払った金に見合うものだったか?」という問題がすごい勢いで叩きつけられたからです。

労働を始めるとしばしば陥ることですが、「大人になったから遊ぶのをやめて働かなきゃいけない、働くとどうなるか、金がもらえる。金がもらえるとどうなるか、女が買える。女が買えたからなんなんだ?」という状況に六つ子はたった数分で突っ走りました。実際のところ人生においてはそのシーンで、「女(ないし任意のコンテンツ)を買う意義」を捻り出したり、「金を払うにふさわしい意義あるコンテンツをあてどなく探す」作業になったりして、それなりに折り合っていくわけですが、六つ子は凄い勢いで「つまり労働とは無意味である」という結論に直滑降していきます。イヤミとチビ太がおれらをだまして金を巻き上げたのなら、おれらもおれらでイヤミとチビ太から金を巻き上げ直せばいいだけの話です。金を稼ぐなんて簡単だということはよくわかりました。で、金を稼いだから何なんだ?

 

「大人になること」は「ニートが脱ニートすること」ではない、ということを、おそ松さん10話ははっきりと突きつけています。

「大人になること」はたとえば「社会」と繋がることであり、たとえば「他者を他者として受け入れあうこと」であり、たとえば「金の使い方を覚えること」であり、たとえば「世界に溢れる嘘を見抜くことや受け入れること」であり、それができないから六つ子は「大人になれない」。彼らには現実が常に叩きつけられる。金を稼いだから何なんだ? 女にモテたから何なんだ? なんのために生きてるんだ? こんなに退屈なのに?

 

それはあと14話で見つけるんだよ。

ドラマCDまで突っ走れ!(ついていきます!)