優雅で楽しい生活

旅行に行ってない。

 

去年の11月に友達が結婚して、それに着ていく服がそもそもない状態で服のことはまあどうにかし(なっていたのかどうかあやしいんだけどまあ一応どうにかし、いや、平服でどうぞのお式だったんですけど、それでも着ていく服がなかったんですよ)、それに出席するために名古屋に行って以降、旅行に行っていない。

12月に東京に遊びに行く予定だったんですが、祖母が死んだのでそれはなくなりました。まあ納骨があるのでということで1月もなんとなく旅行に行きませんでした。2月3月は普通に体調が悪くてあとふつうに忙しくて家にいました。

 

旅行に行きたいという感情がきれいに消滅してしまった。

というのも旅行に行かなかったら金銭的にかなり余裕があるということに気づいてしまったのです。

 

ここまで書いたところで三日ほど放置してあったぶろぐの続きを書こうとしてるんですが、ここからどうやってつなげようと思っていたのか思い出せない。貧乏の話をしようと思っていました。

わたしは貧乏なんですが、そう、それはもうなんの余地もなく貧乏で、具体的に言うと家賃と生活費を払ってしまうと一万円残らない……ときがある(業務形態上収入にはムラがあります、そこが最低ラインで、そこを割らない生活は維持できています)くらいです。でもそもそもべつに手元に五桁のお金がないという生活は昔から普通でした。家賃と生活費が捻出できている以上の何も気にしなくていい生活はわたしの人生において快適な方です。快適な状態にたどり着いてしまった。

もちろん「これでみんな生きていけるはずだ」という話ではありません。

 

もう結構前の話なので探してきてエントリを貼るのもアレだし貼りませんが、「貧乏である」ということと、「使えるお金がないので、遊べない」ということは、ぜんぜん別のことです。

ユニクロとドトールしか入れない(ユニクロやドトールが悪いわけではなくて、ここでいうユニクロとドトールは「いつも行く店」の象徴として認識しています)、新しいことができない、のは、「お金がないから」ではない。「お金がないという自認で精神が荒んでいて、思考が働いていない」からです。ユニクロに行くより古着を眺めに行ったほうが楽しいかもしれないし、買える服の額が釣り合わないことが気になるなら美術館のような金銭的にどうこうというものを眺める方場所に行くほうが良いかもしれないし(入館料はかかりますがたいていの服一枚より安いわけで、安いと思う、どうかな……とにかくその中で過ごせる時間の長さと豊かさと比べたら微々たる額です、微々たる額だと思えない人は向いてないんだろうけど)、喫茶店に千円千五百円払えないならパン屋でパン買ってきて公園でピクニックだ。

「遊ぶ」というのは「お金をかける」ということじゃなくて、「楽しいことをする」ことで、べつに美術館にいけとかピクニックしろとか言ってるわけでもなくて、「楽しいってなんだっけ」がわからなくなってるのはメンタルがまずいぞ、という話をしています。

「お金がない」という状況はふたつあって、ひとつは「金銭的に余裕がない」、口座に300円しかないからおろせないとか、もっと言うと「家がない」とか、そういう状況。もうひとつは、「来月生きていける確証がない、来年、十年後、どうしよう」という「先行きの不安で焦っている」という状況。後者は「仕事をやめたいけどやめたあとの生活がどうにかなるほどの貯金がない」とか、そういうのも含まれます。

前者だけなら意外と「気の持ちよう」です。というか、前者における「金がない」は状況なので、メンタルの部分でまだ勝負をかけられます。

対して後者のそれは精神的に追い詰められている状態なので、実際は貯金が百万あったとしても、本人が「ない」といえば「ない」のだし(むかし何かの授業で老後のための貯蓄額の試算をやらされたことがあってたしか二千万だったと思うので、まあたしかに百万の貯金というのは、「ない」といえば「ない」のです)、「ない」ことと「それを『ない』としか捉えられない」状況はどう頑張っても変えられません。詰んでいます。

わたしが「楽しいってなんだって見失ってしまっていたらそれは金がないだけの問題じゃないぞ」と言っているのはその点です。

 

もちろんみんな金がありません。そういう意味ではたくさんの人があすをも知れぬ我が身です。唐突に鬱病になって玄関を出ることができなくなり即解雇という可能性もありますし、そのほかの怪我や病気の可能性もあります。働きすぎたせいで病を得て何年も身動きがとれなくなるかもしれません。どんな仕事をしていても、正社員でも派遣社員でも、「お金が十分にない」という閉塞感と、そこから生まれる「わたしにはお金がないので、楽しいことをすることは許されない、お金がないのにそんな資格はない」という自縄自縛につかまって身動きがとれなくなる可能性はあります。

そしてそこから抜け出すためには、「もしかして、問題はお金じゃないんじゃないか」と気づく以外にない。

お金がないという現在はなかなか変えられません。もちろんジャブジャブお金があったほうが良いに決まっているのですが、それはともかく変えられません。

でも、「わたしはお金がないけど、それでもできる楽しいことをするし、それを邪魔することは誰にもできない」と考えることは可能です。というより、そう考えないと、生き延びることはとても困難になります。

 

 

ところでわたしは貧乏です。生まれた時から貧乏で、ずーっと貧乏で今も貧乏です。世の中には二種類の貧乏人がいて、絶対にお金持ちになってやると思う貧乏人(なれるかどうかは時の運ですが)と、貧乏に慣れてしまっているのでとくにそれ以上の何も求めない貧乏人です。わたしは後者なんですが、

なんですが、なぜか「生まれた時から金持ちで、ずっと金持ちで、だから金遣いが荒い」と思われることが、超多い。

まあそう思われても仕方がないといえばそうで、一万円~くらいの買い物をわりとぽんぽんするし、旅行にも行くし、同人誌もどんどんつくるし、なにより「金がなくてつらい」と言わないので、まあ、金があるように見えるといえばそうなんだろうと思います。

なんだけど、もちろんそれは「ふつうみんなが買っている、とくに購入報告をしないもの言及しないもの」を買っていないからある、ということに過ぎません。ある程度不便な土地に部屋を借り、酒と煙草をやらず、外食をせず、服を最低限しか買わず、野菜は最安値のときにたくさん買ってたくさん調理しておき、みたいなことです。

そしてもっとも大事なのは、「それをやってわたしは苦痛を感じない」という点です。貧乏に慣れているのでとくにそれ以上を求めない貧乏人であると言ったのはそういう意味です。そしてそれは同時にほしいものを手に入れるために平気で生活レベルを更に下げるということでもあります。

大事なのは「楽しい」ということで、そして「楽しい」のレベルはひとそれぞれあって、それは残念ながら基本的に共有不可能です。「あの人が楽しそうにしていること」が「わたしにとって絶対に楽しい」かどうかはわかりません。

 

「自分の身を守れるのは自分だけ」というのはそういうことです。「自分で自分を受け入れる訓練」をする、「自分にとって楽しいものを自分にとって楽しいというだけの理由で愛する」こと、それが「持てるもののなかで最大限に優雅に生きる」ということで、「優雅で楽しい生活」がないと、人間の精神は死にます。

「優雅で楽しい生活」というのは必ずしもお金が掛かっている必要はありません。それは言い換えれば「余裕のある生活」です。「自分の手持ちのなかで、たとえば自分はこういうことを楽しんでいる」、「余暇がある」ということ。もちろん余裕や余暇はお金で買えます。でもお金がないならないでなにか楽しいことをしないと精神というのはどんどん死んでいきます。楽しいことは無為な時間と言い換えても構いません。小説を書くんでも絵を書くんでもけん玉でもユニクロの新商品のチェックでもマンホールの写真のコレクションでもなんでも構いません。

大事なのはそれが「自分にとって楽しいこと」であり、「別に楽しくないけど誰かに評価されるためにやっていること」ではない、という点です。評価軸を自分以外に用意するのが悪いわけではないのですが、それはまた別件です。それは「目標を持つ」みたいな話です。別件です。それは「余暇」の話ではありません。いってみれば「未来への希望の持ち方」みたいな話で、その話はまたそのうちしましょう(たぶん)。

 

そして、「自分の人生に余暇はない」「ありとあらゆる全部が隙間なくつらい」という状況に自分がいる、と思ってしまったら、それはその状況から、できれば脱出したほうがいい。そして「あなたがやってる『楽しい』は、無駄なことだ」と言ってくる人がいる状況からも、離れたほうがいい。「余裕があってうらやましい」と言ってくる人からも、残念ながら離れるしかない。たぶん。

なんで旅行に行かなくなった話からはじめたのか思い出した。

「具体的に金を使っている話をしたらやっかむ人がいる」ということが面倒くさくなったので、遊んでいる話をするのがいやにくなったのでした。余裕というのは結局、個人的な体験です。誰かと遊んでいるとしても。

 

優雅で楽しい人生をお送りください!