赤塚王国フラグメンツ(5.5)松野カラ松とチビ太の「終わらない昭和」

このブログを読んでる人は大抵経緯を知ってると思うし知らない人は過去ログ読んだらリアルタイムで色々あった様子がご高覧頂けるんですけど、とにかくギャグアニメの感想を書いたらブログが炎上した(事実をまとめただけで事実がアニメよりギャグになりかねないこの……)のでわたしは課金制に引っ込んでnoteはじめたんですが、金取るからにはどうせならこれまで手を抜いてたところをちゃんと書こうと思って積んでる資料(赤塚の他作品とか、過去に出た赤塚関連ムックとか、怒涛のように出たおそ松さんインタビューの雑誌とか)を崩しているうちに半年更新が止まっていました。本当にごめん。

というコンテンツがようやく軌道に乗ってきたのでお試し無料分をここに置いておきます。チビ太とカラ松の話です。マガジン買うかどうかの判断材料にしてください。なんで800円なんだっけって思い返したら「たぶんA5で作ったら100ページ超えるからまあ800円くらいで頒布でいいか」という理由だったことを思い出しました。購入された方はPDFデータをDLできるようにしようかと思います。物理冊子版は印刷費回収させてください。

 

いいかげんしつこいと思うけど再度断っておきたいんですけどいいですか。

・論述文というのは仮説があって検証があって結論がある文章のことをいうし、いま書いてここに置いていくのがそれ

・わたしがここでおそ松さんについてのたくりまわしていたのは感想っていうかもっと正確に言うと仮説に対する発想の飛躍と論理の省略を含むある種のエンタメであって論述文ではないし「考察」ではないので論拠が浅いと言われてもそういう文章ですとしか言いようがないし論述文を書いたつもりはない

・仮説を立てて立てっぱなしで論証しないものを主とした論拠の浅い文章を考察と呼ぶ言い方がこの件を通じてまじめちゃくちゃ嫌いになったと言ってもさすがにわたしは悪くないと思う

わたしがなんで「父さんな、腐女子やめてアニメ評論にまじめにとりくもうと思うんだ」してしまったかというと「論拠が浅いのでもっと努力しろ」と「どうせ腐女子は何を言わせても論拠が浅い」を同時に言われた上に「わたし自身論拠は浅いと知っている情報をロンダリングする人」までいたからだよ! 冷静になってくれよ! アニメ見た翌日か下手したら当日に書いた文章がちゃんと仮説を検証し切れてるわけないだろ! 自分の首の上に載せてるやつの使用方法を考えながら生きて!

父さんな、腐女子やめてアニメ評論やろうと思うんだ。でも正直不&毛って気持ちのほうが強いので料金前払いでもらったぶんを書き終わったらアニオタ自体から足を洗おうかなとは思わないでもない。料金前払いでもらってなかったら逃げてた可能性わりと高いなってくらいおもに去年の10月頃(あまりに進まない進捗に)追い込まれて死んでいたのでオッ読んだろと思ってくださった、そしていまだに時々新規で読みに来てくださるみなさんありがとうございます……。


月刊PASH!2016年3月号藤田監督&松原脚本インタビューにおいて、最初にキャラクターが固まったのが六つ子の象徴としてのおそ松、そしてそれに対するツッコミ役としてのチョロ松、との言及ののち、「役割のあと、最初にキャラが見えたのはカラ松です」との言及がある。「非赤塚的なキャラクターとしてテンポを変える要請」と語られる一松、「末っ子という立ち位置からスタートした」と語られるトド松、「最後まで決まらなかった、違うタイプのボケを用意するという点でキャラクターデザイン浅野原案によって広がった」と語られる十四松の、ある種のキャラクターとしての明瞭さに比べ、カラ松というキャラクターが「なぜ」あの形に決まったのか、しかも最初に決まったのかという点に関する言及は少ない。しかしこのインタビューにおいて特筆すべきは、カラ松のキャラクターは「立ち位置」でも「物語上の要請」でもない部分において成り立ったという点であり、逆説的にそれは「カラ松は『六つ子』という組織において『代替不可能な立ち位置』を持たない」、そしてそれがゆえに「カラ松は存在を疎外され、追い詰められてゆく」という物語構造と密接に絡み合っている。

カラ松というキャラクターがどのように作られたのかを確定することはできないが、その要素をひとつひとつ考えていくことは可能である。その一考察として、「昭和90年」を意識したとの言及(spoon.2Di 10号 美術監督田村せいきインタビュー)前回の『おそ松くん』アニメ化である88年という年の「続き」を生きていると想定されるカラ松の好み(2話でカラ松の妄想のなかに登場する尾崎豊の活動期間は 1983年~1992年、妄想の対象となっている女性二人組の仮名アイダとサチコの元ネタと考えられるWinkの活動期間は 1988年~1996年)の関連性を踏まえると、「終わらない昭和」を最も先鋭的に生きているキャラクターとしてのカラ松が浮き彫りとなる。そしてその「昭和」は華やかで輝かしいものでありそしてスターたちの時代であり、古びて懐かしいものではなく、そのうえでカラ松はそのスターたちの時代としての昭和の申し子としての自分を生き続けることに何の疑問も抱いておらず、自分自身に対する確信が揺らぐことはあっても彼の中の「輝かしい昭和」としての「パーフェクトファッション」は最終回に至るまで終わらない。

「六つ子が平穏に生きていられた世界の終わり」が六つ子ひとりひとりに訪れていくという点に関しては『赤塚王国フラグメンツ』本論において述べた。それはいわば「現在が昭和90年ではなく平成27年であることを自覚する」作業であり、そのなかでおそ松は小規模な昭和を自分たちのなかで維持することを、チョロ松はおそ松に従うために平成を諦めることを、トド松は平成に順応するために六つ子から一度距離を置くことを選ぶ。一松と十四松はそれぞれ別のかたちで「現在」と「自我」からある意味で逃避する。トド松を除く五人の行動は「いまが昭和90年ではないことはわかっていても、なお昭和90年を維持しようとする」方向に向かいあるいは疎外せず、トド松は明確に組織としての六つ子の理念たる昭和90年を裏切ったが、それは明確な裏切りであったがゆえに対処は明確だった。

対してカラ松が「処罰」もされなければ「厚遇」されることもなく、ゆっくりと六つ子のなかで「いないもの」となっていった理由は、ここまで述べた論に準ずるなら明確である。彼は「昭和」を疑わなかったがゆえに、「今はもう昭和ではない」ことから目をそらす必要がなかった。それゆえに彼は四人が問題視しているのは何なのかもトド松が何から逃れようとしているのかもついに理解することはなかった。それは同時に「家族であること」「六つ子であること」が前提的に絶対的な事実であって離れたり別れたりすることはあり得ない、がゆえに救済は必ず来ると信じた、「カラ松事変」における彼の盲信ともつながる。彼は自己を、現在を、家族を、疑わなかった。それを怠慢と呼ぶことも信頼と呼ぶことも可能だが、いずれにせよカラ松は5話以降「自分の居場所」を模索した結果として、15話で結婚、24話ではチビ太の家に居候という、二回にわたる「別の家族を選択する」という結論に至っている。

「すでに昭和は終わっている」はすなわち、「すでに『おそ松くん』も『六人でひとつ』も終わっている」、ひいては「もう赤塚不二夫は死んだ」という事実を示し、カラ松を除く六つ子はそれぞれそれを突きつけられてゆく。そしてこの物語のなかで、既に「昭和が終わった世界」に順応しているのがイヤミをはじめとするサブキャラクターたちであり、ブラック工場やレンタル彼女をはじめとした現代的な手法での一獲千金を狙うイヤミ、近未来的な研究所を持つデカパン、アイドルを目指すトト子、高層ビルに君臨するハタ坊といったキャラクターは皆既に「平成的」なアイコンをそれぞれ手に入れている(ダヨーンは今作ではモブキャラクター的な存在であるため触れない)。そのなか、チビ太が流行らないおでん屋を続けていることと、トト子のライブへの招待およびレンタル彼女回を除き基本的にほかのキャラクターから「おでん屋の大将」以上のものとして顧みられることがないという点は、先に述べた「昭和を疑わないもの」は「取り残されて、忘れられていく」というカラ松の物語と密接に絡み合っている。「カラ松事変」は、昭和に取り残されたふたりが昭和に取り残されたと気づかぬまま彼らが顧みられないことを突きつけられるエピソードだった。

5話以降カラ松とチビ太は関連を持って描かれることが多くなり、24話では同居に至る。「終わらない昭和」を生き続けることによって物語から「浮いている」ことそれ自体を役割とされた彼らが「浮き続けること」を選んだひとつの結論、「終わらない昭和の続き」が、24話における彼らの選択であり、それはおそ松さんという「昭和の続き」を描いた物語のひとつの屋台骨だった。