小林大吾さんのこと、あるいは憂鬱な時に読むべき文章のこと

既知の人もしくは友人のように呼んでいますが単なるファンです。

小林大吾「小数点花手鑑

※アフィリエイター(年間二万くらいとはいえまあいちおう)のはしくれとして一応Amazonを貼りますが公式ホームページで買うとおまけがついてきます。なおAmazonのアフィリエイトプログラムは貼ったリンクから入ってほかのものを買ってもわたしの懐にシュッされますので良い意味でも悪い意味でもその旨ご了承ください。

※アフィリエイター、わたしがそこそこまじめにやると月間五千くらいで、真剣にやっている人の言によれは食えるくらいにはなるらしいですけど、わりとキツそうだし儲けようと思ったら反社会的な行動に結びつきやすいみたいだし業務上必要な反社会的な行動をとるとき(※取るべきではない)はせめて組織に所属していないとレッドカード即死なので、目指さないほうがよい職業のそれなりに上のほうには入ると思うと一応書いておきます

※わたしがまじめにやってないのは書影すら貼らないあたりから見てのとおりです

※収入源は指導とアクセサリーとライティング関係とそれ以外が4:3:2:1ってところで、2017年はせめて3:3:2:1:1になるのが夢です

※しょっぱい話は以上です、話が長くなったのでフリーランスで生活するとは何かというエントリを別で立てよう

 

一人暮らしをはじめてよかったことのひとつに、読みたい場所に本を積んでおけるというのがあります。今のところトイレには積んでいませんが、というのはうちはトイレのスイッチが変な場所についていてしょっちゅう消し忘れるので近頃トイレの電気をつけずに用を足しているので読むとすれば懐中電灯代わりに持ち込んだスマートフォンの画面で、SNSの類を眺めることがあるとすればこの時間で、つまりバックライトのついていないものは読まないということになります。

トイレ以外の場所にはひととおり積んでいて、といってもうちは狭いのでさほど積む場所はありません。玄関から入って、玄関にはゴミの日を待っているゴミと靴と傘と気に入って持って帰ってしまった電子レンジ(動かない、台としてはそれなりに有用だけど棚としては正直不便だけど気に入っているので一応しばらくそこにいる予定)があり、ここで寛ぐことはまあありません。ゴミを背にして椅子がひとつ置いてあってここは朝食を食べたり気分転換に座ったりするはずなんですが今去年出しそびれた資源ゴミが占拠しているのでいまのところここにも本は積んでありません。トイレには積んでないのは前述のとおりです。

さてここまできてどこに本を積んでいるのかというと風呂とキッチンとベッドと作業机です。もちろん本棚と本棚以外のところにも積んであるんですがそれは単に積んであるのであって、単に積んであるというのは現在進行形で読むつもりで積んでいるのではなく読む予定はなく徒に積んでいるのであって、今回の件とはあまり関係ありません。当ブログ用語でいうところの「情報共有制限」に類する本と雑誌がびっしりあって、あとは松尾芭蕉を中心とした日本史書がびっしりあって、あとは、えーと、おおむね読んだ本です。たぶん。買ったけど読んでない本がまだ実家にあると思うのでこんど拾ってきます……。

さて、風呂に本を積むと怒る人がいるのは知っているのですがそれは本に対する感性の違いの問題ですのでこの項目は飛ばすことをお勧めします。風呂に積んであるのが『銃・病原菌・鉄』と『泥棒日記』(再読)、わたしは風呂にいるとき一番コンディションがいいのである程度ややこしい本が読めます。ある程度ややこしいけど、でも風呂に入っているからメモが取れないので、メモを取らなくてもある程度書いてあることがわかる本がいい。風呂でぼけーとしているときにじゃあまあ読むかと手に取りやすい本がいい。あと文庫本なのでまあ濡れても大惨事にはならない。湿ってたわみますが。『銃』が終わったら積んでいる日本史料に戻る予定です。

風呂の話はこれで終わり。次はキッチンテーブルで、ここにはずっと伊藤比呂美と菊池成孔が置いてあります。ここに大野晋先生(日本語学を大学でちょっとやっていたころよく話題が出たのでわたしには大野晋先生はいつも大野晋先生です)が混ざっていることもあり、これはなんとなく「たましいのふるさと」というか、「実家」というか、そういうセレクトで置いてあって何回読んだかよくわかりません。伊藤比呂美で一番読むのは共著ですが『なにたべた?』、菊池成孔は『スペインの宇宙食』です。

キッチンテーブルの向こうに作業スペースがあって、まあ本は散らかってるんですが、読みかけだから積んである本は『物語論』『魔法昔話の研究』『はじめて考えるときのように』、あと情報共有制限、これは仕事の合間に疲れたときに読んでいるのと、仕事の一環で読んでいるのがごっちゃになっています。

ベッドサイドには『夜の果てへの旅』がずっと置いてあって、これは読んだんだか読んでないんだか正直よくわかりません。寝る前に本なんか読んでも内容は全然覚えていないのでただ美しい文章が美しいなあ~と思っているだけです。読み終わったらもうちょっとまともな状況で読みたいと思います。正直フランス人が書いた文章(の翻訳)を読むとほっとするので内容はなんでもいいんじゃないかという気はするんですが、そういう扱いをするべき本ではないことは重々わかっています。すいません。

家の中ではこんなところで、家の外ではkindleでアガサ・クリスティーを読んだり青空文庫をあさったりしています。

 

CDの感想を書くんじゃないかという話なんですけど、何の話をしているかというと「これだけ並列で読んでいて、ゴハンを食べるとき読む本の持ち合わせがない」ということです。ゴハンを食べているときはややこしい本は読みたくありません。文章の美しさでゴリゴリ来るものも正直食欲が失せる。食欲をかきたてるような文章もそれはそれで実際ゴハンを食べながら読むと気分が悪くなる時がある。

ゴハンを食べるという作業、そう、作業ですが、作業があんまり好きじゃないんだろうなと思うんですよね。だからゴハンを食べながら文章を読みたい。できるだけ罪のない、風のような文章を。

ということでそのような本の持ち合わせがない時、そう、今まさにそうですけど、ムール貝博士言行録を読んでいます。2013年の夏からみたいだからもう3年半くらい読んでいることになり、最新のエントリから読み始めて初投稿まで読むということをたぶん五回はやっています。という経緯でわたしはおもしろいブログないですかと聞かれたらこちらをずっと勧めてきたんですが実をいうとCDを持っていませんでした。

という話をしたら友達が誕生日にくれました。

 

小林大吾さんがCDというメディアを使ってどういうことをしてらっしゃるのかは正直説明がむずかしいのでブログをごらんになってくださいというかんじなんですけどもブログをごらんになってもわからないかもしれませんが、なにをやっているのかわからないという意味ではわたしも人のことはまったく言えないのでなんとなく全体的に把握してくれとしか言いようがないし全体的に把握するのが一番正しいのではないかと思います。ので説明はしないんですけど、CDとてもよくて、誕生日(11月)からこっち毎日聞いていて、気が付いたらほかの3枚のCDもどうにかして手に入れており、毎日聞いていて、ほんとうにいいんですがなにがいいかというとやっぱり「罪がない」だと思う。わたしの普段読む文章の中でこれだけ罪のない文章をこれだけの量書いている人はいまのところほかにふたりしか知りません。武田百合子と内田百閒です。

わたしが普段読んでる本、あるよね。罪が。

 

YouTubeで聞ける範囲だと「コード四〇四」を聞いたときはなぜか涙ぐんでしまってたいへんでした。