インターネットから送られてくる肉を食べることについて

この度お騒がせした件に纏わる短い私小説の有料配信をnoteで行っています。私小説とはいっても具体的な人名も事件もなにひとつ出てきません、ただわたしにとってのこの経緯とそこからの回復についての個人的な文章です。混乱を避けるためにあえて少し高い有料配信になっていますがご興味をお持ちの方は見ていただけると嬉しいです。

架空の鹿の死』哉村哉子

 

さてわたしが死んだ(概念的に)ために友人の間で「鹿が死んだので鹿肉を食わなくては」(鹿というのはわたしのあだ名です)という発言が流行りました。もちろんそこに込められているのはひとつの怒りや苛立ちや悲嘆を述べるためのひとつの言葉でありわたしはみんなありがとうな(そしてごめんなと言われても困ることはわかっているのですがごめんな)と言っていたのですが、

しかしちょっとおもしろい。

わたしが死んだら鹿肉を食うのか。

解体ショーじゃねえか。

 

12月のことだったと記憶しています。誰が言いだしたのかは覚えていませんがそれ自体は「いつものこと」でした。「おいクリスマスじゃねえか。なんかよこせよ(以下Amazon欲しいものリストのアドレス)」「あーはいわたしの欲リスはこれ」「わたしのはこれだよ!」これ自体は季節の風物詩です。わたしのTLはハートフルな方のインターネットであり(あったという話は前回のエントリで書きましたが)ハートフルなクリスマスパーティーでハートフルにプレゼント交換をするようなノリでみんなぽんぽん欲しいものリストを貼るのでした。そしてわたしは友人のダムるしさんの欲リスを見ました。

 

 

まあそこは鹿肉を欲リスに入れますよね。鹿だから。わたしが。鹿の欲リスに鹿肉。

「鹿さん欲リスに鹿入れてんのかよ」

ありがとうウケました。

「ていうかおまえ草食動物のくせに肉入れすぎだろしかもなんか変な肉ばっかり!」

 

という経緯でわたしの手元にはAmazonから肉が送られてくるようになりました。しかもあきらかに友達以外からも送られてくるようになりました。何がどうなってそういう経緯になったのかもはやよく思い出せないんですが、わたしは結構疲れていました。

「感想とかもういい。好意は肉の形で表してください」みたいなことを言いました。実際には相当突っ込んだ丁寧な言い方をしましたが要約するとそういうことです。

荒らしが爆釣れしました。

人生でもっともたくさんの乞食呼ばれアワーがわたしのもとに到来しました。この乞食がすごい2016newyear!

 

わたしは乞食に非常に詳しいのでAmazon欲しいものリスト程度乞食の数に含まれないということを知っています。いや厳密な定義の話はしていません。いまわたしがしているのは、

「これをくれよとねだることによって生計を立てるタイプの人生というものが存在しているということをわたしは知っている」

および、

「貰ったら爆笑しながらレシピを必死でググらなくてはならないような、食ったこともなければ見たこともない、どんな味がするのかもいったい誰がこんなものをあえてのAmazonで売っているのかも一切知らない、ていうかほんとに届くのかも不明だし肉の品質も保証されないような、肉を通販、しかもなんでもあるとはいえ本来書店であるところのAmazonで買って、しかもそれを自分で食うわけでもなく会ったこともなければ住所も本名も知らない相手に送りつけるという行為に含まれるのは、完全にジョーク以外の何でもない」

という話です。

 

左翼の娘に生まれましたという話は以前しましたが、あそこでは寄付はものすごくカジュアルな行為です。わたしはお小遣いを使ってお菓子を買うより先にカンパという概念を理解しました。あらゆる社会貢献には金がかかり、社会貢献活動を行う人間は心ある人にカンパアピールをして回ります(実際街頭での寄付金募集をご覧になった方は多いと思います)。わたしはそれは「あたりまえのこと」だと思っていたので路上で寄付金を募っている人を見たら百円くらいぽんぽん入れていました。長じてからは組織によってその金がきちんと運用されるかどうかは大分差があるということを把握したので、寄付はきちんと活動費用として使うと確信ができるところにしています……していますというかここ数年薄給のくせに同人誌を出しすぎて深刻な生活苦に陥っていてできていませんでしたが……。

そしてちなみに社会貢献活動一本だけをやって生きている人というのがこの世には存在します(それくらいガチでやってる人がいるのもまたあたりまえのことです)。当然ながら彼らは寄付金で食っています。寄付金で食えなきゃ無理矢理バイトをねじ込みます。そうやってぎりぎりセーフの人生をこなしながら行くべきだと思った場所に行きやるべきだと思ったことをやっている人というのがこの世には存在します。その是非は今は問うていません。別にそれは他人の人生です。

でもそれで「寄付はされてあたりまえ」という顔をし始めると違うと思うんだな、ということを、わたしは……あの……具体的な身内に言いたいんですがあいつがわたしの言うこと一ミリも聞かねえの知ってるんだよ……Twitterをフォローしてらっしゃった方は何の話をしているかご存知だと思いますがここであえて強いて言いませんが!

 

金には、プレゼントもそうだし、購入するという行為もそう、全部、名前がついています。

給料が払われるのは労働の対価です。税金を払うのは社会の一員である責務だし、年金を払うのは将来性への期待もしくは社会の一員としての他者の生活を担保する行為。コンビニで買ったアイスはアイスを食べることによって得られる幸福な効果およびコンビニという便利な空間に対する対価。

寄付金には名前がついています。「あなたがわたしの払った金に対して誠実であることを祈る」とそこには書かれている。ゆえに受け取った人間は「わたしはあなたの期待に誠実である」という返礼を送る義務があるとわたしは思う。思うんだよ。おい聞いてるか! 聞こえないのは知ってるよ!

敬意! 支払われた金に対する敬意!

 

……肉をありがとうございました。

わたしはインターネットで金を貰うのが嫌いで、アンソロジーへの寄稿報酬の類も断れる限り断ってきたんですが、それは「金を貰うことはわたしの文章を縛る」と思っていたからです。いい加減ここまで来たらウェブライターとしてきちんと金を取ったらどうだと友人知人にさんざん忠告されながらなかなか踏み切れなかったのは、金にサインされたメッセージを背負って生きるのが怖かったからです。そのメッセージを読むことを放棄して人の誠意を踏みにじっている人間をわたしは幾人も見ました。

しかしまあ、「ここまで来たら年貢の納め時だろ、どうせほっといてもいくらでも書くじゃないか」。

肉を送ってくださってありがとうございました。あれはわたしに「きちんと対価を貰うとはどういうことか」ということに向き直らせてくれました。「どうしてこんな目にあわされてるんだ、こっちは趣味でやってんだぞ」という気持ちから、「じゃあ趣味じゃない方がもはや健全じゃないのか?」という気持ちに切り替えさせてくれました。

 

というわけでnoteで有料テキストを書いています。ご購入いただきありがとうございます。一日二本くらい上げていく予定です。ほとんどが無料で読めますが、気に入ったら投げ銭してやってください。

「何」ができるのかは自分でもわかりませんが(少なくともいわゆる取材記事みたいなものが全く書けないことには頭を抱えています)、「何か」をやらせたい、とお思いのかたがもしいらっしゃいましたら、お仕事について是非お話しさせてください。メールアドレスはknk.bkyd@gmail.comです。

 

今日久しぶりに料理をしてウズラを食べたので(これダムるしさんがくれました)肉の調理の具体的な話なんかをしようと思っていたのに長くなってしまった。また後日。生きています。元気です。ではまた。

あっそうだ、あと最近欲リスから『名作マンガ・傑作ドラマで考える【家と間取り】 ウッドデッキから「んちゃ!」 』を送っていただきましてありがとうございます、天才バカボンについての記述があるのでバカボン読んだら読みます(バカボンはおかげさまでnoteの売り上げで買い始められました)。あと肉もありがとうございます。肉に関してはまた個別にエントリ立てます。いつもありがとう。唐突に贈り物が送られてくるのはたぶん送ってくださった方が思っているよりはるかに救済のかたちをしています。わたしもまた誰かになんか送ろう。