クリスマスという資本主義にフォーマットできない

カラ松よく言ったそのままぴえろまで走っていって燃やせ!

 

以外に特にいうことがないので(いや、あるっちゃあるんですけど、それはまあおいおいって感じなので)、おそ松さん11話エントリはお休みです。代わりに貧困飯についてのエントリでも(いま流行ってるから)書こうかなあと思いながらボーっといろいろ考えつつ出歩いていたら唐突にどぅるぅんっという感じで「クリスマスとわたし」というか「資本主義とわたし」みたいな情報が自分の中から引きずり出されてきて、そいつがあまりにも膨大な量だったのでどこから手を付けてどうまとめようかねと思いつつそういう話をします。

あ、ぴえろは燃やさなくていいです。「自己責任アニメ」という言及がその後きちんと回収され「恋する十四松」に繋がったので、「カラ松の扱い」は2クールへの布石だと思う。たぶん。まあでも回収がなかったとしても、少なくとも向こうはこっちを向いてるわけで、カラ松の耳に俺らの声は届いているわけで……届いたからなんだって話だけどでもカラ松が「ほんの少しだけでいいから」望みを持てているということが大事だし……。イエーイ見てる~?

 

クリスマスね。クリスマスの話をします。

 

左翼の娘に生まれました。

面倒臭いのでインターネットで喋るときは全部左翼の娘で通していますが、左翼に向かって左翼と言ったら左翼とひとくくりにされるほど一枚岩ではないと言い返されることは知っています。ていうか内部対立も相当激しいのも知っています。色々なことを知っていますがその話はまあいいです。「左翼の娘に生まれました」ということさえ伝わればいい。あとのことは雑に流しますので気にせんでくれ。

この場合の左翼というのは、おおむね全共闘世代の最前線だった人々を指していて、詳しく知らない人はググってください。とにかく団塊の世代とか全共闘世代とか呼ばれる世代の人がいて、社会を改革する、しよう、していこう、していけるはずだ、という熱意に燃えた青年がかつて日本で一大ムーブメントを起こした時代があって、そこには「なんとなくノリで」とか「みんなやってるから」くらいのテンションで参加した人もいっぱいいたし、そういう人たちはそれが終わったらなんとなく「まああれはあれ」みたいな感じで就職したりできた、らしい。らしいです。

でもそうはならなかった彼がいて、そうはならなかった彼女がいました。彼らは思想を通じて繋がりあいそうしてこいつとはワンチャンあるなということに気づきセックスして避妊に失敗して結婚するかしないかって話になって「結婚したら活動に支障が出るじゃん、困るじゃん」、まあじゃあおろすかつって、ひとりおろしました。でまあひとりおろしましたで済む話じゃないんで、そんなカジュアルなものではないので、色々ごたついた結果、「やっぱ結婚しようぜ、今度こそちゃんとやってこう」ってなって、仲間から「裏切者!」とか言われながら、次にできた子供は生んで、それがうちの兄、長男です。

というわけで、彼は仕事に励み、彼女は子供を育て、まあそう簡単ではないですが圧縮してしまうとそういうことで、次女が生まれて、家を建てて(逆だったかもしれん)、大分長い時間をおいて、三女が生まれました。これがわたくしです。

 

彼と彼女は子供たちに、当然ながら、彼らの信じるあるべき世界についての教育を施しました。

そのような家庭の子供たちが行くべき場所へ連れていきました(兄は幼いころからデモ行進のシュプレヒコールが上手かったそうです、今でも上手いです、彼は今でも現役です)。

そして彼らは子供たちにこう言いました。「でもこんなことを学校で言ってはいけないよ。警察に捕まるからね」

 

てな感じでさあ。

資本主義というものに対する懐疑心を植え付けられて育ったわけですよね。わたしは両親をひとりの人間としても子供を養育する立場の親としても愛しているし、良い人だったと思っているんだけれども、この教育方針に関してだけは「絶対にダメだった」と思っている。だって子供に、小学校にも上がってないレベルの子供に、「資本主義というものの持つ構造的欠陥や暴力性」を理解した上で「現在資本主義がどのように日本を構築しているか」そして「現在、日々わたしたちは資本主義のさなかを生き続けている」ことのすべてを理解しろったって不可能ですよ。「よくわからんがしんどい」ということと、「世の中は間違っているらしいが変わる見込みはあるようだ」ということしかわからん。

そうして「変わる見込みはある」というのは完全に気休めだしなんの根拠もありません。それを言わないわけにいかないのはわかるけど言葉のあやというものがわからない年頃の人間に教えるべきことではない。だって別にその「変わる見込み」というのは「世の中がクソであると永遠に言い続ければ少しずつ世の中というのは変わっていくはずだからそれを言わないより言った方がマシ」というレベルの話だからです。

もちろん「変わる見込みはある」「世の中を良い方に変えていこう」という姿勢自体は大事だしわたしも今でもそういう風に生きています。

しかしそれは子供が抱く世界観として明らかにこう……。

 

ディストピアだよね!?

 

現実がいくらディストピアであるとしても、せめてそこから守られているべき年頃というのは存在してしかるべきではないのか。

ちなみにわたしはこのような教育の結果、5歳頃にはぬいぐるみを使って「両親は死に、家を失い、肉体的にも精神的にも障害を負った姉妹が非合法な組織に匿われその組織が支配する村の人々との交流と共に生活してゆく」というディストピアファンタジーを構築して悲惨なおままごとをやっていました。環境によってすくすく芽吹く才能! 特に役には立たないけど才能だということだけはわかる才能!

 

これがまた不幸なことにうちの両親は言っちゃなんだけどさほど頭の良い人ではありませんでした。この場合の頭の良い人というのは筋の通った理論をかみ砕いて説明することができる人ではなかったという意味です。わたしはいまだに彼らの思想が体系的にどういうかたちをとっているのかさっぱりわかりません。彼らに聞いても把握できないし、わたしはそれ以上踏みこむのをやめたので。

彼らの批判をしたいわけではないです。誰の批判をしたいわけでもないです。

「わたしが」不幸だった、これはもう不幸だと言い切ってしまっていいと思う、という話です。生まれてきた世界が安心して生活できる場所ではないとさっさと教えられて不幸だったし不安だったし怖いことがいっぱいある世界だと言い聞かされて、そうして「正しいことだとしてもそれを言ったら警察につかまる」と思いながら秘密を抱えて生きるのはストレスだった。お友達に言えないことがいっぱいあった。夏休みになにをしたか、このあいだの日曜日どこに行ったか、言ってはいけないことが多すぎた。

そのうえわたしは団塊ジュニアとしては遅くに生まれた子供なので、同じ境遇の子供にろくすっぽ会えませんでした。

 

というわけで、資本主義の祭典であるところのクリスマスに直面するとケツの座りが悪いわけです。

(他人が関わるのでプライバシー保護)みたいな事情とかがあり、わたしは左翼というものに対して、少なくとも両親の関係のその辺に関して徹底的な不信感を抱くに至り、しかしまあ青春の逍遥の果てに一回そこに戻って実は前職はそのへんの関係のこと(母の友人の社会福祉法人勤務)だったんですがそこでありとあらゆる崩壊を見た上に親しかった同僚が過労死したのでこりゃもうだめだと思ってケツを捲って逃走し、その後さっぱり人生というものの輪郭がわからないまま文章を書くだけは書き続けて現在に至ります。

おそ松さん11話において六つ子が腐りきっているのはそういうことではないんですが、しかしそういうことなんすよと思いながら観ました。おもしろかったです。

高校生くらいから、「将来のビジョンは」みたいな話が大分鋭角になってきますよね、どういう学校行ってどういう仕事して、っていう。もうそんなん全く分からなかった。資本主義経済というものを肯定したらいいのか否定したらいいのかもわからないのに自分がどこのポジションにつけばいいのかがわからない。左翼は嫌です継ぎません(完全に家業は継ぎませんというノリです)とは言うものの、じゃあ何を信じたらいいのかわからなかった。中学までは小説家を一応目指していたんですが、高校入ってさっぱり書けなくなり、こりゃ駄目だと思いました。かといって興味があることは民俗学と言語学、就職につながるビジョンは全然見えない。とりあえず、いろんなことができそうな普通科じゃない高校に行って、就職活動に力入れてる女子私大行きました。わたしの外側をびゅんびゅんすごい勢いで、労働の定義が流れていきました。

そうしてわたしはめちゃくちゃに疲れて、もういい、帰って寝たい、と思いました。

高校や大学でびゅんびゅんかっとばされてゆく労働の定義のなかに、自分の形式をフォーマットする方法が、わかんないわけではないけどめちゃくちゃ疲れる。意味が分からない。だって全部異世界の言語だ。全然知らない言葉だ。みんなが生きてるだけで覚えられたことをわたしは今からインストールしないといけない。大分キツいしついていけない、ペースが速すぎる。

という経緯で就職活動をドロップアウトし、フリーターになり、いろんな仕事を泣きながら辞め、というようなことを綺麗な言葉で「青春の逍遥」と呼んでおります。青春の逍遥の果てにわたしはブラック社会福祉法人に勤務し金はろくすっぽ貰えませんでしたが金以外のあらゆるものを貰いました、人生経験とか、人生経験とか、人生経験とか。いやその話は今はいい。

資本主義にフォーマットできないからニートなんです。

生産する側としての「資本主義社会における」適切なふるまいも、消費する側としての「資本主義社会における」適切なふるまいもできないからニートなんですよ。

 

なんだよなあと思いながらおそ松さん11話を(略)。

 

少なくとも日本におけるクリスマスって資本主義の祭典で、誰とどこで何食うみたいな側面が過剰にでかくて、あとラブとハッピーがあるべきで、そういうの全部まとめてしんどいのでクリスマスは燃やそうと言っている人たちが少なくともここでは圧倒的にマジョリティであるインターネットがわたしは嫌いではないです。嫌いではないですがクリスマス爆発しろ言説にすら乗れないのは、それがカウンターに過ぎないからで、おそらくそこにすら乗れないからだと思う。結局のところここで語られているのは資本主義において勝者になれるかどうかという話だ。なりたいのか? 生活さえできればべつに金すらなくてよくないか? でもアニメが見られないのは困るんじゃないか? それはたしかにそうじゃないか? でもラブやハッピーを他人と持ち寄ってワイワイ遊ぶべきだと商業的に称揚された空間においてワイワイ騒ぐことを楽しめるのか? 結局楽しめないんじゃないか? 結局おまえ今でも左翼の娘なんじゃないの? まあそれは変えられないことだけどさ。

わかんねーから困ってんだよな。

 

クリスマスだ。鬱だ。死のう。