たのしいスーパーマーケット

スーパーマーケットに行かなくなった。

 

いろいろなことを考えていたら「余白の美」という言葉が超ツボに入ってしまいゲラゲラ笑って眠れないので、ブログでも書きます。

わたしは子供の頃お金がなかったので、あと多分当時から閉所恐怖症あったのではないか疑惑もありますが(いま電車もバスもとてもつらい)、まあともかく二時間以内で行ける場所なら全部歩いて行ってたんですけども、自転車にあまり乗らなかったのは当時から離人感がひどかったので危なかったからもありますがそれ以前に、どこにどう自転車を停めても盗まれるからです。地獄かよ。そして警察に登録したところでよくわからないところから「君の自転車だよ」と連絡が来てわざわざそこまで取りに行くのもわたしである。地獄かよ。地元の中学生はこれを窃チャと言います、今でも言うのかしらん。当方では一般名詞でした、わたしはしたことがありませんがクラスメイトはフツーにしていたのであった。地獄。コンビニは万引きで潰れたし警報機は鳴らすし爆竹は鳴らすし先生の給食にチョークは入れるしコンクリの上でたき火をやって爆発させるし山の中で煙草を吸って枯葉の中に捨てて山火事になったらどうするんだよどうもしないんだろうな学校行かなくてよくなるしな……この話たしかまえもしましたね……。

その話じゃないです。自転車の話じゃない。いや自転車の話でもいいんだけど。なにしろ地元は山のど真ん中なのでそもそもが自転車に乗るのも一苦労なんですが、こっちは平らな土地なので、自転車買うべきで、自転車買ったら大都会まで即って感じなんですが、自転車まだ買えてなくて、なんでかってなんとなく気が進まないんですよね幾度となく盗まれたから……。

いや自転車は買いますが……いい加減買いますが、それはそれとして、よく歩いていたという話です。

本当に子供の頃は本当に何もありませんでした。近所のおばさんがやっている個人商店が、一軒、あいだをおいてもう一軒。そこからずーっと歩くと小学校をすぎてようやくスーパーマーケットそして個人商店がちらほらと並ぶようになり、そこからまたずーっと歩くとようやく我々の大都会、チュウレンジバチと薔薇でモデルとして扱った半死半生の街へたどり着くことができます。

 

あの頃はスーパーマーケットによく行っていました。

文明の象徴だったからです。

 

歩き疲れるとこうこうとあかるいスーパーマーケットに入って、何時間でもうろうろしていました。スーパーマーケットで考えた小説が数限りなくあります。ここに住みたいとすら思いました。明るくて広くてなんでもあって、小さな動物になってここに隠れて過ごせたらどんなにいいだろうと思いながら、スーパーマーケットをうろついていました。

最近あまり行かなくなりました。

昔ほど出歩かないというのはあるんですが、スーパーマーケットが情報量多すぎてびっくりしてついていけなくなっていることに気づいた。最近野菜と肉と魚を個別にしか見ていません。あとコンビニとドラッグストアと郵便局、時々用事があると大都会(徒歩20分)まで歩いて行って銀行。徒歩十分のところにスーパーマーケットは三軒あるんですが行くとめまいがする。ので、元気があるときしか行かなくなりました。

「何にも買うつもりはなかった」頃は全部、きらきらした夢のようにしか見えなかったから、そこで何も関係ないものを見るように見ていられたけど、

今は「どれでも買おうと思えば買える」から、高いの安いの、これは近所では売ってないの、と言いながら迷うので、めまいがするようになったのだと思います。

そこに置かれているのが宝石ではなくて食べ物だとようやく気づいた感じ。

 

というわけで昨日だっけおとといだっけ、久しぶりにスーパーマーケットに行きました、なんで行ったんだっけ、そうだカツ丼食べたかったんだよ。カツ丼なかったので、おかめ納豆のしそ海苔というやつを、おお、これは、近所には、ないぞ、とか言いながら買って帰りました。納豆二年ぶりくらいに食べた。

去年の秋にオクラが投げ売りになってたやつ冷凍してあったのが、食べても食べてもなくならないのでまだ冷凍庫にあったんですが、刻んで納豆と混ぜて子持ち昆布(これも一緒に買った)と攪拌して食べています。とてもおいしい。ここまで来たら山芋も買ってくるべきではないかと思うので明日買おうと思います。