川田宇一郎『女の子を殺さないために 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」 』

川田宇一郎『女の子を殺さないために 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』

おそ松さん15話を観る前に読み始めて今頃読み終わったという最悪のタイミングで読んだのでずたぼろになるまで泣きながら読んだんですがまあその話はともかく……。

とても面白かった、と同時に「ああなるほど」という納得感があってよかった。

概要を言うと「恋愛小説において少女の死が重要なファクターなのは、少女が下降する存在だからであり、少女の下降の先にあるのは少女としての死、そして舞台装置としての『マザーコンピューター』への変身であり、少年は『上昇という名の父殺し』から逃れるために少女のあとを追う形で、もしくは女の子を引き上げて共同作業を行おうとする」くらいの内容だと思うんですが一回読んだだけなので(そしてずっと泣いてたので)ちょっとまだ噛み砕けてないんですが、誤読があったらすみません、さっさと感想書いておかないと書かないと思って……。

わたしはずっと「イノセントであること」という切り口からうだうだと、体系的な話はできないままなんとなくTwitterで垂れ流すレベルとしてうだうだと作品分析をやっていて、デジモンアドベンチャー、彼氏彼女の事情、サイボーグ009、指輪物語そして児童文学とファンタジー論をひととおり、NARUTOからジャンプ作品をざっくり、とらドラ!、true tears、魔法少女まどか☆マギカ、あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない、シムーン、輪るピングドラム、うたの☆プリンスさまっ♪、キルラキル、そして今更戯言シリーズ、そして今おそ松さん、という感じなんですが(ワールドトリガーはわたしのハマっている作品のなかでものすごく珍しくイノセントに関する話題をほとんど扱っていない、どちらかというと「成熟のための手法」を扱っている作品だと思っていて、唯一迅悠一だけがそのあたりにいるんだけれども、そこを突っ込んで描いてもらいたいわけでは別にないので迅悠一を気に留めているだけにしているしたぶんどうせあいつもさらっと成熟するだろう)、要するに川田論における「少女の死」こそが「少女が少女であり続けることを担保する」、そういう側面はたしかに確実にあると思う。

「少年少女が少年少女であることを肯定したうえでふたりの力で少年少女からメタモルフォーゼする」話が彼氏彼女の事情、「少女が少女であり続けることを選択するためにここではないどこかへ飛翔する」話がシムーン、「少女が少女であり続けるために死ぬ」話がまどマギ、「少女が少女の先へ進むために少年がかわりに落ちていった」話がピングドラム、そして「イノセントな少年がイノセントであるがゆえに世界を救う」話がNARUTO、「かつてイノセントであった少年がイノセントであったことを取り戻すために闘争する」話が黒バス、という認識で(旧来のジャンプ漫画にわたしは少女の存在を基本的に認めていません、あそこにいるのは舞台装置としての肯定供給機としてのヒロインでありいわばあれこそが『マザーコンピューター』、でもジャンプも変わり続けていて挑戦的な作品がたくさんあるのでもちろん一概には言えないし左門くんはサモナー面白いです)、おそ松さんの話はしないと言ったがこれだけ言わせてくれ、「(少女ならざる客体である)青年がイノセントであることを貫こうとした結果一人で落下しひとりで戻ってきてなおイノセントであり続けようとしている」話がおそ松さん。

というようなことを考えていたのですが非常に丁寧に分析が行われていて、「ああーなるほど、こういうことが言いたかったなるほど、なるほど……」と思いました。勉強になりました。あとフィクションの世界における少年少女の抑圧が現実の世界を映すのはあたりまえのことで、ジェンダー論とかきちんと絡めていくべきなんだろうなと思った。

 

と、『ノンちゃん雲に乗る』とか言われてさらっとわかるくらい国内児童文学史をきちんとやっておいてよかったと思った。