何故料理の写真はおいしそうに見えなくてはならないのかという一考察

まず端的に言いますが、

  • わたしのスマートフォン(iPhone5S)は壊れかけていて、そもそも変な写り方します。
  • ほかにカメラはありません。
  • あと光源がありません。スタンドライトが壊れました。買い直す金がないし正直特にいらない。
  • 皿もろくにありません。
  • 正直都度撮影環境を整える前にさっさと食いたいです。
  • そもそもが写真というものにおいて定義される「良い写真」という定義に懐疑的です。
  • 最後に、料理の写真が美味そうに見える必要性を感じていません。

 

何の話をしてるって、「料理の写真が汚い」ってしょっちゅう言われるんだよ。今日もメール来てたよ。論破したから聞いてくれるとは思わないんですが料理の写真が汚くて何が悪いということによってみんなどんどん料理の写真を上げてくれてわたしが楽しいかもしれないので書きます。

 

べつにきれいそうな写真を上げようとしていないので汚いのはあたりまえなんですよ。

 

その機材がなく、その環境がなく、その技術を習得しようとした経験自体はあるがどうも理念がよく理解できなかったので放棄し、そして理念が理解できなかった以上写真を撮ることを努力するつもりがなく、そして、「うまそうに見える料理」というのは「机をきれいにして、光源を用意し、品数を揃え、たれがはねたら拭き、彩を添える」ことによって人為的に作れるというのは知っています。それが美味いかどうかはともかくそういうコントロールによって絵的にきれいであるということが成立可能なことは知っています。

やってられるか!

わたしがせめてちゃんとしたコンデジ持ってたら話は別です。おもしろがってがしゃがしゃ撮るでしょう。わたしのスマホが生きててもまた違ったかもしれません。わたしのスマホは瀕死なのでインスタグラム起動させるのも正直面倒です。というか正直もう加工が面倒です。

何が目的でTwitterに写真を上げるかって、

 

「ちゃんとした飯を食いました(生存報告)」

 

です! (上げてないときはちゃんとした飯を食ってない、カロリーメイトとか食ってるかぼーっとたきこみごはんだけ解凍して食ってる)

 

あと、「状況が切迫していてちゃんとした写真をどうする余裕もないがとりあえず貰った肉を食います食うからには一応なにをどうしたか報告します肉ありがとう」つって写真を撮っているのであって、繰り返して言いますが俺のiPhoneは瀕死なんだ、去年交換したのに……。もちろん「おいコンロ汚えよ掃除しろよ」は真っ当な指摘だし、肉を送ってくれた人に対してせめてもうちょっとまともな写真を上げろよというのはわかるんですが、コンロが汚いのはコンロを掃除する暇がないからだ。というわけでわたしはもういっそのこと肉の加工経緯の写真を上げるのはやめますけど逆に失礼かもしれないので……noteに連載を立ち上げましたのでそちらでどうぞ(まだ中身はないです立ち上げただけです、今日書きます)。

鹿ちゃん肉を食べる

表紙はみんな大好きダムるしさんだよ。

 

そもそも料理写真が何故まずそうであってはいけないのかというと、まずそうな料理写真はゲロに似ていて、ゲロに似ているとグロテスクだからなんですが、でもそもそも謎の肉というものは見慣れていないから全部グロテスクです。それを多少加工で飛ばしてなんだというんだ。

いいですか。前提として肉はグロテスクです。あれを素材においしそうに写真を撮るのはそもそも相当難しいです。そしてわたしは彩のためにミニトマト買うようなことだけはしたくない。

そして、ある種の人間、特に家庭料理をやり慣れている人間のうちある種の人間は、あれを見てすら「おいしそうーわたしもこんどやろ」とポジティブな何かを受信することが可能です。あれが「読み解ける」人はいるんだ。それは君じゃないだけだ。

 

まあ、というわけなんですけど、ついでに俺の写真を見ていってくれ。

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要するに何なのか全くわからないけどいい写真だと思う(俺は)。

機材があったとしてもそもそもが「何を意図してなにを撮りたかったのか一切わからないような写真」を撮ります。つまり料理写真を美味しそうに撮ろうという意思がないどころか料理だということが伝わるだけマシだと思う。

という話をするために写真を漁ろうと思ってインスタグラムインスタグラム(なんでアカウントがふたつあるのかよくわからない)見たら意外とまともな料理写真撮ってて、まあインスタグラム力では? とは思うものの、それなりに頑張ろうとしていた時期はあるらしいということはわかった。写真としてはまともだとは思うがこれをみて美味しそうかというとでも微妙だと思う。

いまはもう……どうでもいい……俺が飯を食ったということだけ確認してくれ……「写真を撮れるくらいのめしを食おう」と思うと「せめてまともなめしを作ろう」と思うんだ……。

というか今Twitter鍵垢ですけどね……。(だから外から飯の写真だけは見えるけど)(もう誰に気を使わなくてもいいやと思ってるからガチで気を抜いて撮っているのでまじでまずそうだけど)。

 

なんかほんまあの……。

汚い写真をお見せしてすみませんけどね、そもそもがわたしは汚い写真が好きですしね、えーとですね、8歳から16歳まで水彩画をきちんとした先生について学んでいたんですが(今のTwitterのbkydのヘッダは昔描いた絵です)、たぶん先生との相性が悪かったんじゃないかと思うんですがわたしはまず静物デッサンができず、できずというか、物質の形を物質の形としてそのまま理解することの意義がわからず、やるにはやったんですが意義が分からないので上達せず、「寺の裏」とか「川が遠くに見える道」とか、まあわたしの写真見ていただいたらわかると思うんですけど、「なにが目的なのかも何がきれいなのかもよくわからんが何かを感じたのでこれを何か形にしておきたい」みたいなことを描きたいんだということが理解してもらえずおそらく自分でもなにがやりたいのか焦点化されておらず、よくわからないままありものの絵の模写を悶々と続けて、ストレスの方が大きくなってやめました。

やめたあと数年後に大学でマルセル・デュシャンの泉を皮切りとする現代美術に関する講義を受けて、ようやく「あー!」と思ったんですが、その時にはもう文章を書くほうでばたばたしていて、えーとそのあといつだ……いつだったか写真ちゃんとやろうと思って一眼レフいじって光源がどう絞りがどうみたいなことをやっていた時期が……二年くらい……あったことはあった……。フィルム代がな……。

で、同人誌を作るようになって表紙作るのにグラフィックデザインをすごく中途半端にやって現在に至ります。同人誌の表紙はtumblerにある。

 

「おいしそうに見える」とか「きれいに見える」とか「反対色の扱い方」とか「ピントが合っている」とかが大事だという理屈とテクニックがわからないわけではないんだが意義が分からないんですよ。少なくともわたしがそれをやる意義がわからない。

というか、「美の定義」というものはものすごく微妙なものだと思うので、「絶対これが正解」とかないし、そこで「ウケることを狙ったいい作品として」グラフィックを扱うの面倒くさいんだよ……。ものすごく「セオリーを守る」ということを気にしないといけないんだ。すごくめんどくさいんだ……。わたしがこれはいい写真だと思って撮った写真がまずそうだと言われるよりとくにうまそうに撮ってない写真がうまそうに見えないほうがぜんぜんいいし……。

わたしが食い物を撮った写真で好きなのはこれです。

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美味そうには見えない。

 

 

「切り口がそこじゃなさすぎて帰ってこい」「今日調子悪いだろ色合わせいくらなんでも大丈夫か」「もういいから俺に描かせろ」と8年言われてうんざりして絵を描くのやめた道具全部捨てたあれから筆を手に取ったことは一度たりともない。好きにやらせてください!

ほんと世の中「好きにさせてやれよ」って案件が多すぎる! 俺だって先生に褒められるような風景画描きたかった! わたしはきたなうまい飯の写真が好きです。みんなもっと上げよう。人類は法に触れない範囲で自由で許されているんだ。

 

わたしは鹿の写真だけはわりとまじめに撮っています。

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