死の受容プロセスと感情の弔いの方法

「わたしは傷ついているし怒っていいんだ」と気づくことはものすごく大事なことです。傷ついていないふりを繰り返した結果、唐突にストレスで死ぬ可能性はあらゆる人間にあります。鬱病になる可能性は誰にでもあります。みんなストレスフルな生活を送っている。「わたしは傷ついているし傷つけられたことに怒っていいんだ」、それで何が解決するということはないにせよ、「怒っていいんだ」。

それはものすごく大切なことです。みんな怒っていい。

しかし怒っていいし怒るべきだけど怒り続けていてはいけないんだと思う。

 

いつも思うんですが、ストレスに対する感情の動きは、死への心理プロセスに似ているのではないか。

エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間―死とその過程について 」

わたしこの本実は持っていなくてわたしの手元にあるのは大学で噛み砕いてもらった講義資料です。なので孫引きで恐縮ですが(こちらの記事に詳しいまとめがあります)、

 

「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」

 

死ぬ前に(鬱あるいはあらゆるストレス由来の疾患によってリタイアを余儀なくされる前に)まず「現状に対する否定的感情を抱くことを自分に許す」及び「現状の理不尽さに対して怒りを抱く」ことは前提として必要な段階でありそれを抱くことすらできず死ぬよりずっといいことで、それをしなかったらストレスにおめおめと殴り殺されるだけです。なんの抵抗もできず。

しかしそれを自覚したあと、今度は怒りのままに誰かを殴り殺す側に立つのではない方向に行くことはできないものか。

死は(現実に肉体が滅びるという意味においてのリアリスティックな死は)抵抗することが不可能な現象です。だから死への心理プロセスは抗いがたくこのような経緯をたどる(あるいは怒りながら死んでゆく人もいるだろうけれども)。でも肉体の滅びを迎えない限り、腕を振り上げることができて、石を握ることができて、言葉を話すことができて、SNSに登録できる限り、怒りの表明は極めて簡単に行えます。わたしたちはTwitterでリツイートして怒りをシェアできる。石を投げている自覚がないまま石を投げることができる。怒りは共有すると増幅する。「この人だって怒ってる」「もっと怒っていい」「もっと怒っていい」「もっと」

 

そして怒りが行き着く場所は暴力であり、暴力と暴力がぶつかり合うのが戦争です。

 

取引をしよう。ストレス源を取り除く努力をしよう。それが暴力にならない方法を考えよう。そしてわかりあえないことに絶望してそれでも死なないためにどうしたらいいか考えようよ。感情を弔おう。そしてどうして怒らなくてはならなかったのか考えよう。

もうなんか永遠に言うよ。

わかるまで考えよう。