今夜裏庭で会いましょう 1「どうして質問に答えるのですか?」

 なにをしているの、と同居人はわたしに聞く。質問に答えているの、とわたしは答える。

 そこは海のそばの神社の前にあるマンションの一室で、海までは歩いて十五分かかる。そこに行くまでの道のりには肉屋(キロ単位で肉を買うというずるずるドーパミンが出る行為を行うことができるし、冷凍の馬刺しも売っている)、子供とその親だけが入場を許されているごく小さな遊園地、おしなべてなにもかもが高い古道具屋、いつ見ても閉まっていてまだ入ったことがない食器屋、そしてパン屋がある。最後に高層マンションの群れを抜けると海が見える。海には当然水があり、砂浜と砂浜に降りるための階段があり海と我々を隔てる堤防がある。山のなかで育ったわたしにはいっそ感動するほどに、きちんと何もかもが海として揃っている。

 わたしは海に出かけていくと、海をじろじろと眺めるための身の置き所がなく、遠く海辺を走っていく電車ばかり見てしまう。その電車の駅はわたしの家からかなり離れたところにあり、だから電車はわたしとはほとんど無関係で、ただ単に走ってゆく美しいものとしてわたしの目に映る。電車に乗ってどこか遠くへ行きたいなとわたしは思う。けれどここ以上に遠い場所などあるのだろうか?

 わたしはいまどこよりも遠い場所にいて、同居人とともにとてもとても幸福に暮らしている。

 問題はお金がないことで、お金がないことを除けばなんの問題もないけれど、それはどうしようもなくクリティカルな問題なのだけれど、そのことについてはまあ今のところどうにかなっているので、それはそれでいいということにしている。どうにかなるでしょう。

 わたしはいつでもどうにかなるでしょうと思っているので、同居人だってそこにいるのだった。

 同居人の話はまたおいおい。

 とにかく同居人はそこにいて、スツールの上で細い足を抱えて、膝の上にたれぱんだを置いている。彼女は潔癖症の気があるのだけれど、古道具屋で十円だったそのたれぱんだ(古道具屋の中でその薄汚れたやわらかいものは異彩を放っており、おそらく店主も持て余したのだろう、あの高層マンションにきっと住んでいて遊園地で遊ぶ子供たちは、きっと薄汚れたたれぱんだには興味がないし、そもそもたれぱんだを知らないかもしれない)のことは気に入っているらしい。たれぱんだはすあまを食べ、同居人は主として果物を食べて生きている。わたしは扶養家族のために、限られた貯金を崩して、すあまと梨を買いに出かけなくてはならない。同居人は長い髪を揺らして首をかしげる。

「質問はどこから来るの?」

「インターネット」

「どうして質問に答えるの?」

「質問が来るからだよ」

 同居人は眉をひそめる。不興を買ったことに気づいたわたしは言葉を探す。わたしはいろいろなことができないけれど、できることもあって、そのひとつが言葉を探すことだ。だから、とわたしは思う。

「インターネットでは、いろいろな人がいろいろな人に、いろいろな質問をしている、それはいろいろな人がやっていること。でもわたしのところには、いろいろな人よりも、もっとたくさんの質問が来るようになった。最初はそうじゃなかった。きっかけが何だったのかはもうわからないけれど、今ではわたしは、たくさんの質問をされて、たくさんの質問に答える人、というふうになっている、インターネットで。もちろんほかの名前もたくさんある。たとえばわたしは小説を書くし、それから短歌を作ったり、それらをまとめて同人誌を出したりする。わたしはこの家に引っ越してきて、生活をして買い物をして料理をして、それからあなたと暮らしている。そうして、そのいろいろについて、あなたはどうやっているの、さっき言っていたあれのやりかたを教えて、どうしてそれをやろうと思ったの、そんなふうにみんなが質問をする――でもみんながわたしを通じて一番やりたいことは、本当は質問じゃない」

「じゃあ、何」

「たぶん、肯定されることと、理解されること」

 わたしは答える(わたしは答える)。

「もちろん、わからないことがあるから聞く人もたくさんいる。もっと単純に、わたしと遊びたいから遊んでくれる人だっている。でも、わたしは知っている、わたしは肯定を供給するのがうまい、わたしは理解を示すのがうまい、わたしは居場所を用意するのがうまい、それをわたしは知っている。十九歳のときの話をしたことがあった?」

「ううん」

「わたしが十九歳のとき、友達が自殺をした。一緒に仲が良かった友達はみんな、とても不安定になった。みんなは死についてしゃべらないではいられなかった。生きていることの意義についてしゃべらないではいられなかった。それから、ただたんに不安で怖くて仕方がないということについてしゃべらないではいられなかった。わたしはそれを聞いた。これはまた別のはなしだけど、たぶんわたしは、その自殺で混乱した若い娘たちのなかで一番、死について詳しくて、だから彼女たちの混乱を受け止めることができた。わたしはそれを聞いて、それを聞いて、それを聞き続けた。――たとえばそういうことだよ」

 同居人は首をかしげる。たれぱんだを抱きしめた同居人は、すとんとスツールから降りて、それから、わたしのノートパソコンの画面に、顔を寄せる。そこに連なったとても長い文章を、彼女は首をかしげたまま眺める。

「つまりこれは、質問じゃない」

「そう。つまりそれは、質問じゃない。みんな混乱している。そうしてたとえば神様に、助けてくださいとお祈りをする。そうしてたとえばインターネット上の架空の鹿に、インターネット上の架空の鹿というのはわたしのことだけど、お祈りをする、助けてください、って。わたしはこの質問、質問の形をした訴えに、返事をしない権利がある。だって全然関係がないもの。でも答える」

「どうして?」

「わたしとあなたは関係がない」

「うん」

「でも同時に、あなたの身に起こった問題は、わたしの身に起こった問題でもある」

 同居人は少し黙り込んでから言う。「十九歳の自殺みたいに」

「そう。十九歳の自殺はわたしの問題でもあった。わたしはみんなみたいにわけがわからなくはならなかった。だってわたしは十歳の時に父親が死んでいるから、死についてはみんなより先に九年間考えることができた。わたしは死について知っていたから、死者に対する適切な態度を知っていたから、十九歳の死について、ほかのみんなほど苦しむ必要はなかった。でもそれはそれとして、十九歳の自殺でわたしが傷つかなかったわけじゃない。わたしに嘆きを訴える彼女たちはある意味ではわたしだった。彼女たちが嘆いている間、彼女たちに同量の嘆きを返すことができないでひたすら聞いているわたしは、ある意味で、穏やかに話を聞き続けている架空の鹿に助けを求める十九歳の娘の側の存在でもあった」

 同居人はわたしを見つめる。わたしは答える(わたしは答える)。

「わたしは十九歳の娘で、わたしはインターネットの向こう側で傷ついている誰かで、わたしはあなた」

「あなたはわたし」

「だからここで行われていることは、ほんとうはあなたのために行われていることじゃない。いつか傷ついた、あるいはこれから先いつか傷つく、わたしが遍在している。わたしは彼らの話を聞く。そして答える(答える)。わたしはその傷について考える。そうしていつか傷つくかもしれないわたしと、いつか傷ついたことのあるわたしに、そっと触れる」

「あなたは?」

 同居人はわたしに指を伸ばし、そっと触れる。わたしは尋ねかえす。

「いつ?」

「十九歳の時」

 わたしは答える。

「悲しかったよ」