いわゆるなろう系異世界ファンタジーに関する議論で踏まえてほしい単純な前提

わたしは不勉強にして「小説家になろう」における定番作品に関して話ができるほど読めていないのですが、いわゆる異世界ぶっ飛び系(とわたしは呼んでいた)ファンタジーがたくさんあって人気があってそれがすごくテンプレだとかそういう趣旨の批判がいっぱいあり、その反論もいっぱいあるという件に関してはえー、なんとなく、なんとなくですけど見ています。

でまあそもそも異世界ぶっ飛び系ファンタジーの定義および源流とはなにかみたいな話なんですけど、かつてハイファンタジー作家を志しファンタジー史をガチでやった人間として、90年代アニメがどうみたいな話になるとこう、違う。違う。そこじゃない。待て。と思ったので短いですがエントリを書きます。

 

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865)

 

これより前になるといわゆる仙郷滞留説話(日本で言うところの浦島太郎)がぼろぼろ出てくると思いますが、純粋な個人名義のフィクションとして描かれ世界を巻き込むレベルでムーブメントを巻き起こして話題になったのはたぶんここがスタートじゃないかと思います。

ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』(1900)

ジェームス・マシュー・バリー『ピーター・パンとウェンディ』(1911)

C・S・ルイス『ナルニア国物語』(1950-1952)

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』(1979)

下二件あたりから現在流通している「異世界へ旅立ち冒険を行う少年」の物語が形式として流通していることがわかります。

なおいわゆるゲーム的ファンタジー観と呼ばれるもの、エルフやオーク、剣と魔法という世界はほぼほぼトールキン『指輪物語』(1954)をなぞった形で、主にアメリカで爆発的に流行し、TRPGになってこれも爆発的に流行した結果、日本にそのまま流入し、ドラゴンクエストを代表とする異世界ファンタジーゲームとして日本国内では定着した結果、「ゲーム的世界」というとトールキン的剣と魔法の世界の変型判であることが多く、これはファンタジーというフィクション形態が国内に入ってきた時からほぼずっとそうだと思います(わたしはリアルタイムで観測したわけではなくあとから調べただけなのでいやこういう違う側面もあったよという点があれば不勉強で申し訳ないです)。

ゆえに日本国内におけるいわゆる「ファンタジー」と呼ばれるものはそのほとんどがそもそも類型を踏まえたものです。もちろんオリジナルな世界観を扱ったファンタジーを書いている作家(代表として上橋菜穂子)も数多く存在しますが、「扱われている世界観がオリジナルなものではない」を前提とした批判は完全にナンセンスです。

という前提において、そもそも物語類型というものはウラジーミル・プロップの手によって1928年に分析されつくしており、世界人類は「話し合わずに」同じネタを同時多発的にあちこちで扱ってきました。つまり「物語が類型的であることには何の問題もない、物語とはそもそも前提からそういうものだ」。

 

以上です。ファンタジー史と国内でのその受容についてのお話でした。なろう系小説に関しては本当に門外漢なので議論は静観していましたが、いくらなんでも誰も触れてなさすぎると思いました。

 

なおわたしのファンタジー史におけるテキストはひかわ 玲子 『ひかわ玲子のファンタジー私説』でした。絶版なのかなあ。良書です。この本を手がかりにたくさん本を読みました。