1本の薔薇、10本の薔薇、30本の薔薇

はじめに

薔薇を買いました。

 

今家に飾っている薔薇はジャパン・フラワー・コーポレーションという富山の会社がやっている在庫ロス対策サイトで購入したものです。
わたしは四畳半+二畳(キッチン)の1Kに住んでいるので、30本の薔薇は普通に考えて多すぎると思ったのですが、結果としては買ってよかったです。多すぎるのは本当ですが、多すぎる薔薇に囲まれた生活は幸福です。

以下薔薇について書きますが、この記事は花を買うことを推奨する目的で書かれたものではなく(花が好きで飾る余裕がある人は花を買いましょう)、「生活を良くする」「良い生活を送る」ということについて考えたことを書きました。

目次

1.生活について

フリーランスで仕事を始めて4年が過ぎました。うまくいっていることもあるしうまくいっていないこともありますが、少なくとも生活は破綻していました。一日の半分寝ている、夜しか家を出られない、ゴミを捨てる機会を逸しつづけている、という独居フリーランスお決まりのパターンにはまり込み、あらゆることが不安定で、常にそこそこ忙しく、そこそこに精神が落ち込んでいて、どうしたものかなと思っていました。

自分の人生に価値があるのだというふうに考えることができたことがなかったような気がするし、価値がない人生だからどうでもいいものとして扱っていいのだと考えていたような気がします。

2.消費について

そんな日々を送っているうちに、世界が大変なことになり、様々なものの消費が冷え込んでいるらしいと話題になりました。フリーランスになってしばらく経ったころに駅前の花屋で薔薇を一輪買ったことを思い出しました。4年ぶりに店を探すと、もうなくなっていました。

まずいなと思いました。

その店がもうないのは多分世界情勢とは関係がなかったのですが、いやむしろそうだったがゆえに、漫然と生きている間に美しいものが次々に失われていく世界にいるのだということが急に理解できました。

引っ越してきたとき、なんてきれいな街だろうと思ったことを思い出しました。この街がきれいな街ではなくなる日が来るとしたら、それはとても悲しいことでした。そして今世界中で多分、少しずつきれいな街が失われているところなのだと思いました。

消費によって世界を維持できるとは思いません。世界を維持するのは政治の仕事であって消費者の役割ではないと思っています。だから別に消費をすることで世界を変えたいと思っているわけではありません。

わたしはただ、世界のきれいな側面と無関係のままでいるのが急に耐えられなくなっただけです。

そう感じてから、自分の家の周りにある美しい店に何軒も行きました。どれも、店の前を漠然と歩きながら想像していたより素晴らしいお店でした。

3.薔薇を買うにあたって考えたこと

30本の薔薇の前に、10本の薔薇がありました。

薔薇10本300円という破格の値段がついていたのは、花屋ではありませんでした。どういう流れによるものか、その薔薇はその店先に流れ着いて、そのほとんどただみたいな値段で放出されていました。そこで売られていた10本の薔薇は多分、「商品」ではなくて、誰かが困っているという事実を誰かが受け取るという「繋がり」みたいなことでした。多分。

薔薇は二週間咲いていました。白薔薇の枯れ方は、美しい人間の老い方とよく似ていて、美しいものはいつまでもいつまでも美しいということを知りました。

1本の薔薇と10本の薔薇があったので、30本の薔薇を見た時、まず「これを買いたい」と思いました。部屋が狭すぎるので飾るところがないんじゃないかとか、花瓶の一つも持っていない(今まではトマトソースのあき瓶とポン酢のあき瓶に飾っていました)のに薔薇に1万円近く払うのかとか、誰が訪ねてくることもないのにとか、そういうのより先に、「これを買いたい」と思いました。

「お得な買い物をしたい」というより、「薔薇を作り、薔薇を育て、薔薇を売っている人」や「文化」と繋がりたかったのだと思います。

美しいものを必要とする世界が、美しいものを作り出し続けられるという希望が欲しかった。その希望に自分は繋がっていられるという希望が欲しかった。世界のきれいな側面と関係が欲しかった。

「ひとりぼっちではない」になりたかった。わたしは、多分。

4.薔薇のある生活になって起こったこと

薔薇はもちろん消耗品なので、永遠に家にあるわけではありません。わたしは消費が下手なので、永遠に家にあるわけではないものに一万円(税・送料込み)を払うということがいまいち呑み込めず、買うかどうか相当悩みました。

結果として、薔薇を買ってよかったです。

そもそも作業中視界に入るところに花を飾ると精神的に安定するというのは事前に知っていました。この狭い家に30本の薔薇があると、作業中どころかどこを向いても薔薇があるという状態になります。「美しいものが必ず視界に入る」という状態は精神を非常に高揚させました。

高揚した結果近頃ずっと興奮気味で睡眠不足なので、良いことばかりとは言い切れませんが、薔薇が30本もあるのに平静な精神を保っているわけにもいかないでしょう。

毎朝薔薇を手入れすることにより、目覚めがよくなりました。薔薇と同時に視界に入るものもできる限りきれいであってほしいと感じ、部屋も片付きました。

「部屋がきれいであるべきだから」ではなく「薔薇がある部屋はきれいなのが当然だから」という理由で片付けているので、掃除に一切のストレスを感じなくなりました。それどころか「部屋が薔薇に近づいている」という幸福感の一環となりました。

また、薔薇を買った副産物として、花瓶に興味を持ち、それをきっかけに近所の陶器屋に気軽に入れるようになりました。手先が不安定なわたしにとっては、陶器も「永遠にあるわけではないもの」だったのですが、薔薇という「人生の一瞬を豊かにするもの」の購入に踏み切れた今は、自分の人生とかかわりのあるものであると認識できるようになりました。

そのような形で「わたしの美しい街」と関係を持てるきっかけのひとつになった点も、薔薇を買ってよかったことです。

5.良い生活について

最初に書いた通り、これは「だからみんなも薔薇を買おう」ということが言いたくて書いた記事ではありません。

いま世界は様々な形で困窮していて、その結果たとえば薔薇が半額で買えたり、あとはわたしは漬物と牛乳も取り寄せましたし、近所でテイクアウトをやっている店も増えてそれは多分イートインより少し安く買えてしまいます。そういうことで「得をした」と思いたくない、というか、「もし得をしたのなら、それをきっかけにこれからも『関係がある』状態を維持したい」ということについて考えています。

自分に対しても街に対しても無関心だった気持ちが、わたしはたとえばたくさんの薔薇で息を吹き返したことについて考えています。わたしと関係があるものは、多分もっとたくさんあるでしょう。これを読んだ方と関係があるものも、これから関係が生まれるものも、たぶんたくさんあると思います。

わたしは自分の部屋に30本の薔薇があった日のことをたぶん生涯忘れないでしょう。薔薇がここにある理由はいくらか不幸でいくらか幸福で、そして、わたしが薔薇と関係を持ちたかったという感情と関係しています。

自分の人生に価値を見出し、より良くて幸せな生活を手に入れる、そのための方法はおそらくとてもたくさんあるのですが、こういう形で繋がった関係について、これから先も良い関係が続けられるように、できることをもう少し考えたいと思います。

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