外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

ホットミルクアワー

オッドタクシー/大門兄弟/兄が死ぬ

 

兄ちゃんはおれを抱いた翌朝、いなくなっていた。兄ちゃんが出所して、おれは寮を出て家を借りて、久しぶりに一緒に住むようになって、たった一年だった。
泣いたりわめいたりしたけど探しはしなかった。いなくなったということはいなくなりたかったということが、さすがにわかったから探さなかった。それが最初に間違いだったと、今思う。
目が覚めた場所は牢獄のように殺風景で、視界は霞んでまるでまどろみの中だった。腹の中がからっぽなのに気分は悪くなかった。まるで腹の中に、何かが留まっているようだった。気分をよくする何か特別なものが、食い物の代わりに詰まっているように思えた。
冷たい部屋で不思議と幸福なまま、何日も過ぎた。時間の感覚が全くなくなり、仕事はどうなっただろうかと思った。兄ちゃんが悪だとわかってからずっと、警官としての仕事はやりづらかったといえばやりづらかったので、そもそもおれの居場所というものではとうのむかしになかったのかもしれないとも思った。それは悲しいことのはずなのに、腹の奥に詰まったあったかさ、眠れない夜に作ってもらったホットミルクみたいなあったかさが視界をさえぎって、頭が回らなくなった。おれはホットミルクを啜るように、白濁した空気を吸っては吐き、まどろみに落ちた。
白濁した意識の中で、兄ちゃんがそばにいた。
「おまえは幸せになれる」
そうかもね、とおれは言ったと思う。
兄ちゃんが言うのなら、そうなのかもね。
でもおれにはわかんないよ。
ひとりで幸せになるやり方が。
「それなら――」
兄ちゃんは、なんて言ったっけ。
眠って目覚めたとき、それが手元にあった。
ニューナンブM60を、おれはとっさに握りしめた。日本の警察官に支給される拳銃だ。頭が急速にクリアになったような気がした。檻は開いていて、視界はもう濁っていなかった。腹の奥のホットミルクも、今は消えていた。
暗い施設の中で、行き交う人々は皆、声高に世界の終わりを唱えていた。全てがもうじき終わると叫びながら、中央に立つなにかに祈りを捧げていた。
おれはそれを撃った。中央に立つそれを撃った。まるでだれかの命令通りに、おれは引き金を引いて、中心に立つ男を撃った。すべてがブラックアウトして、それから急に現実が戻ってきた。世界は終わらなかったけど、でも、それでおしまい。
おれがその日殺したのはおれの兄ちゃんだったらしいので、おれの世界はそれでおしまい。

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