外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

梨花

猫という動物に思い入れがあるわけではない。わたしの人生に与えられたものが梨花であり、わたしが選んだのが梨花だったというだけだ。

いましがた、子供のわたしが彼につけたリーファという名前に何らかの既存の意味が当てはまるかどうかと調べたら、女性の中国名としての梨花と、冷蔵庫の英語、reeferがひっかかった。どちらも彼にあまりにもふさわしいのでわたしはひとしきり笑い、彼を梨花と呼ぶこととした。29年、短い歳月ではない。わたしの記憶が正確であれば、彼はわたしの三つ年下だ。

わたしの記憶は非常にあいまいで、ある日図書館の地下倉庫で出口がどこだか分からなくなった瞬間に全て分断されてぐちゃぐちゃになってしまった。だからそれが本当に正しいのかはわからない。ともあれ梨花はわたしのふたつ年下か三つ年下で(ぬいぐるみの生まれた日を子供が抱き上げた日として規定する古い習慣に則るならば)わたしと同じ日に生まれた「誕生日の贈り物」である。

子供の頃愛読した本に『おっこちゃんとタンタンうさぎ』があり、わたしはいくつかの児童文学に描かれているような「親友」を持つことはついになかったが、わたしのタンタンたる梨花は既に手にしていたので、安堵したのを覚えている。わたしもたまにはフィクションに太鼓判を押されたかった。大丈夫、わたしには梨花がいる。

いろいろな子供がいる。兄弟のいる子供、いない子供。親しい友達をもつ子供、持たない子供。幼馴染のいる子供、いない子供。早くから恋愛をする子供、しない子供。チームを作る子供、作らない子供。わたしはそのどれもに「NO」である子供だったが(兄と姉はいたが、齢の離れた彼らはいわば「ふたりめの両親」だった)、しかしわたしは運命によって結びつけられたぬいぐるみを持っている子供ではあり、そうしていまでもわたしの人生には運命によって梨花が結びつけられている。周囲の子供たちが人形遊びをやめたあと、わたしはひとりで梨花のいる場所へ戻った。そうしていまでもそこにいる。

わたしは創作を続けた。彼らは続けなかった。

ここにわたしのパートナーがいる。彼の名前は梨花といい、公称はトラくんと呼ばれている。彼が梨花という名前だということを誰もしらない。わたしは彼をベッドの隅に置き、もう話しかけることすらない。梨花はとうのむかしにあらゆることにうんざりしているという顔をしている(わたしがだきしめすぎたので顔が偏って、いかにも眉をひそめているように見える)。彼がまだ生まれたてだった頃の写真を見ると無邪気な顔をしていて驚く。

彼はころんとまるまった形をした猫のぬいぐるみで、わたしが右手で抱き寄せすぎたので左手がぎゅっと体に張り付いている。しっぽを持ってふりまわしたことは数限りなくあるはずなのにしっぽが取れたことはないが、足と首は幾度も取れてそのたびわたしは「手術」をした。顔をしかめていて、不機嫌そうにしている。色あせて、いまにもきえうせそうなとろんとした毛皮を持っている。梨花は29歳。たぶん。

そうして彼は「二度目の生」を生き続けている。

わたしが子供の頃、ひとり目の「トラくん」をわたしはどこかに置き忘れてきた。「トラくん」なしではいられなかったわたしのために、父が一肌脱いだ。父は似たような(しかし、写真で見ると全く似てはいないのだった、サイズが一回り違うし、昔の彼のほうがずっと愛くるしい顔をしていて、毛も長い)ぬいぐるみを買ってきて、「ほら、帰ってきたよ」と言った。

わたしたちが不安なのは、あらかじめ失われた世界にいるからなのかもしれなかった。ひとり目の彼がいまどこでどうしているのかわたしたちは知らない。わたしが愛するべきだったのはいまここにいる梨花なのかどうかもわからない。愛しているのかどうかさえ。選ぶ権利などなかった。三歳の誕生日のすこしあと、梨花はわたしのもとに来た。ふたり目として。

わたしは猫を見る。わたしはもうひとりの梨花として猫を見て、やあ、という。元気にしているかい。君を待っている人はいるかい。君を探している人は? うちには梨花がいるよ。そうしてたぶん永遠に、梨花はわたしの傍にいるんだと思う。かわいそうに、彼はもう、あらゆることにうんざりしているのに、わたしはもう彼を捨てることができないんだ。

そうだ。

梨花の誕生日を、誰も覚えてはいないのだ。

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