外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

領域

ずくずくと痛むこの感情が、恋であるなら、なかったほうがよかった。キスをして嬉しいのが事実なら、全てが嘘のほうがマシだった。全てを皆が見ているのに。
森の中、花が咲くところが境界で、そこから内側に、人が棲んでいる。ここに皆がいるということは、近くの里に住む老人が、かろうじて知っているだけだった。何もかも集落の中で用意される。彼らには神がいるのだ。
おれがここに逃げ込んでからもう何年も過ぎていた。ずっと傍らに置いていた弟から離れて、二度と会わないはずだと思っていた。あれが恋なら、家族に向けるものとしては痛みを伴い、兄弟に向けるものとしては執着が強すぎ、たとえ他人であったとしても不安定で期待過多な感情を、恋と呼ぶのなら、手放してしまった方がマシだった。
花で囲まれた場所が神の領域。ここに住むなら、神の領域の内側で、感情の全ては神のもの、あるいは神のためのものだった。ここにいると他のことを考えずに済んだ。
はずだった。
目の前にはおれと同じ顔をした男がいて、おれはそいつを組み敷いている。男はうすく口を開いて、浅い呼吸とともに、おれを、兄ちゃん、と呼んだ。
探した、も、追いかけてきた、も、見つけた、も、遠い言葉であればよかった。いまさらもう関係がないと思えたらよかった。畜生! 神なんていやしない。おれの感情は、執着も痛みも期待も、ひとつも削り落とされていなかった。神が買い取っておれを祝福したはずだったのに。
「なあ弟、これは儀式なんだ。大丈夫。ここには神がいるから」
やり直そう。あいつに全部買い取らせろ。全部。
キスをした。ずっと、ずっとずっとずっとずっと、そうしたかった。ひとつだって損なわれないまま、おれの痛みはおれのものだった。皆が見ている。これは儀式だからね。神が見ている。量っているのだろう。おれたちの感情を。
おまえが、おれを見つけるために全てを売って、そうやって手に入れた感情を、神は食いたがっている。
待って、と弟は言った。おれは待たなかった。
十分待ったから。
「……痛みが」
身を起こす。心臓がばくばくと音を立て続けている。どんなに近づいても痛くなるだけだった。神が食うには量が多すぎるのかもしれないなと思った。
「痛みがなくなるまで、続けるしかないのかな」
「痛いの?」
「痛いよ」
森の中で、皆がおれを見ている。そして神が、たぶん。そして誰より弟がおれを見上げて、そっと、おれの頬を撫でた。

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