弟が結婚すると聞いた。弟本人から聞いたわけではない。そうらしいと人づてに聞いただけだ。あいつはおれのことをもう覚えていなくて他人なので、そして思い出すことはおそらくないので、目の前に顔を出すのは嫌だった。
ずっと探している。
あの日海の底から、何かがやってきた。海の底にいる何か見知らぬものに襲われて、その日からおれの弟の記憶はなくなった。そのなにかが、おれの弟の記憶を取って、海の底に持って行ってしまった。
おれはずっと、その記憶を探している。海の底にいるそれについて知っている誰かを捜し回ったり、古い新聞を読んだり、海に出かけてそれの出現を待ったりしている。おれが必死でそれを探し回っている間に弟は結婚をして家族を持って子供も生まれたらしい。おれはその全てに、会っていない。
海底に沈んだ弟の記憶には、おれが含まれている。弟はおれを忘れてしまって、他のあらゆることができるようになった。
知っていた。
弟はいうほどバカではないし、何もできないわけでもない。おれがそばにいなければいろんなことができる。恋愛も結婚もできるし子供だって生まれる。仕事を続けて多少の出世だってする。おれがいない方が、おれのことを覚えていない方が、もっといえばおれたちが善悪や正義のために生きなくてはならないという枷をうしなったほうが、十分に生きられる。
おれはひとりで探し回っている。
時間が過ぎる。弟の記憶は見つからない。おれたちは同じスピードで年老いて、おれの甥や姪も成人してまた子供が生まれている。死んだ両親や祖母にとっては、全て喜ばしいことだっただろう。おれはそいつらの顔を見たこともない。おれは探している。
おれは海の底に入っていこうとして、世間からは入水自殺として扱われる。すっかり老人になったうえ、判断能力もとぼしくなっているとされたおれは、介護施設に入る。
おれたちはもう、あまり似ていない。
というか老人って割と似ているので、多少似たところがあっても、長い間家族に囲まれてなんならちょっと太ったおまえと、長い間の探索生活で痩せ衰えたおれとの間に、少なくとも外見だけでは相互関係は見いだされない。久しぶりに会った弟は少しボケていて、ボケているいないにかかわらず、相変わらずおれのことは覚えていない。
おれは、施設の前に広がった海を見ている。海の向こうで、何かが光ったような気がする。
おれが捜し求めてやまない、あの記憶はとても重たかった。あの日、おれを庇って倒れた弟から転がり落ちた記憶を、おれは拾って、その重さのあまりよろけて海に落とした。あの重さの正体を、ずっと知りたかった。