外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

「あ」は「悪」の「あ」

テーブルの上に、ことん、とキーホルダーが置かれて、そしてそのキーホルダーを、誰かが持ち上げた。おれはキーホルダーを見て、そしてその手の持ち主を見た。なんだかおかしくて、というのは、おれの後ろ方向、これまでにあったことの全てが、そのキーホルダーでぶつ切りにされてもう、わからなくなってしまっていた。手の持ち主を見たときは。
それが誰なのか、おれにはわからなくなっていた。
彼は言った。
「死ぬようなことがあったら迎えに行く」
そうしてそのまま、彼は家の扉を開けて、去っていった。キーホルダーを持ったまま。
おれはぼんやりと座り込んでいて、何をどうしたらいいのか分からなくて、帰ってくるのだろうと思って待っていたのを覚えている。なにしろ記憶がなくなってしまっていたので、目の前にいた男のことだけが記憶の後ろ方向に残っていたので、待っている以外にやることが何も思いつかなかった。
気がついたら病院にいた。何も食べずにいたし、他のことも何もせずにいたので、汚れて倒れていたらしい。それは死ぬようなことではなかったらしい。死ぬようなことがあったら迎えに行く。そう言われて待っていて、迎えが来ていないのだから、死ぬようなことじゃなかったのだろう。
窓の外ではミンミン蝉が鳴いている。
自分の名前を教えてもらった。これまでどういう生き方をしてきたのか教えてもらった。そうして自由に病院の中を動き回れるようになったあと、「死ぬようなこと」をいくつかやってみて、病院から出してもらえなくなった。
まあ、迎えに来てもらえるはずなんだったら、ひとつのところにいるのもいいことなんだろう。
刃物、ボールペン、タオル、のない部屋、窓が開けなくて、やぶけないシーツが敷かれた部屋で、おれはぼんやり辞書のページをめくる。「あ」は「愛」の「あ」。でも「悪」の「あ」でもある。そうして「甘え」の「あ」でもあった。
どれがおれに関係のある言葉だったかを並べて考える。どれかが、あるいはどれもが、おれに関する言葉だったような気がする。 おれはたくさんのことを教えてもらえて、死ぬような気がなくなりさえすれば外で生きていくこともできるらしい。けれど、おれの目の前から去っていった誰か、あのキーホルダーを持ち上げて、扉を開けて出て行った誰かが、俺にとって悪なのか善なのか、そもそも誰なのか、本人に聞いてみないと分からなくて、おれの身に死ぬようなことが起こったら(あるいはおれが起こしたら)迎えに来てくれるというそのことが、悪なのか善なのかも。

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