外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

13 ロックスターの話

胡蝶さんは小さな羽虫が電灯のそばを飛んでいた夜、魚などつれやしない釣堀でロックスターの一生についての話をしてください。

ジジジ、ジジ、切れかけた街灯が揺れている。すっかり夜になってしまった部屋から、ようやく脱出できた。三○一号室にふたりがやってきたおかげで警察沙汰になって、包丁、縄、言葉が飛び交い、人が死なずに済んだのだが、詳細は省く。
「大変だったね」
「こんなことになろうとは……」
「花も買えなかった」
「花が買えなかったのは、よかったんですよ」
「よくないよ」
「よかったです」
胡蝶は繰り返して言い返し、笑った。
相月が買おうとしていた花は、これから胡蝶と暮らす家に飾るための花ではなくて、相月がかつて愛した人が暮らした家に飾るための花だ。それが分からないような馬鹿ではない。相月は、胡蝶の祖母を愛していたのだと思う。それがどんな形でも、そうだったのだと思う。
「川の周りを歩いてから、帰りましょうか」
「今日はいったん家に帰りたいんだけど……」
「逃げるんですか?」
「いや、君と」ひよりは苦笑いした。「君と夜、一緒に過ごすのは、悪い思い出があって。君にとってもそうだと思うんだけど」
「悪い思い出ではないです」
胡蝶はひよりを見下ろして、目を見て、はっきり言った。夜の川の匂いがして、魚はいるだろうかと思った。どっちにしろ、普通に川で普通に釣りをするのは禁じられていると思う。何かの比喩みたいに思える。
「わたしには、悪い思い出では、ないですよ」
「……そうですか」
あの夜、一緒の部屋で迎えた朝、触れるだけ、かすめるだけのキスをくれたのは、酔っ払っていただけだったのかもしれないが、別にそれでもいいような気がした。自分の身に起こったことは自分にしか理解できないのだから、自分の身に振ってきた自分のキスを、良い思い出にしても、別に、いいだろう。
相月は曖昧に笑って、胡蝶から目を逸らし、街灯にまとわりつく虫を視線で追っていた。
「ロックスターの言葉なんですが」
実在しないロックスターの言葉なので、デタラメですが。
「自分の体に起こったことだけが真実なので、他の世界に起こった他の事実は、真実じゃないんですよ」
「嘘の名言だ」
「ご明察です。でもそうでしょう?」
相月は溜息をつき、「審議」と言った。

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