外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

10 普通の話

ひよりさんはバレンタインデーの翌日の夜、無憂という名の喫茶店で役に立たないものを見つけた話をしてください。

「耳の標本」を累胡蝶が探していた夏、ひよりは三十一歳だった。もうひとつ歳を取って冬が来ていたが、月収は振り込まれ続けていた。
胡蝶はあれから、連絡をしてこない。ひよりの方からも連絡をしていないので、この月収の処理をしている誰かは、さぞ適切で円滑な雇用関係が続いていると思っているだろう。適切かどうかはともかく円滑だった。会っていないんだから。
相月ひよりは十六年間、ろくな仕事をせずに大人になったし学歴や資格があるってわけでもない。いったいどうしたらいいものか考えあぐねたまま、八月から二月までなんと半年間も、なにもせずに食いつないでしまった。
「素敵な名前の喫茶店ですね」
「え?」
「むゆう」
「夢遊病?」
「この喫茶店の名前です。無い、憂い」
くっきりと際だった言い方で、テーブルの横に立ったまま、胡蝶は言った。半年ぶりに会った胡蝶は、以前と同じような白いシャツに、グレーのセーターを合わせていた。ロングスカートは黒。まあ何を着ようと他人事だし別にひよりも服にこだわりがあるわけではないのだが。いや、他人事ではないのだろうか、半年分巻き返すために、これから来る春のためのパステルカラーを、彼女に差してやるべきなのだろうか。
そうしたいのだろうか。
「何の役にも立たないね」
「何が?」
「こっちの話。座ったら」
胡蝶はゆっくり座って、それからゆっくりと、杖を壁際にもたせかけた。あれ、とひよりは言う。
「杖を変えてる」
「ええ」
「夢子さん」が選んだ杖は、それはそれは美しい、手間の掛かったもので、現代では映画の中のお姫様しか持たないだろうとすら思える、でも悪目立ちしない、いい杖だったのに、胡蝶はいま、ごく平凡な黒い杖を使っていた。
全部が簡単に、よく分かるような気がするけど、別にひよりは見識のない三十二歳にすぎないので、そんなこともないのだろう。この変化が「夢子さん」からの自立を現しているから、これからひよりが言うことを胡蝶が全部理解する、なんてわけもないのだろう。
「ホットミルクを。……それで?」
店員に注文をしたあと、ひよりに向き直った胡蝶の、目がおそろしく澄んでみえて怖かった。
「まずこれを差し上げます」
「あら。なんですか?」
「君ね。二月十五日ですよ。赤い袋に入った缶の中身と言えば、決まっているでしょう」
「義理チョコですか」
「義理……まあ、義理かな」
「お返しする用意がないので、こういうことは事前に教えてください」
「教えられることがあってよかった」
「怒ってるんですか?」
「いいえ」
怒っているみたいに響いたなと思った。自分はいつから普通に喋れなくなってしまったのだろうとひよりは思った。赤い袋は所在なげに、テーブルの端からこちらを見ている。
「お金はもう要らない」
「……そうですか」
「それか仕事が欲しい」
「そうですか」
「普通だと思うけど、この二択は」
「そうですね。では」
おそろしく澄んでいて全て理解したような目をしていて怖かった。叶うのは変だ。恋なんて何の役にも立たないんだし。
「一緒に暮らしましょう」

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