佐藤さんは長いおわかれのあった日、コーヒーの匂いのする部屋で食べたことのないものの話をしてください。
東京に異変が起こる。
その結果、僕たちは――田中と僕は、小学三年生の姿をしていて、喫茶店に、向かい合って腰掛けている。誰もいない町の誰もいない喫茶店で、僕の淹れたコーヒーが香りを漂わせながら、ゆっくり冷めていく。
僕は手の中に消しゴムをひとつ、持っている。何の変哲もない、普通の、しましまのスリーブに入った白い消しゴム。別に何でも良かったのだけど、僕たちの思い出だったから、これは。僕は小学校三年生の時、ヒーローだった。外国旅行に連れていかれるたびに、外国のお土産の、珍しい消しゴムを買っていて、箱一杯に持っていて、珍しがられるという形で、ヒーローになった。
神様だったしヒーローだった日々に、田中と友達になった。
友達だったと、僕は思っている。田中はどうだろう。
僕は消しゴムをスリーブから外す。田中は目を丸くして僕を見て、息を飲んで、手を伸ばす。僕が何をしようとしているのか多分理解している。理解できるわけのない、意味の分からないことなのに、ちゃんと理解していてすごいなと思う。僕たちは時々、すごく理解しあっていることがあって、やっぱりちゃんと、友達だったんじゃないのかな。あの頃からずっと、友達だったってことなんじゃないのかな。
僕は田中の手が僕のもとに辿り着く前に、消しゴムを口に放り込んで、噛む。ちゃんとゴムの味がして、消しゴムってちゃんとゴムなんだなと思った。
別に何でも良かった。思い出の品を用意して食べること、でも、それは、人間が食べるためのものではないこと、という条件を提示されて、じゃあ消しゴムにしようと思った。僕は消しゴムを食べて、その瞬間、膨張した。ああ、と僕は思った。ちゃんと伝わったのかな。さようならを言ったつもりだったけど、結局ちゃんと、さようならという形では伝えなかったから、田中は、さようならとは言わなかった、という事実に、縋ってしまうのではないのかな。それってよくないことだったかもしれないし、田中ってそういうところが、自分で自分を誤魔化して、嘘の世界を走り始めてしまうところが、あるから、全部はっきりさせておかないといけなかったのにな。
昔読んだ小説に、強いお酒を飲むには早すぎる時刻、という文脈の言葉があって、それ以外にも意味があるんだけどそれはネタバレで、でも、コーヒーよりお酒のほうが田中のためではあったのかもしれないなあと僕はぼんやり思っていた。ぼんやり思うことしかできなかった。僕はもう神だったから。
あの小説のタイトルはそう、『長いお別れ』。