外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

世界の終わりの話 第2話

田中さんはどうしようもなく憂鬱な気分になった夕方、避暑のための家で切れて治らない唇の傷の話をしてください。

東京に異変が起こる。
東京から人間が消え失せていく。まず子供が消え、ついで、子供ではなかったはずの人間が子供になりそして消えていく。東京だけに起こっている現象だから東京から脱出できれば大丈夫なのではないかという説があって一時期、交通機関は完全に破綻した。
東京から人があらかたはけるまで待っても、俺たちはまだまだ生きていた――というか、消えた連中が死んでしまったのか、別のどこかに移動したのかも、全然分からない状態だったが。だから、俺と佐藤は一緒に歩いて、海の方へと進んだ。徒歩で、ゆっくり歩いて、疲れたら眠って、荒廃した街から食べ物を拾い集めて、進んでいった。
歩きながら、佐藤はいろんな名前を挙げて、皆大丈夫だろうか、と案じた。俺はあまり、案じたくなるような名前が思いつかなくて、俺と佐藤は違うな、と思った。そして、案じたくなるような名前がいくらでも思いつく佐藤が、それでも俺と一緒にいるのを、俺と一緒に歩いて海を目指しているのを、不思議だと思った。俺の他にも佐藤にはたくさんの人間がいて、それは俺に対して、蓄積する憂鬱さを感じさせた。多分佐藤はここにいるべきではない、と俺は思った。佐藤を俺ひとりで独占しているのは、間違ったことなのだ、という感情が、どんどん蓄積して、段々呼吸が難しくなっていた。
海辺に、鍵が開いたままのコテージを見つけた。多分誰かの避暑のための家で、玄関先に子供用の、ブランコが揺れていた。球体になっていて向かい合って座る形のものだ。
「ゆっくり眠れるかも。しばらくここにいてもいいな」
佐藤は家の中を確認し、俺はなんだかぼんやりしてそれを見ていた。佐藤は俺を気遣うように振り返り、「具合悪い? 寝たほうがいいかも。布団あるけど」と言った。
俺はブランコに座って、ぼんやりと揺れていた。佐藤は俺の向かいに座って、俺の顔を覗き込んで「唇が切れてる」と言った。
「リップクリームとかじゃなくて悪いけど。ていうかほんとは食用の奴ってダメかな」
「いいよ」
いいよっていうのは別に、なんでも塗って大丈夫という意味ではなくて、佐藤はなにも気にしなくていいと言いたかったのだが、佐藤はオリーブオイルの瓶から手のひらに油を垂らして、手のひらでわざわざ温めて、俺に「顔上げて」と言った。俺は言われるままに顔を上げて、佐藤の指が俺の唇をなぞる、その手つきを感じながら、目を薄く開いて、佐藤の顔をじっと見ていた。呼吸が難しい。別に佐藤が、永遠に、俺の唇を湿らせてくれることはない、と、思わないと、だめになってしまう。

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