外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

サティの話

佐藤さんは昨日の雨がちいさな水たまりになって残っていた朝、きれいな水の流れる古い町で遠くから聞こえてきたピアノの曲についての話をしてください。

ずいぶん川の多い町だ。駅からパン屋までの間に三つ、橋を渡った。スマホの画面を眺めながら、「多分あってると思うんだけど」と言って振り返る。田中はぼんやりと、川を見おろしていた。そういうの心臓に悪いから辞めて欲しい。いつも不穏な連想をしているわけではないけど。
「田中」
声を掛ける。遅れていた田中が、少し足早に僕の傍らに戻ってきて、「魚がいる。きれいな水だな」と言った。なんとなくほっとして笑った。
「何」
「いや……」
「足もと。水たまりあるから気をつけて」
「ああホントだ。雨が降ったから、それで少し増水してるかもな。魚にとってはいいことかも」
「で?」
「うん」
「着けそう?」
「多分……。ええと、ここにピアノ教室があって。そこから右に曲がって……」
「ピアノの音、さっきから聞こえてるけど」
「本当?」
「もう少し先だと思う……なんだっけこれ。ああそうか、うちにひとりぼっち、だ」
「何?」
「曲のタイトル。サティ」
田中は当然既知の情報であるかのようにそう言って、僕は少し笑う。田中ってずいぶん多くのことを知っていて、実際何でも知っているように思えるときがあるけど、そう指摘すると田中自身は、「何でもなことはないし、そもそも別に特別知ってはいない」と否定する。別に、いいことだと、思うけど。
「変わったタイトル」
「サティには変わったタイトルが多い。犬の曲だよ」
「犬……」
田中はどこか楽しそうに、昨日の雨が洗っていった清潔な空気の中、小さな声で、その曲を口ずさんだ。たしかに、僕の耳にも聞こえてきた。小さな水たまりを避けながら、パン屋を目指す僕たちを待ち受けるように、曲はだんだん大きくなった。寂しい曲で、僕たちを迎え入れているというより、なかなか近づいてくれないのを恨んでいるようにすら思えたが。
「犬はひとりぼっちなのかな」
「家族が出かけたんだろうな」
「じゃあ、早く帰ってあげないといけないね」
「俺たちは犬の家族じゃないから、どうすることもできないけど」
「早く帰って来るように祈るくらいしかできないかぁ」
僕がぴょん、と水たまりを飛び越えながら言うのを、田中はどこかまぶしそうに見て、「多分、帰ってきたと思うよ」と、子供をあやすような口調で、言った。

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