外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

犬の話

ワインを取って戻ってきたら、佐藤がラウンジの片隅で、扉のむこうを覗き込んでいた。ホテル上階の展望ラウンジにいる。宿泊券が当たって(佐藤が引き寄せて)ふたりまでだからと誘われて、夕暮れに待ち合わせて泊まりに来た。ウェルカムドリンクとして、スパークリングワインが一杯ずつ、無料で飲める、まあまあいいホテル。
「何?」
「あれ何だと思う?」
指差す先に目をこらす。ビルとビルの合間に見えるものは、巨大な犬、とかに思えたが、そんなわけはないので、見間違いなのだと思う。しかし何度見ても犬にしか見えず、俺は「犬」と答えた。
「そうだよな。犬……」
「これデッキ出られる?」
「出ていいっぽい」
外に出たから何という気もしたが、俺はガラス扉を開けて、外の風に触れた。屋上階であってもなお柔らかい、心地の良い風が吹いている。夕暮れの空の中、浅い星が光って見えた。
ラウンジから展望デッキに出て、「犬」の方にできるだけ近い位置に陣取って、どう考えても犬ではない、あんな巨大な犬はいない、だから見間違いだと思う、という、答えのないやりとりを続けるに、適した天気だと思った。
夕暮れだから尚更、すべてが曖昧に見えて、クリスマスケーキのサンタクロースのように突っ立った東京タワーが飾り付けられてアラザンのようにビルの灯がともった東京の街は、誰がどう考えても美しいと思うはずだった。
しかし佐藤はその、猥雑さを押し隠してきらめいている東京を見回しもしないで、あれは犬に見えるなあ、ということばかりを話していて、それはこいつの多分、美徳だった。佐藤は見るべきものを見ている。佐藤にとって見るべきものを。
俺は佐藤に「見られて」ここに、佐藤の隣にいて、犬かなあ、と言いながら遠くに目をこらしている佐藤を眺めている。俺もまた発見されて、引き寄せられて、佐藤のそばにいるので、佐藤が、ばらまかれた美より大事だと思っているものを見つめていること自体が、俺にとっての救いである、という、気が、少し、した。
「これって答えがないね」
佐藤が振り返る。
「グーグルマップに……」
「えっ嘘。調べないで調べないで、謎が解きたい」
「いやわかんないんだろ。調べたら、芸術家が、アートイベントを……」
「普通に犬じゃん」
「いや、犬ではないけど、風船だけど……」
「何かの見間違えとかではなく犬の形という……」
「だから、犬で合ってた」
佐藤は、ちゃんと、間違えてない。

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