南下するし、週末は晴れてるから、と田中が言った。「カノープスが見えるかも」
「って何?」
「星。東京だとぎりぎり見えるっちゃ見えるはずなんだけど、地上スレスレだし、そもそも東京が明るすぎて、よく見えない」
「星好きだっけ」
「別に……なんか、カノープスって、平和なときしか見えないって言われてたらしい」
別にというわりには詳しく、田中はどこか愉快そうに、カノープスがどこにどう出るのか、見つけ方を教えてくれた。田中の人生には、田中にとって思い入れのあるフックがたくさんある、と、思う。ゲームとか、エンタメに興味がある人ってみんなそうなんだろうか。割と普通に、感心しているのだけど。
という会話をしたのが月曜の話で、僕は日曜日、ひとりで、南の島に来ている。仕事で調査をしていて、今日は資料館に来ている。島の歴史や文化について調べる必要が発生して、ひとつひとつ確認してメモを取っている。
ふっと香った何かに、足を止める。
「……なんか。知ってる匂いした、今」
この島では、嗅いだことのない香りを立てる食べ物がたくさんあって、知らない匂いばかりが漂っていて、新鮮でおもしろかったのだけど、少し疲れてもいたのかもしれない。知っている匂いはなつかしくてあたたかくてどこか胸が苦しくなるような思い出を伴っていて、僕は首をかしげる。きょろきょろと探すように棚の裏に回ったとき、そこに、職員用らしいデスクを見つけた。机の上に、ふたをあけたままの、ガムのボトルがある。全国どこでも、なんなら海外でも、買えるような、ふつうの、ミントフレーバーの。
あ、と、気がついた。
知らない星がよく見えるような遠い場所まで来ても、なおもそこにいて、知っている、の顔をして、僕の知っている相手、として、僕の口の中で動く舌と吐き出される呼吸の香りとして、つきまとっていて、僕は赤面して顔を覆いながら、すごいな、と思った。こんな形で執着できる。人間の、近くに、どんなに遠く離れようとも、着いていくことができる、田中という奴は。
僕の人生にも、思い入れのあるフックは、いくらかある。ドードーとか、レインボーブリッジとか、高速道路で眠くならないために噛むミントフレーバーのガムとか、渋滞の最中に不意打ちで触れる、唇だとか。