佐藤さんは絹糸のような雨が降っていた午後、精肉店で書ききることができなかったことについての話をしてください。
「え? ちょっと待ってください、もう一回、え? ちょっ……」
軒のすぐ先には細かい雨が降っているし、電話の向こうの上司の声が妙に小さくて聞き取れないし、書いたメモは濡れてぐちゃぐちゃになってしまうし、悪い方向に全てが集約しつつあった。まあ、よくあることだ。
多分上司側の電波トラブルで、電話は切れてしまった。溜息をついて、スマホをポケットにしまいこむ。軒先を借りていた店を振り返ると、いまどき珍しい精肉店だった。ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、揚げたてのコロッケの匂いが鼻をつく。
つやつやの、赤いステーキ肉に、挽肉に、焼き肉用カルビに、これは多分すき焼き用。ショウウインドウに恭しく並んだ肉の数々を見ていて、明るい気持ちになってきた。ノスタルジックに曖昧な、暗めの店内も、落ち着くといえば落ち着く。なんかこういう古い感じって結構好きだし、いい店なんじゃないかという予感があった。
「お祝いなんですけど」
気がつくと、そう言っていた。別にお祝いではないな、と、口に出したあとで思ったのだが。別に何のお祝いでもない。ただ、このきれいな肉をどれか連れて帰って、大事な人の口に運びたいと思って、ただそれだけで、それを上手く説明できる気がしなくて、口実が欲しくて、それで、結局選ばれた、お祝い、という言葉だった、と、思う。
「今日特別な日なんですけど」開き直ることにした。「どれか、おすすめ教えてください。あと、焼き方? とかも」
僕はこういうときとことん図々しく振る舞うのが上手なほうだ。デリカシーなさそうにした方が良いときはぐいぐい行った方が結局損がない。
最近思うのだけど、僕がかつて、神託のように「よい商品」を選ぶ才能がある、と言われていた、あれは、もしかして、ただたんに僕が、すごくたくさん質問をするのを厭わなかったからではないだろうか。それは、普通に、普通のことなのかもしれなかった。普通のことかもしれないということがわかった、記念日か、じゃあ、今日は。そういうことにしよう。それは特別な日だし祝った方がいい。うん、そうだ。一緒に祝ってくれる人がいるなら、よりいい。
田中にメッセージを送った。
「ステーキとすき焼きとしゃぶしゃぶどれがいい?」
親切な、肉屋の店員の言葉を、そのまま送ったら、『しゃぶしゃぶ』と返答があったので、じゃあ、それで。