外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

パーソナル

どうして弟がそんなに有頂天になったのか、うまく理解ができない。
その本は子供の頃の工作の時間に弟が作ったもので、転々と落ち着かないおれたちの人生の間、弟がずっとそれを持っていた理由もよく知らない。中を開いて読んだこともなかった。その本は端的に弟のパーソナルな所持品で、おれたちのべったりした関係の間にも一応、プライベートなスペースがあった。たとえばおれは弟がジグソーパズルを広げている間さわらないことにしているし、その程度といえばその程度のことだけど。
何がきっかけだったのだろう。弟は本に飲み込まれはじめた。爪先から本の中に入っていって、仕事は当然できなくなったし、一緒に出かけることもできなくなった。かといって病気というには奇妙すぎた。
宿舎を出て家を持ってもいい歳にはとうになっていたので、おれは弟と住むための家を借りた。最初は食事を運んでやっていたし色々と世話もしたが、そのうち、体臭もなくなり、排泄もしなくなり、食事も取らなくなった。上半身だけになった頃には、本の紙に似た白い肌になって、でも、会話はまだできた。
おれは弟の名前を呼んで、「ずっと愛している」と言った。
弟は目を見開いてしばたたかせてそれから明るく破顔して、「嬉しい」と言った。有頂天になっていると誰が見ても分かる喜びようで、もっと先に言えば良かった、とおれは思った。いくらでも、毎日、ずっと、言えば良かった、と思った。
それはどう考えても不治の病だったのだが誰にも直しようがなく、本の中に弟はずるずる飲み込まれていって、おれがしてやれることはもうほとんどなくて、顔や指に触ったり、愛していると告げたりした。弟は笑ってはしゃいで、「おれも」と答えた。
「おれも兄ちゃんのことを愛しているから、泣かないで」
口が最後にそう動いて、本の中に頭が消えた。
指が差し伸べられて、おれの手をつよく掴んだ。おれはその手を離したくなかったのに、弟は指を振りほどいて、本の中に消えてしまった。
おれは本を開いた。本の中には弟がいた。ひとりで笑って、ページをめくるたび手を振って、そして駆けていって、最後のページは真っ白だった。おれはページを振り返った。どのページも、既に真っ白になっていた。おれの手の中から、本の中からすらも、弟は消滅していた。
本にどぼどぼとサラダ油をかけて、フライパンの中でゆっくり焼いた。じっくり灰にした。そうしながらおれはずっと泣いていて、もはやどうして泣いているのかもよくわからなかった。おれは弟のことを何も知らなかった。だからどうしていなくなってしまったのかも何もわからない。

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